だいくしらべ【大工調べ】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

店賃を溜めたことから、かたに道具箱を取られてしまった与太郎……。

江戸っ子が言い立てる悪態。江戸落語の小気味よさが楽しめます!

あらすじ

神田小柳町かんだこやなぎちょうに住む大工の与太郎よたろう

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが長屋までやって来ると、店賃たなちんのかたに道具箱を家主いえぬし源六げんろくに持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが、源六は強硬だ。

「なに言ってやがんでえ。丸太ん棒と言ったがどうした。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。呆助ほうすけ藤十郎とうじゅうろう、ちんけいとう、芋っぽり、株かじりめ。てめえたちに頭を下げるようなおあにいさんとおあにいさんのできが、すこうしばかり違うんだ。ええ、なにを言いやがんだ。下から出りゃつけ上がり、こっちで言う台詞せりふだ、そりゃ。だれのおかげで大家おおやだの町役ちょうやくだの言われるようになったでえ。大家さん大家さんと、下から出りゃその気になりゃあがって、俺がてめえの氏素性うじすじょうをすっかり明かしてやるから、びっくりして赤くなったり青くなったりすんな。おう、おめえなんざな、元はどこの馬の骨だか牛の骨だかわかんねえまんま、この町内に流れ込んで来やがった。そん時のざまあ、なんでえ。寒空に向かいやがって、洗いざらしの浴衣ゆかた一枚でガタガタガタガタ震えやがって、どうかみなさんよろしくお願いしまうってんで、ペコペコ頭を下げてたのを忘れやしめえ。さいわいと、この町内の人はお慈悲じひ深いや。かわいそうだからなんとかしてやりましょうてんで、この常番じょうばんになったんだ。一文の銭、二文の銭をもらいやがって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、この町内の使いやっこじゃねえか。なあ、そのてめえの運の向いたのはなんだ。六兵衛番太ろくべえばんたが死んだからじゃねえか。六兵衛のことを忘れるとバチが当たるぞ。おう、源六さん、おなかがすいたら、うちのいもを持っていきなよ、寒かったらこの半纏はんてんを着たらだらどうだいってんで、なにくれとなくてめえのめんどうを見てた。この六兵衛が死んだあと、六兵衛のかかあにつけ込みやがって、おかみさん芋洗いましょう、まき割りましょうってんで、ずるずるべったりに、このうち入り込みやがったんだ。二人でもって爪に火ぃともすように金をためやがってな、高い利息で貧乏人に金貸し付けやがって、てめえのためには何人泣かされてるのかわかんねえんだ。人の恨みのかかった金で株を買いやがって、大家でござい、町役でござい、なに言いやがんだ、てめえなんざ大悪おおわるだ。六兵衛と違って、場違いな芋を買ってきやがって、き付けをしむから生焼なまやけのガリガリの芋だ。その芋を食って、何人死んだかわからねえんだ。この人殺しぃ」

怒った政五郎は 啖呵たんかを切った。

「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株しちかぶはあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百もんめ払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所そうだいかいしょへ登録が義務付けられ、享保きょうほうの改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町かんだこやなぎちょうは火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の千代田区神田須田町かんだすだちょう一、二丁目、および神田鍛冶町かんだかじちょう三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷したや一丁目が焼けた際、代地だいちとして与えられました。

田島誓願寺たじませいがんじ(浄土宗)を経て寛永寺の寺地となっていたため、延享えんきょう2年(1745)以来、寺社奉行の直轄支配地となっています。柳原土手やなぎはらどての下にあったことから、土手の柳から小柳町という町名がついたそうです。

明治時代には「小柳亭」という寄席もありました。

町名は昭和8年(1933)に廃名となりました。

「町」は「まち」か「ちょう」か

ところで、落語で町名が出ると、いつも気になります。

田原町たわらまち稲荷町いなりちょう神田小川町かんだおがわまち神田小柳町かんだこやなぎちょう

「〇〇町」の「町」が「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか、いつも釈然としません。すべてに通用するわけではありませんが、江戸でも地方でも、武家の居住区は「まち」、町人の居住区は「ちょう」と呼びならわしていることが基本形です。

