つくだまつり【佃祭】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

【あらすじ】

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

【しりたい】

佃島渡船転覆事件

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入の渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

さかのぼれば実話

中国明代の説話集『輟耕録』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

円喬、志ん生、金馬

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残ります。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

竜神は梨好き

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野県長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭(淙庵、?-1806)は随筆『譚海』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりませんが、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨に目がないことだけは、確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

佃祭

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

本所一ツ目橋

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

【語の読みと注】
輟耕録 てっこうろく
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:江戸町奉行、肥前守
折敷 おしき

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

代脈 だいみゃく 演目

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

寄席草創期の古い噺。昨今のパンデミック風潮に好機の医療ものかも。

【あらすじ】

江戸中橋の古法家である尾台良玄は名医として知られていた。

弟子の銀南は師に似つかわぬ愚者で色情者。

ある日のこと。

良玄が、病に伏せている蔵前の大店、伊勢屋のお嬢さまのもとに代脈に行くよう、銀南に命じた。

銀南は、代脈を材木と聞き違え
「かついでまいりますか、しょってまいりますか」
と尋ねるほどのまぬけぶり。

良玄「この間のこと、お嬢さまはどういう具合かひどく下っ腹が堅くなっておった。しきりに腹をさすって、下腹をひとつグウと押すと、なにしろ年が十七で」
銀南「へえ」
良玄「プイとおならをなすった。お嬢さまがみるみるうちに顔が赤くなって恥ずかしそうだ。そこは医者のとんちだ。そばの母親に『陽気のかげんか年のせいで、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くなっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声でいってくださいまし』と話しかけて、お嬢さまを安心させた。そんなことにならぬよう、下腹などさわるでないぞ」

良玄は十分に注意を与え、銀南を若先生ということにして、代脈に行かせた。

銀南は伊勢屋でしくじりを重ねたあげく、手、舌などを見る。

しまいには、お嬢さまの下腹を押してしまう。

「プイッ」

お嬢さまが、みるみる赤い顔に。

銀南は良玄をまねて
「どうも年のせいか四、五日耳が遠くなって」
とやったはいいが、手代に
「大先生も二、三日前にお耳が遠いとおっしゃってましたが、若先生も」
といわれ、銀南は
「いけないとも。ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

大看板好み与太郎噺

文化年間(1804-18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

銀南は医者見習いというものの、実態は与太郎そのもの。昔から、ごく軽い与太郎物として扱われ、前座・二つ目の修行噺でもあるのですが、受けるネタだからか、大看板も多く好み、現在もよく高座に掛けられます。

古くは、明治45年(1912)の四代目柳家小三治(のち二代目柳家つばめ)や初代柳家小せんの速記があります。戦後では、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さんの大立者が音源を残しています。

昭和56年(1981)4月、文京区千石にあった三百人劇場での「志ん朝七夜」で演じた「代脈」は圧倒的な技量でした。もちろん、古今亭志ん朝のこと。どの師匠のよりも、吹っ切れた明るさとスピード感、冴えた舌耕で、客席を笑いの渦に巻き込んでいました。

実話、屁の功名

後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医、曲直瀬道三(1507-94)の逸話を脚色した寛文2年(1662)刊『為愚癡物語』巻三の「翠竹道三物語りの事」、さらにそれを笑話化した元禄10年(1697)刊『露鹿懸合咄』巻二の「祝言」です。

後者は、道三がさるうつ病の姫君を診察した際、姫が一発やらかしたので、音が自分の耳に入ったと知ればいよいよ落ち込んで薬効もなくなると機転を利かせ、耳が遠くなったので筆談で症状を言うように仕向けて見事精神的ケアに成功、本復させたというものです。良玄の自慢話そのものですが、してみると、これは実話を基にしていることになります。

銀南が代脈に行かされる前半の原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』二編中の「代脈」です。

これは、あらすじでは略しましたが、銀南が駕籠の中で寝込んでいるところを、病家の門口で駕籠屋に起こされ、寝ぼけて「ドーレ」と言うくすぐりがあり、その部分のほぼそのままの原型です。

