ぬけすずめ【抜け雀】落語演目

 成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

旅籠に泊まった男、実は無一文。
宿代代わりに衝立に雀の絵を描いた。
「売るな」と言って去る。
その雀が衝立から飛び出す。
評判となり旅籠は大繁盛。
宿泊の老人が「雀は死ぬ」と。
この老人、何者?

別題:雀旅籠(上方)

あらすじ

小田原宿おだわらしゅくに現れた若い男。

色白で肥えているが、風体ふうていはというと、黒羽二重くろはぶたえは日に焼けて赤羽二重。紋付きも紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠はたごの主人。

男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と大きなことを言う。

案内すると、男は、
「おれは朝昼晩一升ずつのむ」
と宣言。

その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。

こうなると、そろそろ、かみさんが文句を言い出した。

「危ないから、ここらで内金を入れてほしいと催促してきな」
と気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男は
「金はない」
「だってあなた、百両預けようと言った」
と亭主が泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろう、と」

男の商売は絵師。

「抵当に絵を描いてやろうか」
と言い出し、新しい衝立ついたてに目を止めて、
「あれに描いてやろう」

それは、江戸の経師きょうじ屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。

「どうだ」
「へえ、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、二階で雀の鳴き声がする。

はて変だ、とヒョイと見ると、例の衝立が真っ白。

どこからか雀が現れ、何と絵の中に飛び込んだ。

これが宿場中の評判を呼び、見物人がひっきりなし。

ある日、六十すぎの品のいい老人が泊まり、絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちるという。

「書き足してやろう」
すずりを持ってこさせ、さっと描いた。

「あれは、なんです」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥籠とりかごだ」

なるほど、雀が飛んでくると、鳥籠に入り、止まり木にとまった。

老人、
「世話になったな」
と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、とうとう藩主、大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を二千両で買うとの仰せ。

亭主は腰を抜かしたが、律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ、と売らない。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重というりっぱな身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」

見ると、あの時の絵師だから、亭主はあわてて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥籠を描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不幸の段、お許しください」

聞いてみると、あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、雀を描いたのも名人だが、鳥籠を描いたのも名人だと言ってました。親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「なにが、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親を籠書かごかき(=駕籠舁かごかき)にした」

しりたい

知恩院抜け雀伝説  【RIZAP COOK】

この噺、どうも出自がはっきりしません。

講釈ダネだという説もあり、はたまた中国の黄鶴楼伝説が元だと主張なさる先生もあり、誰それの有名な絵師の逸話じゃとの説もありで、百家争鳴、どの解説文を見てもまちまちです。

その中で、ネタ元として多分確かだろうと思われるのが、京都・知恩院七不思議の一で、襖絵から朝、雀が抜け出して餌をついばむという伝説です。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の「子別れ・上」の中で熊五郎が、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、俗謡めいて言っていますから、有名だったのでしょう。

襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18年(1641)の創建ですから、描いたのはおそらく京都狩野派の中興の祖・狩野山雪かのうさんせつ(1590-1651)でしょうが、不詳です。

志ん生は父子相伝  【RIZAP COOK】

落語として発達したのは上方で、したがって、上方では後述のように昔から多くの師匠が手掛けています。

東京では五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、文字通りワンマンショーです。

なにしろ、明治以後、志ん生以前の速記は事実上ありません。

わずかに「明治末期から大正初期の『文芸倶楽部』に速記がある」といったいいかげんな記述を複数の落語評論家がしていますが、明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは、誰も知らないようです。

つまり、上方からいつごろ伝わり、志ん生がいつ、誰から教わったのか、ご当人も忘れたのか、言い残していない以上、永遠の謎なのです。

要は志ん生が発掘し、育て、得意の芸道ものの一つとして一手専売にした、「志ん生作」といっていいほどの噺といえます。

東京の噺家では十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の兄弟が「家の芸」として手掛けたくらいです。まさに父子相伝。

志ん生の「抜け雀」の特色は、芸道ものや名人噺によくある説教臭がなく、「顔の真ん中にぴかっと」というセリフが、絵師、かみさん、老人と三度繰り返される「反復ギャグ」を始め、笑いの多い、明るく楽しい噺に仕上げていることでしょう。

特に「火焔太鼓」を思わせる、ガラガラのかみさんと恐妻家の亭主の人物造形が絶妙です。

志ん朝は『志ん朝の落語・6』(ちくま文庫)の解説で京須偕充きょうすともみつ氏も述べている通り、父親(志ん生)のやり方(演出)を踏まえながら、より人物描写の彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の「抜け雀」をつくっています。

上方の「雀旅籠」  【RIZAP COOK】

上方の「雀旅籠すずめはたご」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど違いはありません。

特に桂文枝代々の持ちネタで、三代目桂文枝(橋本亀吉、1864-1910)のほか、二代目立花家花橘(菱川一太郎、1884-1951)、二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)も、得意にしていたといいます。

五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)ももちろん手掛けましたが、特に米朝のは、四代目桂文枝(瀬崎米三郎、1891-1958)譲りでした。

