しちだんめ【七段目】演目

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生活すべてが芝居の調子。マニアっていうやつは、いつの時代も……。

【あらすじ】

若だんなが常軌を逸した芝居マニアで、家業そっちのけ。

四六時中芝居小屋に入り浸り、何をやっても芝居のセリフになってしまう。

今日も朝から帰らないので、だんなが番頭に愚痴をこぼしている。

「今日という今日はみっちり小言を言います」とカンカンに怒るのを番頭がなだめているところへ、当の若だんなが意気揚々とご帰還。

しかっても蛙のツラに何とやらで「遅なわりしは拙者が不調法」と忠臣蔵・三段目の判官気取り。

あきれ果てて二階へ追い払うと、早速「とざい、とーざーい」と金切り声を張り上げる。

閉口しただんな、小僧の定吉に止めてこいと命じたが、定吉も悪のりして「やあやあ若だんな、芝居の真似をやめればよし、いやだなんぞとじくねると、とっつかめえて……」と忠臣蔵・道行の鷺坂伴内のパロディー。

これが逆効果で、若だんなは仲間ができたと大喜び。

一緒に芝居をやろうと聞かない。

定吉ももともと芝居狂なので、とうとう乗せられ、忠臣蔵・七段目・茶屋場の平右衛門とお軽の場面を二人でやる羽目に。

やるからには衣装を整えようと若だんな、赤い長襦袢と帯のしごき、手拭いの姉さんかぶりで定吉に女装させたのはいいが、平右衛門の自分が丸腰ではと、床の間の本身の刀を持ち出したから定吉は驚いた。やめると言うのを、決して抜かないからと、刀の鯉口をコヨリで結んでやっとなだめすかす。

足軽の平右衛門が、妹・お軽が仇討ちの大事を知ったことを悟り、秘密露顕を恐れて、自分の手で始末しようと決心するところで、だんだん若だんなの目がすわってきたので、定吉はびくびく。

とうとう恐れていた事態。

「あなた、抜いちゃいけませんったらッ」

もう何も耳に入らない若だんな、コヨリをあっという間にぶっちぎり「妹、こんたの命ァ、兄がもらったッ」

抜き身を振り回すからたまらない。

定吉、逃げる拍子に階段からゴロゴロゴロ。

「おい、定吉、しっかりしろ」「ハア、私には勘平さんという夫のある身」
「馬鹿野郎。小僧に夫があってたまるか。変な格好をして、さては二階であの馬鹿と芝居ごっこをして、てっぺんから落ちたか」
「いえ、七段目」

【しりたい】

「忠臣蔵」のパロディー

全編、浄瑠璃・歌舞伎でおなじみの「仮名手本忠臣蔵」のパロディーです。

江戸、大坂のような都市部の人々なら、特にこの若だんなのような芝居狂でなくとも、芝居の「忠臣蔵」のセリフや登場人物くらいは隅々まで頭に入っていて、日常会話の一部にさえなっていました。

「とざい、とーざい」は「東西声」といい、「仮名手本忠臣蔵」開幕の前にからくり人形が観客に挨拶する掛け声。

定吉の「芝居の真似を……」は四段目の切、清元舞踊「道行旅路花婿」の道化敵・鷺坂伴内のセリフ、「やあやあ勘平、お軽をこっちへ渡さばよし、いやだなんぞとじくねると……」のもじりです。

騒動の元になる後半の大立ち回りは、七段目・祇園一力茶屋の場で、密書を読んで仇討ちの計画を知った遊女・お軽を、身請けの後に殺そうという大星由良之助(大石内蔵之助)の腹を、お軽の兄・寺岡平右衛門が察し、妹を手に掛けた手柄で、同志に加えてもらおうとする見せ場です。

ほかに登場する芝居

この噺でパロディーギャグに使われる芝居は、「忠臣蔵」以外は演者によって変わります。

若だんなが「菅原伝授手習鑑」・「車引」の「そのくるまァ、やァらァぬゥー」という決めゼリフで人力車を止めたり、おやじにぶたれて、「こりゃこのおとこの、生きィづらァをー」と、「夏祭」の団七のセリフでうなったりするギャグは、大方の落語家が入れますが、観客が歌舞伎をよく理解していないとウケません。