古法家

概して漢方医のことですが、特に、漢や隋代の古い医学書に基づいて治療を行う、保守的な学派の医者を指します。これに対し、元代に起こった、比較的新しい漢方医学を標榜する医者を後世家と呼びました。

中橋

いまの東京駅八重洲中央口あたりです。昔はこのあたりに楓川の掘割があり、日本橋の大通りと交差するところに中橋が架かっていました。掘割が安永3年(1774)に埋め立てられると同時に橋も廃され、一帯の埋立地に中橋広小路町が形成されました。

中橋の橋詰は、寛永元年(1624)、猿若勘三郎が初めて芝居の興行を許された、江戸歌舞伎発祥の地でもあります。

【語の読みと注】
古法家 こほうか:漢方医
曲直瀬道三 まなせどうさん
後世家 こうせいか

スヴェンソンの増毛ネット

お茶汲み おちゃくみ 演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。なんだかまぬけなんですがね。

【あらすじ】

吉原から朝帰りの松っあんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したが、女は松っあんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になった。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨の礫。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

原作は狂言

大蔵流狂言「墨塗」が原典です。

これは、主人が国許へ帰るので、太郎冠者を連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬深い愛人のところへ暇乞いに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋になすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里狂いが過ぎて勘当されかかった若だんなが、罰として薩摩の国の親類方に当分預けられるので、なじみの女郎に暇乞いに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶がらに代えた「涙の茶」。これを初代柳家小せんが明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに活写。現行の東京版「お茶くみ」が完成しました。やれやれ、ご苦労さま。

小せんから志ん生へ

廓噺の名手で女遊びが過ぎて失明した上、足が立たなくなったという初代小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生が直伝で継承。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(=二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎としていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の志ん朝のものがCD化されていましたが。桂歌丸、柳家小三治のものが出ています。

本家の「黒玉つぶし」の方は、戦後、上京して上方落語を演じた桂小文治が得意にしていました。

歌舞伎でも

実は、「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平定文(通称・平中)の逸話中にすでにあるといわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜』の「鮨屋」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎以来の音羽屋の型です。

これは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の初代小せんの速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょうが、明治末から大正初期で、大見世では揚げ代のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
梨の礫 なしのつぶて
軽口五色帋 かるくちごしきがみ
田毎 たごと

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

近江八景 おうみはっけい 演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

うんちく垂れ流しのはなし。ちょいとオチが苦しいですが、けっこう笑えます。

【あらすじ】

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

★auひかり★

【しりたい】

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。上方落語研究家の故・宇井無愁は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」を挙げています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝が手掛け、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西の正蔵、1929年没)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以後では、六代目三遊亭円生が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。三代目三遊亭金馬、五代目三升家小勝もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところですが、じつは古今亭志ん朝がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘
石山の秋月
堅田の落雁
粟津の晴嵐
矢橋の帰帆
比良の暮雪
唐崎の夜雨
瀬田の夕照

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。

「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。

「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。

「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する人情噺「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目円生は『円生全集別巻』の補説で、あるいはこの噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。江戸時代、当時の領主中山信敬が儒者亀里亀章に選ばせたものだそうですが、元ネタがあるのでそれに見合った場所を選定するだけの労力で済みます。

竜子の晴嵐
二本松の秋月
関根の夕照
永田の落雁
能仁寺の晩鐘
天南堂の暮雪
荒崎の夜雨
高戸の帰帆

元祖「瀟湘八景」のパクリです。こんなが日本中いたるところにあり、今では饅頭や最中なんかが販売されています。経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。湖南省長沙市のあたりです。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

【語の読みと注】
算木 さんぎ:易で使う四角の棒。約9cm、6本でセット
筮竹 ぜいちく:易で使う竹ひご状の棒。35cm~55cm、50本でセット
沢火革 たくかかく:易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済 すいかきせい:易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸 くつのかけ
浮御堂 うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景 しょうしょうはっけい

