こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

円朝作。
逝った西念を弔う。
下谷から麻布。
焼き場は桐ヶ谷で。
金兵衛の執念が笑いを誘う。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡おんぼうと呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

https://www.youtube.com/watch?v=fi7PTr_ppfg

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけた。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。

円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。

藤浦(周吉)はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしく。どうだろう。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。

山崎町はみんな貧乏だったんだから。

円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。

志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。

桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治大正の新聞雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だった。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。

文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。

依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。

ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。

麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。

絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」とか、貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。

「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う

。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。

この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】落語演目

↖この赤いマークが「ちきり」です。

 成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。
「易」に振り回される若者の物語です。
キメの「積善の家に余慶あり」は心学や儒学のキモ。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天こくてんが現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が双璧  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演しました。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近とは  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、こんなふうになっています。

……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという……

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが、千代田区岩本町2丁目にかかっていた橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

これを「トランク状」とする記述もあります。

「トランク状」とは、直角の狭いカーブが二つ交互につながっている道路形状のもので、日本語にすれば「枡形道路」となります。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋(千代田区紀尾井町1丁目)とは方向が違うわけです。

「赤坂の」といってしまえば港区となりますが、ここは港区と千代田区の境となっているのです。住所でいえば「千代田区紀尾井町1丁目」となるんですね。

ではなぜ、円生は、弁慶橋を「神田の」ではなくて「赤坂の」として語ったのでしょうか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町5丁目にあることから、伝二郎の地理的感覚からうかがえば、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたからなのではないでしょうか。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

千代田区の文化財」(千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室)には、赤坂の弁慶橋について、以下のような記述があります。

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた愛染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠は、『新撰東京名所図会』によれば、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所として親しまれ、絵葉書や版画の題材にもなりました。とりわけ清水谷の桜は美しく、『新撰東京名所図会』には、“爛漫の桜花を見ることができ、橋を渡るとまるで絵の中に入ったようだ”と周辺の美しさが記されています。また、橋の上からは周辺を通行する人々や車馬、付近に建っていた北白川宮邸・閑院宮邸などが見えたそうです。明治以来の橋は1927年(昭和2年)に架け替えられ、さらに1985年(昭和60年)にコンクリート橋に架け替えられました。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

これを信じれば、江戸時代にはこの場所には弁慶橋はなかったわけですから、円生の創作だということは明白となります。

ちなみに、川瀬巴水(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

食い違い  【RIZAP COOK】

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

大久保利通が、明治10年(1877)5月14日に惨殺されていますが、正確な場所は紀尾井町清水谷です。

それでも、後世、この事件を「紀尾井坂事件」とか「紀尾井坂の変」とか呼んでいるのは、よほど「紀尾井坂」という名称が人々の興味を引いたのでしょう。

江戸時代には、紀州徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根井伊家の中屋敷が並んでいた武家町だったことから、各家から1字ずつとって町名としたわけです。

小岩井農場、大田区、国立市、小美玉市、東御市など、日本人好みの命名法なんですね、きっと。

ここは、千代田区としては、東部に平河町、南部に永田町、北部に麹町が、それぞれ接しています。

ホテルニューオータニの向かい側には清水谷公園があります。

都内を練り歩くデモの出発地点でもあり、集会場所としても名所です。

池泉もありますが、40年ほど前までは崖斜面からは湧水が出ていたもので、まさに「清水谷」でした。

さて。

円生が参考にした禽語楼小さんの速記は、明治27年(1894)1月『百花園』です。

これによれば、以下の通り。適宜読みやすく直してあります。

まるでお医者さまを見たようでござります。かくすること七月下旬から八月、九月と来ました。あるときのこと、施しをいたしていづくからの帰りがけか、ただいま食い違いへかかってまいりました。その頃から食い違いは大変な首くくりのあったところで、伝二郎すかして見ると、しかも首をくくるようす。

