成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
これから酒宴の段取りにしよう、というのを、源平の壇ノ浦海戦に掛けたもの。
「さけ」は「さき(先)」のしゃれとも取れ、「さあ、これから先は腰を据えて飲もう」という開会宣言と解釈できます。
同時に壇ノ浦に掛けて、酒合戦の宣戦布告でもあります。
「酒の段」は芝居がかって、浄瑠璃の章段の区切りである「○○の段」を踏まえ、しゃれたものでしょう。
500題超。演目ごと1000字にギュッと。どこよりも深くわかりやすく。
【どんな?】
酒のみの噺。
呑み助は呑み助らしく。
いろんなところでしくじるもんですね。
【あらすじ】
幼なじみの二人。
そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。
ところが、あいにく二人とも金がない。
そこで兄貴分がオツなことを考えた。
横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。
酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。
もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。
そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。
着いてみると、花見客で大にぎわい。
さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。
そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。
それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。
「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。
二人はもうグデングデン。
「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」
なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。
ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。
「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」
またどうぞもなにもない。
客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。
「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」
底本:八代目林家正蔵(彦六)
【しりたい】
経済破綻を予言 『花見酒の経済』 【RIZAP COOK】
昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎(1900-67、朝日新聞、全面講和、安保改定可、CIA協力)の『“花見酒”の経済』。
当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。
のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見しました。
つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。
向島の桜 【RIZAP COOK】
八代将軍吉宗(1684-1751、在位1716-45)の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。
向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。
江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。
花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。
復活待たれる噺 【RIZAP COOK】
八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)や六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が手がけました。
おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。
明治期の古い速記では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のが残っています。二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)のものも。明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。
【どんな?】
自身番での飲酒はご法度。
登場人物の巧みな演じ分けが醍醐味です。
【あらすじ】
火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆が交代で火の番として、夜回りすることになった。
寒いので手を抜きたくても、定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。
そこで月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で酒をのんで待機していることに決めた。
最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。
みな手を出したくない。
宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。
鳴子係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。
誰かが
「火の用心」
と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると低音で
「ひィのよォじん」
と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと
「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」
と新内。
辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、
「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」
と廓の金棒引き。
一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。
一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。
「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」
とはいうものの、それはタテマエ。
酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないだろうと、土瓶の茶を捨てて「薬」を入れ、酒盛りが始まる。
そうなると肴が欲しいが、おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたという。
それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。
一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。
辰つぁんの都々逸がとっ拍子もない蛮声で、たちまち同心の耳に届く。
「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」
慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。
「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」