【古今亭志ん朝 近江八景】

★auひかり★

文七元結 ぶんしちもっとい 演目

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

スヴェンソンの増毛ネット

酢豆腐 すどうふ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【RIZAP COOK】

江戸から上方へ行って「ちりとてちん」に。キザ者を茶化す悪ふざけが過ぎます。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若だんな、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてえものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の「大通法語」に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の「文藝倶楽部」に掲載された初代柳家小せんの速記から、若だんなの洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げえせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊「聞上手」中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生、古今亭志ん朝が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別演出で、石けんを食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵から、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬に伝わっていました。「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石けんで……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目小さん門下だった初代柳家小はんが豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。大阪に移植され、古くは三代目林家菊丸が得意にしたほか、初代桂春団治も得意にしました。

東京では五代目柳家小さん、桂文朝などがこちらで演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

【語の読み】
乙 おつ
簪 かんざし
江戸生艶気樺焼 えどうまれうわきのかばやき
拙 せつ

【RIZAP COOK】

水屋の富 みずやのとみ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

水を売る小商いが富くじに当たったという噺。さて、どうなることやら。

【あらすじ】

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

江戸の「水」事情

江戸時代、本所や深川などの、水質が悪く井戸水が使えない低湿地帯では、天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていました。

水売りとも呼ばれたこも商売、狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもならず、しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあり、水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運んで、それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで得意先の客に売り歩いたものです。

水売り

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていましたが、こちらは今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち

原話は明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」などで、いくつかの小咄をつなぎあわせてできた噺です。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがり、オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げするというもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられましたが、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?

「水屋の富」には、運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学の影響が見られるといわれます。「天災」参照。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきませんし、この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズム的な異様さを感じる人も少なくないと思います。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。それよりそんな悪知恵も、金を活かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。してみると、結局これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生描く江戸の「どん底」

三代目柳家小さんの十八番でしたが、戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かし、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。結局、哀しい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はないようです。

富くじ

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。「宿屋の富」参照。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺などで、当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でしたが、この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。今の宝くじを想像していただければよろしいかと思いますが、明治になって廃止となり、戦後まで日本の社会では絶えていました。この制度、じつは不思議なものです。

井戸の茶碗 いどのちゃわん 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

善人、正直者同士の意地の張り合い。いい噺です。

別題:茶碗屋敷

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎(ちよだ・ぼくさい)と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべきところに仕官していたが、今では、昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(ばいぼく=易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、
「これを二百文で買ってもらいたい」
と頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫(たかぎ・さだゆう)といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、
「仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ」
と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろう、という噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、
「即刻届けてまいれ」
と言いつけた。

清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、
「売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかない」
と突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒り出したから、清兵衛はあわてて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

「それなら、金と引き換えになにか品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょう」
と、大家が口をきき、
「それでは」
と祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目に止まり、これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清兵衛が佐太夫に、
「あの娘をご新造にして磨いてごらんなさい。たいした美人になります」
「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

底本:五代目古今亭志ん生、三代目春風亭柳枝

【しりたい】

原話は

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝の古い速記(明治24年)が残っていますが、戦後は、古今亭志ん生・志ん朝親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしいです。絶品です。涙が出ちゃいます。落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。これは人情噺といわれていますから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓(いわく)」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

「論語」でおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰め

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間(ちゅうげん)・小者、上に主人が住んでいます。行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜

ところで、この噺では、易者のことを「売卜(ばいぼく)」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。まあ、今では「占」と同じように使っています。「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違(すじかい)御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町(いまいだにまち)といい、現在の港区六本木二丁目。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛

この清兵衛さん、「もう半分」にちょこっと紹介しています。「もう半分」に似た因業・悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい コラム】

三代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24年(1891)にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。ところが、大正期の三代目柳家小さんの「井戸の茶碗」では今の形だ。

鶯亭金升の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目古今亭志ん生が得意とした。次男・志ん朝の「井戸の茶碗」も絶品だった。聴くにつけ、なんだか涙腺が緩んでしまていた。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。この説明は噺には出てこない。聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。小悪党が憎めない「業の肯定」をよしとする落語には珍しい。もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もないのか。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。善意に臭みが漂ってきて聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、千代田卜斎、高木佐太夫、正直清兵衛、三者の一途な猪突が平衡を揺るがす。

