さんにんむひつ【三人無筆】落語演目

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

柳派の噺。いまとまっては時流にはなじまないかもしれませんね。

別題:帳場無筆 無筆の帳付け 向こう付け(上方)

あらすじ

お出入り先の伊勢屋の隠居が死んだ。

弔いの帳付けを頼まれたのが熊五郎と源兵衛の二人。

熊は字が書けないので、恥をかくのは嫌だから、どう切り抜けようかとかみさんに相談すると、
「朝早く、源さんよりも先に寺に行って、全部雑用を済ましておき、その代わり書く方はみんな源さんに押しつけちまえばいい」
と言う。

「なるほど」
と思って、言われた通り夜が明けるか明けないかのうちに寺に着いてみると、なんと、源さんがもう先に来ていて、熊さんがするつもりだった通りの雑用を一切合切片づけていた。

源さんも同じ無筆で、しかも同じことをかみさんに耳打ちされてきたわけ。

お互い役に立たないとわかってがっかりするが、しかたがないので二人で示し合わせ、隠居の遺言だからこの弔いは銘々付けと決まっていると、仏に責任をおっかぶせてすまし込む。

ところが、おいおい無筆の連中が悔やみに来だすと、ごまかしがきかなくなってきた。

困っていると地獄に仏、横町の手習いの師匠がやってきた。

こっそりわけを話して頼み込み、記帳を全部やってもらって、ヤレヤレ一件落着、と、後片付けを始めたら、遅刻した八五郎が息せききって飛び込んでくる。

悪いところへ悪い男が現れたもので、これも無筆。

頼みのお師匠さんは、帰ってしまって、もういない。

隠居の遺言で銘々付けだと言ったところで、相手が無筆ではどうしようもない。

三人で頭を抱えていると、源さんが
「そうだ。熊さん、おまえさんが弔いに来なかったことにしとこう」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

無筆が無筆を笑う  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、明和9(=安永元、1772)年刊『鹿の子餅』中の「無筆」。弔問に来た武士と取り次ぎの会話となっています。

原型はそれ以前からあり、元禄14(1701)年刊『百登瓢箪』巻二中の「無筆の口上」では、客と取り次ぎの両方が無筆、というお笑いはそのままで、客がしかたなく印だけ押して帰るオチになっています。

この元禄年間(1688-1704)あたりから、無筆を笑う小咄は無数にでき、落語も「無筆の医者」「無筆の女房」「無筆の親」「無筆の犬」「按七」「無筆の下女」「手紙無筆」「無筆のめめず」など、やたらに作られました。 

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから寺子屋が普及、幕末には、日本人の識字率は70%を超えたといわれ、当時の世界最高標準でしたが、それでも三割近くは無筆。

19世紀前後では、寄席に来る客の3~4割が無筆という割合で、「無筆が無筆の噺に笑っていた」ことになります。現代なら人権問題に及びそうですが、なんとも大らかな時代ではありました。

柳派に伝わる噺  【RIZAP COOK】

明治28年(1895)11月、雑誌『百花園』掲載の三代目柳家小さんの速記があります。

無筆の小咄は遠く元禄年間まで溯るので、この噺も相当古くから口演されていたものと思われます。

小さん代々に継承される柳派系統の噺で、五代目小さんの音源もありますが、現在は無筆がほぼ皆無となり、だんだん理解されなくなる運命でしょう。

戦後では八代目春風亭柳枝(1959年没)が得意とし、柳枝は記帳する名に、噺家仲間の本名を使っていました。

もとは柳枝門下だった三遊亭円窓が、独自の工夫で持ちネタにしています。

円窓のオチは、「そんなことをしたらだんなに申し訳がねえ」「いや、かまいません。ホトケの遺言にしときます」というもの。

落語に多い「三」  【RIZAP COOK】

落語の世界で「三」は大きな要素です。

「三」のつく噺は、現在すたれたものを含め、「三人旅」「三人絵師」「三人息子」「三人癖」「三人ばか」「三人娘」「三方一両損」「三拍子」「三枚起請」「三軒長屋」……。まだまだあります。

