【どんな?】
江戸の商人が身延参詣の帰り。
吹雪で宿を借りたら命狙われた。
毒を盛られいやはや雪中逃避行。
続編は「晦の月の輪」で。円朝噺。
別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊 参照噺:鰍沢二席目
【あらすじ】
おやじの骨を甲州の身延山久遠寺に納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。久遠寺は日蓮宗の本山だ。
帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目を唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。
上総戸を開けて出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。
ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。
家の中は十間ほどの土間。
その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。
猟師の家とみえる。
こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。
それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。
「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」
男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。
ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。
心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。
廓の掟で晒された後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋に売って細々と生計を立てている身。
「おまえはん、後生だから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。
「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。
もと花魁、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船。
お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。
入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。
戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。
体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。
亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。
「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省になる。
客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。
一方、別間の新助。
目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。
それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。
幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。
急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。
後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。
亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。
雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。
いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。
たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。
弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。
「ああ、大難を逃れたも、お祖師さまのご利益。たった一本のお材木(=題目)で助かった」
底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬
【しりたい】
三題噺から創作 【RIZAP COOK】
三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の作。
幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しました。この噺は、円朝がそのような席で「小室山の御封」「玉子酒」「熊の膏薬」の三つのキーワードから即座にまとめたものです。
三題噺からできた落語では、円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。
原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島が危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。
というのは、これまでの通説でした。最近の研究ではちょっと違ってきています。以下をお読みください。
文久年間に「粋狂連」のお仲間、河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。
歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を話材に取り上げることが多々ありました。
黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺です。
興行で提携していた四代目市川小団次(栄次郎、1812-66)こそが法華信心(日蓮宗系)の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。
このころの円朝は、異父兄・玄昌の住持する日暮里の南泉寺(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮系とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。
ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と法華信心(日蓮、題目系)との信心対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。
円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派を噺に取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。
江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。この噺もご多分に漏れなかったようです。
「鰍沢」と名人たち 【RIZAP COOK】
円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素噺一本で名人に上り詰めました。
「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。
円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。
明治の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の迫真の名演は今も伝説的です。
明治22年(1888)6月20日刊『百花園』には四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が「鰍沢雪の酒宴」という題で残してあります。このあらすじでは、これもテキストの一部に使いました。
近年では八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に正統が伝わり、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も晩年好んで演じました。
元の形態の芝居噺としては、彦六が特別な会で復活したものの、門弟の林家正雀(井上茂、1951-)に継承されたほかはやり手はいないようです。
志ん生の「鰍沢」 【RIZAP COOK】
志ん生は、自らが円朝→円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、「円朝全集」(春陽堂版)を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。
志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたい出来です。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのでしょう。
音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。
続編は「晦の月の輪」 【RIZAP COOK】
歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編らしきものが「鰍沢二席目」です。
正式には「晦の月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。
毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃の明神峠で追い剥ぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てです。
明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波書店版『円朝全集』別巻2に収められています。
鰍沢とは 【RIZAP COOK】
現在の山梨県南巨摩郡鰍沢町。甲州は甲斐国(山梨県)。東海道から甲府に至る交通の要衝です。
古くから富士川沿いの川港として物資の集積点となり、栄えました。
「鰍沢の流れ」は富士川の上流のことです。
東海道岩淵在は現在の静岡県庵原郡富士川町にあたります。
「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついています。
「おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。
晒し刑 【RIZAP COOK】
男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺や亀有の善応寺などの投げ込み寺に葬られました。
どちらかが生き残った場合は下手人の刑として処刑されました。
両方とも生き残った場合は、日本橋南詰東側に三日間、晒し刑にされました。
これは悲惨です。
縄や竹などで張られた空き地に、萱や棕櫚などで葺いた三方開きに覆いの中に筵を敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦みといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。
物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。
江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。
日本橋 馬鹿をつくした 差し向かい
江戸のまん中で わかれる情けなさ
死すべき時 死なざれば 日本橋
日本に 死にそこないが 二人なり
日本橋 おしわけてみる 買った奴
四日目は 乞食で通る 日本橋
吉原の 咄をさせる 小屋頭
「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。
吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。
「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。
浅草では車善七、品川では松右衛門と決まっていました。
吉原で遊女をしていた頃の話を根掘り葉掘り聞こうとする非人頭も、ずいぶんといやらしい了見です。
そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。
彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。
上総戸
かずさど。粗末な板戸のこと。上総国は千葉県中部一帯です。「上総」を冠する言葉にはほかに、上総節、上総部屋、上総木綿などがあります。
上総節は、「上総節のツツテンはさわぎの中にうれひをあらわし」(面美多動身、郭通交、寛政二)とあって、にぎやかな調子ながらもどこか切なさを感じさせる、今風にいえば、サンバやボサノヴァのような曲調だったようです。
ちなみに、寛政年間は松平定信の改革が厳しくて、吉原が弾圧を受けて閑古鳥だったために深川が新しい遊里として栄えた時期でした。「面美多動身」は「おもいたつみ」と読ませて、その頃の江戸の東南である深川を描いた洒落本です。ここを俗に「たつみ」と呼びます。「郭通交」は文人気取りながら、「くるわがよい」を自認した通人。この時期は「粋」の美意識がばかばかしくも異様なほどに研ぎ澄まされた頃。その頃を代表する作品です。
上総部屋は、大名屋敷に巣食う中間や小者がたむろする大部屋のこと。上総出身者が多かったからのようです。小者は武家の雑役をこなす下僕ですが、狭義には中間より格下に、広義には中間と同じくくりで見られています。足軽、若党→中間→小者の順で格が下がっていきます。中間や小者は折助とも呼ばれました。
上総木綿は、上総国でつくられた木綿のこと。丈が短いのが特徴だったため、「上総木綿で丈なし」「上総木綿で情がない」などと言って、深川遊里のはやりことばでした。
上総戸、上総節、上総部屋、上総木綿と、どれをとっても、粗末、粗品、劣性といったマイナスイメージを抱かせる熟語となっています。もっとも、江戸の人から見た偏見にすぎません。江戸の人からすれば、常陸も上総も相模も同じような低質で俗悪な世界だったわけです。まことのひどいもんですが、ここが理解できないと江戸文化なるものはどうもわかりにくくなります。
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