(古木優)

【井戸の茶碗 古今亭志ん朝】

二番煎じ にばんせんじ 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

自身番でも飲酒はご法度。江戸時代の常識を踏まえてお楽しみください。

【あらすじ】

火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆が交代で火の番として、夜巡回することになった。

寒いので手を抜きたくても、定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。

そこで月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で酒をのんで待機していることに決めた。

最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。

みな手を出したくない。

宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。

鳴子係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。

誰かが
「火の用心」
と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると低音で
「ひィのよォじん」
と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと
「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」
と新内。

辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、
「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」
と廓の金棒引き。

一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。

一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。

「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」
とはいうものの、それはタテマエ。

酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないだろうと、土瓶の茶を捨てて「薬」を入れ、酒盛りが始まる。

そうなると肴が欲しいが、おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたという。

それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。

一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

辰つぁんの都々逸がとっ拍子もない蛮声で、たちまち同心の耳に届く。

「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」

慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。

「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」

「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」

しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」
「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」

もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまう。

「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

火の番

自身番については、「粗忽長屋」でもふれましたが、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていました。

といっても、それはタテマエで、たいてい、「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。

ところが、この噺はそろそろ物情騒然としてきた幕末の設定ということで、お奉行所のお達しでやむなく旦那衆がうちそろって出勤し、慣れぬ厳冬の夜回りで悲喜こもごもの騒動を引き起こします。

二番煎じ

漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。金気をきらい、土瓶などを用いました。

吉原の火回り

歌舞伎「助六所縁江戸桜」で、序幕に二人の廓の若い衆が、鉄棒を突き、棒先の鉄輪を鳴らしながら登場するシーンを、芝居好きの方ならご記憶と思います。

あれが「金棒ひき」で、火回りの際はもちろん、おいらん道中など、重要なイベントの前にも、先触れとして出ます。

「火の用心、さっしゃりましょう」という掛け声は、吉原に限られていました。

なお、長屋のこうるさい神さん連中が「金棒引き」と呼ばれるのは、火の番が鉄輪をガチャガチャ鳴らして歩くように、町内のうわさをあることないことかまびすしく触れて回ることからきています。

【二番煎じ 古今亭志ん朝】

【RIZAP COOK】

ふなとく【船徳】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

勘当若だんなの噺。船頭にあこがれる道楽の過ぎた野郎は見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛

【あらすじ】

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡(だいます)の二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日。

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将が止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

文楽のおはこ

八代目桂文楽の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若旦那船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生は、前半の、若旦那の船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺は元々、幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊がパロディ化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さんといわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ

(上)勘当された若旦那・徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立に会ったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)ところが、お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず、船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさあん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ?大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中の旦那衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

【船徳 古今亭志ん朝】

いのこりさへいじ【居残り佐平次】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

映画『幕末太陽傳』元ネタ。痛快な廓噺。佐平治とも記し嫌がられ役の代名詞。

【あらすじ】

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散在しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺に任せろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間(たいこもち)顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

居残り

居残りは遊興費に足が出て、一人が人質として残ることですが、そんな商売はありません。ところで、「佐平次」も元々は普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

品川遊郭

いわゆる四宿(ししゅく=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、結核患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、立川談志が「あんな奴にウラを返されたら、後が恐い」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目円生のものだったでしょう。

【居残り佐平次 古今亭志ん朝】

かえんだいこ【火焔太鼓】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

道具屋の噺。古い太鼓がお大名に三百両で売れた。夫婦はびっくりにんまり。

【あらすじ】

道具屋の甚兵衛は、女房と少し頭の弱い甥の定吉の三人暮らしだが、お人好しで気が小さいので、商売はまるでダメ。

おまけに恐妻家で、しっかり者のかみさんに、毎日尻をたたかれ通し。

今日もかみさんに、市で汚い太鼓を買ってきたというので小言を食っている。

なにせ甚兵衛の仕入れの「実績」が、清盛のしびんだの、清少納言のおまるだの「立派」な代物ばかりだから、かみさんの怒るのも無理はない。

それでも、買ってきちまったものは仕方がないと、定吉にハタキをかけさせてみると、ホコリが出るわ出るわ、出尽くしたら太鼓がなくなってしまいそうなほど。

調子に乗って定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がする。

それを聞きつけたか、赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家臣らしい身なりのいい侍が「コレ、太鼓を打ったのはその方の宅か」。

