こうふい【甲府い】落語演目


  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

甲府から江戸に出てきた善吉、浅草で金を盗まれて無一文に。

法華信徒の豆腐屋に助けられ、その店で一途に奉公、十年。

人柄が見込まれ入り婿むこに。家業に励んだ。

二人は身延山にお礼参りに。「甲府ぃ、お参り、願ほどきぃ」。

日蓮宗(当時は法華宗)を称揚した、古い江戸前の噺です。

別題:出世の島台

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

【あらすじ】

甲府育ちの善吉ぜんきち

早くから両親をなくし、伯父おじ夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山みのぶさんに断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺せんそうじ境内けいだい巾着きんちゃくをすられ、無一文むいちもんに。

腹を減らして市中しじゅうをさまよったが、これではいけないと葭町よしちょう千束屋ちづかやという口入れ屋をめざすうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆わけえしが袋だたきにしようというのを、主人が止めた。

事情を聞いてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々の法華宗ほっけしゅうで、
「これもお祖師そしさまの引き合わせだ」
と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金きゅうきんは出ないが、商高あきないだかに応じて歩合ぶあいが取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向かげひなたなく懸命に
「豆腐ィ、胡麻ごま入り、がんもどき」
と売って歩いた。

愛想あいそがよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、ほおっておくと虫がつくから、早く婿むこを取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨しゅうしも合うし、まじめな働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し
「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪雑把まきざっぽ持ってこい」
と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分ふぜいが、と遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付いつき地主に。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所ざいしょへは一度も帰っていないので、
「両親の十三回忌じゅうさんかいきと身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」
と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度たびじたくしてやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若旦那、どちらへお出かけで?」
と聞かれて善吉が振り向き
「甲府(=豆腐)ィ」
と言えば、お孝が
「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前の噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、四代目桂文治の息)の速記が残っています。大筋は現行とほとんど変わりません。六代目文治は円朝と同時代の噺家です。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、先の大戦後は、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英、1968-)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。

流罪を許されて身延に隠棲いんせいした日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井はきい氏から寄進を受けて開いたものです。

日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝にっちょう(1422-1500)が、現在の山梨県南巨摩郡みなみこまぐん身延町に移してますます発展させました。

日蓮宗の本拠としては、江戸・池上の本門寺ほんもんじがあるので、江戸の信徒(檀越だんのつ)は通常、ここに参詣すればよいとされました。池上は日蓮の亡くなった地です。

江戸時代には、「日蓮宗」という名称はまだ一般的ではなく、「法華」「法華宗」と呼ぶことが多かったようです。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増したのは、宝永ほうえい年間(1704-11)といわれています。

宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録もあります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語にひんぱんに登場する「大家」は差配さはいともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人のことです。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多かったようです。その場合、地主と大家を兼ねていることになります。

こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋おもてながやです。通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁とうりゅう鳶頭とびのかしらなど、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付き地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵むめいあん(野村元雄、1888-1945)は『落語通談』に記しています。

斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った。

この「古老扇橋」とは、声色こわいろ(声帯模写)の名人としても知られた、八代目入船亭扇橋(宗匠の扇橋、進藤大次郎、1865-1944)のことでしょう。「でっち直す」という言い方もおもしろいですね。

改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりません。『落語通談』によれば、筋は大同小異とのこと。この『落語通談』は、初出が1943年9月刊。中公文庫版(1982年)は品切れですが、古本市場でまだ入手できるかも。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。

主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、しゅうと夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房にまかせてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居にもなった「模範落語」

『落語通談』によれば、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、先の大戦中、報国紙芝居ほうこくかみしばいにもなったとのこと。

いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局(内務省や文部省など)にとって「期待される人間像」の典型であったかがわかろうというもの。でも、泣かせます。

野村無名庵は当時の政府の片棒をかついで、昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度そんたくの人でした。空襲の犠牲となりました。