伝次郎が親子の首くくりに出会わすシーンです。

「食い違い」とありますが、「弁慶橋」とはありません。

小さんがこの噺を語った頃に、食い違いには弁慶橋が掛かってはありましたが、なにせこの噺は江戸時代が舞台ですから、食い違いに弁慶橋を出すわけにはいかなかったのです。

出してしまったら、客からブーイングが飛んだことでしょう。

円生の時代には、その感覚がまったくなくなっているわけですから、食い違いに「弁慶橋」の名を出してしまっても、文句を言う人もいなかったのですね。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝5丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第一号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』第一図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は1丁目から13町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町5丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から1丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が10丁目。麹町11丁目から13丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図
ことばよみいみ
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがいくさび
千木 ちぎ質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

かたぼう【片棒】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

息子三人に自分の葬式案を語らせるおやじ。
三者三様に大あきれ。
けちの噺。

別題:赤螺屋(上方)

あらすじ

赤螺屋あかにしや吝兵衛けちべえという男。

一生食うものも食わずに金をため込んだが、寄る年波、そろそろ三人の息子の誰かに身代を譲らなくてはならない。

かといって、今のままでは三人の料簡がわからず、誰に譲ったらいいか迷ってしまう。

ある日、息子たちを呼んで、「俺がかりに、もし明日にでも目をつむったら後の始末はどうするつもりか」
と一人ずつ聞かせてもらいたいと言う。

まず、長男。

「おとっつぁんの追善ついぜんに、慈善事業に一万両ほど寄付する」
と言い出したから、おやじ、ど肝を抜かれた。

葬式もすべて特別あつらえの豪華版。

袴も紋付きも全部新規にこしらえ、料理も黒塗り金蒔絵きんまきえの重箱に、うまいものをぎっしり詰め、酒も極上の灘の生一本。

その上、車代に十両ずつ三千人分……。

吝兵衛、ショック死寸前。

「と、とんでもねえ野郎だ、葬式で身上をつぶされてたまるか」

次! 次男。

「お陽気に、歴史に残る葬儀にしたい」
と言いだしたから、おやじはまたも嫌な予感。

案の定、葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立て、木遣きやり、芸者の手古舞てこまいに、にぎやかに山車だし神輿みこしを繰り出してワッショイワッショイ。

四つ角まで神輿に骨を乗せて担ぎ出す。

拍子木ひょうしぎがチョーンと入った後、親戚総代が弔辞ちょうじ
「赤螺屋吝兵衛くん、平素粗食に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良のためおっ死んじまった。ざまあみ……もとい、人生おもしろきかな、また愉快なり」
と並べると、一同そろって
「バンザーイ」

「この野郎、七生しちしょうまで勘当かんどうだっ!!」

次っ! 三男。

「おい、もうおまえだけが頼りだ。兄貴たちの馬鹿野郎とは違うだろうな」
「当然です。あんなのは言語道断ごんごどうだん、正気の沙汰さたじゃありません」

やっと、まともなのが出てきた。

おやじ、跡取りはコレに決まったと安心したが、
「死ぬってのは自然に帰るんですから、りっぱな葬式なんぞいりません。死骸は鳥につつかせて自然消滅。これが一番」
「おいおい、まさかそれをやるんじゃ」
「しかたがないから、まあお通夜を出しますが、入費がかかるから、一晩ですぐ焼いちまいます。出棺は十一時と言っといて八時に出しちまえば、菓子を出さずに済みます。早桶は菜漬けの樽の悪いので十分。抹香まっこうは高いからかんなくず。樽には荒縄を掛けて、天秤棒てんびんぼうで差しにないにしますが、人を頼むと金がかかりますから、あたしが片棒を担ぎます。ただ、後の片棒がいません」
「なに、心配するな。俺が出て担ぐ」

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しりたい

元は上方噺

宝永2年(1705)京都板『軽口あられ酒』巻二の七「きままな親仁」が原話といわれています。

この板本では親仁おやじに名前はありませんが、これが東京に行って「片棒」となると、赤螺屋ケチ兵衛という名前が付きます。

またまた吝兵衛登場!

