寄席での月内の興行は、基本的に以下のような具合になっています。
上席(1-10日)、中席(11-20日)、下席(21-30日)。
それぞれ番組を変えたり、協会を交互に替えたりして興行します。
大の月の31日には、その日に特別な興行を行います。
これを「余一会」と呼びます。
いつもと趣向の違う、その日だけのスペシャルな催しをします。
お楽しみです。
収録演目500席超。1席を1000字にギュッと。わかりやすくて深い内容。
慶安2年(1649)-元禄12年(1699)。江戸落語の祖。
江戸で初めて、座敷仕方咄を演じた人とされています。
出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。
上方から江戸に下ってきた人のようです。
鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。
本名は安次郎とかで、職業は塗師。漆塗りの職人でした。
日本橋の堺町や長谷川町(日本橋堀留)あたりの職人町に住んでいました。
人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。
身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。
そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。
江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延し、1万人余りが亡くなりました。
当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。
そのさなか。
「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」
そんな噂がまことしやかに広まったのでした。
もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。
でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。
ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。
頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。
人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。
忖度まじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相(出雲守)は、配下に探索させます。
そしたら、出てきた。
浪人者の筑紫団右衛門と、神田須田町の八百屋惣右衛門の共同謀議だったことが。
主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。
従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。
厳しいお裁きでした。
これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。
取り調べで二人は、こんなことを言っていました。
咄本『鹿の巻筆』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。
咄本というのは、軽口(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。
だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?
『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。
武左衛門は伊豆大島に流罪。
版元の本屋弥吉も江戸追放に。
本は焼き捨てられました。
焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。
とんだとばっちりです。
武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。
いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。
若い頃の武左衛門は、石川流宣と小咄の会なんかをつくって、人気を得ました。
中橋広小路(八重洲)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。
人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。
お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。
町奉行が切歯扼腕したのは、ここのところでした。な、なんでェ?
宇井無愁氏は、こんなふうに解釈しています。
街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。
宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)
なるほど。当局の考えそうなことですね。
ついでに座敷咄なる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。
存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。
その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。