東西とも、芝居のクライマックスは、下座の鳴り物を使って、にぎやかに演じます。

「七段目」演者と演出

芝居ばなしの素養がないとできない噺で、先代三遊亭円歌、先代雷門助六などが軽妙に演じていました。

春風亭小朝、林家正雀などのレパートリーにもなっています。

大阪でも古くから演じられ、二代目立花家花橘が得意にしていたのを桂米朝が継承し、桂吉朝、桂文珍など後進に伝えてました。

最後のオチは、古い型では「七段目から落ちたか」「いえ、てっぺんから」と逆で、米朝はこの型でサゲていました。

【七段目 柳亭市馬】

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よどごろう【淀五郎】演目

実話が基に。「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ、忠臣蔵がらみの芝居噺。

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられますが、三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をご参照ください。初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をご参照ください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

【語の読みと注】
相中 あいちゅう

【RIZAP COOK】

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おそかりしゆらのすけ【遅かりし由良之助】むだぐち ことば

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「由良之助か、遅かったァ」という絶句のしゃれ。それだけ。遅刻をたしなめることばとして、歌舞伎ファンでなくてもたまに使われています。

戦前までの東京では、生活の至るところに歌舞伎のにおいがあったようです。日常会話の端々に芝居の名セリフや、そのもじりがごく普通に使われていたわけです。なかでも『仮名手本忠臣蔵』となると、どんなワキのセリフでも、骨の髄までしゃぶり尽くされていました。これもその一つ。「四段目」、塩冶判官が腹に九寸五分を突き立てたところで、花道から家老の大星由良之助がバタバタ。そこで「由良之助か、遅かったァ」となるわけです。

もっともこれは実際の判官のセリフではなく、客席の嘆きの声なのですが。これが遅刻をたしなめることばとして定着。といっても本気ではなく、相手をからかうしゃれことばとなったものです。逆に、遅刻した側のわびごとは、その前の「三段目」喧嘩場での判官のセリフ「遅なわりしは拙者の不調法」。

バレ小咄では、由良之助が髪を下ろした瑤泉院にお慰み用張り形(女性用婬具)を献上。そのサイズが合わず「細かりし由良之助」。

すがわらむすこ【菅原息子】演目

【RIZAP COOK】

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「芝居」といったら、歌舞伎に決まっていたころの噺ですね。

別題:芝居狂

あらすじ

芝居狂の若だんな。

今日も「菅原伝授手習鑑」を見物してご機嫌で帰宅。

いきなり
「女房ども、今戻った」
と、妙な声を張りあげて、物乞いと間違われる。

「俺がいい気持ちで気取っているんだから、おまえもつきあえ」
と女房に、無理やりに「こちの人、よく戻らさんしたな」という「寺子屋」の源蔵女房戸浪のセリフを強要する。

食膳を見ると
「ハテ、膳部の数が一脚多い」
と松王になり、アワビのふくら煮が出ると
「ナニ、死貝と生貝とは風味味わいの変わるもの、真っ赤な赤螺その手はくわぬ」
「お平はなんだ? 豆腐? 平は豆腐皿の鰈の焼き魚、何とて猪口はしたしなるらん」
などと、すべて「寺子屋」気取り。

かと思うと、いきなり椀の蓋を取って
「あ-ら、怪しやな。今汁椀の蓋を取ると、にわかに水気立ち上がりしは、凶事のしるしか吉事のしるしか、なににせよ怪しきこの場の、ありさま、じゃ、なあー」

これを聞いたおやじ、カンカンに怒って
「このばか野郎」
と飛び掛かったのを、若だんなヒョイと避け
「親びと、御免」
と、ほうり投げた。

「あれまあ、あなた、お父さんを投げて」
「女房喜べ、せがれがおやじに勝ったわやい」

【RIZAP COOK】

うんちく

マクラ噺 【RIZAP COOK】

原話は不詳。芝居好きをからかった小咄が集まってできたものでしょう。落語としては上方ダネで、別題を「芝居狂」ともいいます。

明治から大正にかけ、初代春風亭柳橋、二代目三遊亭金馬、四代目三遊亭円馬ら、芝居噺を得意にした演者の速記が残ります。

芝居の噺のマクラによく付けられますが、近年はこの演題で、一席噺で演じられることはまれです。

二代目三遊亭金馬(碓井の金馬、1926年没)の大正4年(1915)の速記では、「浮かれ三番」のマクラで演じています。

金馬はこのあと、盗賊が料理屋に押し入って百円脅し取り、空腹で飯を要求すると、主人が「あなたは金を盗るのが商売、私は料理を売るのが商売だから、お代を出してくれ」と言うので、しかたなく百円払ってさっ引きになるという小咄を付けています。その泥棒も実は大の芝居好きで、待っていた子分が「親分、首尾は」と聞くと「シーッ、声(=鯉)が高い」というお笑いです。

