とよたけや【豊竹屋】演目

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上方噺の音曲噺。「豊竹豆仮名太夫」だった六代目円生がやっていました。

【あらすじ】

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち

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とろろん【とろろん】演目

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にぎやかで陽気。東海道の丸子宿が舞台の一席。上方噺の音曲噺です。

【あらすじ】

無尽に当たって懐が温かい、神田堅大工町の八五郎。

ひとつ伊勢参りでもして散財しようという気を起こし、弟分の熊と文次を誘って、東海道を西へ。

途中、馬子とばかを言いながら毬子(=丸子)宿までやって来る。

今夜の泊まりは一力屋という旅籠だが、あいにく下で寄合があるので、しばらく二階座敷でご同座を願いたいと頼まれる。

同宿は三人で、大坂者が一人に、上州から出てきたという婆さん、それに梅ヶ谷の弟子で梅干という相撲取り。

あいさつが済んだところへ女中が
「あんたがたハァ、毬子の名物をあがりますかな」
と聞きにくる。

「なんだ」
と聞くと
「トルルルー」
とか。

「ばか野郎、毬子名物ならとろろ汁じゃねえか」
と少しはもののわかった八五郎が教えたが、また
「マンマがバクハンでもようごぜえますか?」
と聞くので、そそっかしい文次が
「バッカラカン」
と聞き間違え
「格好の悪い丼じゃねえか」
と思い込んで、ひと騒ぎ。

麦飯のお櫃は来たが、いくら待ってもとろろが来ない。

二人が
「バッカラカンてやがって、人をばかにしてやがるから、下にケンツクを食わせよう」
と怒るのを、八五郎が
「寄合で忙しくて手がまわらないんだろう」
となだめ、
「下で思い出すように、なんでもトロトロとつく唄をうたって催促しようぜ」と提案する。

八五郎が甚句で
「トントンチリチリツンテントン、泊まり合わせしこの家の二階、麦の馳走はよけれども、なにもなくては食べられぬ、なんで食べよぞこの麦を、押してけ持ってけ三段目」
とやると
「押してけ持ってけ」
が悪く、せっかく来かかったのが戻されてしまう。

「それでは」
と婆さんが、昔取った杵柄、巫女の口寄せを。

「慈悲じゃ情けじゃお願いじゃ、どうぞ宿屋の女子衆よ、とろろを手向けてくださりませ」
「縁起でもねえ。手向けられてたまるか」

今度は大坂者に
「なにかやってくれ」
と頼むと、これは浄瑠璃で
「デンデンデンチトンチン、チントンシャン、シャンシャンジャジャジャ」
と雌馬の小便のよう。

真っ赤にうなって
「麦の馳走はよけれども、おかずのうては食べられぬ。オオオオ」

とうとう泣きだす。

相撲取りが一人ゲラゲラ笑っているので
「おめえもやらねえか」
と催促すると
「最前からおもしろうございました。実はわしは相撲じゃありません」
「なんだ」
「祭文語りで」
「どうりで小せえ相撲取りだと思った」

ほら貝と錫杖を前の宿屋に忘れたというので、口だけで
「なにでべよぞンガエこのン麦をエー、おかずがのうては、ンガエ、食べンエンらンれンぬ、お察しあれや宿屋のご主人、なにで食べよングエこのン麦をングエ」
とやると、主人がすり鉢を持って
「とろろんとろろん」

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【しりたい】

東西で異なるオチ

原話は不詳。上方の古い音曲噺「出られん」を東京に移植したものです。

移植者や年代はわかりませんが、大正3年(1914)6月、『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1869-1924)の速記が残ります。

上方のオチは、題名通り主人が下から「出られん」と言うもので、浪花節の古型である「デロレン祭文」と掛けた地口。一方、あらすじでご紹介したように東京では、「デロレン」を「トロロン」と呼んだので地口も丸子名物のとろろとしゃれたわけです。

小南の復活と工夫

東京では長く途絶えていましたが、戦後、二代目桂小南(1996年没)が大阪風の演出で復活、十八番にしました。小南では、隣の大尽風を吹かせる男に当てこするためなぞ掛けで嫌がらせした後、祭太鼓の合いの手でとろろを催促。隣をのぞくと、お大尽が「テントロロン」と、頬かぶりでひょっとこ踊りを踊っていた、という地(説明)のオチを工夫しました。小南没後は、再び後継者がいなくなっています。