『落語通談』には、こんなことも記しています。

何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった。

そういう噺、つまりは、悪くない噺なんですね。

よくわかる日蓮宗

日蓮が開いた、鎌倉新仏教のひとつです。

最高の教えは「法華経」にある、というのが日蓮の教えです。

「南無妙法蓮華経」と唱える宗派です。題目ですね。

後醍醐天皇からは、法華宗という名称をいただきました。

鎌倉新仏教の特徴は「易行いぎょう」です。

修行や教えがわかりやすくてカンタン、ということ。

女性や一般人にも、手を差し伸べたのです。

とはいえ、当時の人々からは胡散臭うさんくさく思われていたようです。

信者が増えたのは応仁の乱以降。

死が日常的になった頃からでした。

次第に大きくなって、江戸時代にはものすごい勢力となっていました。

当時は、法華、法華宗などと呼ばれてたものです。

法華のライバルは、念仏宗。

これは、歌舞伎や落語ではお決まりの知識です。

念仏宗とは、「南無阿弥陀仏」という、念仏を唱える宗派のこと。

浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などが、念仏宗と呼ばれていました。

江戸の町では、法華と念仏が、信者獲得に必死でした。

「宗論」は、両宗派の対立が噺になっています。

法華の各宗派が束になって「日蓮宗」となったのは、明治5年(1872)のこと。

その後、紆余曲折あって名称が変更に。

「宗教法人・日蓮宗」となるには、昭和16年(1941)まで待たねばなりませんでした。

日蓮宗、歴史的には新しい名称だったのですね。

目からウロコの総本山、大本山、本山

日蓮宗の寺格はこんなかんじです。寺格とは、宗派内の寺の等級のこと。

宗派最高の寺院は、身延山久遠寺で、総本山とされています。山梨県にあります。

ここの住職は、法主と呼ばれます。

その下に、日蓮や日蓮宗に関わりの深い重要な寺院として、大本山があります。

大本山は、以下の七寺院です。

誕生寺たんじょうじ(千葉県)

清澄寺せいちょうじ(千葉県)

中山法華経寺なかやまほけきょうじ(千葉県)

北山本門寺(静岡県)

池上本門寺(東京都)

妙顕寺みょうけんじ(京都府)

本圀寺ほんこくじ(京都府)

日蓮の出身地が房総半島だったからか、圧倒的に関東に集中しているのがわかります。

大本山の下には由緒寺院があって、これは42寺院あります。

「堀の内」で有名な妙法寺は、由緒寺院に入ります。

ほかに霊跡寺院があって、これは大本山の7寺院と由緒寺院の7寺院の計14寺院が、そう呼ばれています。。

妙法寺のホームページには「本山」とあります。

総本山→大本山→本山の序列です。

由緒寺院はすべて本山です。

霊跡寺院には大本山が7寺院、本山が7寺院あります。

ということは、本山は計49寺院ある、ということになります。ややこしいです。

意外なかんじ、著名な信者

日蓮宗は、いまでは約5200寺、信者は330万人を抱えます。

信者を檀越と呼びます。「だんのつ」「だんおつ」と呼びます。

有名な檀越は、ざっと思いついても、以下のような方々があげられます。

狩野永徳(1543-90)

長谷川等伯(1539-1610)

葛飾北斎(1760-1849)

太田南畝なんぽ(1749-1823)

橋本雅邦(1835-1908)

辰野金吾(1854-1920)

石橋湛山たんざん(1884-1973)

芥川龍之介(1892-1927)

宮沢賢治(1896-1933)

美空ひばり(1937-1989)

芸人や芸者には多く、珍しくもありません。たとえば。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)※晩年の4年間

三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)

二代目古今亭円菊(藤原淑、1929-2012)

三代目三遊亭円歌(中沢信夫、1932-2017)

