永代橋 えいたいばし 演目

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実際にあった永代橋崩落の事故に材をとったくだらない噺です。

別題:多勢に無勢

【あらすじ】

下谷車坂町に住む露店古着商の太兵衛と、同居人の小間物屋、武兵衛。

兄弟同様のつきあいだが、そろって粗忽者。

今日は深川八幡の祭礼の日。

武兵衛はこのところ実入りがいいので、久しぶりに散財しようと、太兵衛夫婦に留守番を頼み、いそいそと出かけていく。

太兵衛が、自分のことは棚に上げて、おまえはそそっかしいから気をつけろと言っても、うわの空。

永代橋に来かかると大変な人込み。

押すな押すなで、身動きができずにいると、突然、胸にどんとぶつかってきた者がいる。

「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」

胸をさすりながらふと懐に手を入れると、金がたんまり入った紙入れが、きれいにすられている。

追いかけようときょろきょろしても、後の祭り。

いまいましいが帰るほかなく、とぼとぼ引き返す途中、ぱったり会ったのが贔屓のだんな。

今度、両国米沢町に待合を開いたので、ぜひ寄ってほしいという。

だんなの家でしこたま酔っぱらい、すっかりご機嫌になったころ、表で何やら人の叫ぶ声。

女中を聞きにやると、たった今、永代橋が人の重みで落ち、たいそう人が溺れ死んで大騒ぎだという。

あのままスリにやられなかったらオレも今ごろはと、さすがに能天気な武兵衛も真っ青。

話変わって、こちらは太兵衛。

武兵衛が帰らないので心配していると、永代橋が落ちたという知らせ。

さてはと、翌朝探しに出ようとする矢先、番所から、武兵衛が橋から落ちて溺れ死んだので、死骸を引き取りにこいとのお達し。

あわてて家を飛び出したとたんに、一杯機嫌の武兵衛とぱったり。

「言わねえこっちゃねえ。おめえは昨夜溺れ死んだんだから、今すぐ一緒に死骸を引き取りに行くんだ」
「こりゃ大変だ」

どっちもどっち。

連れ立って番所に乗り込んだから、話がトンチンカンになる。

武兵衛が死骸を見て、
「これはあたしじゃない」
と言い出したので、太兵衛はいらいらして、武兵衛の背中をポカリ。

もめていると役人が見かねて、これに見覚えがあるかと出したのが昨夜すられた紙入れ。

どうやらスリが身代わりに溺れたのを、武兵衛の書きつけから、お上で本人と勘違いしたらしい。

「それ見ろ。オレでもないものを早合点して、背中をぶちやがって、腹の虫が納まらねえ。お役人さま、どっちが悪いか、お裁きをねがいます」
「うーん、いくら言ってもおまえは勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

永代橋崩落

文化4年8月19日(1807年9月20日)。数日来の長雨がやっと止み、江戸の空はからりと晴れ、蒸し暑い朝でした。

この日は、天明5年(1785)以来22年ぶりに、社殿修復記念を兼ねた深川八幡祭礼が行われるというので、前景気は過熱。そのうえ身延山が便乗イベントで、深川霊巌寺で出開帳を催したので、朝から江戸中の人出は永代橋を目ざし、一時に深川に集まっていました。

午前10時過ぎ、橋向こうに一番山車が見えたので、雨で四日間、祭りが順延してイライラが募っていた数十万の群集が、橋に向かって殺到。たちまち東の橋詰から十二間余りが墜落、あとは地獄絵図が展開。

死者は行方不明者を含めると、1500人を超えたといわれる、大惨事になりました。

深川の 底は八幡 地獄にて 落ちて永代 浮ぶ瀬もなし
永代と 架けたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

惨事には付きもので、不吉な予兆があったこと、偶然助かった者のエピソードなどが残っています。

東西橋詰の死体置場では、死骸の着物で絹の部、木綿の部に分け、年齢からも老人、中年、子供と分類して、引き取り人に捜させたとか。当時、両国橋を除いて、永代も吾妻も仮普請で橋幅も狭く、惨事が起こらない方が不思議な状態でした。

珍しい実録噺

「佃祭」と同様、実際に起こったカタストロフィーを題材にしたもので、落語では数少ない実録ものです。成立の詳細は不明ですが、実際に祭礼に行く途中で二両二分掏られたため、偶然命が助かった本郷の麹屋の体験を脚色したともいわれます。