ひとつの目安にはなりますね。

代地

江戸での話です。何かの理由で、幕府が強制的に収用した土地の代替地として、与えた別の土地のことです。

町を丸ごと扱う場合もあります。代地だいちに移転したり成立したりした町を、代地町だいちまちといいました。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがあります。

一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ、べらぼうめェッ」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。

現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の〇〇(本名)と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

頭と親方

かしらは職人の上に立つ人をさします。

大工、鳶、火消しなど。勇み肌、威勢のよい職業の棟梁とうりゅうを「かしら」と呼びます。火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたの長谷川平蔵も「かしら」です。勇み肌なんですね。

文字では「長官」と書いたりしますが、あれは便宜上のことで、現代的な呼び名です。自宅で仕事をする職人、これを居職いじょくと言いますが、居職の上に立つ人を親方おやかたといいます。親方は居職ばかりでもなく、役者や相撲の世界でも「親方」と呼ばれます。

こうなると、厳密な言い分けがあるようでないかんじですね。ややこしいことばです。

もっとしりたい

大岡政談のひとつ。

裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。

政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。

棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。

明治24年(1891)に禽語楼きんごろう小さんがやった「大工の訴訟しらべ」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。

これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。

「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。

「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。

池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。

「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」と書き散らしたまま、逝ってしまった。はっきり書いておいてほしかったものである。

この噺では、貨幣が話題となっている。

江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。

ややこしいが、一般的なところを記しておく。

1両=4分=16朱。金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。

いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。

ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。

いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

1両2分800文とは、6800文相当となる。

幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。

ということは、13か月余相当の額。

五代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。

月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

質株とは質屋の営業権。

江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。

享保8年(1723)、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。

もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。

勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。

「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。

地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。

マンションの管理人のような存在である。オーナーではない。

この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。

こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

古木優     

町奉行



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ごかんさばき【五貫裁き】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

生業めざす熊を応援する大家と質屋との泥仕合。ケチ噺の典型です。

別題:一文惜しみ

【あらすじ】

四文使しもんづかいという、博打場の下働きをしている熊。

神田三河町かんだみかわちょうの貧乏長屋に住むが、方々に迷惑をかけたので、一念発起して堅気の八百屋になりたいと、大家の太郎兵衛に元手を借りに来た。

ケチな大家は奉賀帳ほうがちょうを作り、
「まず誰か金持ちの知り合いに、多めに金をもらってこい」
と突き放す。

ところが、戻ってきた熊は額が割れて血だらけ。

昔、祖父さんが恩を売ったことのある質屋、徳力屋万右衛門とくりきやまんえもん方へ行ったが、なんとたった一文しか出さないので
「子供が飴買いにきたんじゃねえッ」
と銭を投げつけると、逆に煙管きせるでしたたかぶたれ、たたき出されたというお粗末。

野郎を殺すと息まくのを、大家は
「待て。ことによったらおもしれえことになる」

なにを言い出すのかと思ったら
「事の次第を町奉行、大岡さまに駆け込み直訴じきそしろ」
と知恵をつけた。さすがは因業いんごうな大家、お得意だ。

ところが奉行、最初に銭を投げつけ、天下の通用金を粗略にした罪軽からずと、熊に科料かりょう五貫文、徳力屋はおとがめなし。

まだ後があり、
「貧しいその方ゆえ、日に一文ずつの日掛けを許す」

科料を毎日一文ずつ徳力屋に持参し、徳力屋には中継ぎで奉行所に届けるよう申し渡す。

夜が明けると大家は、
「一文は俺が出すから銭を届けてこい、ただし、必ず半紙に受け取りを書かせ、印鑑ももらえ」
と、念を押す。

徳力屋はせせら笑って、店の者を奉行所にやったが、
「代人は、天下の裁きをなんと心得おる。主人自ら町役人ちょうやくにん、五人組付き添いの上、持ってまいれッ」
と、しかりつけられたから大変。