今回の屋号はあかにしや。

「あかにし」は田螺たにしで、金を握って放さないケチを、田螺が殻を閉じて開かないのにたとえたものです。だから、田螺はケチを暗示しているのです。

上方ではケチは当たり前なので、あまりケチ噺は発達しなかったようです。

葬式

この噺にあるように、かつて富裕層の間では、会葬者に、上戸は土瓶の酒、下戸には饅頭、全員に強飯こわめしと煮しめなどの重箱を配ったものです。

ケチ兵衛ほどしみったれていなくとも、ぐずぐずして会葬者が増えれば、それだけ出すものも出さねばならず、経費もかさむ勘定です。

今も昔も、葬儀の費用はばかになりませんが、明治から大正の初期ぐらいまでは、よほどの貧乏弔いでない限り、どこの家でも仰々しく葬列を仕立てて斎場まで練り歩いたので、余計に物入りだったでしょう。

さまざまなくすぐりと演出

笑いが多く、各自で自由にくすぐりを入れられるため、現在もよく演じられます。

全体のおおまかな構成は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)のものが基本になっています。

戦後では、「留さん」こと九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、自分自身がケチだったこともあって、ことのほか得意にしていました。

会葬者一同の「バンザーイ」や、飛行機から電気仕掛けで垂れ幕が出るギャグ、鳥につつかせる風葬というアイデアも文治のものです。

葬列に山車を繰り出す場面を入れたのは、初代三遊亭銀馬(大島薫、1902-1976)でした。

長男は松太郎、次男を竹次郎、三男梅三郎と、皮肉にも松竹梅で名前をそろえることもあります。

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らくだ【らくだ】落語演目

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【どんな?】

長屋の嫌われ者が急死。
兄貴分がむりむりに葬式を。
巻き込まれる屑屋の豹変ぶりで立場が逆転。
上方噺。

別題: 駱駝らくだ葬礼そうれん 駱駝の友達

あらすじ

駱駝らくだ」の異名をとる馬さんは、乱暴で業腹ごうはらで町内の鼻つまみ者。

ある夜、フグに当たって、ひとり、あえない最期を遂げた。

翌朝、兄弟分の、これまた似たようなろくでもない男が、らくだの死体を発見した。

葬式ともらいを出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった屑屋の久蔵を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香奠こうでんを出させようと思い立ち、屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香奠を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、なにをするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる屑屋を、今度は大家おおやのところに、今夜通夜つやをするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせた。

店賃たなちんを一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」

大家は、いっこうに動じない。

屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、屑屋にむりやり死人しびとを背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽よんとだるをぶんどってくると、屑屋、もうご用済みだろうと期待するが、男はなかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っていて鍋の蓋が開かないから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきた。

「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」

酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋。

「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公やすこうに焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

安公に渡す手間賃は、途中にある池田屋という質屋でこの四斗樽を質入れして始末する、という算段。

相談がまとまり、死骸の髪をむしり取って丸めた上、樽に押し込んで、首の骨なんかは折り曲げて、二人差しにないで出発した。

途中の池田屋では案の定、葬式ともらいは質入れできないと抗うところを、内会ないけえ(非合法の博打)の噂をささやけば、質屋の番頭がさらに嫌がって、追っ払いに二両をくれた。

この二両を安に渡せば焼けると、高田馬場を経て落合の火葬場へとっとと向かった。

落合の火葬場に。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると、死骸がない。

どこかへ落としたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主がんにんぼうずが一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火をつけると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋ひやだ」
冷酒ひやでいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

上方落語を東京に  【RIZAP COOK】

元ネタは上方落語の「駱駝らくだ葬礼そうれん」です。

「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄貴分は「脳天熊」ですが、東京では、死人は「らくだの馬」、兄貴分は無名です。

「らくだ」は江戸ことばで、体の大きな乱暴者を意味しました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。明治大正の滑稽噺の名人で名高い噺家ですね。

三代目小さんが京都で修行していた頃、四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)にならったものとされており、こちらも有名な逸話です。

宮松へ行けばらくだの尾まで聞け

「宮松」とは茅場町薬師境内にあった寄席の宮松亭のことで、第一次落語研究会(1905-23)のセンターでした。

三代目小さんは第一次落語研究会の中心人物で、上方由来の噺をさかんにおろしていました。

「らくだ」もそのひとつだったのですね。

川柳に詠まれるほどさかんに演じられていたのが、三代目小さんの「らくだ」だったということでしょう。

聴きどころ

この噺の聴きどころはなんといっても、気の弱い紙屑屋が男の無理いで飲まされ、男との支配被支配の関係が、酒の力でいつの間にか立場が逆転するおかしさです。

後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。

「生き返らねえように、アタマつぶしとけ」は、志ん生でしか言えない殺し文句です。

実際には、いろんな噺家がやってはいますが、志ん生ほどの凄愴せいそうと滑稽は浮かび上がりません。

いかにも五代目志ん生らしい、身も蓋もない噺のイメージがあり、古今亭の系統の噺かと思ってしまいます。

とはいえ、三代目小さん由来ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も演じてきて、柳家の系統の噺のひとつなんです。