「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」
役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」
しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」
「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」
もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまう。
「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」
【しりたい】
火の番 【RIZAP COOK】
自身番については「粗忽長屋」で触れましたが、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていました。
といっても、それはタテマエで、たいてい「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。
ところが、この噺はそろそろ物情騒然としてきた幕末の設定ということで、お奉行所のお達しでやむなく旦那衆がうちそろって出勤し、慣れぬ厳冬の夜回りで悲喜こもごもの騒動を引き起こします。
二番煎じ 【RIZAP COOK】
漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。金気をきらい、土瓶などを用いました。
吉原の火回り 【RIZAP COOK】
歌舞伎「助六所縁江戸桜」で、序幕に二人の廓の若い衆が、鉄棒を突き、棒先の鉄輪を鳴らしながら登場するシーンを、芝居好きの方ならご記憶と思います。
あれが「金棒ひき」で、火回りの際はもちろん、おいらん道中など、重要なイベントの前にも、先触れとして出ます。
「火の用心、さっしゃりましょう」という掛け声は、吉原に限られていました。
長屋のこうるさいかみさん連中が「金棒引き」と呼ばれるのは、火の番が鉄輪をガチャガチャ鳴らして歩くように、町内のうわさをあることないことかまびすしく触れて回ることからきています。
今では、ちょっとしたことをおおげさにふれまわること、あるいはその人をさして「金棒引き」と言っていますね。
【どんな?】
今村信雄の新作。
いや、快楽亭ブラックの。
いやいや、中国笑話だとか。
そもそもは、ルバイヤートから。諸説紛々。
【あらすじ】
ある大家の主人。
客の近江屋と酒のみ談義となる。
お供で来た下男久造が大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争い。
挙げ句の果てに賭けをすることになる。
もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。
久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。
さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久造、
「ちょうだいすますべえ」
一升入りの盃で五杯、息もつかさずあおってしまった。
相手のだんな、すっかり感服して小遣いをやったが、しゃくなので
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ、五升なんて酒ェのんだことがねえだから、心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」
底本:五代目柳家小さん
【しりたい】
今村次郎、信雄
今村信雄(1894-1959)が昭和初期にものした新作といわれています。
父は講談や落語を専門とした速記者、今村次郎(1868-1937)。明治期に始まった第一次落語研究会の発起人の一人でもありました。
息子の信雄も速記者です。
落語研究家も兼ねていて、『落語の世界』(青蛙房→平凡社ライブラリー、1956年)などの著作があるほど。
諸説紛々
ところが、この噺には筋がそっくりな先行作があります。
明治の豪人落語家、初代快楽亭ブラックが明治24年(1891)3月、演芸雑誌『百花園』に速記を残した「英国の落話」がそれです。
主人公が英国ウーリッチの連隊の兵卒ジョン、のむ酒がビールになっている以外、まったく同じなのです。
このときの速記者が今村次郎ということもあり、今村信雄はこのブラックの速記を日本風に改作したのでは、と思われます。
では、オリジナルはブラックの作または英国産の笑話かというと、それも怪しいらしく、さらにさかのぼって、中国(おそらく唐代)の笑話に同パターンのものがあるともいわれます。
具体的な文献ははっきりしません。
結局、この種のジョークは気の利いた文才の持ち主なら誰でも思いつきやすいということでしょう。
類話はユーラシア全般に流布しているものと思われます。
本サイトでは、「英国の落とし噺」として別に項目を立てています。
噺の淵源がわかればこちらでお知らせすつもりです。
小さん十八番
初演は七代目三笑亭可楽です。
その可楽の演出を戦後、五代目柳家小さんが継承、ほぼ古典落語化するほどの人気作にしました。
今村信雄自身も『落語の世界』で、「今(1956年)『試し酒』をやる人は、柳橋、三木助、小勝、小さんの四人であるが、(中略)中で小さん君の物が一番可楽に近いので、今、先代可楽を偲ぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」と述べています。
のんべえ噺を得意にしていた人だけに、大杯をあおる場面の息の継ぎ方のうまさなど今さら言うまでもありません。
その小さん門下を中心に、現在もよく演じられ、大阪では桂米朝の持ちネタでもありました。
これは、六代目古今亭志ん馬(稲田真佐文、1935-94)の証言です。
志ん馬が、テレビ番組「人に歴史あり」の志ん生特集で、うちの師匠がよく言うせりふです、として言っていました。
東京12チャンネル(→テレビ東京)は昭和43年(1968)5月15日から、「スタジオドキュメンタリー番組」と銘打った「人に歴史あり」の放送を開始しました。毎週水曜日午後9時-9時30分の時間帯で。
その後、曜日や時間帯が変わりながら、昭和56年(1981)9月23日まで続きました。この年の10月1日からテレビ東京に社名変更するにあたっての、番組改編のあおりでした。
この番組は、内外を問わず第一線で活躍中野各界の著名人をゲストに呼び、ご対面形式で、その人の歩んできた人生を浮き彫りにしようというもの。司会は八木治郎(1925-83)。NHKから移籍したムード派のアナウンサーです。
第1回のメインゲストは池島信平(1909-73)。この人は編集者。当時、文藝春秋の三代目社長でした。この番組は文藝春秋の協力で成り立っていたのです。肝煎りです。
池島の取り巻きゲストには、永井竜男、中山義秀、松本清張、村上元三、開高健、五味康祐、安岡章太郎、由起しげ子、吉行淳之介、生島治郎、五木寛之、今東光、城山三郎、杉森久英、寺内大吉、戸川幸夫、南条範男、三好徹など。
毎回50人ほどの取り巻きが登場するという、30分番組にしては濃密です。
第2回以降のメインゲストは、東山千栄子、石坂洋次郎、川端康成、川口松太郎、水谷八重子、芹沢光治良、尾上梅幸、山岡荘八、徳川夢声、榎本健一、藤原義江、水上勉、中村汀女、松下幸之助、近衛秀麿、松本清張、林武、湯川秀樹、古今亭志ん生など。
文藝春秋が協力しているだけあって、錚々たる文化人の勢ぞろいでした。文化人に偏しているきらいもありましたが、そこが魅力です。この中に志ん生が入っていたわけですから、世間での評価のすごみを感じさせます。
志ん生の回の放送は、昭和43年(1968)7月3日でした。取り巻きゲストは、馬生、志ん朝、文楽、金語楼、志ん馬、円菊、朝馬など。
この番組、構成力がいまいちでした。草創の東京12チャンネルだからでしょうか。志ん生をよく知る人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですが、スタジオで椅子に座ったままの志ん生(ひとことも発しない)をお飾りにして、八木治郎とぺらぺらしゃべるだけのもの。今では信じられないほど、工夫なしの陳腐ぶり。志ん馬の証言だけがいきいきと際立っていました。
それでも、文楽や金語楼などが出てくるのは、いまとなっては貴重な映像ですね。