たった一文のために毎日、膨大な費用を払って奉行所へ日参しなければならない。

奉行の腹がようやく読めて、万右衛門は真っ青。

その上、逆に自分が科料五貫文を申しつけれられてしまった。

それから大家の徳力屋いじめはいやまし、明日の分だといって、夜中に届けさせる。

店の者が怒って、
「奉行もへちまもあるか」
と口走ったのを、熊が町方定回じょうまわり同心に言いつけたので、さんざん油を絞られる羽目に。

大家は
「また行ってこい。明後日の分だと言え。徳力屋を寝かすな」

こうなると熊もカラクリがわかり、欲が出て毎晩毎晩ドンドンドン。

徳力屋、一日一文で五貫文では十三年もかかる上、町役人の費用、半紙五千枚……、これでは店がつぶれる、と降参。

十両で示談に来るが、大家が
「この大ばか野郎め。昔生きるか死ぬかを助けてもらった恩を忘れて、十両ぱかりのはした金を持ってきやがって。くそォ食らって西へ飛べッ」
啖呵たんかを切ったから、ぐうの音も出ない。

改めて熊に五十両払い、八百屋の店を持たせることで話がついた。

これが近所の評判になり、かえって徳力屋の株が上がった。

万右衛門、人助けに目覚め、無利子で貧乏人に金を貸すなど、善を施したから店は繁盛……と思ったら、施しすぎて店はつぶれた。

熊も持ちつけない金に浮かれ、もと木阿弥もくあみで、やがては行方知れず。

【しりたい】

これも講釈ダネ

大岡政談ものの、同題の講談を脚色したもの。講談としては、四代目小金井芦州(松村伝次郎、1888-1949)の速記があります。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「一文惜しみ」の題で演じました。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)のは、五代目一龍斎貞丈(柳下政雄、1906-68)直伝で、設定、演題とも講談通りの「五貫裁き」です。

円生のやり方、談志のやり方

長講で登場人物も多く、筋も入り組んでいるので、並みの力量の演者ではこなせません。そのためか、現役では談志のほかはあまり手掛ける人はいません。

「一文惜しみ」としては、六代目円生以前の速記が見当たらず、落語への改作者や古い演者は不明です。

円生はマクラにケチ噺の「しわいや」を入れ、「強欲は無欲に似たり。一文惜しみの百両損というお噺でございます」と終わりを地の語りで結ぶなど、吝嗇りんしょく(けち)噺の要素を強くし、結末もハッピーエンドです。

談志は、講談の骨格をそのまま踏襲しながら、人間の業を率直にとらえる視点から逆に大家と熊の強欲ぶりを強調し、結末もドンデン返しを創作しています。

四文使い

博打場で客に金がなくなったとき、着物などを預かって換金してくる使い走りで、駄賃に四文銭一枚もらうところから、この名があります。

銭五貫の価値

時代によってレートは変わりますが、銭一貫文=千文で、一朱(一両の1/16)が三百文余りですから、五貫はおよそ五両一両あまりに相当します。

さんぽういちりょうぞん【三方一両損】落語演目

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【どんな?】

柳原土手で拾った金が三両。ホントの意味はこういうことなんですね。

【あらすじ】

神田白壁町かんだしろかべちょうの長屋に住む左官さかんの金太郎。

ある日、柳原やなぎはら土手どてで、同じく神田竪大工町かんだたてだいくちょうの大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、さっそく家を訪ねて届ける。

ところが、偏屈へんくつ宵越よいごしの金を持たない主義の熊五郎、
印形いんぎょうと書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレのものじゃねえから受け取るわけにはいかねえ、そのまま持って帰れ」
と言い張って聞かない。

「人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞ」
と、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大げんかになる。

騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家おおやが止めに入るが、かえってけんかが飛び火する。

熊が
「この逆蛍さかぼたる店賃たなちんはちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」
と毒づいたから、大家はカンカン。

「こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれ」
と言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、
「向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない」
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。

これより名奉行、大岡越前守おおおかえちぜんのかみ様のお裁きとあいなる。

白州しらすで、それぞれの言い分を聞いいたお奉行さま。

問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。

金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。

熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。

奉行も褒美ほうびに一両出したから一両の損。

したがって三方一両損で、これにて丸く収まるという、どちらも傷つかない名裁き。

二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。

「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(=越前)」

【しりたい】

講談の落語化

文化年間(1804-18)から口演されていた古い噺です。講談の「大岡政談おおおかせいだんもの」の一部が落語に脚色されたもので、さらにさかのぼると、江戸初期に父子で名奉行とうたわれた板倉勝重いたくらかつしげ(1545-1624)、重宗しげむね(1586-1656)の事績を集めた『板倉政要いたくらせいよう』中の「聖人公事せいじんくじさばき」が原典です。

大岡政談

落語のお奉行さまは、たいてい大岡越前守と決まっていて、主な噺だけでも「大工調べ」「帯久」「五貫裁き」「小間物屋政談」と、その出演作品はかなりの数です。

実際には、大岡忠相おおおかただすけ(1677-1751)が江戸町奉行職にあった享保きょうほう2年-元文げんぶん元年(1717-36)に、自身で担当したおもな事件は白子屋しらこや事件くらいで、有名な天一坊てんいちぼう事件ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とはかかわりありません。

伝説だけが独り歩きし、講釈師や戯作者げさくしゃの手になった『大岡政談実録』などの写本から、百編近い虚構の逸話が流布。それがまた「大岡政談」となって講談や落語、歌舞伎に脚色されたわけです。➡町奉行

古いやり方

明治の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)は、このあとに「文七元結」を続ける連作速記で、全体を「江戸っ子」の題で演じています。

柳枝では、二人の当事者の名が、八丁堀岡崎町おかざきちょうの畳屋・三郎兵衛と、神田江川町かんだえがわちょうの建具屋・長八となっていて、時代も大岡政談に近づけて享保のころとしています。

また、長八が金を落としてがっかりするくだりを入れ、オチの部分を省くなど、現行とは少し異なります。

昭和に入って八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が得意とし、その型が現在も踏襲されています。

召し連れ訴え

「大家といえば親も同然」と、落語の中でよく語られる通り、大家おおや(家主いえぬし)は、店子たなこに対して絶対権力を持っていました。

町役ちょうやくとして両御番所(南北江戸町奉行所)、大番屋などに顔が利いた大家が、店子の不正を上書を添えて「お恐れながら」とお上に訴え出るのが「召し連れ訴え」です

。もちろん、この噺のように店子の代理人として、ともども訴え出ることもありました。

十中八九はお取り上げになるし、そうなれば判決もクロと出たも同然ですから、芝居の髪結新三かみゆいしんざのようなしたたかな悪党でも、これには震え上がったものです。

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しろきや【城木屋】落語演目

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【どんな?】

大店の娘お駒に、邪恋が沸き立つ丈八。そっぽむかれた丈八はついにお駒を殺す……。

豆尽くしの噺。ここでいう「豆」は女性をさす隠語です。念のため。

別題:お駒丈八 白木屋 白子屋政談

あらすじ】  

日本橋新材木町の呉服屋、城木屋庄左衛門が死に、あとにお常と、十八になる一人娘のお駒が残された。

お駒は界隈で評判の器量良しだが、こともあろうにそのお駒に、醜男の番頭丈八が邪恋を抱いた。

丈八は四十四歳になるが、背はスラッと低く、色はまっ黒けで、顔の表と裏がわからない、という、大変な代物。

ところが当人は本気で、お駒の婿は自分と一人決めをし、恋文を送りつけたが、もちろん、お駒は梨のつぶて。

それが、母親のお常の手に渡ってしまったので、丈八はお常に手ひどくしかりつけられ、
「どうせクビになるならば破れかぶれ、いっそのこと」
と、店の金五十両を盗み出して、吉原で全部使い果たしてしまう。