おやじ流罪でせがれが死罪 【RIZAP COOK】

菅原伝授手習鑑は、延喜元年(901)の菅原道真流罪事件に取材した、全五段の時代物浄瑠璃。延享3年(1746)8月21日、大坂竹本座初演。作者は翌年、竹田出雲、並木千柳、三好松絡、竹田小出雲の合作。歌舞伎初演は翌年9月、京都嵐座です。

「寺子屋」は四段目の切。今は敵の藤原時平方に仕えている舎人(とねり)・松王丸が、手習師匠の武部源蔵がかくまう菅丞相(道真)の一子・菅秀才の危急を救い、故主に忠義を立てるため、わが子・小太郎を身代わりにすべく、寺子屋に弟子入りさせます。

菅秀才の首を討って差し出せという時平の命に、菅丞相の門弟だった源蔵が懊悩しているところに、松王丸自身が検分役となって乗り込み、源蔵に小太郎を斬らせ、時平一味の目を欺くという悲劇です。

膳部の数 【RIZAP COOK】

以下、すべて芝居のセリフのパロディです。

「膳部の数…」は松王が、寺子屋から帰る子供の数より、手習い机が一脚多いので、これは菅秀才のものに違いないとわざと言い立て、小太郎を身代わりにするきっかけにしようとする場面のセリフ、「机の数が一脚多い」から。

「生貝と死貝」も同じく、松王が源蔵に言う「生き顔と死に顔は相好の変るなぞと、身代わりのにせ首、その手は食わぬ」から。

「平は豆腐」は、松王が、三つ子の弟桜丸の忠義を引いて、源蔵夫婦に自分の菅丞相親子への真情を吐露するセリフ、「梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん」の地口です。

初代円遊の肉声 【RIZAP COOK】

初代三遊亭円遊という落語家。実は三代目。明治の珍芸寄席四天王の筆頭にして、近代こっけい噺のパイオニア。「鼻の」「あばたの」「ステテコの」などあまたの異名を奉られていました。夏目漱石も抱腹絶倒した「元祖爆笑王」の、今に伝わる肉声がたった二種類の蝋管レコードに残され、CDにも復刻されています。

一つはこの「菅原息子」。死の四年前の明治36年(1903)、落語初のレコードとして、初代快楽亭ブラック、四代目橘家円喬などが、英グラモフォンに吹き込んだ記念すべきシリーズの一枚。ほかに米コロムビア吹き込みの「野ざらし」があります。百年以上前の、原始的な蝋管からの復刻音源ですが、やや鼻にかかった高っ調子、立て板に水の早いテンポ。わずか正味三分足らずですが、鳴り物入りで芝居の声色仕立て。このころはもう晩年で、人気も落ち目になっていたはずですが、さすがにただものではない円熟した技芸が、時を越えて伝わってきます。まぎれもなく「明治からのメッセージ」でした。

せがれがおやじに 【RIZAP COOK】

オチの部分も、松王丸が女房千代に言うセリフ「女房よろこべ、せがれがお役に立ったわやい」のもじりです。

【語の読みと注】
赤螺 あかにし:タニシの一種
お平 おひら:浅く平たい朱塗りのお椀
菅原伝授手習鑑 すがわらでんじゅてならいかがみ
舎人 とねり

【RIZAP COOK】

しろうとしばい【素人芝居】演目

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素人が演じる芝居を茶番といいます。芝居=歌舞伎だった頃の噺。

別題:五段目 吐血

あらすじ

町内の素人芝居で、「仮名手本忠臣蔵」五段目、山崎街道の場を出すことになった。

例によって、オレも勘平、オイラも勘平、あたしも勘平と、主役ばかりやりたがり、さんざん役もめをした挙げ句、しかたがないのでくじ引きで配役を決め、伊勢屋の若だんなが幸運にも勘平に「当選」した。

鉄砲渡しで千崎弥五郎が花道から客席に落っこちたり、猪役に当たった建具屋の源さんが、おもしろくないから、いやがらせに舞台でチンチンやお預けをしたりといろいろあって、やっと勘平の出になる。