「今、殿さまがお駕籠でお通りになって、太鼓の音がお耳に入り、ぜひ見たいと仰せられるから、すぐに屋敷に持参いたせ」

最初はどんなお咎めがあるかとビビっていた甚兵衛、お買い上げになるらしいとわかってにわかに得意満面。

ところがかみさんに
「ふん。そんな太鼓が売れると思うのかい。こんなに汚いのを持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋。当分帰すな』てんで、庭の松の木へでも縛られちゃうよ」
と脅かされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出される。

さすがに心配になった甚兵衛、震えながらお屋敷に着くと、さっきの侍が出てきて
「太鼓を殿にお目にかけるから、暫時そこで控えておれ」

今にも侍が出てきて「かようなむさい太鼓を」ときたら、風のようにさっと逃げだそうと、びくびくしながら身構えていると、意外や意外、殿様がえらくお気に召して、三百両の値がついた。

聞けば「あれは火焔太鼓といい、国宝級の品」というからまたびっくり。

甚兵衛感激のあまり、百五十両まで数えると泣きだしてしまう。

興奮して家に飛んで帰ると、さっそく、かみさんに五十両ずつたたきつける。

「それ二百五十両だ」
「あァらま、お前さん商売がうまい」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょうめ。それ、三百両だ」
「あァら、ちょいと水一ぱい」
「ざまあみゃあがれ。オレもそこで水をのんだ」
「まあ、おまえさん、たいへんに儲かるねェ」
「うん、音のするもんに限ラァ。おらァこんだ半鐘(はんしょう)を買ってくる」
「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

おジャン

オチの「おジャン」は江戸ことばで「フイになる」こと。江戸名物の火事の際、鎮火するとゆるく「ジャン、ジャン」と二度打って知らせたことから、「終わり」の意味がついたものです。

戦後この噺を専売にしていた五代目古今亭志ん生が前座時分、神田の白梅で聞き覚えた初代三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ってしまい、小僧に叩かせたので、近所の者が店に乱入、道具はメチャメチャで儲けが本当におジャンという「悲劇」に終わっています。

この噺は随所にギャグ満載で、「本物の火焔太鼓は高さ3mを超える化け太鼓だから、とても持ち運びなどできない」という真っ当な批判など、鼻で吹き飛ばすようなおもしろさがあります。

実際、長男の先代馬生がそのことを言うと、志ん生は「だからてめえの噺はダメなんだ!」としかったといいます。

二男の志ん朝は、甚兵衛の人間描写・心理も掘り下げ、軽快さと登場人物の存在感では親父まさりの「火焔太鼓」に仕上げて、後世に残しました。

火焔太鼓の急所

最後の、甚兵衛がこれでもかと金をたたきつけ、神さんが逆にひっくり返るところがクライマックスでしょう。

志ん生独自の掛け合いのおもしろさ。「それ百両だ」「あーら、ちょいと」「それ百五十両だ」「あーら、ま」

畳み掛けるイキは無類。志ん朝だと序幕でかみさんの横暴ぶりを十分に強調してありますから、この場は、何年も耐えに耐えてきた甚兵衛のうっぷんが一気に爆発するようなカタルシスがあります。

火焔太鼓のこばなし

まだまだ無数にあります。まずは一度聞いてみてください。

その1

(太兵衛=甚兵衛)「金は、フンドシにくるんで」

(侍)「天下の通用金を褌にくるむやつがあるか」

(太)「どっちも金です」

                        (遊三)

その2

(甚兵衛)「この目を見なさい。馬鹿な目でしょう。これはバカメといって、おつけの実にしかならない」


(志ん生)

その3

(甚兵衛)「顔をごらんなさい。ばかな顔してるでしょ。あれはバカガオといって、夏ンなると咲いたりなんかすンですよ」


(志ん朝)