私が教わったのでは、雀は室内を飛びまわるだけで、障子を開けるとバタバタと絵へ納ってしまうのですが、私は東京式に一ぺん戸外へ飛び出すことにしました。

米朝はこんな芸談を残しています。ギャグも含めて東京の、つまり志ん生の影響が多分にあるようです。題も「抜け雀」で演じます。

「親にかごかかせ……」  【RIZAP COOK】

「親をかごかきにした」というオチの部分の原話は、上方落語の祖・初代米沢彦八よねざわひこはち(?-1714)が元禄16年(1703)に刊行した『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』巻二中の「山水の掛物」といわれます。

これは、ある屋敷で客の接待に出た腰元が、床の間の雪舟の絵の掛け軸を見て涙を流し、「私の父もかきましたが、山道をかいている最中に亡くなりました」と言うので、客が「そなたの父も絵かきか」と尋ねると、「いえ、駕籠かきです」と地口(=ダジャレ)オチになるものです。

寛延2年(1749)7月。大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記ふたつちょうちょうくるわにっき』六段目の「橋本・治部右衛門住家」。ここに、傾城吾妻のくどき「現在親にかごかかせ」というセリフがあることから、これが直接のオチの原型であると同時に、この噺の発想そのものになったのでは、という説があります。ほんま、ややっこしいことで。お退屈さま。

駕籠舁き  【RIZAP COOK】

普通、街道筋にたむろする雲助、つまり宿場や立て場で客待ちをする駕籠かごのことです。

「親に駕籠を担がせた」と相当に悪く言われ、職業的差別を受けていることで、この連中がどれだけ剣呑けんのんで、評判のよくない輩だったかがうかがえます。

【RIZAP COOK】



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おみきどっくり【お神酒徳利】落語演目

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【どんな?】

インチキ易で消えた徳利を見つけた(?)番頭。
その後の展開が西まで広がって。

別題:占い八百屋(上方)

あらすじ

日本橋の馬喰町ばくろうちょう一丁目に刈豆屋吉左衛門かりまめやきちざえもんという旅籠はたごがあった。

先祖が徳川家康から拝領した、銀のあおいの紋付きの一対のお神酒徳利を家法にして代々伝えてきたが、大切なものなので一年一回、大晦日おおみそか煤取すすとり(大掃除)の時しか出さない。

ある年の大晦日、その煤取りの最中に、台所に水をのみにきた番頭の善六がひょいと見ると、大切なお神酒徳利が流しに転がっている。

入れものがないので、そばの大きな水瓶みずがめに放り込んで蓋をした。うっかり者の番頭、それっきり忘れてしまった。

店ではいよいよお神酒をあげようとすると、徳利がなくなっているので大騒ぎ。

ところが善六、帰宅して、はっと水瓶のことを思い出し、すぐ報告をと思うのだが、痛くもない腹をさぐられるのも……と困っていると、しっかり者の女房が知恵を授ける。

女房の父親がたまたま易者えきしゃをしているので、それに引っかけて、筮竹ぜいちくはバレやすいから、商売柄、算盤そろばんをパチパチやって、ニワカ素人易者のふりをして言い当てて見せればいい、というわけ。

善六、店に戻ると、さっそく女房に言われた通り、いいかげんに易をたて、水瓶の蓋を取って徳利を「発見」してみせたので、主人は大喜び。

善六は易の大先生だと、店中の評判になる。

たまたま宿泊していて、この評判を聞きつけたのが大坂今橋いまばし鴻池こうのいけの番頭。

「主人の十七になる娘が三年この方大病で、あらゆる名医を頼み、加持祈禱かじきとうも尽くしたが効果がなく困っていたところなので、ご当家にそんな大先生がおられるなら、ぜひ大坂に来ていただきたい」
とたっての願い。

善六、頭を抱えるがもう遅い。

帰って、また女房に相談すると、
「寿命のことは私にはわかりませんとかなんとかゴマかして、礼金の三十両もせしめておいで」
と尻をたたくので、不承不承ふしょうぶしょう、承知して、東海道を下ることとなった。