舞台で斧定九郎が与市兵衛を殺して五十両を奪い、金を数えて終わってほくそ笑んだところで、揚げ幕から勘平が猪を狙ってドンと鉄砲を撃つと、弾が定九郎に命中。

定九郎の役者が、あらかじめ口に含んでいた玉子紅を噛み、胸に仕込んでおいた糊紅をなでると、口から血がダラダラ、胸から腹にかけて血だらけになってウーンと倒れたところへバタバタになって、さっそうと勘平が花道へ登場。

という、おなじみのいい場面になるはずだったが、ならない。

小道具が口火をなくしてしまったので、いつまで待っても鉄砲の音がしないから、定九郎がじれて、舞台をグルグル三べんもまわった挙げ句、かんしゃくを起こして
「テッポ、テッポ」
と怒鳴ったからたまらない。

たちまち口の中の玉子紅が破れて、弾にも当たらず血がダラダラ。

見物が仰天して
「おい、鉄砲は抜きか」
「いや、今日は吐血で死ぬんだ」

底本:、四代目橘家円喬

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うんちく

オムニバスの一部 【RIZAP COOK】

「仮名手本忠臣蔵」を題材としたオムニバスの一部分で、このあらすじの部分のみを演じる場合は、普通「吐血」「五段目」と称します。

「素人芝居」の演題は、四代目橘家円喬が明治29年(1896)6月、雑誌『百花園』に速記を載せた際のものです。円喬はこの後「蛙茶番」につなげています。

「田舎芝居」と題して芝居噺の趣向を取り入れた同時代の六代目桂文治は、この忠臣蔵五段目の失敗話を「大序」「四段目」に続いて最終話とするなど、昔から、部分部分の組み合わせや構成は演者によって異なります。詳しくは、「田舎芝居」の項をご参照ください。「五段目」のこの部分だけの原話は不詳です。

「忠臣蔵」各段ごとに小咄 【RIZAP COOK】

歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」は、人口に膾炙しているだけに、その各段にちなんだ落語や小咄が、かつては作られていました。

「大序」「二段目」「五段目」「七段目」「九段目」がそれですが、このうち独立した一席噺として扱われたのは「七段目」くらいでしょう。

本ブログでは、本編の「五段目」、「七段目」に加え、「田舎芝居」の項で、「大序」「四段目」の梗概を紹介しています。「九段目」は独立項目を設けていませんので、以下に明治25年(1892)の二代目(禽語楼)小さんの速記をもとに、簡単にあらすじを記しておきます。

「九段目」あらすじ 【RIZAP COOK】

近江屋という呉服屋の隠居の賀の祝いに 素人芝居で忠臣蔵九段目「山科閑居」を 出すことになったが、主役の加古川本蔵を演じる者が風邪でダウンし、代役に、夜は医者、昼はタバコ屋という小泉熊山(ゆうざん)を立てた。ところが、大星力弥 に槍で突かれて手負いになる場面で、 血止めに自家製の刻みたばこを使ったので、客が「よう本蔵、血止めたばことは芸が細かい」とほめると「なあに、手前切り(自分で粗く刻んだたばこ)です」とオチになる。

オチが今ではわかりづらく、今ではほとんど口演されません。これも別題を「素人芝居」といい、ややこしいかぎりです。 

落語を地でいったヘボ芝居 【RIZAP COOK】

十七代目中村勘三郎(1909-88)は、『中村勘三郎楽屋ばなし』(関容子)の中で、岳父六代目尾上菊五郎(1885-1949)に聞いた昔の役者の失敗談として、「五段目」のオチのまま(大道具の鉄砲が鳴らずに、定九郎が仕方なく舌をかんで「自殺」)の話を語っています。

これが実話だったのかどうかは、定かではありません。昔のヘボ役者のしくじり話は、梨園にはいくらでも伝わっているようです。

同じ菊五郎の座談として伝わっている話に、「忠臣蔵」三段目の喧嘩場、高師直(こうのもろのお)と塩冶判官(えんやはんがん)のやりとりで、 判「気が違うたか、ムサシノカミ」、師「だまれ、ハンガン」と言うべきところを、判官が間違えて、判「気が違うたか、たくみのかみィ」とやってしまい、これにあせった師直が、師「だまれ、モロノオ」。

これで芝居はメチャクチャ、という一席がありました。

オレも勘平 【RIZAP COOK】

現在でも芝居噺のマクラによく使われる「勘平がずらりと花道に並んで、これで「カンペイ式(=観兵式)もめでたく済んだ」というくすぐりを四代目円蔵も用いていますが、「観兵式」がどんなものかわからなくなっている現在、くすぐりとして通じなくなっています。

