【西行】さいぎょう 落語演目 あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
佐藤義清がお堂で内侍と逢い引き
歌の応酬で打ち解けた。
義「またの逢瀬」 内「阿漕」。
義清は意味わからず。西行となって歌道行脚に。
バレ噺、いや、デタラメ噺です。
別題:恋の歌法師
【あらすじ】
遍歴の歌人として名高い西行法師。
身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達した。
内侍は気の毒におぼしめして、佐藤義清あてに御文をしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。
西行、その頃は、佐藤兵衛尉義清という禁裏警護の北面武士だった。
染殿内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、義清が
「一羽にて千鳥といえる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。
「佐藤さん、郵便」
というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。
喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、
「この世にては逢わず、あの世にても逢わず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」
とある。
「はて、この意味は」
と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。
この世にては逢わずというから、今夜は逢えないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。
三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。
地に実は、草木も露を含んだ深夜。
人間絶えし後は丑三ツ時。
西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう、と気づいた。
ところが義清、待ちくたびれて、ついまどろんでしまう。
そこへ内侍が現れ
「我なれば鶏鳴くまでも待つべきに思わねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、
「宵は待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」
と返した。
これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねた。
翌朝、別れる時に義清が、
「またの逢瀬は」
と尋ねると内侍は
「阿漕であろう」
と袖を払ってお帰り。
さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。
歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。
諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」
これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」
【しりたい】
阿漕
阿漕とは、
伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ
という「古今六帖」の古歌から。
阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。
「阿漕」は当初、「たびかさなる」という意味で使われていました。
「阿漕ヶ浦に引く網」も、やがては熟してことわざの仲間入りをして、「隠しごともたび重なると人に知られる」ということのたとえに使われるようになりました。
江戸時代に入ると転じて、「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」の意味に変わりました。
阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸にあります。
伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。
病気の母を思った平次なる男が、禁断を犯して魚を取ったため、簀巻きにされたという伝説が残りました。
ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』(勢州阿漕浦)などがつくられました。
先行作品には、能『阿漕』や御伽草子『阿漕の草子』があります。
ただ、これらには「平次」の名はありません。
「阿漕」は歌枕として残りました。
過去に何度も歌われた結果、言葉のイメージを誰もが抱くようになったものを、歌枕と呼びます。
染殿内侍
内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえて、ぴしゃりと言い渡したわけです。
馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのです。
西行先生は、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」
と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。
このあたりが落語の機微です。
歌をひねくりまわしているうちに、いつの間にかエロ噺と化しているのですね。
下半身ネタといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。
なるほど。見習いたいものです。
染殿内侍という女性が実在したのかどうは、はっきりしません。
染殿内侍が登場する『大和物語』や『伊勢物語』から察すれば、在原業平と同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。
永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。
南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。
西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。
落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。
それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。
在原業平には三人の息子がいた、とされています。
三男滋春の母親が染殿内侍だとされています。
これは『伊勢物語』の冷泉家流古注本に記されています。
文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりも、そういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが、大切なのです。
少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。
染殿内侍は、在原業平と契った女性ということになります。
これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。
染殿というのは、藤原良房の邸宅をさします。
京の都は、「一条大路の南、正親町小路の北、京極大路の西、富小路の東」のあたりにあったそうです。
良房は、臣下としては初の太政大臣、摂政となり、藤原北家繁栄のきっかけを作った人です。
染殿大臣などと呼ばれていました。
その娘の明子は文徳天皇に入内して、のちの清和天皇を生みました。
明子は染殿后と呼ばれていました。
染殿后は美麗であったそうです。
『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。
内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のこと。
染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。
ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮での仕事をつかさどっていたんだそうです。
斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇の名代です。
内侍と伊勢神宮とはかかわりが深かったようです。
「隠者の歌詠み」として後世に名を残した西行。
その大先輩が在原業平といえるでしょう。
「むかし男ありけり、その男、身をようなきものに思いなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。
業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで、貴族の間では最高の教養文芸でした。
業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。
流浪する業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。
聖と俗を両有しているのですね。
その業平の思い人の一人が染殿内侍です。
これはすごい。
業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、あるいは、若林映子さん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょうか。
あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。
西行の存在
西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。
残した歌は約2300首。
歌人の最高峰です。
江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。
この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。
みんなが知っている教養を肴に笑う、という趣向だったのでしょう。
西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。
源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。 『西行物語』と『選集抄』がその双璧です。
さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。
江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麻呂と双璧です。
蓑笠をつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。
そんな逸話の一つ。 西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付け鬢姿で、つまり俗人のなりで参宮したといわれています。
なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
存疑の歌といわれています。
見えない神さまに接して落涙するというもの。
われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。
伊勢では二見浦に庵を結び、地元の神職者荒木田氏と交わったそうです。
と、このように記していって、見えてくるものがありました。
西行、伊勢、和歌、女性、浦……。
江戸人が抱く西行のイメージ。
そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。
登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達、融通無碍な雰囲気が、いかにも江戸人の西行像なのでしょう。
西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人として形成されていきました。
寺院や宗派を超えて(高野山の、真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、世俗に理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。
この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の柳亭痴楽がたまに演じていました。
いまや、どうでもよいことですね。
参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって?『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)
史実がらみの噺
二村文人氏といえば、現在は富山大学の教授です。
二村氏が城北埼玉高校の教諭だった頃に、「落語と俗伝」という小論を『國語と國文学』(東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)に発表しています。
これが、なかなか刺激的な内容なのです。
まず、二村氏は、落語を6種類に分類して、そこから抜け落ちてしまう噺があることを指摘します。
それが、史実を扱った噺。
史実とはいっても、しょせんは落語ですから、俗伝であり通俗史をもとにした噺にすぎません。
具体的にはどんな噺のことのでしょうか。
二村氏は、この小論で「朝友」「西行」「お血脈」「紀州」を例示しています。
なるほど。
そこで、「西行」。
二村氏は「西行は落語になっても、芭蕉は落語にならない」と指摘します。
なぜなのでしょう。
二村氏によれば、以下の二点が、歴史上の人物が落語に採用される条件である、としています。
(1) その人物の伝説化が進行していること。
(2) 伝記に謎の部分をもっていること。
西行の足跡にはわからない部分が多いけど芭蕉にはあまりない、と言いたいのでしょうか。
たしかに、現在でも、芭蕉の研究者は圧倒的に多く、西行のほうはたいしたことありません。
ただ、地方に行けば、芭蕉のあやしげな伝説もちらほら見えたりします。芭蕉が明らかに行ってもいないところに、芭蕉の句碑があったりとか。
そんな地方では芭蕉の伝説化も静かに進行しているでしょうし、謎の部分(忍者説とか水道工事監督時代とか)もないことはないでしょう。
二村氏の説が妥当かどうか、それはもう少し咀嚼したいところですが、この一文、刺激にあふれています。
だって、落語の評論でそんなところをほじくる人はいませんでしたし、いまも現れていません。
この二村論文を起爆剤に、われわれも少し考えてみたいところです。それにしても1985年の論文ですから、斯界の研究はすでに進んでいるのかもしれませんが。いやあ、どうかなあ。
ことば | よみ | いみ |
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染殿内侍 | そめどののないし | |
佐藤義清 | さとうのりきよ | 西行のこと |
阿漕 | あこぎ | 阿漕ヶ浦 |
藤原良房 | ふじわらのよしふさ | |
正親町小路 | おおぎまちこうじ | |
染殿大臣 | そめどののおとど | |
明子 | あきらけこ、あきらけいこ | |
入内 | じゅだい | 嫁ぐ |
染殿后 | そめどののきさき |