【碁泥】ごどろ 落語演目 あらすじ

 

【どんな?】

滑稽噺の代表格。昔はマクラに使われていたとか。

別題:碁盗人 碁打ち盗人(上方)

【あらすじ】

碁仇ごがたき(囲碁の好敵手)のだんな二人。

両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づかない。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決める。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。

「マッチがないぞ」
「たばこを持ってこい」

閉口したかみさん。

一計を案じ、マクワウリを小さく切って運ばせた。

二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かける。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁好きの泥棒。

誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとした。

すると、聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音。

矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。

風呂敷包みを背負ったままノッソリ中に入り込むと、観戦だけでは物足らず、いつしか口出しを始める。

「うーん、ふっくりした、いい碁石だな。互先ですな。こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目、助言はご無用、と。おや、あんまり見たことのない人だ、と。大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

おじさん、そこおかしいよ!

原話は不詳です。

上方噺「碁打ち盗人」を三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、大阪の四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)に教わり、大正2年(1913)ごろ、東京に移しました。

小さんは、はじめは「芝居道楽」などのマクラとして演じていましたが、後に独立させました。

大正2年と、晩年の13年(1924)の速記が残っていますが、最初の演題は上方にならって「碁盗人」でした。

両国の立花家でこの噺を演じたところ、十五、六の少年に、碁を打つ手の行き方が、碁盤に対して高すぎると注意され、その後きちんと碁盤の高さを計ってやるようになったと、大正13年の方のマクラで述べています。

生意気なガキですが、前世の談志だったかも?

小さん相伝の噺

小さんのうまさは、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)をして「もうあたしは『碁泥』はやらない」と言わしめたほどだったといいます。

ただ、同じようなことを「笠碁」に対して三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が言ったという話もあるので、あるいは混同されて伝わった逸話かもしれません。

門弟の四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、孫弟子の五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)と継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。

先の大戦後には、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も得意にしていましたが、小円朝は、最初の泥棒の助言に対して、主人が言葉で答えず、石を持った右手を耳の辺りで振ってみせるやり方でした。

上方では、現在はあまり演じられないようです。

煙草盆

たばこぼん。

炭火を灰で埋めた小型の火鉢と、吸殻を捨てる竹筒(灰吹き)を入れた四角の灰皿です。

歌舞伎の小道具として、よく舞台で見られますね。

現代は灰吹がほとんど見られなくなりました。

かつて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやった、「畳に火玉が落ちたよ」「ハイ、フキましょう」というくすぐりも、理解されにくくなっています。

泥棒の語源

泥棒にもピンからキリまであります。

おかめ団子」の主人公のように、本当に出来心でフラリと入ってしまうのが「空き巣ねらい」です。

計画的に侵入する盗賊より罪が軽く、盗んだ金額にもよりますが、江戸時代には初犯なら百たたきで勘弁してもらえることが多かったようです。

「どろ」は「どら」「のら」と同義語で、もともと怠け者の意。

怠惰で、まともに働く意欲がないから盗みに入るという解釈から。

古くは「泥た棒」「泥たん棒」「泥つく」とも呼び、イカサマ師やペテン師、スリなども合わせて「泥棒」ということがありました。

泥棒伯円と教導職

幕末から明治にかけて白浪(=盗賊)ものを得意にした講釈師、二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905)は「泥棒伯円」とあだ名され、お上から「副業」にやっているのではないかと疑われたほどでした。

ところが、後に明治政府の肝いりで教導職となって「忠君愛国講談」に転向、明治天皇御前口演までやってのけました。

彼が手掛けた泥棒は、鼠小僧、稲葉小僧はじめ大物ばかりで、コソ泥などいません。

このことからも講談と落語の違いが明白です。

ちなみに、噺家のほうで教導職を命じられたのは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)でした。

明治3年(1870)に、天皇の意思ということで神祇官が「大教宣布の詔」を発布しました。

神道を利用して日本国民の心をひとつにしようという運動です。

大教宣布運動と称したこの運動は、明治5年(1872)には、教部省の下に大教院(研修所の本部)が設けられました。

芝の増上寺境内に大教院が建てられ、地方都市には中教院がつくられました。

大教院や中教院では、宣教使(布教する人)や教導職(国民を教化する人)が研修を受けました。

教導職は日本中の神官と僧侶が任命されたのですが、それ以外にも、人々の生活や心情に影響を及ぼす演芸界からも教導職が任命されました。

講談からは伯円、落語からは円朝でした。

円朝が、陰惨な仇討ちものをつくりながらも、「塩原多助一代記」のようなありがたいような噺をつくったのは、そのような趨勢とかかわっていました。

この流れは、明治維新とともに始まった廃仏毀釈が、極端な神道優先の世に変容しました。

あまりにも極端なためにさまざまな不具合が生じて、やがては失速し、明治8年(1875)には大教院が廃されました。

浄土真宗の島地黙雷たちが政府内に入り込んで急速に巻き返したことが主因でした。

明治17年(1884)には教導職も廃されました。

極端思想の国学者と洋行帰りの僧侶との文化闘争だったともいえるでしょう。

円朝と伯円の「教導職」は10年余でしたが、その間、彼らの内外に吹き及んだ出来事は、少なからぬ影響を残しています。

互先

実力の同じレベルの二人が、交互に白を持って先番になる取り決めです。

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