二代目小さんは、四代目円蔵よりさらに一時代前の人ですが、前述「九段目」のマクラで、並んだのは「勘平の子でございましょう」とやっています。どのみちおもしろくもなんともありませんが、こちらのほうがまだわかりやすいでしょう。

この噺、戦後は円蔵の弟子だった六代目三遊亭円生が、師匠の演出を継承して「五段目」として高座に掛け、音源も残されています。

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しばいずきのどろぼう【芝居好きの泥棒】演目

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泥棒が婚礼宴の後に忍び込む、という設定自体が奇妙ですね。

別題:二番目

【あらすじ】

芝居好きの泥棒が犬に吠えたてられて、さるお屋敷に入り込む。

ちょうど婚礼の後らしく、入ってみると酒宴の後のごちそうや酒がまだ片付けられずに散らばり、使用人たちも全員酔いつぶれて白川夜船。

これ幸い、と徳利に残った酒を失敬して、グビリグビリ。

そのうち酔っぱらってきて、まぬけにも自分で
「お泥棒さまがへえったぞ。酒を持ってこい」
と、大声でオダをあげたから、寝ていた奴が目を覚ました。

庖丁を持っているかも知れないから怖いし、どうせ取られても自分の金ではないので、皆そのまま寝たふりをしていると、調子に乗った泥棒、
「さあ、お嫁さんを拝見しよう。二階だな。ミシリミシリ揺れている。ウーン、二階へ上がっていくべえ。さあ、石川五右衛門が競り上がっていくぜ」

昔はしゃれた奴があったもので、「競り上がる」というからには、この泥棒は芝居好きに違いないと見抜いて、台所にこっそり行って金だらいをたたき、三味線で「楼門」の下座を弾き始めた。

泥棒は嬉しくなった。

「ありがてえかっちけねえ。同類が増えた」

はしご段の真ん中で
「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金と小せえ小せえ、この五右衛門の目からは価万両、はや日も西に傾き、まことに春の夕暮れに花の盛りもまた一しお、ハテ、うららかなァ、眺めじゃなあ」

うなりながら二階へ上がっていくので、あわてたのが、奉公人。

金どんが
「よし、オレが久吉になって止めてやる」
と、負い鶴の代わりに袖なしを着て、頭巾を手ぬぐいでこさえ
「石川や浜の真砂尽きるとも」
「なんと」
「世に盗人の種は尽きまじ」
「エイッ」

泥棒が手裏剣を打つと、ひしゃくで受け
「婚礼(巡礼)に、ご報謝」

底本:六代目桂文治

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【しりたい】

原話はバレ噺

この噺、明治31年(1898)6月の『百花園』に掲載された、六代目桂文治の速記が唯一の口演記録です。

文治は、明治初期から中期にかけての、芝居噺の名手でした。

原話は不詳ですが、もともと艶笑落語で、バレで演じるときは「二番目」と題しました。

この場合は、泥棒が二階へ上がっていくと、もう若夫婦が夜の大熱戦の真っ最中で、「二番目じゃ、二番目じゃ」と、オチになります。これも、芝居用語がわからないと理解困難です。

最初、泥棒が階下で、「一番目もの」と呼ばれた時代物狂言の「楼門」の石川五右衛門のセリフをうなっていて、続いて上で若夫婦が「二番目狂言」、つまり男女の濡れ場が付き物の「世話物狂言」を、床の上でおっぱじめることから、このオチ、別題になるというわけです。

楼門

さんもん。本来の外題を「金門五三桐」(きんもんごさんのきり)といい、のち「楼門五三桐」と改題されました。初演は安永7年(1778)4月、大坂道頓堀中の芝居(のち中座)で、初代並木五瓶の作です。

全五幕の長編ですが、二幕目返し(第二場)の「楼門の場」が特に有名になり、現在ではほとんどこの場面だけが、歌舞伎の様式美の極致としてしばしば上演されます。

桜花がけんらんと咲き誇る、京都南禅寺の楼門の上で、大盗賊石川五右衛門が、ゆうゆうと夕日を眺めながら「絶景かな、絶景かな」の名セリフを大音声でうなります。

そこへ、真柴久吉(豊臣秀吉)に滅ぼされた五右衛門の父、此村大炊助こと、実は大明国の遺臣宋蘇卿の遺書を脚に結びつけた鷹が飛来。

それを読んだ五右衛門が、父の仇久吉を討って日本国を征服することを決心したとき、楼門の下から「石川や浜の真砂は尽きるとも」と、朗々と詠む声がして、巡礼姿の久吉がせり上がってくるという名場面です。

