まちびけし【町火消】ことば 江戸覗き

江戸市中の消防組織には、武家地旗本屋敷の定火消、武家地大名屋敷の大名火消などがありましたが、この項では町火消について記します。町火消は主に町人地を受け持つ火消です。

成立と変遷  【RIZAP COOK】

町火消とは、都市住民による自営的な消防組織をさします。実際には江戸でのそれをさすことがほとんどです。享保3年(1718)から、江戸の消防制度が一変しました。享保改革の一つです。町人自身による防火・消火体制の組織作り。南町奉行大岡忠相が進めました。享保5年(1720)には隅田川以西を20か町に分けて47組に編成しました。これが町火消で、「いろは四十七組」といわれるものです。語感の悪い「へ」「ひ」「ら」「ん」を避けて、代わりに「百」「千」「万」を入れました。川向こうの本所と深川は16組に分けられました。享保15年(1721)には、47組が一番から十番までの「大組」に大分類されました。このように大岡忠相は、三度にわたって町火消の編成に挑み、完成形に導きました。

火事の際、火元となった組の中で、風下の町は飛び火に備えて自町の防火に対応し、大組の中で風上や風脇の町から火消人足を出火元に派遣させる体制をつくりました。これで、1か町に30人と限定されていた火消人足は15人に減らされてしまいましたが。なんだか、けちくさいのですが、人が動くと金がかかるのですね。

火消人足は最初は住民が務めていたのですが、江戸の消防は破壊消防が主で、総じて素人には無理な作業でした。各町はこういうのが得意な鳶人足を雇うようになっていきました。消防の「傭兵」です。皮肉なもので、建設的作業者が非常時には破壊的作業者に変身しました。

天明7年(1787)以降は町火消といったら鳶人足が主流となりました。それでも、住民が行う初期消火活動の「店火消」も続いていました。ここらへんが江戸の粋なのかもしれません。

活動の範囲  【RIZAP COOK】

享保7年(1722)からは、武家地への消火対象範囲が2町(218m)以内までと定められました。それまでは隣接屋敷に限った消火でよかったのですが、範囲が拡大されたのです。享保17年(1722)には浅草御蔵の防火も義務付けられました。

延享4年(1747)、江戸城二の丸での火災で、大名火消や定火消とともに町火消も城内に入って活動しました。これ以降、天保9年(1838)の西の丸出火、天保15年の本丸出火などでも城内に入って消火に貢献しました。町火消のほまれがいやましたのです。

その実態  【RIZAP COOK】

火消同士の対立や衝突はひんぱんに生じました。破壊消防、家屋を壊すことが仕事だからです。そういう意味では武士と同じです。生産をせず消費(破壊)ばかりが本務なのです。がさつで暴力的で。これを粋とかいさみとかほめそやす江戸の文化もたかが知れた浅底のものだったのかもしれません。

町火消は鳶人足ですから、破壊消防を派手にやれば、後日、自分たちに実入りが来るのはわかりきっています。火事で壊した家屋の跡地に新築を施工するわけですから。破壊と復興を同一人物が受け持つのです。奇妙なからくりです。少し頭をひねると、必要以上に家屋をぶっ壊して、もうけのたねをつくれるようになるのです。日頃祝儀などをくれている富裕の商家の一軒前あたりで鎮火させたりすれば、旦那は礼金をはずんでくれます。商家だけに消火です。かたや、しょっぱい家には「呼び火」や「継ぎ火」で類焼させて半焼も全焼もお手のもの。この局面では鳶人足の独壇場。日頃の鬱憤をはらすのです。こんな心持ちが助長されていくと、屋根瓦を壊して類焼を導いたりもするのです。要は、火事というものはいったん始まるとある程度は火消の意のままに扱えるものだったのです。破壊消防を旨とするからです。ちなみに、「火事息子」の臥煙は町火消とは無縁です。定火消での話となります。

歌川広重『名所江戸百景』より「馬喰町初音の馬場」

参考文献:南和男『幕末都市社会の研究』(塙書房、1999年)、鈴木淳『町火消の近代』(吉川弘文館、1999年)、黒木喬『江戸の火事』(同成社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、深谷克己、須田努編『近世人の事典』(東京堂出版、2014年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
店火消 たなびけし
浅草御蔵 あさくさおくら:幕府の米蔵

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がちぎょうじ【月行事】ことば 江戸覗き

この項では、主に長屋の大家さん(家主、家守、差配)がどんな仕事をしていたのか、町方の組織の中でどんな立場だったのかについて記します。

月行事が生まれるまで  【RIZAP COOK】

1600年代中頃から1700年代にかけて、江戸では富裕商家による町屋敷の集積が進展していき、不在地主が所有する町屋敷がたくさん出てきました。

1600年代を通して、町方行政の組織や機構が整備されていき、町のすべき業務が多様化してくると、家持はその役割分担を嫌がるようになりました。町の運営は家持の代理人である家主(家守、差配)に委託されていきました。

