【臆病源兵衛】おくびょうげんべえ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
その昔「臆病」というものは病気だったのでしょうか?
別題:浄行寺
【あらすじ】
「臆病源兵衛」とあだ名がつく男。
大変なこわがりで、日が暮れては戸を閉ざしてガタガタ一晩中震えているし、自分の家では夜は一人で便所にも行けない、というくらい。
退屈をもてあました近所のご隠居。
洒落心といじめ心があるので、ひとつ、この男をこっぴどく脅かしてやろうと、源兵衛の職人仲間の八五郎を抱き込み、一芝居たくらむ。
源兵衛、根は好色で、しかも独り身なので、まず隠居が嫁さんを世話してやると持ちかけた。
源兵衛が渋るのをむりやりに、夕方、自分の家に連れ込んだ。
幽霊が出そうだと、早くも震え出すのをなんとかなだめ、
「俺がここで見ていてやるから、水を汲んできてくれ」
と台所へ行かせる。
おっかなびっくり水瓶に近づくと、暗がりから八五郎の手がニューッ。
逆手に持った箒で顔をスーッとなでたからたまらず、
「ギャアーッ」
源兵衛、恐怖のあまり八五郎にむしゃぶりつき、金玉をギュッと握ったから、八五郎、目をまわした。
ところが隠居もさるもの。
少しもあわてず、これを利用して続編を考えつく。
化け物だと泣き騒ぐ源兵衛に
「ともあれ、おまえが八公を殺しちまったんだから、お上にバレりゃ、打ち首獄門だ。それがイヤなら死骸をつづらに押し込み、夜更けに高輪あたりの荒れ寺に捨ててこい」
と言う。
臆病も命には代えられない。
源兵衛、泣く泣く提灯を片手、念仏を唱えながら葛籠を背負って芝の古寺の前まで来ると、これ幸いとお荷物を軒下に放り棄て、あとは一目散。
そこへ通りかかった、品川遊廓帰りの三人組。
ふと葛籠に目を止めると、てっきり泥棒の遺留品と思い込み、欲にかられて開けてみると手がニョッキリ。
失神していた八五郎が「ウーン」と息を吹き返す。
三人、驚いたのなんの、悲鳴を上げて逃げ出した。
あたりは真っ暗闇。
八五郎は、すっかり自分が地獄へ来てしまったと思い込み、つづらからようよう這いだすと、幽霊のようにうろうろさまよい始める。
たまたま迷い込んだ寺の庭に蓮池があったので、
「ありがてえ、こりゃ極楽の蓮の花だ、ちょいと乗ってみよう」
と、さんざんに踏み散らかしたから、それを見つけた寺男はカンカン。
棒を持って追いかけてくる。
「ウワー、ありゃ鬼。やっぱり地獄か」
やっと逃げ出して裏道へ駆け込むと、そこにいたのは、なかなかいい女。
「姐さん、ここは地獄かい」
「冗談言っちゃいけないよ。表向きは銘酒屋なんだから」
底本:三代目柳家小さん
【しりたい】
やり方 その1
原話はまったく不明で、別題は「浄行寺」。
これは、源兵衛が死骸を捨てていく、芝寺町の古寺の名から取ったものです。
明治大正期では、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)と二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)が得意にしました。
この金馬は俗に「お盆屋の金馬」。
柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)の師匠です。昭和の爆笑王、多彩な人でした。
続いて昭和に入ってからは、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)が手掛けました。
あらすじでは、明治30年(1897)の三代目小さんの速記を参照しました。
二代目金馬のやり方は、後半が違っていて、葛籠が置き去りにされるのは浅草寺の境内、開ける二人は赤鬼と青鬼の扮装で脅かして金をせびる物乞いになっています。
逃げ込む先は付近の人家ですが、出てきたのが地獄のショウヅカの婆さん(奪衣婆)そっくりの奇怪な老婆。
八五郎は自分も白装束なので、てっきり死んだと思い込み、「ここは地獄ですか」と聞くと、「いいえ、だんな(娘)のおかげで極楽さ」というオチになります。
やり方 その2