祭文語り

さいもんがたり。祭文は浪花節の原型または古型で、上方では別名「デロレン左衛門(祭文)」と呼ばれました。もともと、祭のときに、独特の節回しで神仏に報告する役割を担いましたが、山伏姿の門づけ芸人がほら貝と銀杖を伴奏に、街頭でデロレンデロレンとうたい歩き、全国に普及したものです。のちに芸能化して歌祭文になり、幕末に浪花節(浪曲)へと進化をとげました。

口寄せ

霊媒のこと。「そもそも、つつしみ敬って申したてまつるは、上に梵天、帝釈、四大天王……」と、さまざまな神仏の名を唱えたのち、死者を呼び出すのが普通の段取りでした。婆さんの「とろろを手向けてくださりませ」は、憑依した亡者のことばのもじりです。

甚句

おもに相撲甚句のことで、「錦の袈裟」にも登場しました。都々逸と同じく、七七七五のリズムを持ちます。

丸子のとろろ汁

丸子(毬子)は東海道二十一番目の宿場で、今の静岡市の内。名物のとろろ汁は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や芭蕉の句でも。

梅若菜 毬子の宿の とろろ汁

そのほか、さまざまな道中名所記でおなじみです。自然薯のとろろを味噌汁で溶くのが特徴で、それを麦飯にかけて饗する質朴な味わいです。

【語の読みと注】
無尽 むじん
旅籠 はたご
寄合 よりあい
手向け たむけ
霊媒 れいばい
自然薯 じねんじょ

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風の神送り かぜのかみおくり 演目

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なあんだ、だじゃれが言いたくて作った噺、かな。

【あらすじ】

町内に悪い風邪が流行したので、まじないに「風(=風邪)の神送り」をすることになった。

奉加帳を回し、その夜、町内総出でにぎやかに掛け声。

鳴り物に合わせて
「そーれ、かーぜのかーみ、送れ、どんどん送れ」
「送れ、送れ、かあぜのかあみ送れ」
という具合に、一人一人順番に送りながら最後の人間で風の神を川に放り込むという趣向。

ところが、
「かーぜのかーみー、おくれ」
と言うと、
「おなごりィ、おーしい」
と誰かが引き止めてしまったから、みんなカンカン。

寄ってたかって引きずり出すと、覆面をしているので、むしり取ったら薬屋の若だんな。

「とんでもねえ野郎だ」

やっとこ、若だんなが改心して、ようやく風の神を川の中へ。

ちょうどその時、大川で夜網をしている二人が大物を釣り上げた。

引き上げると人間。

「おい、てめえは何だ」
「オレは風の神だ」
「あァ、夜網(=弱み)につけ込んだな」

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【しりたい】

原話は藪医者ばなし

安永5年(1776)、大坂で刊行の落語本『夕涼新話集』中の「風の神」が原話です。

あらすじは、以下の通り。

新春早々患者が寄り付かず、食うや食わずで悲鳴をあげている藪医者が、風邪が流行りだしたと聞いて大喜び。これで借金とおさらばできると、同じ境遇の藪仲間二、三人と陽気にお祝いをしていると、外で鉦や太鼓の音。聞いてみると、「これは風の神送り(=追放)の行事です」と言うので藪医者はくやしがり「ええ、いらんことを。無益な殺生だ」

米朝、彦六が復活

本来、上方落語としてポピュラーな噺でしたが、上方では長くすたれていたのを、桂米朝が昭和42年(1967)に復活。

東京では、二代目桂三木助の直伝で八代目林家正蔵(彦六)が専売特許としました。

それ以前にも、前半の薬屋の若だんなまでのくだりは、小咄程度の軽い噺として、明治期に二代目談洲楼燕枝、三代目蝶花楼馬楽などが演じていました。

オチについては、正蔵(彦六)が、昔は「風の神が弱みにつけこむ」といった俚言があり、それを踏まえたのではないかと述べていますが、出典ははっきりしません。

風の神

風の神は風邪をはやらせる疫病神です。

江戸の頃、悪性のインフルエンザによる死亡率は、特に幼児や老人といった抵抗力の弱い者にとって、コレラ、赤痢、ジフテリアに劣らぬ高さだったでした。個々人による祈祷や魔除けのまじないのほかに、この噺のような町内単位の行事が行われたのは、無理もないところでした。