とうぜん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)にまでもつながっていたわけです。

長い噺のため、最後までやる演者はあまりいませんが、柳家小三治は最後までやっていました。40分ないし45分でできる噺なんだそうです。

三代目小さんという噺家は、つまらなそうな顔つきで聴き手を抱腹絶倒の坩堝るつぼに陥れたそうですから、これはもう、小三治の芸風と深くかかわっていますね。

らくだの髪の毛をむしりとる演出は、五代目志ん生、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が継承しています。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、長屋の中の女暮らしの家から剃刀かみそりを借りてきてる演出にしています。

上品ですが、この噺全体を支える粗雑で豪胆な雰囲気は消えてしまいます。

昭和初期にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。まあ、これはもう、どうでもよい話です。

「らくだ」の構成

この噺の構成は、以下の通りです。

①男、兄弟分のらくだが長屋で死んでいるの見つける。
②長屋の前を屑屋が通りかかる。
③男は葬式代捻出のため、らくだの家財を屑屋に売ろうとするが、なにもない。
④男は月番へ香奠を集めるよう、屑屋を使わせ、月番はやむなく応じる。
⑤男は大家へ酒と煮しめを出すよう、屑屋を使わせるが、大家は拒否する。
⑥男は大家宅で、屑屋にらくだの死骸を背負わせかんかんのうを踊らせる。
⑦大家は気味悪がって、酒と煮しめの用意を約束する。
⑧男は豆腐屋へ屑屋を使わせ、四斗樽をせしめる。
⑨香奠、酒、煮しめが届き、男は嫌がる屑屋に酒を強要する。
⑩屑屋は三杯目から豹変し、二人の立場が逆転する。
⑪友達づくで焼かせようと、らくだを入れた四斗樽を二人でかつぎ落合に出発。
⑫通り道の質屋では、内会の噂と四斗樽の質入れで強請ゆすって二両をせしめる。
⑬落合で、二両と四斗樽を受け取った安公が焼こうとしたら死骸がない。
⑭二人は道中を戻り、泥酔の願人坊主をらくだと間違えて運び戻る。
⑮安公が焼き始めると、坊主が熱さで目が覚めた。「ひやでいいからもう一杯」

これを全部ていねいにやれば、軽く1時間以上はかかってしまいます。

多くの噺家は、男と屑屋との立場逆転のあざやかな⑩で終わりにしています。

「ひやでいいからもう一杯」のオチを聴かせるならば40分、質屋強請ゆすりを含めれば45分でできるんだそうです。小三治や小里ん師はこっちのコース。

屑屋のパシリのもたもたは、月番、大家、豆腐屋(演者によっては八百屋)と、3回あります。聴き手にはここがくどくてダレるもの。

ここをうまく刈り取れば、30分以内でオチまでいける、というのがプロの観点とか。

質屋ゆすりも端折はしょられますが。放送主体ではこちらがえじきになります。質屋強請りのくだりはあまり聴きません。

三遊亭小遊三師がNHK「日本の話芸」でやっていたものでも質屋強請りはありませんでした。この番組は30分ですし。

質屋強請りと焼き場に軸足を置いた演じ方もありで、おもしろい演出になります。

五代目小さんはこれを嫌がって省きましたが、弟子の柳家小里ん師は省かない視点です。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸むくろを背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

「かんかんのう」は「看々踊り」ともいい、清楽の「九連環」が元の歌です。

九連環は古代中国で発明された「知恵の輪」だそうです。日本では「かんかんのう(看々踊)」といわれた、歌と踊りのセットです。

文政3年(1820)に長崎から広まって、大坂、名古屋、江戸へとで流行していきました。飴売りがおもしろおかしく町内を踊り歩いてさらに爆発的流行して、文政5年(1822)には禁止令が出たほど。一時下火になってくすぶっていましたが、明治初期に花柳界で流行しました。つまり、文政年間から途絶えずはやっていたのでしょう。