暗黙のご法度となったのです。
江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。
その後、寛政10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。
岡本万作の神田豊島町藁店の寄席。
それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽)による下谷柳の稲荷社境内にも寄席が。
二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。
ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。
江戸時代おそるべし、です。
【蛇足】
「堺町馬の顔見世」
『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。
市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。
伊藤正太夫は、一座の座頭、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。
『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。
鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門という人が『本朝話者系図』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。
ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。
「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたんだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。
参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」
塗師
「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。
「七十一番職人歌合」という歌集があります。明応9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代の頃の歌集です。
べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことできません。
天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、という物合という形式の歌集です。
あの階層の人たちって、病的なほどに暇だったのですね。
その三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。
以下は、詞書き。
よげに候 木掻のうるしげに候 今すこし火どるべきか
よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。
そんな意味合いです。
いつまでも蛤刃なるこがたなのあふべきことのかなはざるらん
しぼれども油がちなる古うるしひることもなき袖をみせばや
このように二首載って、競っているわけです。
歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。
それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。
最後に、以下のような判が下っています。
左右、ともに心詞きゝて面白く聞こゆ よき持にこそはべるめれ
どうということもない文言です。
歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。
右の男は侍烏帽子をかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖に袴。腕をまくっています。
右手には、漆刷毛を持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。
二人が行っているのは、吉野紙の漆漉し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。
漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。
「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。
塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。
これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。
さて、鹿野武左衛門。
これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと喜ばれていたのかもしれませんね。
参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』
【RIZAP COOK】 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席 寄席
