【搗屋無間】つきやむげん 落語演目 あらすじ
【どんな?】
搗き米屋の男が花魁にぞっこん。
通い倒したその果ては。
褒められない廓噺。
「無間」とは無間地獄の略。
「無間」は「たえまない」「終わりなし」の意。
別題:無間の臼
【あらすじ】
信濃者の徳兵衛。
江戸は日本橋の搗き米屋・越前屋は十三年も奉公しているが、まじめで堅い一方で、休みでも遊びひとつしたことがない。
その堅物が、ある日、絵草紙屋でたまたま目に映った、
今、吉原で全盛を誇る松葉楼の花魁、宵山の絵姿にぞっこん。
たちまち、まだ見ぬ宵山に恋煩い。
心配しただんなが、気晴らしに一日好きなことをしてこいと送り出したが、どこをどう歩いているかわからない。
さまよっているうち、出会ったのが知り合いの幇間・寿楽。
事情を聞くとおもしろがって、なんとか花魁に会わせてやろう、と請け合う。
大見世にあがるのに、
「米搗き男ではまずいから、徳兵衛を木更津のお大尽という触れ込みにし、指にタコができているのを見破られるとまずいから、聞かれたら鼓に凝っていると言え」
など、細々と注意。
「あたしの言うとおりにしていればいい」
と太鼓判を押すが、先立つものは金。
十三年間の給金二十五両を、そっくりだんなに預けてあるが、まさか女郎買いに行くから出してくれとも言えないので、店の金を十五両ほど隙を見て持ち出し、バレたら、預けてある二十五両と相殺してくれと頼めばいいと知恵をつける。
さて当日。
徳兵衛はビクビクもので、吉原の大門でさえくぐったことがないから、廓の常夜灯を見て腰を抜かしたり、見世にあがる時、ふだんの癖で雪駄を懐に入れてしまったりと、あやうく出自が割れそうになるので、介添えの寿楽の方がハラハラ。
なんとかかんとか花魁の興味をひき、めでたくお床入り。
翌朝。
徳兵衛はいつまた宵山に会えるか知れないと思うと、ボロボロ泣き出し、挙げ句に、正直に自分の身分をしゃべってしまった。
宵山、怒ると思いのほか、
「この偽りの世の中に、あなたほど実のある人はいない」
と、逆に徳兵衛に岡惚れ。
瓢箪から独楽。
それから二年半というもの、費用は全部宵山の持ち出しで、二人は逢瀬を続けたが、いかにせん宵山ももう資金が尽き、思うように会えなくなった。
そうなると、いよいよ情がつのった徳兵衛。
ある夜、思い詰めて月を眺めながら、昔梅ケ枝という女郎は、無間の鐘をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、庭にあった大道臼を杵でぶっぱたく。
その一心が通じたか、バラバラと天から金が降ってきて、数えてみると二百七十両。
「三百両には三十両不足。ああ、一割の搗き減りがした」
【しりたい】
わかりにくいオチ 【RIZAP COOK】
「無間」とは無間地獄の略。「無間」そのものは「たえまない」「終わりなし」の意味です。
明治25年(1892)7月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。
ただ、小さんのやり方では、金がどこから降ったかはっきりしないので、戦後、この噺を得意にした八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)は、だんなが隠しておいた金とし、金額も現実的な三十両としました。
八代目柳枝は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022、春風亭枝女吉→三遊亭吉生)や三遊亭圓彌(林光男、1936-2006、春風亭枝吉→舌生)の最初の師匠です。
「搗き減り」の割合は、現行では二割とするのが普通になっています。
「搗き減り」というのは、江戸時代の搗き米屋が、代金のうち、玄米を搗いて目減りした二割分を、損料としてそのまま頂戴したことによります。
実際は普通に精米した場合、一割程度が米の損耗になりますが、それではもうけがないため、二割と言い立てたわけです。
オチは、したがって普通なら利益のはずの「搗き減り」が、文字通りの損の意味に転化する皮肉ですが、これが現代ではまったく通じません。
そこで、「仕込み」と呼ぶあらかじめの説明が必要になり、現在ではあまり演じられません。
三遊亭円窓が春風亭柳枝のやり方を継承しました。
原話は親孝行、落語はバチあたり 【RIZAP COOK】
原話は、現在知られているものに三種類あります。
まず、安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「台からうす」、ついで、『春笑一刻』中の無題の小咄。『春笑一刻』は、狂歌で名高い大田蜀山人(南畝、1749-1823)がものした笑話本です。安永7年(1778)刊。