「かんかんのうをきめる」という江戸ことばがあります。これは夜這いに成功したことを言うのですが、「かんかんのう」の踊りで四つん這いのかっこうをするところからの発想のようです。

さて。

「九連環」の歌が元歌で「かんかんのう」が生まれましたが、歌詞もメロディーも変形されています。

以下、「かんかんのう」の歌詞を紹介します。福建語の珍妙な語感が特徴です。福建語は台湾語と同系で、音韻が日本語にも一部同じものがあります。長崎に来た中国人は、じつは福建人ばかりでした。江戸期の中国文化や文物というのは福建省経由のものです。

かんかんのう きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう
にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん
もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

歌の中身は花柳界で放歌する卑猥な内容だそうです。日本人はこの歌を聴いても意味などわからず、ただ音の奇妙に惹かれたようです。どこかコミカルに聴こえ、踊りもコミカルに見えたのですね。詳しくは明清楽資料庫をご覧ください。

かんかんのう
梅ヶ枝の手水鉢

志ん生のくすぐり3選

五代目志ん生の「らくだ」でのくすぐりは、ほかの噺家のそれをはるかに圧倒しています。凄愴で滑稽なんです。

志ん生流を踏襲する噺家もいますが、本家を知っているとなんだかなぞっているようで、いまいち。以下が、きわめつきの3選です。読むだけでも笑っちゃいます。

●屑屋がらくだの死を知った場面

「へえ、ふぐに当たって……まあ、どうもふぐってえものも当てるもんですな、こりゃァ。当てましたなぁ、ふぐが」
「おい、福引きみてえなこと言うなよ」

●屑屋が月番の家に行った場面

「いえね、らくださんがね、ええ、ふぐに当たって死んじゃったんです」
「らくだがァ……。死んだァ。本当か、おい、そんなこと言って、人を喜ばせるんじゃないかい」
「いえ、喜ばせやしませんよ」
「そうかい、へえ、生き返りゃあしねえかァ」
「いや、生き返りませんよ」
「いやァ、あの野郎、ずうずうしいから生き返ってくるかもしれねえぞ。あたまァ、よくつぶしといたらどうだい」

●屑屋がらくだの髪の毛をむしる場面

ぐんだよゥ、もっと。もっと注げよ、もっと……。しみったれめ、けつを上げろ、尻をォ、てめえの尻じゃねえ、徳利の尻をあげんだい……なにを言ってやんだい、こんちくしょう。へええ、なんだい、なんだい、なんだ。らくだァ……、らくだがなんだってんだ。べらぼうめぇ。らくだもきりんもあるかァ。こんちくしょう、まごまごしやがるってえと、おっぺしょって、鼻ァかんじゃうぞう、ほんとうにィ、屑屋さんの久さん、知らねえかってんだ」

くううぅ、たまりませんなあ、志ん生。ぞっろぺいです。

https://www.youtube.com/watch?v=eFDS4J35ldU



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いはいや【位牌屋】落語演目

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【どんな?】

すさまじいケチんぼうの噺。
ブラック噺の極北です。
オチがきいてます。

別題:位牌丁稚

【あらすじ】

ケチでは人後に落ちないだんな。

子どもが生まれ、番頭の久兵衛が祝いに来ても、
「経費がかかるのに何がめでたい」
と小言を言う。

なにしろ、この家では奉公人に魚などくわせたことはなく、三年前に一人、目を悪くしたとき、まじないにメダカを三匹呑ませただけなのだから、とても赤飯に尾頭付きどころの騒ぎではない。