とまあ、数え上げたら、きりないほど。

【語の読みと注】
薪雑把 まきざっぱ まきざっぽう:切ったり割ったりした薪。まき。

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おせつとくさぶろう【おせつ徳三郎】落語演目

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【どんな?】

日本橋の大店の娘と手代が相思相愛。木場まで逃げて、身投げして……。

法華の信者ならすぐわかる、オチは「鰍沢」と同じフレーズです。

 別題:隅田の馴染め(改作、または中のみ) 花見小僧(上のみ) 刀屋(下のみ) 

あらすじ

日本橋横山町の大店おおだなの娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつのお供をして向島まで花見に行った丁稚(小僧)の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという話が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のご大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにしたという。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに。かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えは止めてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思い止まったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の席から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎だっとのごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追手が追っていて、切羽つまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下はいかだが一面にもやってある。

その上に落っこちた。

「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(=題目)で助かった」

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しりたい

なりたちと演者など  【RIZAP COOK】

もとは、初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)がつくった人情噺です。

長い噺なので、古くから上下、または上中下に分けて演じられることが多いです。

小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)が、「隅田すみだ馴染なれそめ」としてくすぐりを付け加えて、改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が叔父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされます。

普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して、しばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、以下のものが残っています。

原作にもっとも忠実なのは、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)。

「上」のみでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のもの(「恋の仮名文」、明治23年)、初代円遊のもの(「隅田の馴染め」、明治22年)。

「下」のみでは、二代目三遊亭新朝(山田岩吉、?-1892)のもの(明治23年)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)のもの、など。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木で助かった」は父親のセリフになっています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)も、「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型です。

現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

先の大戦後では、六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も得意にしていました。

円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものなどが、傑出していました。

馬生の「おせつ徳三郎」では、筏に落ちたおせつが、これじゃ死ねないから水を飲めば死ねるとばかりに、水をすくい「徳や、おまえもお上がり」と終わっていました。

これはこれで、妙におかしい。

現在は、この終わり方の師匠も少なからずいます。

柳家喬太郎の「おせつ徳三郎」では、本当に心中させています。

「お材木で」のオチが流布さ尽くしたことへのはねっかえりでしょうか。

予定調和で聴いている方は裏切られます。二人の愛の昇華は心中なのでしょうし。

本当に死んじゃうのもたまにはおもしろい、というかんじですかね。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多いです。

「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外ではあまり単独口演されません。

村松町の刀屋  【RIZAP COOK】

この噺のとおり、日本橋村松町と、向かいの久松町(中央区東日本橋一丁目)には刀剣商が軒を並べていました。

喜田川守貞の『守貞漫稿もりさだまんこう』に
「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」
とあります。

喜田川守貞(1810-?)は、大坂生まれ、江戸で活躍した商人。

江戸との往来でその差異に興味を抱き、風俗考証に専心しました。砂糖商の北川家を継ぎ、深川に寓居をいとなみました。

『守貞漫稿』は上方(京と大坂)と江戸との風俗や民間諸事の差異を見聞で収集分類した珍書。江戸期ならではといえます。

明治41年(1908)に『類聚近世風俗志』という題で刊行されました。岩波文庫(全5冊)でも『近世風俗志』で、まだかろうじて手に入ります。

明治41年となると、江戸の風情がものすごいスピードで東京から消え去っていた頃です。人は消えるものをいつくしむのですね。

徳三郎が買おうとしたのは、二分と二百文の脇差わきざしです。

深川・木場の川並  【RIZAP COOK】

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。

大小の材木問屋が軒を並べたました。

掘割ほりわりに貯材所として常時木材を貯え、それを「川並かわなみ」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて筏に組んで運んだものです。