柳家小三治師匠がお亡くなりになりました。10月7日。寂しいもんです。BS-TBSでは、落語研究会でかつて小三治師匠があげた「転宅」を放送するというのを知って録画しました。なんせ深夜の放送でしたから、翌日見たところ、なんと柳家花緑師匠が出ていました。まずい顔だなあ、という苦い印象だけでしたが、あれはいったいなんだったのでしょうか。こんな局面(放送局と掛けている)で羊頭狗肉をひっさげてもしょうがないとは思うのですが。残念です。
■柳家小三治のプロフィル
1939年12月17日~2021年10月7日
東京都新宿区出身。出囃子は「二上がりかっこ」。定紋は「変わり羽団扇」。本名は郡山剛藏。1958年、都立青山高校卒業。同学年に女優の若林映子、一学年下には仲本工事と橋爪功。ラジオ東京(現TBS)「しろうと寄席」で15週勝ち抜いて注目されました。59年3月、五代目柳家小さんに入門。みんなが納得したそうです。前座名は小たけ。63年4月、二ツ目昇進し、さん治に。69年9月、17人抜きの抜擢で真打、十代目柳家小三治を襲名。76年、放送演芸大賞受賞。79年から落語協会理事に。81年、芸術選奨文部大臣新人賞受賞。2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を、05年4月、紫綬褒章受章。10年6月、落語協会会長に。14年5月に旭日小綬章受章。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任。10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。21年10月2日、府中の森芸術劇場での落語会で「猫の皿」を演じました。これが最後の高座に。10月7日、心不全のため都内の自宅で死去。81歳。戒名は昇道院釋剛優。浄土真宗ですね。69年に結成された東京やなぎ句会の創設同人の一。俳号は土茶。
■小三治師匠が得意とした主な演目(順不同)
「花見の仇討ち」「もう半分」「宿屋の富」「大山詣り」「三年目」「堪忍袋」「船徳」「不動坊火焔」「睨み返し」「長者番付」「粗忽の釘」「子別れ」「お化け長屋」「藪入り」「鹿政談」「芝浜」「三軒長屋」「蛙茶番」「死神」「お神酒徳利」「厩火事」「千両みかん」「小言幸兵衛」「あくび指南」「うどん屋」「癇癪」「看板のピン」「金明竹」「小言念仏」「大工調べ」「千早ふる」「茶の湯」「出来心」「転宅」「道灌」「時そば」「鼠穴」「初天神」「富士詣り」「百川」「薬缶なめ」「蝦蟇の油」「一眼国」「二人旅」「お直し」「湯屋番」「明烏」「たちきり」「五人廻し」「山崎屋」「禁酒番屋」「品川心中」「鰻の幇間」「青菜」「野ざらし」「二番煎じ」「粗忽長屋」「猫の皿」「厩火事」など。柳家なのか三遊亭なのか、演目だけでは判断つきません。晩年は滑稽噺ばっかりでした。 まくらが異様に発達進化したのは、柳家の芸風に由来するのではないでしょうか。「小言念仏」(マクラが魅力) 「千早ふる」 (細部まで小さん流) 「転宅」、また聴きたいです。
(古木優)
青山高校の12月生まれ同士
柳家小三治師匠が亡くなりました。残念です。9月25日、テレ東系「新美の巨人たち」で新宿末広亭が特集された折、ちょっとだけですが、登場していて、この演芸場のの空間を気持ちのいいほどほめちぎっていました。お声がちょっとヘンだなあ、なんて思いましたが、あれが見納めでした。寂しいもんです。
高田馬場のあたりをうろうろしていた頃、手塚治虫、楳図かずお、天本英世なんかをよく見かけました。小三治師匠も。ムトウとかで。1980年前後の話です。
永六輔が仕切るNHKのテレビ番組にも出ていました。物故の名人上手のものまねなんかやって客を笑わせ、「こんなことやってるから、あたしゃ、出世が遅れたんですな」なんて、ひとりごちていました。小ゑんにいじめられてたんでしょうかね。
83年頃、土曜日の午後、FM北海道の師匠のオーディオ番組をよく聴きました。師匠は相当な音マニアで、ジャズを中心に、たまにはクラシックやボサノバも。私的には、藤岡琢也をもしのぐものすごさでした。
89年春、ある人の病気見舞いで聖路加国際病院に赴いた朝。道端にでっかいバイクを横付けして、病院に入るところをお見掛けしました。あれは、私のようにどなたかのお見舞いのためだったのか、あるいはご自身の定期診察ででもあったのか。細身に黒ずくめのそのスタイルは永六輔にも似て、どこか洗練されていて素っ気なくて、あこがれを抱く光景でした。六代目林家正蔵のスタイルをまねていたのを、後日知ったときにはホント、びっくりしました。
どこまでも、すっとぼけた、ものまねにたけた、さりげなさを最良とする噺家さんだったのですね。
以前、雲助師匠だけが迫っているもんだと思い込んでいました。その視点は間違いではないと思うのですが、両者の差異は大人と子供くらいあったように感じます。「しろうと寄席」で15週勝ち抜いた果てに、「大学に進まず落語家に入門する」という爆弾発言で、番組ファンは「誰に入門するのか」注目していたそうです。
1959年のことですから、文楽、志ん生、三木助、円生、正蔵などなど、あまたの名人上手がわんさか。わんさかの中から小さんを選んだのは慧眼だったのかもしれません。兄弟子に小ゑんがいたことが少なから不幸だったのでしょうけど。それでも天才の器がまったく違っていました。小ゑんは天災でしたか。
若林映子さんとは同じクラスだったのかどうか、いまだわかりませんが、同窓だったことはたしかです。ウッディ・アレンの監督第一作は若林映子さん主演のものでした。ビックリです。むちゃくちゃな映画でしたが、アレンはアジアン・ビューティーが大好きなんですね。彼女は12月14日、師匠は12月17日。お二人とも近いお生まれです。最後に。これほど余韻を帯びた噺家、もういません。志ん朝が逝ってちょうど20年。ともに贅言せずとも客を笑わせる噺家でした。小ゑんとは根底が違っていたようです。
■柳家小三治のプロフィル
1939年12月17日~2021年10月7日