仏教に「三界」という言葉があり、これは過去・現在・未来の三世のこと。全宇宙は「三千世界」。仏教の三宝は仏・法・僧で、長屋も三軒間口で三畳。

この噺に見られるように「三人寄れば文殊の知恵」となるパターンが落語に多いのは、「三」が最も安定した状態という、仏教哲学が深奥に潜んでいるのではないでしょうか。

そもそも世界も「天地人」からなります。

【語の読みと注】

帳付け ちょうづけ:参列者の記帳
銘々付け めいめいづけ:自分で名前を書く

【RIZAP COOK】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

いはいや【位牌屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

すさまじいケチんぼうのはなし。ブラック噺の極北です。オチがきいてます。

別題:位牌丁稚

【あらすじ】

ケチでは人後に落ちないだんな。

子どもが生まれ、番頭の久兵衛が祝いに来ても、
「経費がかかるのに何がめでたい」
と小言を言う。

なにしろ、この家では奉公人に魚などくわせたことはなく、三年前に一人、目を悪くしたとき、まじないにメダカを三匹呑ませただけなのだから、とても赤飯に尾頭付きどころの騒ぎではない。

八百屋が摘まみ菜を売りに来ると、八貫五百の値段を、
「八貫を負けて五百で売れ」
と言って怒らせ、帰ると、こぼれた菜を小僧に拾わせて味噌漉しいっぱいにしてしまう。

今朝の、芋屋との会話。

五厘だけ買った。

だんな「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいと煙草を貸しとくれ」
芋屋「おあがんなさい」
だんな「いい煙草だ。いくらだい? 一銭五厘? 商人がこんな高い煙草のんじゃいけない。家はどこだい?」
芋屋「神田堅大工町です」
だんな「家内多か?」
芋屋「女房とせがれが一人で」
だんな「買い出しはどこでしなさる」
芋屋「多町でします」
だんな「弁当なぞはどうしている?」
芋屋「出先の飯屋で食います」
だんな「そりゃもったいない。梅干しの一つも入れて弁当を持って出なさい。茶とタクアンぐらいはあげるから、ウチの台所でおあがり。いや、うまかった。食うのがもったいないから置き物にしたいぐらいだ。時に、これを一本負けておきな」

この会話をそっくり繰り返す。

三回目に「家はどこだい」と始めたところで、芋屋は悪態をついて帰ってしまう。

嫌がられても五厘で二回負けさせ、たばこをタダで二服。

そのだんな、小僧の定吉に、注文しておいた位牌を取りに仏師屋へやる。

それも裸足で行かせ、
「向こうにいい下駄があったら履いて帰ってこい」
と言いつけるものすごさ。

定吉と仏師屋の親父の会話。

定吉「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいとたばこを貸しとくれ」
親父「てめえが小僧じゃねえか」
定吉「商人がこんな高いたばこをのんじゃいけねえ。家はどこだい?」
親父「ここじゃねえか」
定吉「家内多か?」

全部まねして、今度は位牌をほめる。

「いい位牌だ。食べるのはもったいないから、置き物にしたいくらいだ。形がいい。時に、これ一本負けときな」
「おい、持ってっちゃいけねえ」

ちゃっかり位牌を懐に入れ、オマケの小さな位牌もぶんどって、一目散に店へ。

「下駄は履いてきたか」
「あ、あわてたから片っぽだけ」
「しょうがねえ。そりゃなんだ」
「位牌です」
「同じオマケなら、なぜ大きいのをぶんどってこない」

だんなが小言を言うと、定吉は
「なーに、生まれた坊ちゃんのになさい」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉四六話が原話

後半の、位牌を買いに行くくだりの原話は、文政7年(1824)、江戸で刊行された『新作咄土産』中の「律義者」で、現行とオチまでまったく同じですが、前半のケチ噺は、宇井無愁によると、豊前地方の代表的なとんち民話、吉四六話を二編ほどアレンジしたものということです。

上方落語「位牌丁稚」が東京に移されたものとみられますが、詳細は不明です。昭和以後では、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭小円朝などが、時折「逃げ噺」の一つとして演じました。