根岸鎮衛の『耳嚢』巻六の「陰徳危難を遁れし事」という「佃祭り」の原話も、何らかの下敷きとなっていると思われます。

古くは、「多勢に無勢」と題した明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が残ります。戦後は、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が高座にかけ、特に正蔵は得意にしていました五代目三遊亭円楽も好んで演じていました。

このオチを利用した「梅の春」という音曲噺が、後年作られました。

梅の春

もとは清元で、天明のころ(1781-89)、長州藩の分家、長門府中藩主の毛利元義が途中まで造り、後を狂歌の王様、大田蜀山人が付けて、清元名人の太兵衛が節付けしたものです。

その冒頭の詞章は、

四方にめぐる
あふぎ巴や文車の
ゆるしの色もきのふけふ
心ばかりははる霞
引くもはづかし爪じるし

というもので、この後、「わかめ刈るてふ春景色」までこしらえ、元義が行き詰ったのを、蜀山人が受けて、「浮いて- かもめ)のひい、ふう、みい、よう……」 と付けたというエピソードがあります。

これを基にに作られた同題の音曲噺は、清元「梅の春」の語り初めの会に招かれた絵師の喜多武清が、名人の太兵衛に「お天道様」と声が掛かるのを嫉妬して、「自分はいくら努力してもお天道さまとは呼ばれない。もう絵を描くのが嫌になった」と愚痴ると弟子が、「太兵衛 =多勢)に武清(=無勢)はかないません」と、「永代橋」と同じオチになるものです。

永代橋

現在の橋は、江東区深川永代一丁目から中央区新川二丁目の間に架けられていますが、もともとは、その一町(約109m)上流の、佐賀一丁目から、日本橋箱崎町三丁目にわたって架橋されていました。

架橋は元禄11年(1698)とされ、それ以前は「深川大渡し」と呼ばれた渡し場がありました。

享保4年(1719)に洪水で破損し、そのまま取り壊されるところを付近の町人の誓願で、経費はすべて町の負担、さらに橋銭二文を通行人から徴収し、維持費に当てる条件で補修・存続が決まりました。この橋銭は、文化4年の崩落事件後、廃止されています。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
贔屓 ひいき
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:町奉行、『耳嚢』著者 1747-1815
耳嚢 みみぶくろ
遁れし のがれし
喜多武清 きたぶせい
四方 よも
文車 ふぐるま

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安産 あんざん 演目

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ここでは熊五郎、とんでもない粗忽者が登場する、短いおはなしです。

【あらすじ】

粗忽者の熊五郎。

湯に行ったら尻がかゆいのでかこうとして、隣の金さんの尻をつねってけんかになり、金さんがとっくに出てしまっているのに、まだあやまっていたというほど。

それが、かみさんの臨月ともなると、ふだんにも増してソワソワ落ちつかない。

いよいよ産気づき、八十歳の産婆を頼んだが、産婆は潮時を心得ていて、なかなかやってこないのにじれて、湯を沸かすのに薪の代わりにゴボウをくべてしまった。

やっと婆さんが到着。

ご利益があるからと、塩釜さまの安産のお札、梅の宮さまのお砂、水天宮さまの戌の日戌の月戌の日のお札から、どういうわけか寄席の半札まで、やたらと札ばかり並べる。

当人も、ふだんは神さまに手のひとつも合わせたことがないのに、この時ばかりは
「南無天照皇太神宮さま、南無塩釜大明神、水天宮さま、粂野平内濡仏、地蔵菩薩観音さま、カカアが安産しましたら、お礼に金無垢の鳥居一本ずつ納めます」

これを聞いて、うなっているはずのかみさんが驚いた。

「この貧乏所帯で額一つ上げられないのに」
と文句を言うと
「心配するねえ。神さまだって金無垢の鳥居と聞きゃあ、面食らってご利益を授けらあ。出るものが出ちまえば、後は尻食らえ観音だ」

その甲斐あってか、赤ん坊が無事誕生。

「お喜びなさい。男の子ですよ」
「そいつは豪儀だ。ひとつ歩かしてみせてくれ」

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【しりたい】

塩釜大明神

宮城県塩釜市の塩竃神社。航海安全・安産の神です。

梅の宮さま

京都市右京区の梅宮神社。安産の神。お砂はお土砂のことで、加持祈祷で清めた砂。生命を蘇らせる力があるとされます。

久米平内濡れ仏

三代将軍家光の頃、首斬り役人を務めていた(一説には辻斬り)久米(粂野)平内(?-1683)は、のち出家して万傘一擲居士と称し、浅草の金剛院に入りましたが、鈴木正三に師事して仏道に入りました。罪業障滅のため、往来に石像を立て、諸人に踏みつけてもらいたいと遺言したので、始めは浅草駒形堂前、のちに浅草寺境内に像を立て、平内堂としました。踏みつけと文(恋文)付けを掛け、文を奉納して縁結びを祈願する男女が後を絶たなかったとか。濡れ仏は、そのそばにある雨ざらしの観音、勢至両菩薩像です。

