【へっつい幽霊】へっついゆうれい 落語演目 あらすじ

 



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【どんな?】

昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。

そう、出そうでしょ、あそこ。

あらすじ

ある道具屋から買ったへっつい(竃=かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ、目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半せっぱんするからと因果いんがを含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若旦那は吉原へ、熊公は博打場ばくちばへそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白いやつがスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

うしどきになると、へっついから青白い陰火いんかがボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、うらめしいとかなんとか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越とりこえに住んでいたとめといって、表向きは左官さかんで裏は博打打ち。

それも、ちょうよりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場とばで三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期さいご、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持ちが中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつては玄人くろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁いっちょう頼みます」
「かんべんしてもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

しりたい】 

原話は墓で博打

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時ぞくだんことしばなし』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善ついぜんに、博打びたりだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束しにしょうぞくをカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻き上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏じょうぶつしろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、そのへんが東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は、このサゲを用いていました。

円生と三木助が双璧

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)がこの噺の双璧そうへきといえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じ博打噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也(1929-89)の小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていました。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してあるさいを「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火しろむくてっか、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。

阿佐田哲也について少々

今は昔。本名は色川武大。

『金瓶梅』の武大郎からつけられた名前だと本人は言っていましたが、元海軍大佐の親父がそんなしゃれたことをするものかどうか。

牛込区(新宿区)矢来町の生まれで、博才と文才で人生と貫いた稀有な人です。

博打小説では阿佐田哲也、娯楽小説では井上志摩夫、マージャン講座ものでは雀風子、その他の小説では色川武大、とそれぞれ書き分けていました。

1978年には色川武大名義で直木賞を。89年4月、岩手県の新居に移って10日後に亡くなってしまいました。

なんといっても。落語絡みでこの人のすごいのはこれ。

71年8月31日の国立劇場小劇場での第五次落語研究会、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の最後の高座となった「大仏餅」の、「神谷幸右衛門」の名を言い出せずに絶句した、あの場面に居合わせていたことでしょう。

こんな歴史的瞬間に立ち合える人の特異性は、なんと申しましょうか、やはりものすごくツキを呼んでくる人なのだと思います。

この人そのものが、まるで賽の目と運否天賦の転がりだったのではないでしょうか。世間や人生というものはなかなかに侮れません。



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