位牌屋

仏師屋ともいいます。

「仏師」は仏像を彫刻する人、もしくは描く人で、それぞれ木仏師、絵仏師と呼びました。

後世、それらが衰退し、江戸時代に入ると、死者の霊を祭る位牌が一般に普及したため、位牌を作って売る者を仏師屋と呼ぶようになったわけです。

人間は死ねば仏になるから、位牌も仏像も同じ感覚で扱われたため、この名称が転化したものと考えられます。

ブラック噺

かなりすごいオチで、これゆえにこそ、この噺は凡百のケチ噺と区別され、ブラック落語として異彩を放っているわけです。

世の善男善女の非難をかわすため、この「生まれた坊ちゃんのになさい」という最後っ屁につき、「たんなるあほうな小僧の、無知による勘違い」と言い繕う向きもありますが、どうしてどうして、確信犯です。

かなりの悪意と嫉妬と呪詛が渦を巻いていると解釈する方が自然でしょう。

それをナマで表してしまえばシャレにならず、さりげなく、袖の下にヨロイをチラチラと見せつけるのが芸の力というものでしょうね。

【語の読みと注】
吉四六 きっちょむ
宇井無愁 ういむしゅう:上方落語研究家
豊前 ぶぜん:大分県

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かたぼう【片棒】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

おやじが息子三人に自分の葬式案を語らせる。三者三様に大あきれ。

けちの噺。

別題:赤螺屋(上方)

あらすじ

赤螺屋あかにしや吝兵衛けちべえという男。

一生食うものも食わずに金をため込んだが、寄る年波、そろそろ三人の息子の誰かに身代を譲らなくてはならない。

かといって、今のままでは三人の料簡がわからず、誰に譲ったらいいか迷ってしまう。

ある日、息子たちを呼んで、「俺がかりに、もし明日にでも目をつむったら後の始末はどうするつもりか」
と一人ずつ聞かせてもらいたいと言う。

まず、長男。

「おとっつぁんの追善ついぜんに、慈善事業に一万両ほど寄付する」
と言い出したから、おやじ、ど肝を抜かれた。

葬式もすべて特別あつらえの豪華版。

袴も紋付きも全部新規にこしらえ、料理も黒塗り金蒔絵きんまきえの重箱に、うまいものをぎっしり詰め、酒も極上の灘の生一本。

その上、車代に十両ずつ三千人分……。

吝兵衛、ショック死寸前。

「と、とんでもねえ野郎だ、葬式で身上をつぶされてたまるか」

次! 次男。

「お陽気に、歴史に残る葬儀にしたい」
と言いだしたから、おやじはまたも嫌な予感。

案の定、葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立て、木遣きやり、芸者の手古舞てこまいに、にぎやかに山車だし神輿みこしを繰り出してワッショイワッショイ。

四つ角まで神輿に骨を乗せて担ぎ出す。

拍子木ひょうしぎがチョーンと入った後、親戚総代が弔辞ちょうじ
「赤螺屋吝兵衛くん、平素粗食に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良のためおっ死んじまった。ざまあみ……もとい、人生おもしろきかな、また愉快なり」
と並べると、一同そろって
「バンザーイ」

「この野郎、七生しちしょうまで勘当かんどうだっ!!」

次っ! 三男。

「おい、もうおまえだけが頼りだ。兄貴たちの馬鹿野郎とは違うだろうな」
「当然です。あんなのは言語道断ごんごどうだん、正気の沙汰さたじゃありません」

やっと、まともなのが出てきた。

おやじ、跡取りはコレに決まったと安心したが、
「死ぬってのは自然に帰るんですから、りっぱな葬式なんぞいりません。死骸は鳥につつかせて自然消滅。これが一番」
「おいおい、まさかそれをやるんじゃ」
「しかたがないから、まあお通夜を出しますが、入費がかかるから、一晩ですぐ焼いちまいます。出棺は十一時と言っといて八時に出しちまえば、菓子を出さずに済みます。早桶は菜漬けの樽の悪いので十分。抹香まっこうは高いからかんなくず。樽には荒縄を掛けて、天秤棒てんびんぼうで差しにないにしますが、人を頼むと金がかかりますから、あたしが片棒を担ぎます。ただ、後の片棒がいません」
「なに、心配するな。俺が出て担ぐ」

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しりたい

元は上方噺

宝永2年(1705)京都板『軽口あられ酒』巻二の七「きままな親仁」が原話といわれています。

この板本では親仁おやじに名前はありませんが、これが東京に行って「片棒」となると、赤螺屋ケチ兵衛という名前が付きます。

またまた吝兵衛登場!