久米平内は兵藤長守という名の武道者で、肥後(熊本県)の生まれながら、三河挙母藩で武道師範をつとめ、そのとに、赤坂の道場をもち、どうしたことか、千人斬りの願掛けで辻斬りに及んだ輩でした。明治大正期に大阪から発信された立川文庫に登場して人気を博しました。その前には、曲亭馬琴が『巷談坡堤庵』という敵討ちの小説に登場させています。大正昭和の戦前期には9本の映画にもなり、三代目小金井蘆洲も講談『粂平内』(大正9年=1918、博文館)を残しています。三代目蘆洲は志ん生が5か月ほど蘆風の名で門下にいたことでも知られています。

尻食らえ観音

困った時は観音を頼み、窮地を脱すると「尻食らえ」と恩を仇で返す意味の俗語。ふつう「尻を食らえ!」と言う場合は、「糞食らえ」と同義で、痛烈な罵言、捨てゼリフです。司馬遼太郎が「週刊読売」に小説『尻啖え孫市』を連載すると、このスラングがいっときはやったことがありました。昭和38年(1963)7月-39年(1964)7月の頃のことです。一音違って「しりくらい観音」となると、陰間の尻、もしくはお女郎の尻の意味となります。

日蓮大士道徳話

三遊亭円朝の晩年の作品に「日蓮大士道徳話」というのがあります。明治29年(1896)10月、日蓮宗の週刊新聞に7回で連載したもの。

9月には麻布鬼子母神(日蓮宗の道場でした)の磯村松太郎行者の導きでで日蓮宗の信者となったことから、日蓮宗側が宣伝の意味も込めて、円朝による日蓮上人の一代記を語ってもらおう、という企画だったようです。当然、長尺の大作の予定だったのでしょうが、結局は7回で終わってしまいました。なんとも消化不良です。岩波版「円朝全集」第11巻に初めて収録されてました。

話は日蓮の遠祖、中臣鎌足に始まって、浜松井伊谷の貫名氏となり、鎌倉期には安房に移り住み、貫名次郎重忠が土地の大野氏の娘梅菊との間には子を成し、それが長じて日蓮となった、という流れですが、第7回では誕生で、その後は残念ながら紙資料がありません。

その誕生場面には、「安産」に似た描写があります。円朝は落語的な滑稽な描写にしていました。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
久米平内 くめのへいない
巷談坡堤庵 こうだんつつみのいほ
挙母藩 ころもはん

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粗忽の釘 そこつのくぎ 演目

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これまた滑稽噺の極北。こんなのんきなあわてん坊は憎めません。

別題:我忘れ 宿がえ(上方)

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

引っ越しのときは、おれに任せろと、家財道具一切合切背負ってしまって動けない。

おまけに、あわてて荷物といっしょに家の柱まで縛ってしまう始末。

結局、ツヅラだけ背負って、先に家を出たはいいが、いつまでたっても帰らない。

かみさんが先に着いて気をもんでいると、朝早く出たのが、げんなりした顔でやっと現れたのが夕方。

なんでも、大通りへ出て四つ角へ来ると、大家の赤犬とどこかの黒犬がけんかしているので、義理上
「ウシウシ」
と声を掛けると、赤の方が勢いづき、ぴょいと立ち上がった拍子に自分が引っくり返った。

ツヅラを背負っているので起き上がれず、もがいているのを通りがかりの人に助けてもらったとたん、自転車とはち合わせ。

勢いで自転車が卵屋に飛び込み、卵を二百ばかり踏みつぶす、という騒動。

警官が来て取り調べのため、ずっと交番に行っていたという次第。

ようやく解放されたが、自分が探してきた家なのに、今度は新居を忘れた。

しかたがないから引っ返して、
「大家に頼んで連れて来てもらった」
というわけ。

かみさんはあきれ果てたが、
「とにかく箒を掛ける釘を打ってもらわなければ」
と亭主に金槌を渡す。

亭主は
「大工で専門家なので、これくらいは大丈夫だろう」
と安心していたら、場所を間違え、瓦釘という長いやつを壁に打ち込んでしまった。

長屋は棟続きなので、
「隣に突き抜けて物を壊したかもしれない」
とかみさんが心配し
「おまえさん、落ちつけば一人前なんだから」
と言い含めて聞きに行かせると、亭主、向かいの家に入ってしまい、いきなり
「やい、半人前なんて人間があるか」
と、どなってしまう。