【語の読みと注】
金門五三桐 きんもんごさんのきり

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ごんすけしばい【権助芝居】演目

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最後はドタバタになる、おきまりの噺です。

【あらすじ】

町内で茶番(=素人芝居)を催すことになった。

伊勢屋の若だんなが役不足の不満から出てこないので、もう幕が開く寸前だというのに、役者が一人足りない。

困った世話人の喜兵衛、たまたま店の使用人で飯炊きの権助が、国では芝居の花形だったと常々豪語しているのを思い出し、この際しかたがないと口をかけると、これが大変な代物。

女形で「源太勘当」の腰元千鳥をやった時、舞台の釘に着物を引っ掛け、フンドシを締めていなかったのでモロにさらけ出してしまい
「今度の千鳥はオスだ」
とやったと自慢げに話すので、吉兵衛頭を抱えたが、今さら代わりは見つからない。

五十銭やって、芝居に出てくれと頼む。

「どんな役だ?」
「有職鎌倉山の泥棒権平てえ役だ」
「五十銭返すべえ。泥棒するのは快くねえ」
「芝居でするんだ。譲葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくる。鏡ったって納豆の曲物の蓋だ。それを押しいただいて、『ありがてえかっちけねえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪え取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言う」
「五十銭返すべえ」
「なぜ?」
「そんなに長えのは言えねえ」
「後ろでつけてやる。そこで紺屋の金さんの夜まわりと立ち回りになる。そこでおまえが当て身をくって目を回す。ぐるぐる巻きに縛られて」
「五十銭返すべえ」
「本当に縛るんじゃない。後ろで自分で押さえてりゃいい。誰に頼まれたと責められて、小藤太様がと言いかけると、その小藤太が現れて、てめえの首をすぱっと斬り落とす」
「五十銭返すべえ」

ようようなだめすかして、本番。

客は、泥棒が、若だんなにしては汚くて毛むくじゃらだと思って見ると、権助。

「やいやい権助、女殺し」
「黙ってろ、この野郎」
「客とけんかしちゃいけねえ」

苦労してセリフを言い、立ち回りは金さんの横っ面をもろに張り倒して、もみ合いの大げんか。

結局、縛られて舞台にゴロゴロ。

「やい権助。とうとう縛られたな。ばかァ」
「オラがことばかと抜かしやがったな。本当に縛られたんじゃねえぞ。ほら見ろ」

縄を離しちまったから、芝居はメチャクチャ。

太い奴だと、今度は本当にギリギリ縛られて
「さあ、何者に頼まれた。キリキリ白状」
「五十銭で吉兵衛さんに頼まれただ」

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【しりたい】

「マニア向け」の芝居噺

江戸の人々の芝居狂ぶりを、いきいきと眼前に見るような噺です。

原話は不詳で、古くから演じられてきた東京落語です。別題が多く、「素人茶番」「一分茶番」「素人芝居」、また、噺の中で演じられる歌舞伎の外題から「鎌倉山」とも呼ばれます。

現在は、「一分茶番」で演じられることが多いようです。

江戸時代の素人芝居(素人茶番)については、同じ題材を扱った「蛙茶番」をご参照ください。

明治29年(1896)の四代目橘家円喬の速記が残りますが、昔からこれといって、十八番の演者はありません。

蝶花楼馬楽時代の八代目林家正蔵(彦六)、八代目雷門助六、先代金原亭馬の助、三遊亭円弥といった、芝居噺が得意でどちらかと言えば玄人受けする腕達者が手掛けてきたようです。