この年の10月9日の精選落語会で「二階ぞめき」が「王子の狐」に化けてしまいました。それが最後の高座になりました。
そのちょっと前の頃の話です。
高田裕史
※参考資料:読売新聞
【どんな?】
酒を燗して飲もうとするけれど、夢がさめて。
桂文楽が昭和初期に磨き上げた珠玉の噺。
別題:一升徳利 夢の後家
【あらすじ】
大黒屋の若だんなが夢を見てニタニタ。
かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」
怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。
(夢の中で)若だんなが向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。
さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若だんながいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。
「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」
遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。
盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。
「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。
そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。
「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」
顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。
「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。
聞きつけたおやじが
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。
「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。
「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」
おやじがあきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。
淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場でおやじは寝かされてしまった。
(夢で)「ご新造さーん、大黒屋のだんながお見えですよ」
女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。
「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若だんなが『おやじは三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。
「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」
【しりたい】
改作の改作の改作 【RIZAP COOK】
古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が現行のオチに直し、「隅田の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。
後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。
このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代えて、より笑いを多くしたものと見られます。
元の「橋場の雪」は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。
決定版「文楽十八番」 【RIZAP COOK】
もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。
つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。
文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。
円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。
オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。
どちらもオチは現行通りのものです。
夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「ゆめ」に原型があります。
「夢の後家」 【RIZAP COOK】
「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりません。
夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。
「橋場の雪」のあらすじ 【RIZAP COOK】
少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。
若だんなが雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若だんなはまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。
三代目小さんは、主人公をだんなで演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。
本家本元「雪の瀬川」 【RIZAP COOK】
原話、作者は不明です。
「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若だんなの善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。ところが薬が効きすぎ、若だんなはたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若だんなのもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に。
といった、ハッピーエンドです。
夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。
別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、ノーカットでしっとりと演じました。
淡島さまと淡島信仰 【RIZAP COOK】
淡島さまの総本社は和歌山市加太の淡嶋神社。ご神体は、少彦名命、大己貴命、息長足姫命です。
大己貴命は、通説では大国主命と同じとされています。
少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。
大陸から渡来した、先進技術を持った人の象徴です。秦氏とか。
息長足姫命は神功皇后のことです。
仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説があります。
明治期から昭和戦前期までは、日本人の誰もが知っている人でした。
後の応神天皇をおなかに抱えたまま、船で韓半島に向かった勇ましい人です。
このように見ると、淡嶋神社は出雲系なのでしょう。
しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。
江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺(世田谷区代沢3丁目)が有名でした。
ともに、境内に淡島堂が建っています。
江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。
浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。
これを淡島堂と呼んでいます。
森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。
弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。
それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。
浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。
明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。
北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。
噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。
淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。
淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。
たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。
艶福家の渋沢栄一(1840-1931)もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。
この町内にも淡島さまがありました。
今はありませんが、明治期には清正公寺(日蓮宗)の境内にしっかりあったということです。
水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。
淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。
和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。
淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。
おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。
淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。
願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。
街で襤褸をまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。
決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸のなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。
『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。
ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。
「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。
なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。
これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。
ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命。
でも、ものすごいポテンシャルをもっていたこの神さまのイメージを重ねたのでしょう。
見た目では侮れない存在として。
【どんな?】
酒好きの市助は番小屋勤め。ねぎらいの酒で寝てしまい。
寒夜は熱燗をぐいいと、てな気持ちにさせてくれる噺。
【あらすじ】
親父の跡を継ぎ、町内の番小屋で火の番兼走り使いをしている市助という男。
まじめな男だが、酒好きなのが玉に瑕。
ある夜も酔っぱらって火の用心とでかい声を張り上げ、夜回りに歩いていると、質屋の伊勢屋の店から灯が漏れているので、戸をドンドンたたき
「火の用心、ええ火の用心、火の用心」
と、しつこく叫んで、番頭の藤兵衛に追い払われる。
だんなはこれを聞くと、
「飲んべえでも、ちゃんと役目を果たしているのだし、本来なら町内の各表店で火の番に人を出さなければならないお定めなのを、市助を雇ってやらせている、寒い夜の見回りで、酒でものまなければわずらってしまう稼業なのだから、もっとねぎらってやらなければいけない」
と、さとす。
藤兵衛は反省して、
「明日の晩、市助が来たら酒をおごってやろう」
と待っていたが、どういうわけかなかなか現れない。
市助の方でも、伊勢屋をしくじったと思ったから、なるべく店の前を避けて回っていたが、とうとう見つかった。
藤兵衛はさっそく店に呼び入れて、恐縮するのを無理にのませると、酒が回ってだんだん気が大きくなった市助、
「番頭さんは実に親切でいい方だ。お店の台所まで指図して火の用心を心掛けなさるし、犬にまで情け深く、煙管も銀のいいのをお使いだ」
とおべんちゃらを並べたあげく、
「もう一杯、もう一杯」
とねだって、かれこれ五合。
すっかりいい機嫌で帰る。
番小屋に戻るとそのまま寝てしまったが、見回りの時刻だと若い衆にたたき起こされ、寝ぼけ眼で酔いも醒めないまま、また回り始めた。
藤兵衛が見つけて、
「あの後、またどこかで飲りやがったのだろう、また戸をたたかれて、小言の種をまかないうち、こっちからあいさつしてやろう」
と
「市助さん、あー、ご苦労。あたしのとこはしっかり気をつけてるよ」
「なあに、お宅は焼けたって、ようございます」
【しりたい】
原話
原話は元禄14年(1701)刊の上方笑話本『百登瓢箪』中の「番太郎」、安永2年(1773)刊の『再成餅』」中の「火の用心」。
原話二話のうち、後者はごく短いもので、番太郎が裏長屋を火の番で回っているとき、ある家から呼びいれられる筋で、オチも同じですが、ごちそうになるのは、貧乏長屋らしく、ねぎ雑炊二杯と、ごくわびしいものです。
上方落語の大ネタ「下役酒」として発展した噺を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。
番小屋
隣町との境の四つ辻に町木戸があり、その開閉と不審者の通報、火事の際の半鐘打ちなどに任じる木戸番(番太郎)の住む木戸番屋、町費で雇う書役(町役)の詰める自身番屋がありました。
前者は普通荒物屋や駄菓子屋を営み、後者には、地借りで表通りに店を出す商人が順番に宿直(店番)しましたが、主人の代理で番頭や手代などが詰めることが多かったとか。
火の用心の見回りは、本来は店番の仕事ですが、この噺では、これを非公式にあぶれ者の市助を雇い、使い走りをやらせているわけです。
火の番は「二番煎じ」にも登場しますが、木戸が閉まる四ツ過ぎ(午後10時頃)から明け六ツ(午前5時頃)まで、一晩中、特にこの噺の伊勢屋のような大店には一軒一軒回って「火の用心さっしゃりましょう」と呼びかけます。
噺の発端では、伊勢屋から深夜になっても明かりが漏れているので、市助が不用心だと気を回したわけです。
半鐘が鳴った場合は、火の番は太鼓を叩いて火元の方角を触れてまわる義務がありました。
やはり「本家」は大阪
現在、東京ではあまり演じられません。
上方では比較的ポピュラーで、自身酒のみで、「一人酒盛り」など酒の噺を得意としていた六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が得意としていました。
オチは、東京のものは、前に番頭に怒鳴られたので気を使うあまり、おべんちゃらで「お宅は言わなくてもちゃんとしておられますから」というところを言葉の上で失敗したとされます。
やや唐突過ぎて、シャレになりません。
上方の方は「滅相な、ご当家ではどうでも大事ございません」とオチています。
こちらの方がまだ自然ですが、その分、平凡になります。
「大事ございません」だけならまともで、「どうでも」をつけたからあらぬ意味にとられるというわけです。
こうした言葉の機微を感じとれなければ、かえって、なんのことかわからなくなるでしょうね。