今回の屋号はあかにしや。

「あかにし」は田螺たにしで、金を握って放さないケチを、田螺が殻を閉じて開かないのにたとえたものです。だから、田螺はケチを暗示しているのです。

上方ではケチは当たり前なので、あまりケチ噺は発達しなかったようです。

葬式

この噺にあるように、かつて富裕層の間では、会葬者に、上戸は土瓶の酒、下戸には饅頭、全員に強飯こわめしと煮しめなどの重箱を配ったものです。

ケチ兵衛ほどしみったれていなくとも、ぐずぐずして会葬者が増えれば、それだけ出すものも出さねばならず、経費もかさむ勘定です。

今も昔も、葬儀の費用はばかになりませんが、明治から大正の初期ぐらいまでは、よほどの貧乏弔いでない限り、どこの家でも仰々しく葬列を仕立てて斎場まで練り歩いたので、余計に物入りだったでしょう。

さまざまなくすぐりと演出

笑いが多く、各自で自由にくすぐりを入れられるため、現在もよく演じられます。

全体のおおまかな構成は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)のものが基本になっています。

戦後では、「留さん」こと九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、自分自身がケチだったこともあって、ことのほか得意にしていました。

会葬者一同の「バンザーイ」や、飛行機から電気仕掛けで垂れ幕が出るギャグ、鳥につつかせる風葬というアイデアも文治のものです。

葬列に山車を繰り出す場面を入れたのは、初代三遊亭銀馬(大島薫、1902-1976)でした。

長男は松太郎、次男を竹次郎、三男梅三郎と、皮肉にも松竹梅で名前をそろえることもあります。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】落語演目

↖この赤いマークが「ちきり」です。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。

最後の「積善の家に余慶あり」は心学の肝要。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天が現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が双璧  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が晩年に熱演しました。

円生は上記二代目小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近とは  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、
「……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという」
とあります。

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが千代田区岩本町二丁目にかつてあった橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋とは方向が違うわけです。

なぜ、円生は弁慶橋と神田のではなくて赤坂のとして語ったのか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町五丁目にあることから、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたのでしょう。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

川瀬巴水(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

食い違い  【RIZAP COOK】

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

明治10年(1877)、大久保利通が惨殺された紀尾井坂もちょうどこの付近です。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝五丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第1号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』の第一図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は一丁目から十三町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町五丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から一丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が十丁目。麹町十一丁目から十三丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図

【語の読みと注】
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがい:くさび
千木 ちぎ:質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

らくだ【らくだ】落語演目

【どんな?】

長屋の嫌われ者、鼻つまみ者が急死。葬儀に巻き込まれる男の変容ぶり。上方噺。

別題: 駱駝の葬礼

もっと知りたい方はこの先をお読みください。

あらすじ

乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬が、フグに当たってあえない最期を遂げた。

兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、なにをするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせた。

「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」

大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきた。

「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」

酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋。

「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると死骸がない。

どこかへ落としたのかと、もと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

上方落語を東京に移植  【RIZAP COOK】

本家は上方落語です。本場の「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」ですが、東京では両方無名です。

「らくだ」は、江戸ことばで体の大きな乱暴者を意味しました。明治大正の滑稽噺の名人、三代目柳家小さんが東京に移植したものです。

聞きどころは、気の弱い紙屑屋が次第に泥酔し、抑圧被抑圧の関係がいつの間にか逆転する面白さでしょう。後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目志ん生の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。「生き返らねえように、アタマつぶしとけ」は志ん生でしか言えない殺し文句です。

戦前にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸を背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

かんかんのうはかんかん踊りともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。九連環は「知恵の輪」のこと。文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

以下、その歌詞を紹介しますが、何語なのかわからない珍妙なことばです。

 かんかんのう、きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう

 にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん

 もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【らくだ 古今亭志ん生】