法華の信者  【RIZAP COOK】

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。

江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず「法華」という呼び名の方が一般的でした。

日蓮が宗祖となる宗派は、「法華経」を唯一最高の経典と尊重したからです。

天台宗も「法華経」を尊崇していましたから、天台法華宗とも呼ばれていました。

その呼称にならって、日蓮の法華宗のほうは、日蓮法華宗とも呼ばれていました。

現在のように「日蓮宗」という宗派名が使われるようになるのは、明治初年に入ってからです。

江戸時代には浄土宗とは因縁の対立(営業上の競合ともいえます)が続いていました。

題目(法華系)と念仏(浄土系)との競合は、落語や川柳でのお約束のひとつです。

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ほっけながや【法華長屋】落語演目

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【どんな?】

法華とは日蓮宗のこと。

江戸の町では、浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴら。

結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となった。

これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬を始め、初代三遊亭円右、初代柳家小せん、四代目春風亭柳枝、八代目桂文治と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、戦後は六代目円生がたまに演じたのを最後に、まったく継承者がいません。一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。戦前はもちろんそうでしたが、戦後でも昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の宗教家がなにやかやと寄稿していました。それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。

そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。

浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華の噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。

明治29年(1896)、妻の勧めもあって円朝は日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。

水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りました。

汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。オリジナルはインドの神です。

バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神・ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。

太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。

楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。

「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。

それが他宗派と大きく異なるところです。

きわめて日本的なのかもしれません。

摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。

「下谷摩利支天」というのは寺の俗称です。

正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。

摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。

かつては下総の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。

台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。

この寺のすごいことは、上野の戦争でも震災でも空襲でも焼失しなかったこと。

よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。

厄除けの寺として信仰を集めています。

つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているわけですね。

江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越だんのつ(信者)が多かったということですね。

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なかむらなかぞう【中村仲蔵】落語演目

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古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック  

【どんな?】

役者が主人公の噺。法華信仰が見える噺でもあります。芝居と信仰の濃い関係。

別題:蛇の目傘

あらすじ

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。

山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、
「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」
と、女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。

めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

1736-90年。江戸中期の名優です。

屋号は栄屋、俳号は秀鶴しゅうかく。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。

器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎きねやきさぶろうの娘おきしと結婚。

努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園りえんの身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。

実録では、立作者の金井三笑かないさんしょうに憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。

仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。

特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。

その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。

つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下どうかんやました通り稲荷森とうかもり(とうかもり)とあります。

仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧あさお山岡頭巾やまおかずきん脚絆草鞋きゃはんわらじの従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時このときより始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎だんじゅうろうとの人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾しそうする(けしかける)設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんながおもしろそうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺れんじゃく(背につけて物を担ぐ道具)で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(浪上義三郎、1866-1944)の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社、1998年)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

当時の役者は、下立役したたちやく/rt>(=稲荷町いなりまち)→中通り→相中あいちゅう相中上分あいちゅうかみぶん名題下なだいした名題なだいと、かなり細かく身分が分かれ、芝居系統のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