つまり、娘が囲われ者で、母親まで楽をさせてもらっているという食い違いですが、どちらにしても初めに説明しておかないと、現在では通じません。
前半は、「お化け長屋」や「不動坊」のように、臆病者を脅かすおもしろ味がありますが、後半がこのように古色蒼然としているため、八代目文治以後はまったくすたれていたのを、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が復活し、後者のオチで演じていました。
今度こそもう継承者はないだろうと思ったら、桃月庵白酒が2005年11月、落語研究会の高座で熱演。
こうした埋もれた噺が、意欲的な若手中堅によって次々に復活されるのは頼もしいかぎりです。
銘酒屋
五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)なんかは、「めいしや」と言っているように聞こえます。
下町の人々はそう呼んでいたようです。
曖昧屋ともいい、ゴマカシのために申し訳程度に酒を置き、酌婦は娼婦も兼ねました。
日本人の好きなダブルスタンダードです。
ソープと言いながら売春しているという、アレ。
じつは誰でも知っていることながら、公には言わないという、アレです。
その伝にならえば。
銘酒屋は、「銘酒を売ります」という意味の「銘酒屋」の看板を掲げて飲み屋のふりをしながらも、私娼を抱えて売春する店のことです。
呑み屋ではなく、売春屋です。
明治から大正期、東京市を中心にありましたが、関東大震災(1923年)で、銘酒屋のほとんどが倒壊しました。
銘酒屋と同じ趣旨で私娼を置いたあやしげな店は、小料理屋、遊技場、新聞縦覧所、碁会所などにもあったそうです。
看板から見れば居酒屋のように見えても、世間が「銘酒屋=売春の店」と承知すれば、銘酒屋の中は魔窟となり、酒や肴は通り一遍の添え物となります。
震災前までは、浅草の十二階の下のあたりは銘酒屋ばかりだったそうです。
銘酒屋の始まりは矢場からです。
江戸後期から、浅草、芝、両国などで矢場(楊弓店)で接客した矢場女(矢取り女)が、ついでに売春もしたことで私娼となっていったのが、そもそもの始まりでした。
次第に、銘酒屋のほうがちゃぶ台、茶棚、長火鉢などを用意すれば成り立つことから安直となり、私娼窟の中心は、矢場から銘酒屋に移っていきました。
矢場がほぼ完全にすたれたのは、明治20年(1887)頃からです。
明治20年代から「銘酒屋」の看板が、東京市中で見るようになっていきました。
日清、日露の二つの戦争が、男たちの心身をささくれだたせて客にしたてさせ、戦争がきっかけで転げ落ちた女の受け皿となって、銘酒屋は機能しました。
浅草公園五区(奥山地区)、公園六区、浅草千束町あたりで増えていき、震災前までその繁栄をほしいまでにしました。
東京ではほかに、芝愛宕、芝神明前、日本橋馬喰町、小石川指ヶ谷などにもありました。
たとえば、小石川指ヶ谷。
明治4年(1871)、東京砲兵工廠(後楽園スタヂアム→東京ドーム)ができると、小石川区指ヶ谷(文京区白山)には工廠の工員を相手にした銘酒屋ができていきました。
当然、日清、日露の戦争を契機に、銘酒屋の街を形成していったものです。
昼は小銃をつくり、夜は短銃を撃つ。
樋口一葉は、指ヶ谷に隣接する丸山福山町(文京区白山一丁目、西片一丁目)に、亡くなるまで住みました。
「にごりえ」では、丸山福山町の銘酒屋の女、お力と客の源七の物語です。
震災後でも、東京が復興してモダン都市にさま変わりする昭和初期までは、銘酒屋の呼び方が残っていたようです。
銘酒屋は私娼窟ですから、先の大戦後は、十把一絡げに「青線」と称されていました。
さて。
銘酒屋を「地獄宿」、女を「ジゴク」「ジゴクムス」とも呼んだため、そこの女将が勘違いしたというのが、「臆病源兵衛」のオチです。
小さんのくすぐり
源兵衛が隠居に、ことが露見すれば死罪だと脅されて、
「キンタマぁ二つあるから、おまえさんと一つずつ握りつぶしたということに……」 (三代目柳家小さん)
【語の読みと注】
箒 ほうき
葛籠 つづら
銘酒屋 めいしゅや