東京都新宿区出身。出囃子は「二上がりかっこ」。定紋は「変わり羽団扇」。本名は郡山剛藏。1958年、都立青山高校卒業。同学年に女優の若林映子、一学年下には仲本工事と橋爪功。ラジオ東京「しろうと寄席」で15週勝ち抜いて全国的に注目されました。59年3月、五代目柳家小さんに入門。前座名は小たけ。63年4月、二ツ目昇進し、さん治に。69年9月、17人抜きの抜擢で真打、十代目柳家小三治を襲名。76年、放送演芸大賞受賞。79年から落語協会理事に。81年、芸術選奨文部大臣新人賞受賞。2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を、05年4月、紫綬褒章受章。10年6月、落語協会会長に。14年5月に旭日小綬章受章。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任。10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。21年10月2日、府中の森芸術劇場での落語会で「猫の皿」を演じました。これが最後の高座に。10月7日、心不全のため東京都内の自宅で死去。81歳。戒名は昇道院釋剛優。浄土真宗ですね。69年に結成された東京やなぎ句会の創設同人の一。俳号は土茶。
郡山剛蔵くんを大きく舵切りさせた「しろうと寄席」は、聴取者が参加するラジオ公開放送演芸番組です。一般の聴取者が得意の芸を披露して、プロの審査員に評定され、番組が進行します。ラジオ東京(JOKR、現TBSラジオ)で昭和30年代前半に放送されました。ちなみに、一般人が放送に参加できるようになったのはNHK「素人のど自慢」が初めて。戦前ではあり得ないことでしたから、民主日本の画期でした。「しろうと寄席」もこれに倣ったのですね。放送期間は1955年3月9日~62年10月29日。番組開始時では大正製薬の単独提供だったのが、終了時には日電広告に。開始時では毎週水曜21時30分~22時。終了時では毎週月曜14時10分~15時に。司会は牧野周一(声帯模写)。審査員は、桂文楽(落語)、神田松鯉(講談)、コロムビアトップ・ライト(漫才)。主な出身者には、牧伸二(ウクレレ漫談)、柳家小三治、入船亭扇橋(落語、俳号光石)、片岡鶴八(声帯模写、片岡鶴太郎の師匠)など。フジテレビで昭和40年代前半に放送されたテレビ番組もありますが、これは別番組です。
■小三治師匠が得意とした主な演目(順不同)
「花見の仇討ち」「もう半分」「宿屋の富」「大山詣り」「三年目」「堪忍袋」「船徳」「不動坊火焔」「睨み返し」「長者番付」「粗忽の釘」「子別れ」「お化け長屋」「藪入り」「鹿政談」「芝浜」「三軒長屋」「蛙茶番」「死神」「お神酒徳利」「厩火事」「千両みかん」「小言幸兵衛」「あくび指南」「うどん屋」「癇癪」「看板のピン」「金明竹」「小言念仏」「大工調べ」「千早ふる」「茶の湯」「出来心」「転宅」「道灌」「時そば」「鼠穴」「初天神」「富士詣り」「百川」「薬缶なめ」「蝦蟇の油」「一眼国」「二人旅」「お直し」「湯屋番」「明烏」「たちきり」「五人廻し」「山崎屋」「禁酒番屋」「品川心中」「鰻の幇間」「青菜」「野ざらし」「二番煎じ」「粗忽長屋」「猫の皿」「厩火事」など。柳家なのか三遊亭なのか、演目だけでは判断つきません。晩年は滑稽噺ばっかりでした。 まくらが異様に発達進化したのは、その柳家の芸風ゆえんだったのではないでしょうか。「小言念仏」(マクラが魅力) 「千早ふる」 (細部まで小さん流) 「転宅」 はまた聴きたいです。
(2021年10月7日 古木優)
【柳家小三治 人形町末広の思い出】
2002年7月14日 第27回朝日名人会 有楽町朝日ホール
人形町末広は、慶応3年(1867)に創業して、昭和45年(1970)1月に閉場しました。現在は読売新聞社の子会社が建っています。お隣に「うぶけや」。看板は4人の、当時最高峰の書家が1字ずつ揮毫したそうです。爪切り、しびれます。
中世といいますか、戦国時代といいますか。
そこらへんがおもしろくて。
たとえば、斎藤道三。
この人は、僧侶から油売りを経て美濃を奪った梟雄であるかのように語られてきました。
司馬遼太郎の『国盗り物語』でもそんなふうに描かれています。
最近の研究では、こうです。
僧侶から油売りを経て美濃の守護、土岐家の家臣になったところまでは道三の父親で、土岐家を追い出して一国一城の主にのし上がったのが息子の道三だった、とのこと。
二世代にわたる異業績だったわけなんですね。
「まむし」とあだ名された人物のイメージもちょっと変わります。
乗っ取りの英才教育を授かったお坊ちゃん、というところでしょうか。
もひとつ、鉄砲伝来も。
1543年(天文12)に種子島に漂着したポルトガル人が持ってきて、領主の種子島時堯に2丁売った。これが鉄砲伝来だ。
なあんていうような話に、納得していました。
でも、鉄砲は、ですね。
その前すでに倭寇なんかが九州地方に持ち込んでいたことが、最新の研究でわかっているそうです。
南蛮船と呼ばれていたポルトガル人の船(じつはマラッカやルソンの人たちのほうが多かった)も、当時の日本は別に鎖国していたわけでもないし中央のコントロールが機能していなかったので、日本のどこに寄港しても不思議ではありませんでした。
関東や奥州の国人・地侍などが鉄砲を手にすることだってあり、だったのです。
鉄砲が軍制に組み込まれたのは、関東以北では1570年(元亀元)以降とされているのですが、いずれ新事実が明らかとなって、この通説も覆されるかもしれません。
いやいや、もうすでに。
さらに、落ち武者の流亡。
西国の某城で忠勤に励みながらも戦いに敗れて、命からがら逃れた果てが東国、またはみちのく。
この地方は元来穏やかで、いろんな面で遅れていました。だから、落ち武者たちはなにかと有用だったのです。鉄砲の扱い方を伝えたのはこの手の人たちでした。