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せいしょうこうさかや【清正公酒屋】演目

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【どんな?】

宗旨違いの家の男女の色恋。

落語版「ロミオとジュリエット」。だから、やっぱり陽気なんです。

別題:縁結び浮き名の恋風

あらすじ

酒屋の肥後屋の若だんなで一人息子の清七と、向かいの菓子屋・虎屋の娘お仲は恋仲だが、両家は昔から仲が悪く、二人は許されない恋。

それというのも、もともと宗旨が一向宗と日蓮宗、商売が酒と饅頭で、上戸と下戸。

すべての利害が対立している上、肥後屋は清正公崇拝で、その加藤清正は毒饅頭で暗殺されたという俗説があるから、なおさらのこと。

もう一つ、虎屋だけに、虎退治の清正とは仇同士。

というわけで、とんだロミオとジュリエットだが、この若だんな、おやじの清兵衛に、お仲を思い切らないと勘当だと、脅かされてもいっこうに動じない。

勘当はおやじの口癖で聞き飽きているし、こっちは跡取りで、代わりがいないというバーゲニングパワーもある。

思い切れませんから勘当結構、さっそく取りかかりましょうと開き直られると、案の定おやじの旗色が悪い。

結局、お決まりで番頭が中に入り、清七の処分は保留、「未決」のまま、お仲から隔離するため、親類預けということになった。

そうなると虎屋の方も放ってはおけず、お仲も同じく親類預け。

二人は哀れ、離れ離れで幽閉の身に。

ところが抜け道はあるもので、饅頭屋のお手伝いと、酒屋の小僧の長松が、こっそり二人の手紙を取り次ぐ手はずができた。

ある日、お仲から、夜中にそっと忍んで来てくれという手紙。

若だんなは勇気百倍、脱走して深夜、お仲を連れ出す。

結局駆け落ちしかないというので、二人は手に手を取って夜霧に消えていく。

しかし、しょせん添われぬ二人の仲。

心中しようと決まり、ここで梅川忠兵衛よろしく、
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
とくればはまるのだが、あいにく男の宗旨は法華(日蓮宗)。

「覚悟はよいか」
「南無妙法蓮華経」
……いやに陽気な心中となった。

ナムミョウホウレンゲッキョウナムミョウホウレンゲッキョと蛙の交配期のようにデュエットし、にぎやかに水中へドボン……その時突如、ドロドロと怪しの煙。

ここで芝居がかりになり、
「やあ待て両人、早まるな」
「こは、いずこの御方なるか」
「おお、我こそはそちが日ごろ信心なす、清正公大神祗なるぞ」
「ちぇー、かたじけない。この上は改宗なしたる女房お仲の命を助けてくださりませ」
「イヤ、たとい改宗なしたりとも、お仲の命は助けられぬわ」
「そりゃまた、なぜに」
と聞くと清正、ニヤっと笑って
「なあに、オレの敵の饅頭屋だから」

底本:六代目桂文治

しりたい

宗派対立  【RIZAP COOK】

江戸時代の基本的な知識として、法華系(日蓮宗など)と念仏系(浄土宗、浄土真宗、時宗など)との宗派同士の対立がつねにあった、ということです。

江戸の町内でもことあるごとに諍いが絶えませんでした。

これは、念仏系では穢土と浄土との二元的な救われ方に比べて、法華では法華経以外では絶対救われないという一元的な見方が原因です。

お互い、相容れられない考え方なのです。

清正公さま  【RIZAP COOK】

せいしょうこうさま。縮めて「セイショコさま」とも呼んでます。戦国時代の英傑・加藤清正の霊を神として祀ったものです。

武運・金運をつかさどりますが、清正が法華宗の信徒だったところから法華(日蓮宗)信者の信仰を集めました。

江戸はほかの地方に比べて法華の宗旨が多く、「法華長屋」「甲府い」「鰍沢」「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」など、落語にも法華の登場する噺はたくさんあります。

江戸の清正公(清正公神祇、清正公大神祇)は2か所あります。

一つは浜町の清正公で、現在の中央区日本橋・浜町公園内。寺の名前は「清正公寺」といいます。意外に新しく、文久元年(1861)の創建です。

この地には熊本藩細川家の下屋敷がありました。藩主細川斎護が熊本の本妙寺に安置する「加藤清正公」を勧請(神仏霊のおすそわけ)して分霊とし、下屋敷内に清正公として祀りました。

明治になってからは「加藤神社」と称した時期もありましたが、明治18年(1885)に「清正公堂」と改められて、管理を本妙寺に委託しました

。関東大震災で焼失し、震災後につくられた浜町公園内に移されました。戦災でもまたも焼失して、戦後、新たに再建されました。

この噺に登場するのはこちらです。「浜町の清正公さま」のほうです。おまちがいのなきよう。

もう一つは港区白金の覚林寺境内に祀られる「白金の清正公」で、こちらが本家とされます。

清正の画像、ゆかりの品を所蔵していますが、こちらも細川家の白金の中屋敷がすぐ近くで、同家は清正の加藤家が国替え(のちお取りつぶし)後、後釜に肥後熊本に封じられたため、清正の霊を慰める意味もあり、清正公神祇を手厚く庇護したといいます。