八百屋が摘まみ菜を売りに来ると、八貫五百の値段を、
「八貫を負けて五百で売れ」
と言って怒らせ、帰ると、こぼれた菜を小僧に拾わせて味噌漉しいっぱいにしてしまう。

今朝の、芋屋との会話。

五厘だけ買った。

だんな「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいと煙草を貸しとくれ」
芋屋「おあがんなさい」
だんな「いい煙草だ。いくらだい? 一銭五厘? 商人がこんな高い煙草のんじゃいけない。家はどこだい?」
芋屋「神田堅大工町です」
だんな「家内多か?」
芋屋「女房とせがれが一人で」
だんな「買い出しはどこでしなさる」
芋屋「多町でします」
だんな「弁当なぞはどうしている?」
芋屋「出先の飯屋で食います」
だんな「そりゃもったいない。梅干しの一つも入れて弁当を持って出なさい。茶とタクアンぐらいはあげるから、ウチの台所でおあがり。いや、うまかった。食うのがもったいないから置き物にしたいぐらいだ。時に、これを一本負けておきな」

この会話をそっくり繰り返す。

三回目に「家はどこだい」と始めたところで、芋屋は悪態をついて帰ってしまう。

嫌がられても五厘で二回負けさせ、たばこをタダで二服。

そのだんな、小僧の定吉に、注文しておいた位牌を取りに仏師屋へやる。

それも裸足で行かせ、
「向こうにいい下駄があったら履いて帰ってこい」
と言いつけるものすごさ。

定吉と仏師屋の親父の会話。

定吉「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいとたばこを貸しとくれ」
親父「てめえが小僧じゃねえか」
定吉「商人がこんな高いたばこをのんじゃいけねえ。家はどこだい?」
親父「ここじゃねえか」
定吉「家内多か?」

全部まねして、今度は位牌をほめる。

「いい位牌だ。食べるのはもったいないから、置き物にしたいくらいだ。形がいい。時に、これ一本負けときな」
「おい、持ってっちゃいけねえ」

ちゃっかり位牌を懐に入れ、オマケの小さな位牌もぶんどって、一目散に店へ。

「下駄は履いてきたか」
「あ、あわてたから片っぽだけ」
「しょうがねえ。そりゃなんだ」
「位牌です」
「同じオマケなら、なぜ大きいのをぶんどってこない」

だんなが小言を言うと、定吉は
「なーに、生まれた坊ちゃんのになさい」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉四六話が原話

後半の、位牌を買いに行くくだりの原話は、文政7年(1824)、江戸で刊行された『新作咄土産』中の「律義者」。

現行とオチまでまったく同じですが、前半のケチ噺は、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)によると、豊前地方(大分県)の代表的なとんち民話、吉四六話を二編ほどアレンジしたものということです。

上方落語「位牌丁稚」が東京に移されたものとみられますが、詳細は不明です。

昭和以後では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などが、時折「逃げ噺」の一つとして演じました。

位牌屋

仏師屋ともいいます。

「仏師」は仏像を彫刻する人、もしくは描く人で、それぞれ木仏師、絵仏師と呼びました。

後世、それらが衰退し、江戸時代に入ると、死者の霊を祭る位牌が一般に普及したため、位牌を作って売る者を仏師屋と呼ぶようになったわけです。

人間は死ねば仏になるから、位牌も仏像も同じ感覚で扱われたため、この名称が転化したものと考えられます。

ブラック噺

かなりすごいオチで、これゆえにこそ、この噺は凡百のケチ噺と区別され、ブラックユーモアの落語として異彩を放っているわけです。

世の善男善女の非難をかわすため、この「生まれた坊ちゃんのになさい」という最後っ屁につき、「たんなるあほうな小僧の、無知による勘違い」と言い繕う向きもありますが、どうしてどうして、確信犯です。

かなりの悪意と嫉妬と呪詛が渦を巻いていると解釈する方が自然でしょう。

それをナマで表してしまえばシャレにならず、さりげなく、袖の下にヨロイをチラチラと見せつけるのが芸の力というものでしょうね。

【語の読みと注】
吉四六 きっちょむ
宇井無愁 ういむしゅう:上方落語研究家
豊前 ぶぜん:大分県

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さんにんむひつ【三人無筆】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

柳派の噺。いまとまっては時流にはなじまないかもしれませんね。

別題:帳場無筆 無筆の帳付け 向こう付け(上方)

あらすじ

お出入り先の伊勢屋の隠居が死んだ。

弔いの帳付けを頼まれたのが熊五郎と源兵衛の二人。

熊は字が書けないので、恥をかくのは嫌だから、どう切り抜けようかとかみさんに相談すると、
「朝早く、源さんよりも先に寺に行って、全部雑用を済ましておき、その代わり書く方はみんな源さんに押しつけちまえばいい」
と言う。