この上は、お駒を殺して自分も死ねば、心中と言われて浮き名が立つと、夜中にこっそりお駒の部屋に忍び込んだ。

お駒の寝顔を見て急に惜しくなり、さらって逃げようとゆり起こす。

承知したらよし、嫌と言ったら殺っちまおうと、刀で頬っぺたをピタピタたたいたから、お駒が目を覚まして悲鳴を上げる。

かわいさあまって憎さが百倍、やっと突くと、狙いが外れて床板まで突き通してしまい、抜けなくなって、そのまま刀と煙草入れの遺留品を残して逃走。

これから足がついて、丈八はお召し捕りに。

お白州に引き出され、南町奉行の大岡越前守のお裁きを待つ身となった。

奉行に
「不届き至極な奴。娘駒とその方のなれ初めを申せ」
と尋問され、ごまかそうと
「十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の挿し絵を見ておりますと、お駒さんが参りまして『これはなにか』と聞きますので『岡部の宿で夜這いに行くところです』『夜這いとは何じゃ』『いずれ今宵』と、それにかこつけて豆泥棒(夜這い)に参りまして」
「豆泥棒とはなんじゃ」
「へえ、お駒さんは素人娘で白豆、商売女は黒豆で、十二、三の小娘はおしゃらく豆、十五、六がはじけ豆、天人はソラ豆」

一喝されて
「娘御を 駿河細工と 思えども 籠の鳥にて 手出しならねば」
という艶書の文句の意味を問われると
「もとの起こりが膝栗毛、もう東海道から思い詰め、鼻の下も日本橋、かのお駒さんの色、品川に迷いまして、川さきざきの評判にも、あんないい女を神奈川に持ったなら、さぞほどもよし程ヶ谷と」
と東海道尽くしでしゃれるので、奉行は
「その方、東海道を巨細(=詳しく)に存じおるが、生国はどこじゃ」
「へい、駿河のご城下で」
「うむ、ここな府中(=不忠)者め」

出典:三代目春風亭柳枝

【RIZAP COOK】

【うんちく】  

大岡政談の落語化 【RIZAP COOK】

「大岡政談」の中で、唯一、大岡忠相ただすけが裁いたのは白子屋しらこやお熊事件だったといわれています。ほかの「大岡政談」は架空のお話に過ぎません。

「城木屋」は、その貴重な実録大岡政談を落語にしたもの。元ネタは人情噺「白子屋政談」です。明治期、三代目麗々亭柳橋れいれいていりゅうきょう(斉藤文吉、1826-1894)が得意としていました。

その作者は乾坤坊良斎けんこんぼうりょうさい。「今戸の狐」に登場した、あの良斎です。大岡政談に白子屋お熊事件をからめて創作した長編人情噺「白子屋政談」を落語化し、滑稽噺に仕立てたものが、この「城木屋」。落語の作者(改作者)は不祥です。

「東海道五十三次」「名奉行」(または「評判娘」)「伊勢の壷屋の煙草入れ」という題での三題噺として作られたともいいます。

白子屋の悲劇 【RIZAP COOK】

実録の白子屋お熊事件は、以下の通りです。

日本橋新材木町にほんばししんざいもくちょう稲荷新道いなりじんみちの材木問屋、白子屋庄三郎の娘お熊は、母親お常の乱費のため傾いた店を立て直すため、持参金五百両を当てにした両親によって日本橋大伝馬町にほんばしおおでんまちょうの大地主川喜田弥兵衛かわきたやへえの番頭又四郎またしろうをむりやり婿に取らされます。