この家主こそが、落語におなじみの「大家さん」です。地主そのものではなく、地主の代行者だったのです。

やがて、家主たちが同業者を集めて五人組を構成し、五人組の中から毎月交代で町用、公用のを務める人を出すようにしました。これを月行事といいます。

ただ、月行事を五人組以外から雇うようなこともあって、しばしば問題が生じていました。寛文6年(1666)10月27日、「雇月行事」が禁止されました。

月行事の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

月行事の仕事とは。そのいろいろを列挙してみましょう。

名主からの町触の町内への伝達
町内訴訟、願届への加判、町奉行所への付き添い
検視見分の立ち会い
囚人の保留
名主の指揮下での火消人足の差配
火の番
夜廻り
上下水道の普請
井戸の修理
町内道路の修繕
木戸番、自身番の修復
喧嘩公論の仲裁
捨て子や行き倒れの世話
切支丹宗門の取り締まり
浪人の取り締まり

月行事も名主同様、町内にかかわるすべての町用、公用をこなしました。

自身番  【RIZAP COOK】

月行事はこれらのことがらを町内の自身番に詰めて行いました。自身番には月行事の補助役として書役がいました。自身番は町内につくられた交番のようなものです。

月行事の任期中は五人組の責務についてはほかの組員に代行してもらっていたようです。

自身番は犯罪者を拘留する場でもありました。こんな川柳があります。

月行事 しらみの喰ふを かいてやり

縛られている犯人がしらみに食われてかゆいので、月行事が代わりにかいてやるという風景です。なんだか、ほほえましいですね。

月行事持  【RIZAP COOK】

町並地(町奉行・代官両支配地)では複数の五人組の代表として「年寄」を置くところもあったようです。名主のいない町では月行事が名主の代行をしたそうです。家数が少なくて名主役料も負担できない、寺社門前町家、拝領町屋敷などでは月行事持でした。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
家持 いえもち
家主 いえぬし:大家さん。差配、家守
家守 やもり:大家さんのこと
公役 くやく
町並地 まちなみち

町年寄 名主

【RIZAP COOK】

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まちどしより【町年寄】ことば 江戸覗き

この項では、幕府と町人の間にあってさまざまな行政を受け持たされた町年寄の3家について記しました。

3家が世襲  【RIZAP COOK】

江戸の都市行政を管理する町奉行所の下には、3人の町年寄がいました。世襲です。正月3日には、江戸城に年頭挨拶に登城していました。特別な町人といえるでしょう。

樽屋 藤左衛門(与左衛門)を代々名乗る
奈良屋 市右衛門を代々名乗る
喜多村 彦右衛門を代々名乗る

伝達の順序  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。家主、地借人、店借人は家持ではないので町費負担はありませんでした。町人としては認められていませんでした。

職務の中身  【RIZAP COOK】

町年寄はどんなことをするのかといえば、以下のようなことです。

町触の名主への伝達
新開地の地割りと受け渡し
人別の集計
商人や職人の統制
公役、冥加、運上の徴収事務
町奉行の諮問に対する調査と答申
町人の願出に関する調査
民事関係の訴訟の調停

町年寄の居宅は、町人からは役所と見られていました。

樽屋 日本橋本町一丁目に居宅
奈良屋 日本橋本町二丁目に居宅
喜多村 日本橋本町三丁目に居宅

こんなぐあいで、日本橋本町に集中していました。

地割役  【RIZAP COOK】

さらに、町年寄に準ずる職務を受け持つ「地割役」がいました。町触伝達には関係しません。地面の区画調査、屋敷の受け取りや受け渡し、消火後に行う出火元の跡見分などを受け持っていました。火事や地震が頻繁に生じて住まいの強制移転が起こる江戸では重要な役職となりました。

開府直後は木原家が任されましたが、正徳2年(1712)以降は樽屋三右衛門家が世襲するようになりました。樽屋右衛門家は町年寄の樽屋藤左衛門家と親戚です。

町人とは  【RIZAP COOK】

ここで、町人について記しておきます。

町人とは家持のことです。町人=家持。町人の社会的役割のひとつに賃貸しの長屋を持って、わずかな店賃で店子に貸す慣習がありました。

町人は大家を雇います。大家には、店子からの家賃の取り立てやさまざまな問題のめんどうなど長屋の管理運営を任せます。その対価として店賃の免除などの優遇をしていました。

江戸をはじめとした大都市(大坂、京、長崎)には、富裕町人や下層町人のほか、没落した都市下層民をはじめとするさまざまな階層の人々が生活するようになります。

長屋の住人である熊五郎、八五郎、糊屋のばあさんなどは借家人ですから、町人ではありません。

町年寄の収入  【RIZAP COOK】

幕府から拝領した土地から上がる地代が、町年寄の収入となります。600両ほどの利益です。

これとは別に、樽屋は枡の独占販売の収益がありました。毎年200両ほどが入ってきたので、奈良屋、喜多村よりも豊かでした。

枡座という江戸と京都で枡を専売した機関が枡座です。東日本33か国で使われる枡は樽屋が扱っていました。西日本33か国で使われる枡は京都の福井作左衛門が作る枡でした。公許となる両者の枡は焼き印が押されて認証されていました。