「なるほど」
と思って、言われた通り夜が明けるか明けないかのうちに寺に着いてみると、なんと、源さんがもう先に来ていて、熊さんがするつもりだった通りの雑用を一切合切片づけていた。

源さんも同じ無筆で、しかも同じことをかみさんに耳打ちされてきたわけ。

お互い役に立たないとわかってがっかりするが、しかたがないので二人で示し合わせ、隠居の遺言だからこの弔いは銘々付けと決まっていると、仏に責任をおっかぶせてすまし込む。

ところが、おいおい無筆の連中が悔やみに来だすと、ごまかしがきかなくなってきた。

困っていると地獄に仏、横町の手習いの師匠がやってきた。

こっそりわけを話して頼み込み、記帳を全部やってもらって、ヤレヤレ一件落着、と、後片付けを始めたら、遅刻した八五郎が息せききって飛び込んでくる。

悪いところへ悪い男が現れたもので、これも無筆。

頼みのお師匠さんは、帰ってしまって、もういない。

隠居の遺言で銘々付けだと言ったところで、相手が無筆ではどうしようもない。

三人で頭を抱えていると、源さんが
「そうだ。熊さん、おまえさんが弔いに来なかったことにしとこう」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

無筆が無筆を笑う  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、明和9(=安永元、1772)年刊『鹿の子餅』中の「無筆」。弔問に来た武士と取り次ぎの会話となっています。

原型はそれ以前からあり、元禄14(1701)年刊『百登瓢箪』巻二中の「無筆の口上」では、客と取り次ぎの両方が無筆、というお笑いはそのままで、客がしかたなく印だけ押して帰るオチになっています。

この元禄年間(1688-1704)あたりから、無筆を笑う小咄は無数にでき、落語も「無筆の医者」「無筆の女房」「無筆の親」「無筆の犬」「按七」「無筆の下女」「手紙無筆」「無筆のめめず」など、やたらに作られました。 

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから寺子屋が普及、幕末には、日本人の識字率は70%を超えたといわれ、当時の世界最高標準でしたが、それでも三割近くは無筆。

19世紀前後では、寄席に来る客の3~4割が無筆という割合で、「無筆が無筆の噺に笑っていた」ことになります。現代なら人権問題に及びそうですが、なんとも大らかな時代ではありました。

柳派に伝わる噺  【RIZAP COOK】

明治28年(1895)11月、雑誌『百花園』掲載の三代目柳家小さんの速記があります。

無筆の小咄は遠く元禄年間まで溯るので、この噺も相当古くから口演されていたものと思われます。

小さん代々に継承される柳派系統の噺で、五代目小さんの音源もありますが、現在は無筆がほぼ皆無となり、だんだん理解されなくなる運命でしょう。

戦後では八代目春風亭柳枝(1959年没)が得意とし、柳枝は記帳する名に、噺家仲間の本名を使っていました。

もとは柳枝門下だった三遊亭円窓が、独自の工夫で持ちネタにしています。

円窓のオチは、「そんなことをしたらだんなに申し訳がねえ」「いや、かまいません。ホトケの遺言にしときます」というもの。

落語に多い「三」  【RIZAP COOK】

落語の世界で「三」は大きな要素です。

「三」のつく噺は、現在すたれたものを含め、「三人旅」「三人絵師」「三人息子」「三人癖」「三人ばか」「三人娘」「三方一両損」「三拍子」「三枚起請」「三軒長屋」……。まだまだあります。

仏教に「三界」という言葉があり、これは過去・現在・未来の三世のこと。全宇宙は「三千世界」。仏教の三宝は仏・法・僧で、長屋も三軒間口で三畳。

この噺に見られるように「三人寄れば文殊の知恵」となるパターンが落語に多いのは、「三」が最も安定した状態という、仏教哲学が深奥に潜んでいるのではないでしょうか。

そもそも世界も「天地人」からなります。

【語の読みと注】

帳付け ちょうづけ:参列者の記帳
銘々付け めいめいづけ:自分で名前を書く

【RIZAP COOK】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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