又四郎は、身持ちが固いだけが取り得の、つまらない男。

いやでたまらないところに、店の番頭で、渋い中年男の忠八にたらしこまれ、気がつけばお熊の腹はポコリン、ポコリン。

これでは店の信用にかかわると、母親は、今度は又四郎を離縁して追い出そうとしますが、持参金がネックでそれもできません。

そこで、女中二人に手伝わせ、ある夜、又四郎の寝首をかこうとして失敗。関係者はあえなく、全員逮捕されました。

大岡忠相のお裁きで、享保12年(1727)2月25日、「一審即決上告を許さず、弁護人これを付せず、審理は公開せず」の暗黒裁判で判決が下ります。

母お常は殺人未遂の主犯で死罪。お熊と忠八は不義密通で死罪、はりつけ

お女中二人は主殺し未遂で死罪、逆さ磔。父庄三郎は闕所けっしょ(財産没収)。

23歳のお熊は絶世の美女で、引き回しで裸馬に乗せられ、千住小塚原せんじゅこづかっぱらの刑場に向かう途中、白無垢しろむく黄八丈きはちじょう小袖こそで、首に水晶の念珠ねんじゅというなんとも色っぽい風情だったとか。

沿道を埋め尽くした野次馬連中。

ああ、もったいねえと生唾ゴクン。

大岡忠相が実際に裁いたこの事件、その後、浄瑠璃「恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう」や、人情噺でのち黙阿弥もくあみの芝居にもなった「髪結新三かみゆいしんざ」などに脚色され、今にその名を残しています。

志ん生から歌丸まで 【RIZAP COOK】

明治期では、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)の、明治24年(1891)9月の速記が残っています。「城木屋」「お駒丈八」の別題があります。

東海道尽くしの言い立てが聴かせどころで、軽く、粋なパロディー噺なので、昭和に入っても名人連が好んで取り上げ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)らがよく演じました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)もレパートリーにしていました。

志ん生の豆尽くし 【RIZAP COOK】

「東海道尽くし」と並んで、この噺は「豆尽くし」が眼目。豆はもちろん、女性自身の隠語です。

五代目志ん生はこの部分だけを、艶笑小咄として、独立して演じていました。

これも志ん生が得意にした「駒長」で、「白子屋政談」の登場人物の名前が借用されています。

【RIZAP COOK】

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おびきゅう【帯久】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七との金にからむ大岡政談の一編です。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

宝泉華

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛いずみやよへえという呉服屋があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七きゅうしちの性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日みそかの決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互あいみたがい」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しにきた。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心あくしんが兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保きょうほう六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前とまえもろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人のけ判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の強悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所けっしょ、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫ふびんなやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
還暦かんれきか。いやさ、本卦ほんけ(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候いそうろうでございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵景漸まがりぶちかげつぐ(曲淵甲斐守)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知おきとも刃傷にんじょう事件を裁定し、犯人である佐野政言まさことを取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘とうじょうゆうじんです。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