六代目円生も手掛けたはずですが、記録は残りません。円生没後は一門の五代目三遊亭円楽、円窓、円龍が演じ、それぞれの門下の中堅・若手にも継承されてきました。

なお、戦前に、五代目三升家小勝が「素人演劇」として、モダンに改作したことがあります。

「源太勘当」

源平合戦、木曽義仲の滅亡を描いた全五段の時代物狂言「ひらかな盛衰記」のの第二段です。

原作の浄瑠璃は文耕堂ほかの合作で、歌舞伎の初演は元文4年(1739)4月、大坂角の芝居。千鳥は腰元で、主役の梶原源太景季と恋仲。後に遊女梅ケ枝となります。

「有職鎌倉山」

やはり鎌倉時代を背景にした時代物狂言で、寛政元年(1789)10月、京都・早雲座初演です。

実際はその五年前の天明4年(1784)3月24日、江戸城桔梗の間で、若年寄田沼意知が、五百石の旗本佐野政言に殺された事件を当て込んだものです。

源実朝の鷹狩りで獲物を射止めた佐野源左衛門は、手柄を同僚の三浦荒次郎に譲りますが、善左衛門を妬んだ荒次郎に事あるごとに辱められ、忍耐に忍耐を重ねた後、ついに殿中の柳営の大廊下で荒次郎を討ち果たし、切腹するという筋です。

本来、この噺で演じられるようなお家騒動ものではないはずですが、昔は、こじつけの裏筋が付けられていたのかも知れません。

芝居の泥棒

江戸時代、芝居の興行は、夜の明けないうちから始めて、夕方までやっていました。

お家騒動ものの発端は大方お決まりで、この噺に出てくるように、悪人側の黒幕の家来の、そのまた家来に命じられた盗賊が、お家の重宝(鏡、刀、掛軸など)を盗み出し、蔵を破って出てくるというパターン。

泥棒のセリフも、どれもほとんど紋切り型でした。

その後、雇い主の「小藤太様」が現れて品物を受け取り、これで忠義の善玉側に、この罪をなすりつけられるとほくそ笑んだ上、「下郎は口のさがなきもの。生けておいては後日の障り。金はのべ金」と、口塞ぎのため泥棒はバッサリ、というのがこれまたお決まり。

このシーンは早朝に出され、下回り役者ばかりが出るので、見物人などほとんどいなかったわけです。

泥棒が「主役」に昇格したのは、幕末の河竹黙阿弥の白浪狂言からでした。

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いなかしばい【田舎芝居】演目

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町じゃ端役なのに田舎だと名代なんていうのは、ありそうなはなしですね。

【あらすじ】

田舎の鎮守の祭礼に、村芝居を出すことになった。

やり方を教えてくれるお師匠番が必要だが、一流の役者や振付師を頼むと千両ふんだくられると聞いた。

世話人がぶったまげ、
「それなら一番安くて悪い先生を頼もう」
と、捜し当てたのが江戸、下谷北稲荷町に住む本名、柴田与三郎。芸名、中村福寿という下回り役者だ。

この男、昼間は芝居で馬の足、夜は噺家になるという掛け持ち稼業。

江戸でこそ、昼馬、夜鹿(噺家=しか)で合わせて「ばか」だが、田舎に来ると、芝居の神さま扱い。

庄屋杢左衛門の家に招かれて、下にも置かぬ大歓迎。

すっかりいい気持ちになり、
「だしものはなんです」
と尋ねると、
「なんでも、よくわからねえべが、幕を取ると向けえにお鎮守さまが祭ってござって、その傍にお天神さまがえらくいて、黄色い頭の天神さまに青いお天神、黒い爺さまの天神さん、土地べたイ座って箱の中から戦する時かぶる笠のようなものを」
と、シドロモドエオで説明するので、どうやら「仮名手本忠臣蔵」大序兜改めの場と、知れた。

そこで、なんとか衣装をあり合わせでそろえ、セリフも付けたが、田舎言葉なのでなんともしまらない。

稽古の時に衣装を外に干しておいたので、その間に蜂が烏帽子に入ったのも知らずに師直役の農民が
「だまらっしゃい、若狭どん。義貞討死した時大わらわ、死げえの前に落ち取った兜の数四十七、どれがどれとはわからねえのを奉納したその後で、アタタ」

蜂の出所がないから、あっと言う間にコブだらけ。

頭がふくれ上がったから、見物
「どこの国に師直とデコスケの早変わりがあるだ」
と怒り出す。

次は、四段目判官切腹。

花道から出るはずの諸士が出てこない。

福寿があわてて
「ショシ、ショシ」
と呼んだのを、次の幕の山崎街道の場に出る猪役がシシと聞き間違え、飛び出したので芝居はメチャクチャ。

見物が
「判官さまが腹切るに、猪が出るちゅうことがあるか」
「それがさ、五万三千石の殿さまが腹切るから、領内の獣が暇乞いに来ただんべ」

底本: 六代目桂文治

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【しりたい】

おらが村の大歌舞伎

原型は文化4年(1807)刊の『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九作の滑稽本『田舎草紙』と思われます。