すったもんだでようやく隣に行けば行ったで、隣のかみさんに、
「お宅は仲人があって一緒になったのか、それともくっつき合いか」
などと、聞いた挙げ句、
「実はあっしどもは……」
と、ノロケかたがたなれそめ話。

「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出す。

調べてもらうと、仏壇の阿弥陀さまの頭の上に釘。

「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」
と、トンチンカンなことを言うので、
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじと……いけねえ、中気で寝てるんで、もとの二階へ忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

江戸の引っ越し事情

「小言幸兵衛」「お化け長屋」でも、新しく店(たな=長屋のひと間)を借りに来るようすが描かれますが、だいたいは、たとえば大工なら棟梁か兄貴分が請け人(身元引受人、保証人)になります。

夜逃げでもないかぎり、元の大家にきちんと店賃を皆済した上、保証人になってもらう場合も当然ありました。

大家は町役を兼ね、町内の治安維持に携わっていましたから、店子がなにかやらかすと責任を取らされます。

そこで、入居者や保証人の身元調査は厳重でした。

この噺のように、新居まで付き添ってくれるというのはよほど親切な大家でしょうが、違う町に移る場合は、新しい大家が当人の名前、職業、年齢、家族構成などすべてを町名主に届け、名主が人別帳(にんべつちょう=戸籍簿)に記載して、奉行所に届ける仕組みになっていました。

店賃

たなちん。この噺のあらすじは、三代目三遊亭小円朝の速記を参考にしましたが、自転車が登場することでわかる通り、明治末から大正初期という設定です。

この当時はインフレで物価騰貴が激しかったようです。

『値段の風俗史』(朝日文庫)で見ると、二部屋、台所・便所付きの貸家または長屋で、明治32年(1899)で75銭、同40年(1907)で2円80銭、大正3年(1914)で5円20銭と、7~8年ごとに倍倍ゲームではねあがっています。

さかのぼって江戸期を見ると、長屋の店賃は文化・文政期(1804-30)で、通りに面した表店(おもてだな)で月1分程度、二部屋・九尺二間の裏店(うらだな)で400文ほど。幕末の慶応年間(1865-68)で六百文ですから、まっとうにやっていれば、十分暮らしていけたでしょう。

自転車の価格、卵のねだん

自転車は明治22年(1889)ごろから輸入されました。国産品は明治40年代からで、50~150円しました。前記の店賃でいうと、なんと最低1年半分に相当します。

卵は大正2年(1912)ごろで1個20銭。昔はけっこう贅沢品でした。200個ぶっつぶせば、都合40円の損害です。

粗忽噺の代表格

江戸時代から口演されてきた古い噺。文化4年(1807)にはすでに記録があります。「粗忽長屋」「粗忽の使者」「堀の内」などと並んで代表的な粗忽噺ですが、伸縮自在なため古くからさまざまなくすぐりやオチが考えられました。

最近では、このあらすじのように明治・大正の設定で演じられることが多くなっています。明治期では、円朝門下の初代三遊亭円左が、前の家との距離を、視線の角度と指で示すなどの工夫を加えました。

オチはくだらないので、現行では「ここに箒をかけますか?」で切る場合が多くなっています。「ここまで箒をかけに来なくちゃならない」などとする場合もあります。

故人では六代目春風亭柳橋、五代目柳家小さんがよく演じ、三笑亭夢楽も小円朝直伝で得意にしていました。ウケやすい噺なので、若手もよくやります。

堀の内 ほりのうち 演目

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粗忽噺。日蓮宗がらみの。ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

片方草履で、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

【しりたい】

小ばなしの寄せ集め

粗忽(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

上方版「いらちの愛宕詣り」

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でしたが、元和年間(1615-24)に日円上人が開基して日蓮宗に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

粗忽の使者 そこつのししゃ 演目

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「そこつ」って、言ったことない人。使ってみると意外によい語感かも。