『武江年表』で「風邪」を検索すれば、幕末の嘉永3年(1850)、4年(1851)、安政元年(1854)、4年(1857)、万延元年(1860)、慶応3年(1867)と、立て続けに流行の記事が見えます。この際、幕府から「お助け米」が出ています。

風の神送れ

「風の神送り」のならわしは、本来は物乞いを雇って、灰墨を顔に塗って風の神に見立てたり、鬼や人形を作って町中で練り歩き、鉦太鼓でにぎやかに「風の神送れ」(上方では「送ろ」)と隣の町内に追い払うもの。

そうして、順送りにし、最後は川に流してしまうわけです。

江戸末期になると、しだいに簡略化され、明治初期には完全にすたれたといいます。

音曲噺「風の神」

風の神の新入りが義太夫語りの家に忍び込み、失敗するという音曲噺「風の神」がありましたが、現在は演じ手がありません。

【語の読みと注】
奉加帳 ほうがちょう
藪医者 やぶいしゃ
鉦 かね
談洲楼燕枝 だんしゅうろうえんし
蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく

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稽古屋 けいこや 演目

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音曲噺。高座だと鳴り物入りでやられます。にぎやかで珍しい噺ですね。

別題:稽古所

【あらすじ】

少し間の抜けた男、隠居のところに、女にもてるうまい方法はないかと聞きにくる。

「おまえさんのは、顔ってえよりガオだね。女ができる顔じゃねえ。鼻の穴が上向いてて、煙草の煙が上ェ出て行く」

顔でダメなら、金。

「金なら、ありますよ」
「いくら持ってんの」
「しゃべったら、おまえさん、あたしを絞め殺す」
「なにを言ってんだよ」
「おばあさんがいるから言いにくい」
というから、わざわざ湯に出させ、猫まで追い出して、
「さあ、言ってごらん」
「三十銭」

どうしようもない。

隠居、こうなれば、人にまねのできない隠し芸で勝負するよりないと、横丁の音曲の師匠に弟子入りするよう勧める。

「だけどもね、そういうとこィ稽古に行くには、無手じゃ行かれない」
「薪ざっぽ持って」
「けんかするんじゃない。膝突きィ持ってくんだ」

膝突き、つまり入門料。

強引に隠居から二円借りて出かけていく。

押しかけられた師匠、芸事の経験はあるかと聞けば、女郎買いと勘違いして「初会」と答えるし、なにをやりたいかと尋ねてもトンチンカンで要領を得ない。

師匠は頭を抱えるが、とりあえず清元の「喜撰」を、ということになった。

「世辞で丸めて浮気でこねて、小町桜のながめに飽かぬ……」
と、最初のところをやらせてみると、まるっきり調子っ外れ。

これは初めてではむりかもしれないと、短い「すりばち」という上方唄の本を貸し、持って帰って、高いところへ上がって三日ばかり、大きな声で練習するように、そうすれば声がふっ切れるからと言い聞かせる。

「えー、海山を、越えてこの世に住みなれて、煙が立つる……ってとこは肝(高調子)になりますから、声をずーっと上げてくださいよ」
と細かい指示。

男はその晩、高いところはないかとキョロキョロ探した挙げ句、大屋根のてっぺんによじ登って、早速声を張り上げた。

大声で
「煙が立つゥ、煙が立つーゥ」
とがなっているので、近所の連中が驚いて
「おい辰っつあん、あんな高え屋根ェ上がって、煙が立つって言ってるぜ」
「しようがねえな。このごろは毎晩だね。おーい、火事はどこだー」
「煙が立つゥー」
「だから、火事はどこなんだよォー」
「海山越えて」
「そんなに遠いんじゃ、オレは(見に)行かねえ」

底本::五代目古今亭志ん生

【しりたい】

音曲噺

おんぎょくばなし。「おんぎょく」と濁ります。この噺は、今は絶滅したといってもいい、音曲噺の名残りをとどめた、貴重な噺です。

音曲噺とは、高座で実際に落語家が、義太夫、常磐津、端唄などを、下座の三味線付きでにぎやかに演じながら進めていく形式の噺です。

したがって、そちらの素養がなければ絶対にできないわけで、今残るのは、この「稽古屋」の一部と、六代目三遊亭円生が得意にした「豊竹屋」くらいのものでしょう。

昔の寄席には「音曲師」という芸人が大勢いて、三味線を片手に、渋い声でありとあらゆる音曲や俗曲をおもしろおかしく弾き語りしていたもので、音曲噺というジャンルも、そうした背景のもとに成立したものです。

