【死ぬなら今】しぬならいま 落語演目 あらすじ
【どんな?】
死は人生最大の難問。
でも、落語にかかれば、どうってことない。
【あらすじ】
吝嗇屋の吝兵衛という男。
爪に灯をともすようにして金を貯め込んできたが、いよいよ年貢の納め時が来た。
せがれを枕元に呼び、寿命というものはどうにもならない。
「わたしも、突き飛ばしておいて転がった人の上にずかずか乗るような醜いことまでして、これだけの財産をこしらえたが、もう長くないので、おまえに一つ頼みがある」
と言う。
「どうだろう、早桶ン中に三百両、小判で入れてもらえないか」
地獄の沙汰も金次第。
「わたしのような者は必ず地獄におちるだろうが、金をばらまけばひょっとして極楽へ行けるかもしれない」
というわけ。
せがれが承知すると安心したか、ごろっと痰がからまったと思うと、キュウとそのままになってしまった。
いわゆる、ゴロキュウ往生。
湯灌も済み、白い着物を着せた。
せがれが遺言通りに頭陀袋の中に三百両の小判を入れているところを親類の者が見て
「いくら遺言だからといって、そんなばかなことをしてはいけない」
と、知り合いの芝居の道具方に頼み、譲ってもらった大道具の小判とそっくり入れ替えてしまった。
こちらは吝兵衛。
いつの間にか買収資金がニセ金に替わっているともつゆ知らず、閻魔の庁まで来ると、さっそく呼び出される。
浄玻璃の鏡にかけられると、今までの悪事がこれでもかこれでもかと映るわ映るわ。
「うーん、不届きなやつ」
閻魔大王が閻魔のような顔になったので、さあ、この時と、袖口に百両をそっと忍ばせると、その重みで大王の体がグラリ。
「あー、しかしながらあ、一代においてこれほどの財産をなすというのも、そちの働き、あっぱれである」
がらっと変わったから、鬼どもがぶつくさ不満タラタラ。
それではと、そいつらの袖の下にも等分に小判を忍ばせたので、吝兵衛、無事に天上し、極楽へスーッ。
吝兵衛のまいたワイロで、地獄は時ならぬ好景気。
赤鬼も青鬼も仕事などやめて、のめや歌えの大騒ぎ。
その金が回り回って、極楽へ来た。
ニセ小判であることはすぐに知れたから、極楽から貨幣偽造及び収賄容疑で逮捕状が出た。
武装警官がトラックに便乗して閻魔の庁を襲う。
閻魔大王以下、牛頭馬頭、見る目嗅ぐ鼻、冥界十王、赤鬼青鬼、生塚の婆さんまで、残らずひっくくられて、刑務所へ。
地獄は空っぽ。
だから、「死ぬなら今」
底本:八代目林家正蔵(彦六)
【しりたい】
彦六の残した珍品
民話、民間伝承を基にしたと思われますが、原話は不明です。
もともとは上方落語です。八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助から直伝されましたが、円生は手掛けず、彦六が事実上の東京移植者になりました。彦六の後は孫弟子の春風亭小朝が継承。
本家の大阪では、三代目桂文我から桂春之輔に伝わっています。音源は、残念ながら正蔵のものはなく、上方の桂文我のCDが出ています。いずれにせよ、東西とも継承者の少ない、珍品中の珍品といえるでしょう。
「倒叙型」演出も
推理小説では、犯人が当初から明らかにされる倒叙型という手法がありますが、八代目林家正蔵(彦六)は、たまにこの噺でオチを最初に言う演出をとることがありました。
今回のあらすじで参考にした『林家正蔵集』上巻(青蛙房、1974年)の速記では言っていないため、実際に高座で演ずる場合に客の反応や客ダネを見て判断していたものと思われます。オチが考えオチなので、客に対する配慮でもあったのでしょう。
こうした演出を採る噺は数少なく、東京落語ではほかには、やはり正蔵が手掛けた「蛸坊主」があるくらい。上方落語では「苫ケ島」「後家馬子」があります。
牛頭馬頭
ごずめず。地獄の常連です。
かつては劇画「子連れ狼」の道中陣ですっかりおなじみでしたが、牛頭人身と馬頭人身の地獄の獄卒を合わせてこう呼んだものです。
見る目嗅ぐ鼻
みるめかぐはな。こちらも地獄の常連。
閻魔の庁の裁判官で、先に小旗を付けた矛の上に、人の生首が突き刺さっているグロテスクな姿として描かれます。亡者の善悪をすべて見通すと伝えられています。
冥界十王
めいかいじゅうおう。閻魔大王を最高位とする、地獄の十人の幹部です。以下の通り。
閻魔大王
泰広王
初江王
宗帝王
五官王
変成王
太山王
平等王
都市王
五道転輪王
中央に閻魔が座り、左右にこのお歴々が着席することになっています。