さじかげん【匙加減】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

大岡政談のひとつ。なんとも痛快なお裁きものです。

【あらすじ】

享保の頃。

三田に阿部玄渓という名医がいた。

その息子の玄益は二十五歳で、医道の腕はいいが、まじめ一辺倒の堅物男。

気晴らしは神社仏閣めぐりという、なんとも色気がない。

今日も今日とて、川崎大師にお参りに向かった。

帰りは雨模様となって、途中の品川宿で、急きょ、雨宿りとなる。

なんでもいいからと、狩野屋なる茶店に上がった。

美しい芸妓が現れた。うぶがちな色気が漂う。お奈美という。

神のおぼしめしか。

玄益はお奈美にひとめぼれ。

翌日からは、狩野屋通いに精出す始末。

玄益はやることなすこと、すべてが一本気の構えだ。

やがて手持ちも不如意となり、ついには、父親の医書を質入れして、金の算段に。

それがばれて、父からは勘当とあいなった。

なんとも絵にかいたような放蕩の顛末。

この一件で、はたと目が覚めた玄益。

心を入れ替えて、実家を離れる。

八丁堀の一隅に「医」の看板を掲げる。

今度は、医道に一本気に突き進んだ。

一心不乱、精進し続けて、玄益ならぬ現役丸出しの評判医へと。

一本気と一心不乱で、二年がたった。

ゆとりを見せた玄益。

「少し休んだくらいでも、減益とはなるまい」

南の品川宿へ。

狩野屋にあがり、なじみだったお奈美に会おうとした。気にはなっていたのだ。

えびす顔で出てきたのは、狩野屋主人。

かつては贔屓として、顔なじみだった男。だが、こんな顔には用はない。

「若先生、二年前に、お奈美と夫婦の約束をしたんですかい」

そう聞かれて玄益、あたまをかきかき、苦い白状となる。

「ははは、冗談にも、そんなことを言ったやもしれませんなあ」
「それそれ。お奈美は、若先生のそれを本気にしていましたんで。さりながら、若先生はまもなく勘当のおん身に。ここへも来られなくなっちまいましてね。お奈美は『そのうちに若先生が迎えに来る』と信じているうちに、二年たちまして。とうとう、気がおかしくなっちまいました。ぶらぶら病で。そもそも、お奈美は松本屋義平の抱え芸者でして。ぶらぶら病では、座敷へ出すこともできませんので。今じゃあ、店奥の座敷牢に入ってるんですよ」

主人の話を聞き、驚いた玄益。

「ややっ。いやはや、面目ない。それでは、わたしがお奈美を引き取りましょうぞ」

とは、大胆な告白。

内心ほくそえんだのは狩野屋。

「そんなら、あたしが松本屋へ話をつけますんで、三両出してくださいな」

玄益からの三両を手にした狩野屋は、その後さっそく、松本屋へ出向いた。

「お奈美を若先生に追っ付けましょうよ。三両出してくだされ。話をまとめますんで」

悪い野郎もあったもんで。

松本屋は渡りに舟、とばかりに三両を手文庫から取り出した。

両者から三両ずつ、しめて六両を自分の懐に入れ込んだ狩野屋。悪さの始まりだ。

さて玄益。

その日のうちにお奈美を引き取り、駕籠を出して、長屋に連れてきた。

その日からは、玄益自らが付きっ切りでお奈美の治療にあたった。

その甲斐あってか、お奈美は半年ほどで全快とあいなる。

そのようすを遠巻きに見ていた父親の玄渓。

お奈美の美しくも気立てのいいのを知り得て、二人を夫婦にした。

めでたし、めでたし。

と、いきたいところだが、これでは噺が終わってしまう。もう少しある。

さて。

この「めでたし」を知った、品川宿の狩野屋。

こいつは、すぐに松本屋へ飛び込んでいった。悪さが浮かんだ。

「お奈美が治ったそうですぜ。あいつを返してもらいましょうや。今度は、座敷牢ではなく、座敷へ出せば、まだまだ稼げるタマじゃ、あーりませんか」

狩野屋の申し出を聞いた松本屋義平は、血相変える。

「なあにを言ってる。お奈美は玄益先生が身請けをしたんだ。できるわけがない」
「年季証文はどうなっていますんで」
「え、ああ、あんとき、玄益先生に渡すのを忘れてたな」
「それそれ。ふふふ。証文がこっちにあるんなら、身請けをしたことにゃ、ならねえんで。わたしがうまくまとめますぜ。うまくいったら、十両をいただきやしょうや」

翌日。

狩野屋は、八丁堀の玄益宅に向かった。

「お奈美を引き取らせていただきやしょう」

こう言って、ねじ込んだ。

玄益はびっくり。

「わたしが身請けをしたはずじゃないですか」
「若先生、なにを言ってやがるんで。年季証文は松本屋んとこにあるんだ。出るところへ出りゃあ、あんた、書いた証文が口を利くことになりやすぜ。へへへ」