途中の神奈川宿かながわしゅく新羽屋源兵衛にっぱやげんべえという本陣。

泊まろうとすると、家内になにやら取り込みがあるようす。

聞けば、宿泊中の薩州さっしゅうの侍の、密書入りの巾着きんちゃくが盗まれたとかで、主人が疑いをかけられて役所へひかれたという。

善六のことを聞くと、店中大喜び。

「ぜひ大先生にお願いを」
と言われて善六はゲンナリ。

もうこれまでと逃げ支度じたくにかかった時、部屋の障子しょうじがスーっと開いて、色青ざめた女がおずおずと入ってくる。

聞くと、
「近在の百姓の娘で、この宿やどで働いているのですが、父親の病気を直したい一心からつい出来心で巾着に手を出してしまいました」
という。

「ご高名な易の先生が来ているというので、もう逃げられないと思い、こうして出てきました。どうぞお慈悲を」
と泣くので、善六、これぞ天運、と内心ニンマリ。

威厳を取りつくろって、巾着が、稲荷いなりさまのお宮が嵐でつぶれて床板が積み重ねてある間に隠してあることをうまく聞き出した。

これは稲荷のたたりだ、と言いつくろって、巾着を首尾よく掘り出して見せたので、善六、もう神さま扱い。

女には礼金から五両与えて逃がしてやり、拝まれながら大坂へ出発した。

着いた鴻池でも、下へもおかない大歓迎。

しかし、そろそろ「仕事」にとりかからなければならないと、また気が重くなりだしたその夜、善六の夢枕に不思議な白髭しろひげの老人が立った。

これが実は、正一位稲荷大明神しょういちいいなりだいみょうじん

神奈川宿での一件以来、霊験れいげんあらたかな神社と評判で、はやりにはやって宮の造営もできたとかで、褒美ほうびとして娘の「治療法」を教えてくれる。

稲荷に言われた通り、乾隅いぬいすみ(西北の方角)の柱四十二本目を三尺五寸(106cm=卒塔婆そとうばの長さ)掘り下げると、一尺二寸(36.36cm)の観音かんのん像が現れた。

それを祭ると、病人はたちまち全快。

さあ、鴻池の喜びはひとかたでなく、望みのものをお礼に、と。

それならと、馬喰町に旅籠を一軒持たせてもらい繁盛した、という。

算盤占いだけに、生活がケタ違いによくなった、という話。

出典:六代目三遊亭円生

しりたい

世界中に流布する類話

上方落語のルーツ研究では右に出る者がない宇井無愁ういむしゅうの『落語の根多ねた』によると、日本各地に類話があるばかりか、朝鮮、中国、トルコ、コーカサスにも類似した民話があるとのことです。

「ごくあたりまえのことが無知の目には奇蹟とうつり、世間の無知が人気者を作り出すという諷刺になっている」(同書)という、相対価値観のパターンは共通しているのかもしれません。

やり方に二つの系統

この噺のやり方(演出)には、二つの系統があります。

一つは、上方噺「占い八百屋」を三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移して、それが四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)へと継承された、小さん系の型。

もう一つは、五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946年、赤馬生、おもちゃ屋の)からの直伝で、この噺を押しも押されもせぬ十八番に仕上げた、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のやり方です。

柳系と三遊系と分けてしまえば、いつものことですが。元は上方由来の噺ですから、そんなのとも違いますかね。

上のあらすじは、円生のものをテキストにしました。

この噺を得意とした三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)ははほぼ円生通りのやり方でした。

ただ、オチが「これも神奈川の稲荷大明神のおかげだね」「なあに、カカア大明神のおかげだ」となっています。

大阪、小さん系はいたずらから

小さんの方は前半が異なり、上方の通りで主人公は八百屋。

出入り先のお店で女中をからかってやろうとわざと徳利の片割れを水がめに隠しますが、ゲンが悪いと大騒ぎになって言い出せなくなり、やむなく算盤占いで……というのが発端です。

ここでは徳利は貴重品でも何でもありません。

在所の弟の訴訟事を占ってほしいという主人の頼みで三島宿(上方では明石宿)まで出かけ、途中の宿屋で頼まれた泥棒探しを運良く解決したものの、たちまち近在から依頼が殺到。

たまらなくなって逃走し、「今度は先生が紛失した」というオチです。

類話「出世の鼻」とのかかわり

出世の鼻」(別題「鼻利き源兵衛」)という噺は、「お神酒徳利」に似ていますが、別話です。

主人公の八百屋が、算盤占いの代わりに、紛失物のにおいを鼻で嗅ぎ出すという触れ込みで、幸運にも大金持ちに成り上がるという異色作です。

馬喰町の旅籠

宿屋の富」でも記しましたが、日本橋馬喰町は江戸随一の宿屋街です。

東海道筋からの旅人はもとより、江戸に全国から集まった「お上りさん」はほとんど、ここらへんの旅宿に草鞋わらじを脱ぎました。

「八十二軒御百姓宿」といい、幕府公認、公許の旅籠街で、大坂では高津こうづがこれにあたります。

この場合の「百姓ひゃくせい」は「万民、人民」というほどの意味です。

大きく分けて、百姓宿と旅人宿がありました。

百姓宿は公事宿くじやどで、訴訟・裁判のために上京する者を専門に泊め、勘定奉行所の監督下で必要書類の作成など、事務手続きも代行しました。

旅人宿は、公事宿の機能をを兼ねる旅籠もありましたが、主に一般の旅人を宿泊させました。

ただし、こちらは町奉行所の管轄下で、怪しい者、手配の犯人が潜伏していないかなど、客を監視して逐一お上に通報する義務を負っていたところが、「公許」の旅籠街たるところです。

馬喰町の旅籠は「宿屋の仇討ち」にも登場します。

円生の噺中の「刈豆屋吉左衛門」は馬喰町の総取締で、実在の人でした。

五代目小さんのくすぐり

●八百屋が宿の待遇に文句をつけて

「客が着いたら、女房に閨房けいぼう(ベッド)のおとぎ(お相手)をさせましょう、くらい言え」

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