【もう半分】もうはんぶん 落語演目 あらすじ
【どんな?】
ゾゾゾとする怪談噺。
陰にこもってものすごく……。
別題:五勺酒 正直清兵衛(類話)
【あらすじ】
千住小塚っ原に、夫婦二人きりの小さな居酒屋があった。
こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。
その夜も、このところやって来るぼてふり(棒手振り)の八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていく。
この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。
薄気味悪いが、お得意のことだから、夫婦とも何かと接客してやっている。
爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、五十両入りの包みが置き忘れてある。
「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。
「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。あたしにまかせておおきよ」
女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、自分に働きがないだけに、文句が言えない。
そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んでくる。
女房が気強く
「金の包みなんてそんなものはなかったよ」
と言っても、爺さんはあきらめない。
「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」
と泣いて頼んでも、女房は聞く耳持たず追い返してしまった。
亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、すでに遅く、千住大橋からドボーン。
身を投げてしまった。
その時、篠つくような大雨がザザーッ。
「しまった、悪いことをしたッ」
と思っても、後の祭り。
いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。
顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。
それがギョロっとにらんだから、女房は
「ギャーッ」
と叫んで、それっきりになってしまった。
泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つかない。
何人目かに、ようようわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」
と言う。
さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、行灯から油皿をペロペロ。
思わず
「こんちくしょうめッ」
と飛び出すと、赤ん坊がこっちを見て
「もう半分」
底本:五代目古今亭志ん生
【しりたい】
志ん生得意の怪談噺
原話は、興津要(1924-1999、江戸文学)の説にれば、井原西鶴(1642-93)『本朝二十不孝』巻三(貞享3=1686年刊)の「当社の案内申す程をかし」とのことですが、明確ではありません。
明治期には初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)、昭和期には五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が好んで演じました。
志ん生は、後半の陰惨な印象をやわらげるためか、居酒屋のガラガラ女房がネコババをためらう亭主に「いやにおまいさん正直だね。正直だと一生貧乏すんだよ。この正直野郎」などと毒舌を吐く場面で少しでも笑いを多く取ろうとしていました。
五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)も「ねぎまの殿さま」と並ぶ数少ない古典のネタとして演じ、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のレパートリーでもありました。
今輔はあの独特のしゃがれ声が怪談噺にマッチしてかなり凄みがありました。
馬生は、最後に赤ん坊がニタリと笑う顔が消え入りそうな「もう半分」の声とともにブキミでした。
円左、金馬、小三治などは居酒屋を永代橋の橋際、身投げの場所も永代橋に設定していました。
正直清兵衛
明治40年(1907)7月号の「文藝倶楽部」に載った五代目林家正蔵(長命で知られ、俗に「百歳正蔵」)の速記「正直清兵衛」が「もう半分」と酷似しています。
あらすじは以下の通り。
本所林町の青物商・清兵衛は借金返済のため娘が身売りしてつくってくれた十五両を居酒屋に置き忘れてしまう。居酒屋の主人夫婦は知らぬ存ぜぬを押し通し、主人の忠右衛門は、泣く泣く帰る清兵衛を追って刺し殺した。その後生まれた赤ん坊は白髪で顔中皺だらけ。この子が成長して忠右衛門夫婦を殺し、あだを討つ。
いやまあ、凄惨な噺ですが、どちらが先にできたのか、また、この噺が「もう半分」とどういう関係にあるのかは、まったく不明です。
千住小塚っ原
志ん生が居酒屋の場所にしていますが、現在の荒川区南千住で、江戸時代は千住宿の下宿と称し、千住大橋の南詰めに位置します。
有名なお仕置き場(処刑場)がありました。北詰めの足立区北千住は、上宿と呼ばれました。
棒手振り
ぼてふり。天秤棒で商品をかついで売り歩く小商人、行商人です。
店舗を持たない零細な魚屋、八百屋などはすべてこれで、落語ではおなじみの存在ですね。