【片棒】

かたぼう

成城石井

【どんな?】

ケチ兵衛が三人の息子に問います。
おれの葬式はどうする。
はてさて、誰の案を採用するか。


別題:あかにしや

★★

成城石井

【あらすじ】

赤螺屋ケチ兵衛という男。

一生食うものも食わずにためこんだが、寄る年波、そろそろ三人の息子の誰かに身代を譲らなくてはならなくなってきた。

かといって、いまのままでは三人の料簡がわからず、誰に譲ったらよいものやら迷う。

そこで、ある日。

息子たちを呼んで、「おれが、仮に、もし、明日にでも目をつむったら、あとの始末はどうするつもりか、一人ずつ聞かせてもらいたい」と言った。

まず、長男。

「おとっつぁんの追善に、慈善事業に一万両ほど寄付します」

そんなことを言い出したから、おやじは度肝を抜かれた。

「葬式もすべて特別あつらえの豪華版でさ。袴も紋付きも全部、新しくこしらえて、料理も黒塗り金蒔絵の重箱に、うまいものをぎっしり詰めて、酒も極上の灘の生一本。そのうえ、車代に十両ずつ、しめて三千人分……」

ケチ兵衛、倒れる寸前。

「と、とんでもねえ野郎だ。葬式で身代をつぶされてたまるか」

お次は、次男。

こいつはお陽気に「歴史に残る葬式にしたいもんです」と言い出した。

おやじは、またも嫌な予感。案の定。こんなぐあいだ。

葬式に紅白の幕を飾ったうえ、盛大な行列を仕立てて、木遣り、芸者の手古舞に、にぎやかに山車や神輿を繰り出して、ワッショイワッショイ。四つ角まで神輿に骨を乗せて担ぎ出す。拍子木がチョーンと入ったあと、親戚総代が弔辞で「赤螺屋ケチ兵衛クン、平素、蘇軾に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良のため、おっ死んじまった。ざまあみ……もとい、人生おもしろきかな、また愉快なり」と述べると、一同そろって「バンザーイ」。

「この野郎、七生まで勘当だッ!」

次ッ、三男。

「おい、おまえだけが頼りだ。兄貴たちのばか野郎とは違うだろうな」
「当然です。あんなのは言語道断。、正気の沙汰じゃありません」

おお、やっと、まともなのが出てきたか。跡取りはこいつに決まった。と、おやじは安心しかかった。

「死ぬってのは、自然に帰るんですから、りっぱな葬式なんぞは要りません。死骸は鳥につっつかせて自然消滅。チベットなんかでやってる鳥葬ってやつ。これがいちばん」
「おいおい、まさか、それをやるんじゃ」
「しかたないから、お通夜は出しますが、入費がかかるから、一晩ですぐ焼いちまいます。出棺は11時と言っといて8時に出しちまえば、菓子を出さずに済みます。早桶は菜漬けの樽の悪いので十分。抹香は高いから、かんな屑で。樽には荒縄を掛けて、天秤棒で差し担いにしますが、人手を頼むと金がかかりますから、あたしが片棒を担ぎます。うーん、ただ、あとの棒がいません」
「なぁに、心配するな。おれが出て担ぐ」

底本:九代目桂文治

成城石井

【しりたい】

原話は

宝永2年(1705)刊行の笑話本『軽口あられ酒』中の「気儘な親父」。

落語としては、明治末期にできたと思われますが、作者は不明です。

赤螺屋

赤螺は浅海産のタニシ。卵嚢を薙刀酸漿と呼びます。

お金を握って離さないケチを、タニシが殻を閉じて開かないさまにたとえたもの。

落語では、登場するケチ野郎の代名詞。

死ぬなら今」「あたま山」など多くに登場します。

上方ではケチは当たり前なので、吝嗇をテーマにした噺は発達しなかったとされています。

別名では、しわいや、しわいの根っこ、しわ株、など。

葬式

かつては会葬者に、上戸には土瓶の酒、下戸には饅頭、全員にこわ飯と煮しめなどの重箱を配りましたが、いまは都市部ではすたれました。

落語では、「黄金餅」など、弔いの場面によく出てくることばに、「仏を長く置いとくと、それだけめんどうで金もかかるから、今夜のうちに(棺を)出しちまおう」というのがありますが、ケチではなくとも、ぐずぐずして会葬者が増えれば、それだけ出すものも出さねばならず、経費もかかる勘定です。

ちなみに、だいぶ時代は下りますが、『明治大正昭和・値段の風俗史』(朝日新聞社)によれば、教員の初任給が40-45円であった昭和3年(1928)頃に、祭壇の三壇飾りが30円とありますから、葬儀費用はがかにならないものだったようです。

演者は

各時代の噺家がくすぐりをそれぞれに付け加え、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が構成したものが、現行の一般的なテキストになっています。

ちなみに、三代目金馬は本所(墨田区本所)の出身です。

九代目桂文治(高安留吉、1892-1978、留さん)も、自身がケチだったということもあって、この噺を得意にしていました。ここでは、九代目文治のテキストを使いました。

ちなみに、九代目文治は落語協会所属でしたが、日本橋小伝馬町(中央区日本橋小伝馬町)の生魚店の生まれ。

最近では、多くの噺家が手掛けています。その端緒は春風亭小朝で、マクラで約半分の時間を費やし、結婚式からそれとなく葬式の話題にうつろわせ、いきなり本編に入ってさっさとオチまで駆け上る、スピーディーな展開です。きわどい笑いを振りまきます。次男に「バンザイ」のくだりをしっかり付けておいて、型を崩してはいません。

歴代のくすぐり

葬式に山車を出す場面を入れたのは、三遊亭銀馬(大島薫、1902-1976)。

ちなみに、銀馬は浅草の生まれ。大正9年(1920)、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)に入門して、桂文弥→桂文馬。そののち、二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)門で三遊亭金糸→金枝(文字を替えただけ)。昭和8年(1933)には、兄弟子の三代目三遊亭金馬門で三遊亭円洲→銀馬、と変遷した人でした。

「バンザーイ」とやってのけたのは、九代目文治。文治のくすぐりは、ほかにも、飛行機から電気仕掛けで垂れ幕を出したり、とかく、はででした。鳥につつかせる鳥葬というネタを三男にしゃべらせたのも、九代目文治でした。

これらとは別に、長男は松太郎、次男は竹次郎、三男は梅三郎と、松竹梅でそろえる仕掛けもあります。

成城石井

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