明治・大正の頃までは、演じる側はもちろん、聞く客の方も、大多数は稽古事などを通して、長唄や常磐津、清元などが自然の教養として日常生活に溶け込んでいたからこそ、こうした噺を自然に楽しめたのでしょうね。

上方の「稽古屋」

発端の隠居とのやりとりは、上方で最も多く演じられてきた「稽古屋」から。初代桂春団治が得意にしました。

主人公でアホの喜六(東京の与太郎)が稽古所へ出かけるまでの大筋は同じですが、大阪のは隠居(甚兵衛)や師匠とのやりとりにくすぐりが多く、兄弟子の稽古を見ているうちに、子供の焼イモを盗み食いするなどのドタバタのあと、「稽古は踊りだすか、唄だすか」「どっちゃでもよろし。色事のできるやつを」「そんなら、私とこではできまへん」「なんで」「恋は指南(=思案)のほかでおます」と、ダジャレオチになります。

東京では春風亭小朝がこのやり方で演じます。

「稽古所」

次の「喜撰」を習うくだりは、東京でも演じられてきた音曲噺で、別題「稽古所」。オチはありません。

最後の屋根に上がってがなるくだりからオチまでは、明治末に四代目笑福亭松鶴が上京した際、「歌火事」と題して演じたものです。これは、戦後初代桂小南、ついで二代目桂小文治が「稽古屋」として、松鶴のやり方で東京で演じました。

以上三種類の「稽古屋」を、最後の「歌火事」を中心に五代目古今亭志ん生が一つにまとめ、音曲噺というより滑稽噺として演じました。今回のあらすじは、その志ん生のものをテキストにしました。これが、子息の古今亭志ん朝に継承されていたものです。

バレ噺の「稽古屋」

もう一つ、正体不明の「稽古屋」と題した速記が残っています。こんな噺です。

常磐津の師匠をめぐって二人の男が張り合い、振られた方が、雨を口実に強引に泊まり込んだ上、暗闇にまぎれて情夫になりすまし、師匠の床に忍び込んでまんまと思いを遂げます。最後はバレますが、とっさに二階から落ちて頭を打ったことにしてゴマかし、女の母親が「痛いのなら唾をおつけなさい」と言うと、「はい、入れるときつけました」と卑猥なオチになります。

むろん演者は不明で、音曲の場面もなく、たぶん大正初年にできたバレ噺の一つと思われます。

音曲の師匠

ここに登場するのは、義太夫、長唄、清元、常磐津と、なんでもござれの「五目の師匠」。

今はもう演じ手のない「五目講釈」という噺もありますが、「五目」は上方ことばで「ゴミ」のことで、転じて、いろいろなものがごちゃごちゃ、ショウウインドウのように並んでいるさまをいいます。

こういう師匠は、邦楽のデパートのようなもので、よくある、鰻屋なのに天丼もカツ丼も出すという類の店と同じく、素人向きに広く浅く、なんでも教えるので重宝がられました。

代わり目 かわりめ 演目

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おかしさの中にも妻への思い。悪くはありませんねえ。志ん生が人情噺に改作。

別題:元帳 鬼のうどん屋(上方) 銚子の代わり目(上方)

【あらすじ】

ぐでんぐでんに酔っぱらって、夜中に帰ってきた亭主。

途中で車屋をからかい、家の門口で梶棒を上げさせたと思ったら、もう下りた。

出てきた女房はハラハラし、車屋に謝って帰ってもらうと、ご近所迷惑だからいいかげんにしとくれと文句を言う。

亭主、聞かばこそ、てめえは口の聞きようが悪い、寝酒を出さないから声が大きくなると、からむ。

しかたなく酒を注ぐと、今度は何かサカナを出せと、しつこい。

「なにもありません」
「コウコがあったろう」
「いただきました」
「佃煮」
「いただきました」
「納豆」
「いただきました」
「干物」
「いただきました」
「じゃあ……」
「いただきました」

うるさくてしかたがないので、夜明かしのおでん屋で何か見つくろってくるからと、女房は出かける。

その間に、ちょうどうどん屋の屋台が通ったから、酔っぱらいのかっこうの餌食に。

ずうずうしく燗を付けさせた挙げ句、てめえは物騒ヅラだ、夜遅くまで火を担いで歩きやがって、このへんにちょくちょくボヤがあるのはてめえの仕業だろうと、からむので、うどん屋はあきれて帰ってしまう。