【あらすじ】

杉平柾目正(まさめのしょう)という大名の家臣・地武太治部右衛門という間抜けな名の侍。

驚異的な粗忽者だが、そこが面白いというので殿さまのお気に入り。

ある日、大切な使者を仰せつかり、殿さまのご親類の赤井御門守の屋敷に赴かねばならない。

家を出る時がまた大変。

慌てるあまり猫と馬を間違えたり、馬に後ろ向きで乗ってしまい、
「かまわぬから、馬の首を斬って後ろに付けろ」
と言ってみたりで大騒ぎ。

先方に着くと、きれいに口上を忘れてしまう。

腹や膝をつねって必死に思い出そうとするが、どうしてもダメ。

「かくなる上は……その、あれをいたす。それ、あれ……プクをいたす」
「ははあ、腹に手をやられるところを見るとセッップクでござるか」
「そう、そのプク」

応対の田中三太夫、気の毒になって、
「何か思い出せる手だてはござらぬか」
と聞くと、治部ザムライ、幼少のころから、物忘れをした時には、尻をつねられると思い出す、ということをようやく思い出したので、三太夫が早速試したが、今まであまりつねられ過ぎてタコになっているため、いっこうに効かない。

「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらんか」
と尋ねても、みな腹を抱えて笑うだけで助けてくれない。

これを耳にはさんだのが、屋敷で普請中の大工の留っこ。

そんなに固い尻なら、一つ釘抜きでひねってやろうと作事場に申し出た。

三太夫はわらにもすがる思いでやらせることにしたが、大工を使ったとあっては当家の名にかかわるので、留っこを臨時に武士に仕立て、中田留五郎ということにし、治部右衛門の前に連れていく。

あいさつは丁寧に、頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留、初めは
「えー、おわたくしが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」
などとシャッチョコばっていた。

治部右衛門と二人になると途端に地を出し、
「さあ、早くケツを出せ。……汚ねえ尻だね。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」

えいとばかりに、釘抜きで尻をねじり上げる。

「ウーン、痛たたた、思い出してござる」
「して、使者の口上は?」
「聞くのを忘れた」

【しりたい】

この続き

今では演じられませんが、この後、治部右衛門が使者に失敗した申し訳に腹を切ろうとし、九寸五分の腹切刀と扇子を間違えているところに殿さまが現れ、「ゆるせ。御門守殿には何も用がなかった」と、ハッピーエンドで終わります。

使者にも格がある

治部右衛門は直参ではなく、大名の家来の陪臣、それも下級藩士ですから、直接門内に馬を乗り入れることは許されません。必ず門前で下馬し、くぐり戸から入ります。

作事場とは?

大名屋敷に出入りする職人、特に大工の仕事場です。

「作事小屋」「普請小屋」ともいい、庭内に小屋を建てることもありました。

大大名では、作事奉行、作事役人が指揮することもあります。

おなじみの「太閤記」では、木下藤吉郎が作事奉行で実績をあげ、出世の糸口としています。

赤井御門守

赤井御門守(あかいごもんのかみ)とは、ふざけた名前です。

もちろん架空の殿さまです。

あるいは「赤門」で加賀百万石・前田家をきかせたのかもしれませんが、どう見てもそんな大大名ではありません。

妾馬」での円生によると、ご先祖は公卿・算盤数得卿玉成で、任官して「八三九九守」となった人とか。石高は123,456石7斗8升9合半と伝わっています。

火焔太鼓」では太鼓、「妾馬」では女と、やたらと物を欲しがるのも特徴です。

落語の殿さまにはこのほかに、根引駿河守吝(やぶ)坂慾之守治部右衛門の主君、杉平柾目正などがいます。

でも、赤井の殿さまほど有名じゃありませんね。

【粗忽の使者 柳亭市馬】

 

はんたいぐるま【反対車】演目

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威勢はいいのですが、ここまでそそっかしいのはいかがなものか……。

【あらすじ】

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

【しりたい】

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。

車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。

登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。

車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。

ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった明治の爆笑王・初代三遊亭円遊の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で三万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されましたが、1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」ですが、大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。

住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。

そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。

その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵の十八番でした。

八代目橘家円蔵のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。

客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。

それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左の古い速記が残る怪談「幽霊車」。

そういった多くの新作がものされましたが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

【反対車 八代目橘家円蔵】

そこつながや【粗忽長屋】演目

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「粗忽」とはあわてん坊の意。行き倒れの主が自分!? 粗忽者はさてどうする。

【あらすじ】

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精でそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音様にお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門を抜け、広小路にさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期をとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎のごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所の親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世あたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏になっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸を引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

【しりたい】

主観長屋?

アイデンティティーの不確かさを見事についた鮮やかなオチです。

立川談志は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その現れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さんは、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、現在では、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒の柳家小三治が、その直系のように思えます。

三代目小さんの貴重な音源が残るほか、五代目志ん生、五代目小さん、談志のものが多く出ています。

自身番のこと

自身番屋は、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

【粗忽長屋 立川談志】