これは丹波国 現・兵庫県)氷上郡の農村を舞台にし、村芝居で忠臣蔵七、九、十段目を農閑期の農民が土地のなまりそのままで演じていくおかしさを趣向にしたものです。

七段目で主人公、大星由良之助に、敵役の斧九太夫が芝居中に酔ってからみ、取っ組み合いの大ゲンカになったり、遊女おかる役の馬喰が転んで金玉を強打、悶絶したりと、さまざまなくすぐりを織り交ぜていますが、現行の落語の筋とは違っており、一九の趣向をヒントに、落語家が自由に、いろいろなくすぐりを創作してできたものでしょう。

この『田舎草紙』でちょっとおもしろいのは、村芝居を演じたり見物する百姓たちが、落語の中で揶揄されているのと異なり、決して本場の歌舞伎に無知ではなく、ある者は「去年江戸で見てきた」と言っているように、特に「忠臣蔵」の筋や登場人物くらいはほとんどの者がよく知っていることでしょう。

「近頃はいづくのうらでも、素人芝居はやりて、田舎も、まち場には、損料にて芝居の衣装、貸す所あり」と記されていて、江戸も末期になると、封建社会の農村にも、すでに「文化の波」が押し寄せてきていたことがわかります。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては寛延元年(1748)8月大坂竹本座、歌舞伎は同年12月大坂嵐座初演。竹田出雲ほか三名の合作です。

「黄色い頭の天神さま」は大序「鶴岡八幡宮境内・兜改めの場」で、足利直義公が黄色の立烏帽子を被っているのを言ったもの。「青いお天神」は同じく桃井若狭助が青の長烏帽子、敵役の高師直が黒の長烏帽子を着用していることを指します。

「だまらっしゃい」は、反乱を起こし戦死した新田義貞の兜を八幡宮に奉納するという時、師直が文句を付けるのを若狭助がいさめたのに対し、師直が「だまれ若狭。出頭第一の師直に向かい、卒爾とはなにが卒爾。義貞討死のみぎりは大わらわ。死骸のそばにうち散りし、兜の数が四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。奉納をしたその後で、そうでなければ大きな恥。生若輩のなりをして、お尋ねもなき評議。ええ、引っ込んでおいやれェ」と罵倒するセリフです。

さまざまなやり方

明治期、芝居噺を得意とした六代目桂文治の速記では、忠臣蔵の大序から五段目「山崎街道」までを通しで、その段ごとに村人の失敗を描く長講でした。文治は上下に分けていて、現行は上の部分です。

オチは、江戸の役者(この噺では福寿)がコブだらけになる演出があり、その場合は「さすがは江戸の役者。師直と福助の早替わりだ」と落とします。これは、顔が腫れてフクスケ人形そっくりになることと、江戸で有名な役者の中村福助を掛けたものですが、現在はわかりにくく、戦後は八代目林家正蔵(彦六)が手がけたほか、演じ手がありません。

四代目橘家円蔵は「四段目」「五段目」を中心にして「五段目」の題で演じ、この型が「五段目」として、現在になんとか伝わっています。同じ円喬が「素人芝居」と題した別の速記では、「五段目」の部分と「蛙茶番」を続けて演じるなど、長い噺なので、切り取り方に演者の工夫がありました。

【語の読みと注】
下谷北稲荷町 したやきたいなりちょう
庄屋杢左衛門 しょうやもくざえもん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ
敵役 かたきやく
斧九太夫 おのくだゆう
馬喰 ばくろう
損料 そんりょう
桃井若狭助 ももいわかさのすけ
長烏帽子 ながえぼし
高師直 こうのものなお
卒爾 そつじ
揶揄 やゆ

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よだんめ【四段目】演目

『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 足あがり(上方) 蔵丁稚(上方)

あらすじ

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

日本一の猪?  【RIZAP COOK】

天明8年(1788)刊江戸板『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり方  【RIZAP COOK】

明治32年(1899)の六代目桂文治の速記では「碁泥」につなげて演じられています。定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝、二代目三遊亭円歌がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵  【RIZAP COOK】

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

改作と類話  【RIZAP COOK】

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺  【RIZAP COOK】

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。現在演じられるのはこの「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

【語の読みと注】
蔵丁稚 くらでっち
師直 もろなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

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