その次は、新内流し。

むりやり都々逸を弾かせ、どうせ近所にびた一文借りがあるわけじゃねえと、夜更けにいい気になって
「恋にこがれーてー、鳴く蝉よりもォ……」
と、うなっているところへ女房が帰ってくる。

ようすを聞いてかみさん、顔から火が出た。

外聞が悪いので、うどん屋の荷を見つけると、
「もし、うどん屋さーん」
「……おい、あそこの家で、おかみさんが呼んでるよ」
「へえ、どの家で」
「あの、明かりがついてる家だ」
「あっ、あすこへは行かれません」
「なぜ」
「今ごろ、お銚子の代わり目時分ですから」

底本:初代柳家つばめ、五代目古今亭志ん生ほか

【しりたい】

原話は薬売りが受難

文化9年(1812)、江戸で刊行された笑話本『福三笑』中の小ばなし「枇杷葉湯(びわようとう)」が原話です。

これは、酔った亭主が枇杷葉湯(=暑気払いに効く甘い煎じ薬)売りに無理やり燗をつけさせるくだりが、現行の落語の後半に一致し、オチも同じです。

落語としては、上方で「銚子の代わり目」または「鬼のうどん屋」としてよく演じられたため、夜泣きうどん屋の登場するくだりは、当然その間に付け加えられたものでしょう。

枇杷葉湯

この噺の原話名は「枇杷葉湯」でした。

これは江戸期の一般的な薬名として知られています。枇杷の葉、肉桂、甘茶などを細かく切ってまぜあわせたものを煎じた汁で、暑気払いや急性の下痢などに効果があったそうです。初めは京都烏丸で売り出されたのですが、江戸に下ってからは、宣伝用に道端などで行き交う人々に無料でふるまっていたそうです。そこで、多情、多淫を意味する隠語となりました。この言葉が出てくると意味深長となり、要注意です。

志ん生が人情噺に「改作」

東京では大正期に二代目三升屋勝次郎が、音曲噺として新内、都々逸をまじえて演じましたが、昭和に入り、五代目古今亭志ん生が十八番にしました。

志ん生は後半(うどん屋にからむ部分)をカットし、かみさんを買い物にやった亭主が、「なんだかんだっつっても、女房なりゃこそオレの用をしてくれるんだよ。ウン。あれだって女は悪かねえからね……近所の人が『お前さんとこのおかみさんは美人ですよ』って……オレもそうだと思うよ。『出てけ、お多福っ』なんてってるけど、陰じゃあすまない、すいませんってわびてるぐれえだからな本当に……お、まだ行かねえのかおう……立って聞いてやがる。さあ大変だ。元を見られちゃった」と、ほほえましい夫婦の機微を見せて結んでいました。

年輪がいる噺

この志ん生のやり方は、自ら「元帳」と改題したことからもうかがわれるように、優れた工夫でしたが、晩年はオチの「元を見られた」さえも省略していました。

今ではこのやり方がスタンダードになっています。うどん屋の部分がカットされるだけに、笑いは薄くなりますが、一種の人情味のある噺として定着し、独特の味わいを持つにいたっています。

これも志ん生なればこそで、凡百の演者ではクサくなったり、わざとらしくなったりするのは、もう聴いちゃいられません。

こうしたやり方は、大学出の若い噺家ではとうてい無理でしょう。芸はもちろん、実生活の年輪を経てコケが生えたような年齢になってようやく、さまになってくるものなのではないでしょうか。

志ん生、映画で一席

志ん生ファンにはよく知られていますが、映画『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)で、引退した噺家・桜亭新笑に扮した五代目志ん生(当時59歳)が、ラストで甥夫婦(灰田勝彦・高峰秀子)の新婚の前途を祝うため、「かわり目」を演じてみせます。

ちょうどかみさんを追い出すくだりで、汽車の時間があるから早く立て、と目と仕種で二人を促し、客だけになったあと、いい間で亭主の独白に入るあたりは、後年の志ん生のイメージとはまた違った、たたき上げた正統派の芸を感じさせました。

志ん生は、その後も、4作品に特別出演しています。都合5作品ということになります。

●志ん生出演の映画作品一覧

『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)
『ひばりの子守唄』(大映、昭和26)
『息子の花嫁』(東宝、昭和27)
『クイズ狂時代』(東映、昭和27)
『大日本スリ集団』(東宝、昭和44)