その4

(かみさん)「おまいさんはね、人間があんにゃもんにゃなんだから、自分てえものを考えなくちゃいけないよ。血のめぐりが悪いんだから、人間が少し足りないんだからって」

                         (志ん生) 

   
世に二つ

実際は、「(せいぜい)世に(一つか)二つ(しかない)という名器」ということですね。志ん生も含め、明治生まれの古い江戸っ子は、コトバの上でも気が短く、ダラダラと説明するのを嫌い、つい表現をはしょってしまうため、現代のわれわれにはよく通じないことが、ままあります。

これを「世に二つとない」と補って解釈することも可能でしょうが、それではいくらなんでも意味が百八十度ひっくり返ってしまうので、やはり前者程度の「解読」が無難でしょう。

【もっとしりたい】

五代目古今亭志ん生が、神田白梅亭で初代三遊亭遊三のやった「火焔太鼓」を聞いたのは、明治40年(1907)ごろのこと。前座なりたてのころだったらしい。

それから約30年後、志ん生はじっくり練り直した「火焔太鼓」を演じる。世評を喝采させて不朽の名作に仕立て上げてしまった。

とはいえ、全編にくすぐりをてんこ盛りにした噺にすぎない。噺の大筋は遊三のと変わっていないのだが。

海賀変哲は、この噺を「全く以ってくだらないお笑いです」と評している。遊三の専売だったそうだ。

遊三のは、太鼓でもうけたあとに半鐘を買ってきて小僧がジャンジャン鳴らしたら、近所の人が火事と間違えて店に乱入。飾ってあった道具はめちゃくちゃに。「ドンと占めた太鼓のもうけが半鐘でおジャンになった」というオチになっている。

五代目桂文楽は、火事のくだりで、懐からおもちゃのまといを取り出して振るという所作をしていたそうだ。大正のころのこと。うーん、こんな芸で受けたのだろうか。

志ん生のは、金を差し出してかみさんを驚き喜ばせるくだりで笑いがピークに達したところで、すーっと落とす筋の運び。見事に洗練されている。

遊三のでは、甚兵衛ではなく銀座の太兵衛だ。お殿さまは赤井御門守、侍は平平平平(ひらたいらへっぺい)。落語世界ではお決まりの面々である。

それを、志ん生は甚兵衛以外名なしで通した。おそらく、筋をしっかり聞いてほしいというたくらみからだったのだろう。

リアリティーなどどうでもいいのだ、この噺には。

火焔太鼓とは、舞楽に使うもの。太鼓の周りが火焔の文様で施されている。一般に、面の直径は6尺3寸(約2m)という。まあ、庶民には縁のなさそうな代物だ。

志ん生の長男・金原亭馬生が「火焔太鼓ってのは風呂敷で持っていけるようなものじゃないよ、おとっつぁん」と詰め寄ったという逸話は、既出の手垢のついた話題だ。

遊三の「火焔太鼓」でも、太兵衛は風呂敷でお屋敷に持参している。志ん生は遊三をなぞっているわけだから、当然だ。考証や詮索にうつつを抜かしすぎると、野暮になるのが落語というもの。

リアリティーを出すために太鼓を大八車に載せては、それこそおジャンだ。この噺の眼目は、別のところにあるのだろうから。

(古木優)

【火焔太鼓 古今亭志ん朝】

おなおし【お直し】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜかガハハ。

【あらすじ】

盛りを過ぎた花魁(おいらん)と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「ケコロ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「ケコロはおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

ケコロ

ケコロというのは、もともと吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。

ただし、吉原のケコロは、江戸の寛政年間(1789-1801)にはもう絶えていたようです。

羅生門河岸

つまり吉原の京町2丁目南側、お歯黒どぶといわれた真っ黒な溝に沿った一角を「本拠」にしていました。

「羅生門」とは、ケコロの女が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の片腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。なんだか、こわごわとしたかんじがしますね。

表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、素っ裸にむいてしまうというオソロシい魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術祭賞を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝のものだったでしょう。

【お直し 古今亭志ん朝】