中世に形成された神仏習合の流れに、「法華神道」といわれる信仰がありました。

日蓮宗の教えと神道が結びついた信仰形態です。崇める対象に日本の神さまや人物が入ってきますが、その中に清正公神祇がありました。

寺院の境内の中に祠をこさえ、柏手を打って祈るのです。江戸時代の平和な時間の中で「清正公さま」はこのような形に収まっていきました。

慶応4年(1868)3月、明治政府は神道国教化の一環として、神仏判然令を出し、神仏分離を急速に推し進めました。

それまでの日本国内にはたしかに、神仏が融合したよくわからない神社仏閣がたくさんあったのですが、政府の方針は短兵急でした。

この流れの中で、浜町の清正公さまは神社になったり寺院になったりと、揺れ動いたのですね。

暗殺伝説に由来する噺  【RIZAP COOK】

豊臣家の支柱であった加藤清正が慶長16年(1611)、徳川家康の手により、毒饅頭(毒酒説も)で暗殺されたという俗説に基づいて作られた噺です。

オチは文字通りダジャレで、アン殺されたから饅頭が天敵、というわけ。このフレーズ、ドラマ「タイガー&ドラゴン」でも使われてました。

明治期に六代目桂文治が「縁結び浮き名の恋風」の題で得意にしました。この題名は、芝居噺が得意だった文治が、後半の道行きの部分を芝居噺仕立てにしたためです。

その後、八代目文治、四代目柳家つばめ、戦後も六代目三升家小勝が手掛けましたが、其の後は立川談志が手掛けたぐらいで、残念ながら忘れられかけた噺といっていいでしょう。

なんせこの噺、かつての「東京かわら版」発行の『寄席演芸年鑑』索引にも「せ」でなく、「き」の部で載っていたくらいですから。

お題目のデュエット  【RIZAP COOK】

心中場面のこのくすぐりは、「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」にも取り入れられています。どれが「本家」かはわかりませんが。

【語の読み】
清正公 せいしょうこう
本妙寺 ほんみょうじ
覚林寺 かくりんじ

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ほりのうち【堀の内】落語演目

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粗忽噺。法華宗(つまり日蓮教団)がらみの。ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。

あらすじ

粗忽者の亭主。

片方草履で、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

しりたい

小ばなしの寄せ集め  【RIZAP COOK】

粗忽(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

上方版「いらちの愛宕詣り」  【RIZAP COOK】

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま  【RIZAP COOK】

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗(江戸時代は法華宗と呼んでいました)の名刹です。「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でしたが、元和年間(1615-24)に日円上人が開基して法華宗(日蓮教団)に改宗。明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

法華宗の本気度  【RIZAP COOK】

「開帳」とは、厨子(仏像を安置するケース)のとばりを開いて、中に納められた本尊の秘仏を拝ませることです。地方の由緒ある寺院が江戸に出向いて開帳するようなことを「出開帳」と呼びました。今の美術館などでの展覧会のような催しです。もちろん、「開帳」の第二義は、「女性の腰巻があらわになること」ですが、これはまた別の機会に。

法華宗(日蓮教団)の出開帳は、宝永2年(1705)の京都・本圀寺の江戸出開帳が最初だそうです。『武江年表』などで見ると、この年から明治6年(1873)までに行われた出開帳は131件だったそうです。これは、出開帳全体の約半分だったとか。開帳の中身の約6割は、日蓮の肖像、つまり祖師像だったといいます。

これで法華宗の諸寺は何を示すかといえば、厄除け祖師といったように、厄除け、開運、火除け、延命、子安、日切り願満などを掲げました。法華宗は他宗派と違って、期限の通例60日を延長するすることも、人寄せのため境内に見世物小屋などを設けることもせず、それでも参詣者は集うたといわれます。法華宗(日蓮教団)を無視して江戸の町は語れません。

参考文献:日本思想大系34『近世仏教の思想』月報所収「近世日蓮教団の祖師信仰」(高木豊)

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