と、この人たちが東国やみちのくで増えていくと、いくさはまるで西国落ち武者同士の傭兵戦争となって、次第に激しさを増していくのです。
これまで見たこともない戦法なんか使ったりして。あるいは、西国では見果てぬ夢だった思いが東国で実現できたりしたわけ。東漸です。
日本国内には「〇〇千軒」という古地名がいくつか残されています。
広島県福山市の「草戸千軒」がもっとも有名でしょうか。
ここでいう「千軒」とは「栄えた町」くらいの意味なのでしょう。今はさびれてしまったけれど、昔は栄えていたのだ、というようなニュアンスが込められているようです。
滅びてしまった理由はたいてい洪水や津波など天変地異によるもの。
今となってはふるさと自慢の素材のひとつというのが物悲しさを漂わせます。
ただ、「〇〇千軒」に共通するものがいくつかあります。
鉱山と港。近くの山で採れた金銀を海上交通を使ってどこかに運んだ、ということなのでしょうか。
買い手がいたのですね。
どこの誰にでしょうか。
モノばかりか、ヒトも運ばれていったのかもしれません。
毎日必ずどこかで殺し合いがあった戦国時代も、ちょっと見方を変えると別な世界がみえてくるかもしれません。
夢はふくらみますね。
千軒と千字寄席。
これはただの偶然ですが。
こんなふうに、これまで戦国時代の常識とされてきたことが少しずつ剥がされていきなんでもありなのが戦国時代だ、という認識が今日広まりつつあるようです。
ひるがえって、落語。
これはどうでしょうか。
落語史は戦国史と違って、ごく一部の真摯で優れた方々を除けば、いまだにまともな研究者や評論家がいません。
戦国史は多くの大学で学べても、落語史を学べる大学はあまりありません。
あったとしても、教授の片手間か気まぐれです。
落語評論なる文章も、先学諸兄の孫引きが目立って、当人は元が間違っていることにも気づかずにさらしたりしているようで。
それを誰もなにも言わずに放置の状態、なんていうことを見かけます。
われわれもその過ちを犯してきたのかもしれません。
どうにも曖昧模糊、なんだかなあ、いまだ霧の中にたたずんでいるのが落語史の研究。千鳥足の風情です。
いずれ誰かが全体を明らかにしてくれるのだろう。
と、心待ちにしていましたが、いつまで待ってもあまり変わり映えしそうもありません。
そんなこんなで、こちらの持ち時間もじわじわとさびしくなってきた昨今。
ここはもう知りたいことは自分でやるしかないかとばかり、心を入れ替え気合を込めてじわじわがつがつと落語について読み込んでいこうと覚悟を決めたというところです。
落語も戦国時代のような状態なのかもしれません。
われわれは、落語というものを、芸能史の流れ、つまり、口承、唱導、説教、話芸といった一連のたゆたい、舌耕芸態として見つめていきたいのです。
落語は聴いて笑うもので調べるものではない、などと言っている人がいます。
たしかに、落語研究などとは野暮の骨頂なのかもしれません。
ある種の人たちには、「笑い」を肩ひじ張って「研究」するなんてこっぱずかしいなりわいなのでしょう。
それでも。
たとえば、三遊亭円朝が晩年、臨済宗から日蓮宗に改宗したことの意味を、われわれはやはりもう少し深く知りたいものです。
そうすれば、いま残された42の作品の位置づけや意味づけも少し変わってくるかもしれませんし。
世間もわれわれも、なんであんなに「円朝」なるものを仰ぎ見ているのか。
その不思議のわけを知りたいものです。
もひとつ。
明治時代の寄席のありさま。
「寄席改良案」といったものが当時、しょっちゅう新聞ダネになっています。
「町内ごとに寄席はあったもんだ」なんて、まるで見てきたようなことを言っている人がいます。
どうなんでしょうか。
あるにはあったようですが、場末の端席と一流どころの定席では同じ「寄席」でくくるにはあまりにも不釣り合いなほどに異空間だったように思えます。
それはもちろん、今日、私たちが知る鈴本演芸場や新宿末広亭のようなあしらいの寄席とは、おそろしく異なるイメージの空間でもあったようなのです。
寄席で終日待ってても落語家が一人も来なかった、なんていう端席は普通にあったようです。
同席する客は褌一丁で上ははだけたかっこうの酒臭い車引きやひげもじゃ博労の連中がごろごろにょろにょろ。
床にひっくるかえっては時間をつぶし、あたら品ない世間話に花が咲く町内の集会所のようなものだったのでしょう。
これでは、良家の子女は近づきません。
まともな東京人は来ないわけです。
歌舞伎に客を取られてはならじ。
と、寄席や落語家の幹部連中はなんとかせねばとうずうずしていたのが、明治中期頃までの寄席の実態だったようです。
だからなんだ、と言われれば、それまでなんですが。
うーん、それでも、やっぱり、どうしてもそういうところを深く知りたい。
たとえば「藪入り」。
なんであんなヘンな噺が残っているのだろう。
そこには、当時の寄席の雰囲気を知ると見えてくるものがあるんじゃないだろうか、なんて思うわけです。
見たり聴いたり、五感を刺激される体験をしてみる。
それをまた違った形でもいちど味わってみたいという欲求にかられるのも人のさが。そんな人種もたまにはいるのです。
これを機会に、おぼろげでかそけき落語研究の世界について、テキストをしっかり読み込むことで、くっきり視界をさだめていこうと思っています。
いまとなっては、われわれには仰ぐべき師匠も依るべとなる先達もいません。
だから時間がかかります。
勘違いや間違いも、多々あるでしょう。
ご指摘あれば、すぐに直します。
われわれは、かたくなではありません。
そんなこんなで、手探りながらも地道に少しずつ前に進んでいきたい。
そう思います。
ご叱正、ご助言あれば、すこぶる幸い。
お暇な方は、どうぞおつきあいください。
コメントを投稿するにはログインしてください。