現行により近いのが、天保15(1844)年刊『往古噺の魁』中の「搗屋むけん」です。
前二者は、貧乏のどん底の搗き米屋が、破れかぶれで商売道具の臼を無間の鐘に見立て、杵でつくと奇跡が起こって小判が三両。
大喜びで何度もつくと、そのたびに出てくる小判が減り、しまいには一分金だけ。「はあ、つき減りがした」というもの。
天保の小咄になると、金が欲しい動機が、女郎買いの資金調達ではなく、年貢の滞りで三十両の金を無心してきている父親への孝心という、まじめなものである以外は、ほぼ現行通りです。
この動機が女郎買いに変わったのは、前記の俗曲「梅ヶ枝の…」が流行した明治前期からといわれます。
搗屋 【RIZAP COOK】
つきや。搗き米屋のことです。普通にいう米屋で、足踏み式の米つき臼で精米してから量り売りしました。
それとは別に、出職(得意先回り)専門の搗屋があり、杵と臼を持ち運んで、呼び込まれた先で精米しました。
「小言幸兵衛」のオリジナルの形は、搗き米屋が店を借りにきて一騒動持ち上がるので、別題を「搗屋幸兵衛」といいます。
無間の鐘 【RIZAP COOK】
むげんのかね。東海道は日坂宿に近い、文字の中山峠の無間山観音寺にあったという、伝説の鐘です。撞けば現世で大金を得られるものの、来世では無間地獄に堕ちると言い伝えられていました。
この伝説を基にして、浄瑠璃・歌舞伎の『ひらかな盛衰記』四段目「無間の鐘」の場が作られました。
主人である源氏方の武将・梶原源太と駆け落ちした腰元・千鳥が、身を売って遊女・梅ケ枝となりますが、源太のためになんとか出陣の資金・三百両を調達したいと願い、手水鉢を無間の鐘に見立ててたたきます。するとアーラ不思議、天から小判の雨あられ。
これは実は、源太の母・延寿が情けで楼上からまいたもの、というオチです。明治期にはやった、「梅ヶ枝の 手水鉢 たたいてお金が出るならば……」という俗曲は、この場面を当て込んだものです。
絵草紙屋 【RIZAP COOK】
えぞうしや。江戸のブティックといったところです。
「権助魚」参照。絵草紙屋の店番には、たいてい看板娘や美人の女房がいたので、女性や子供の行く店にもかかわらず、なぜか日参する、鼻の下の長い連中が多かったとか。
そのせいか、風紀紊乱のかどで文化元年(1804)、お上から絵草紙屋の取り締まり令が出されています。
なかには、枕絵など、いかがわしいものを売る店も当然あったのでしょう。
大道臼 【RIZAP COOK】
おおどううす。搗き米屋が店の前に転がしておく、米搗き用の大臼です。
からだの大きな者、特に相撲取りをあざけり、罵って言う場合もあります。
「ハンショウドロボー」「ウドノタイボク」をもっと強めたニュアンスでしょう。
黙阿弥の歌舞伎世話狂言『め組の喧嘩』では、頭の辰五郎以下、鳶の面々が、相撲取りとの出入りで、この言葉を連発します。
信濃者は大食い 【RIZAP COOK】
しなのもの。信州人、信濃人、信州者とも。
信濃=信州は長野県のことですが、あそこの人々はいまだに長野県といわずに旧国名の「信州」と言ったりしています。
旅行者も「信州に行ってきました」などと言うことがあります。奇妙です。
旧国名から命名した国立大学は、ここにしかありません。信州大学。不思議です。
福島県西部、会津地方の人も自分の出身地を「福島県です」といわずに「会津です」というのは、これまた不思議です。
こちらにも会津大学とかいうのがありますね。
「会津です」をくさす作品に、『けんかえれじい』があります。
鈴木隆(1919-98)が昭和41年(1966)に発表した小説(理論社→TBS出版会→角川文庫→岩波現代文庫)です。
この作品は、鈴木清順(1923-2017)の監督、高橋英樹の主演で映画(日活配給、1966年)にもなりました。
鈴木は童話作家ですが、旧制岡山中学(岡山県立岡山朝日高校)から旧制喜多方中学(福島県立喜多方高校)に転校した自らの体験をもとに、自伝的長編小説として『けんかえれじい』を発表しました。小説も映画も痛快です。
それはともかく。
俗説では、信濃者は大食いなんだそうです。落語や川柳でのお約束です。この、「お約束」をあらかじめ知っておくことが、大切なんですね。
喰ふが大きいと信濃を百ねぎり 十六02
大食いだから給金を値切った、というわけ。
小所で信濃を置いて喰ぬかれ 七09
「小所」は小規模の店。
冬の間中、力仕事用に信濃から来た男を安い給金で雇ったのに大食いのため、結局高くついてしまった、というわけ。
冬の内月三斗づつくいこまれ 二十19
こちらも冬の間中、大食いの信濃者に食い込まれてしまった、という句。ずいぶんな言われようです。