これでは玄益も声高になる。

双方ともに必死で、甲論乙駁、口論が止まらない。

近くでふだんでないようすを耳にした大家が、間に入ってきた。

「明日、あたしの家に来てくださいな。話をまとめておきますから」

とは、また、骨太な介入で。

いったんは、狩野屋を帰してみたのである。

そして、翌朝。

大家は、すでに一計を案じていた。

大家は、長屋中の欠けた瀬戸物を集めて足の取れかかった膳の上に乗っけて、狩野屋が来るのを待っていた。

狩野屋が来た。

「お奈美は玄益先生が身請けしたはずじゃ、ありませんかい」

大家はここで、玄益の味方につくことを宣言したわけ。

怒ったのは狩野屋だ。

「な、なにを言いやがる」

狩野屋は、体を前に迫り出して、膳を倒して瀬戸物の山を崩してしまった。

あげくのはてには、狩野屋、大家がいつも猫に餌を出してやる皿までぶっ壊してしまった。

大家が怒った。

狩野屋は膳を持って振り上げたので、話し合いは、もつれたまんまとなった。

これはもう、とうとう、お白洲への一本道。

狩野屋が、松本屋義平の名で南町奉行所大岡越前守さまへ、「お恐れながら」と訴え出たのだ。

判決の日。

お奉行は、玄益に申し渡した。

「年季証文が松本屋にあるからは、お奈美を身請けしたことにはならない。身柄は松本屋へ引き渡すのじゃ。よいな」

驚く、玄益ら。

なに、これ。これじゃ、大岡政談にならない。

お奉行はさらに、松本屋にも申し渡した。

「お奈美を治療してもらったのであるから、玄益に薬料、手当て代を支払うように」

その上で、お奉行は玄益にひとこと。

「なみの薬料、手当て代はどれほどじゃ?」

玄益は「そんなの、いりません」と断る。堅物だから。

お奉行はしつこくも「受け取るのじゃ」と言いふくめる。

おっかけて、大家も玄益にけしかける。

「高い値をふっかけなさいよ。ここがお奉行さまの匙加減なんですから」

お奉行が下す。

「試しに算段いたしたところ、薬料は一日に六両、ひと月に百八十両。それに手当て代を一日一両として、月に三十両。お奈美を完治させるのに半年かかったのであるから、お奈美の薬料、手当て代の合計は、千二百六十両である」

これを聞いて、松本屋は腰を抜かした。

「ひ、ひえー」

翌日早々。

狩野屋が大家のもとにやってきて、示談を申し入れた。

勝ち誇ったような言い分の大家。

「あんたは双方から三両ずつ、計六両を懐に入れたんだってね。それはあんたの働きだからいいでしょうよ。だがねえ、膳と瀬戸物を壊したのは間違いなくあんたです。とりわけ猫の皿は高い。しめて千二百六十両いただきやしょう」

狩野屋が「ひ、ひえー、ひえー。ご、ご勘弁ねがいやす」というから、大家が「では、十両で」ということで示談となった。

すごすごと帰る狩野屋。烏が泣いている。

話の顛末をそばで聴いていた大家のかみさんが、大家に話しかける。

「猫の皿は夜店で二文で買ったもんでしょう。それを十両で売るなんて、ずいぶんじゃないですか」
「狩野屋は若先生から三両くすねて、あの始末だ。十両くらいじゃ、まだ足りねえんだよ」
「はいはい。それはそうと、こんなに丸くおさまるというのも、お大岡さまのありがたい、匙加減のおかげですねえ」
「そうだなあ。みんなが、すくわれた(=救われた)」

匙だけに。

【知りたい】

もとは講談ネタ

六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)が、六代目小金井芦州(岩間虎雄、1926-2003)から習って落語に仕立て上げたそうです。

円窓以外には入船亭扇辰なども演じています。

匙加減の意味

「匙加減」とは、「薬の調合の加減」の意味。そこから転じて、「手加減」という意味にもなっています。

この噺では、両義がうまく「匙加減」されています。なかなかのもんです。



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