樽屋は別格  【RIZAP COOK】

明和2年(1765)以降、町年寄が幕府公用金の江戸町人への貸付を委託されました。とくに樽屋は枡座のかかわりもあってのことか、経済・金融政策に特異な能力を発揮したことで知られます。

寛政改革で、樽屋与左衛門は棄捐令で手腕を発揮したといいます。棄捐令は旗本・御家人の借財整理です。文化期には町人からの御用金の徴収や貸付にもかかわりました。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
地割役 じわりやく
木原家 きはらけ
樽屋三右衛門家 たるやさんえもんけ
跡見分 あとけんぶん
家持 いえもち
家守 やもり:大家さん。名主の代理人。差配人
月行事 がちぎょうじ
店子 たなこ
店賃 たなちん
地借人 じがりにん
店借人 たながりにん

名主 月行事

【RIZAP COOK】

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くびぢょうちん【首提灯】演目

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酔っ払い、田舎侍を侮ったら首ちょん切られ。滑稽噺。ざらにない傑作。

【あらすじ】

芝山内に追い剥ぎや辻斬りが毎日のように出没していた幕末の頃。

これから品川遊廓に繰り込もうという町人一人。

すでに相当きこしめしていると見え、千鳥足でここを通りかかった。

かなり金回りがいいようで、
「これからお大尽遊びだ」
と言いかけて口を押さえ
「……おい、ここはどこだい。おっそろしく寂しいところだ。……おや、芝の山内だ。物騒な噂のある場所で、大金を持ってるのはまずかったかな……」

さすがに少し酔いが醒めて、それでも空元気を出し、なんでも逆を言えば反対になるというので
「さあ、辻斬り出やがれ。追い剥ぎ出ろい。出たら塩つけてかじっちまうぞ」
と、でかい声を張り上げる。

増上寺の四ツ(午後十時ごろ)の鐘がゴーン。

あたりは人っ子一人通らない。

「……おい、待て、おい……」

いきなり声をかけられて、
「ぶるっ、もう出たよ。何も頼んだからって、こうすみやかに出なくても……」

こわごわ提灯の灯をかざして顔を見上げると、背の高い侍。

「おじさん、何か用か?」
「武士をとらえておじさんとはなにを申すか。……これより麻布の方へはどうめえるか、町人」

なまっていやがる……。

ただの道聞きだという安心で、田舎侍だからたいしたことはねえという侮り、脅かされたむかっ腹、それに半分残っていた酒の勢いも手伝って、
「どこィでも勝手にめえっちまえ、この丸太ん棒め。ぼこすり野郎、かんちょうれえ。なにィ? 教えられねえから、教えねえってんだ。変なツラするねえ。このモクゾー蟹。なんだ? 大小が目に入らぬかって? 二本差しが怖くて焼き豆腐は食えねえ。気のきいた鰻は五本も六本も刺してらあ。うぬァ試し斬りか。さあ斬りゃあがれ。斬って赤え血が出なかったら取りけえてやる。このスイカ野郎」

カッと痰をひっかけたから、侍の紋服にベチャッ。

刀の柄に手が掛かると見る間に
「えいやあっ」

……侍、刀を拭うと、謡をうたって遠ざかる。

男、
「サンピンめ、つらァ見やがれ」
と言いかけたが、声がおかしい。

歩くと首が横にずれてくる。

手をやると血糊がベッタリ。

「あッ、斬りゃあがった。ニカワでつけたらもつかな。えれえことになっちゃった」

慌てて走っていくと、突き当たりが火事で大混雑。

鳶の者に突き当たられて、男、自分の首をひょいと差し上げ、
「はいごめんよ、はいごめんよ」

【しりたい】

原話と演者

安永3年(1774)刊の『軽口五色帋(かみ)』中の「盗人の頓智」ですが、これは、忍び込んだ泥棒が首を斬られたのに気付かず、逃げて外へ出ると暗闇で、思わず首を提灯の代わりにかざします。

もともと小ばなしだったのを、明治期に四代目橘家円蔵が一席にまとめたものです。その円蔵直伝の六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が得意としました。

現在でもよく演じられますが、オチで、男が火事見舞いに駆けつけ、店先に、「ヘイ、八五郎でございます」と、自分の首を差し出すやり方もあります。

上方の「上燗屋」

のみ屋で細かいのがなく、近くの古道具屋で仕込み杖を買って金をくずした男が、その夜入った泥棒を仕込み杖でためし斬り。泥棒の首がコロコロ……という筋立てで、オチは同じです。

首なしで口を利くという、やや似たパターンの噺に「館林」「胴取り」があります。

芝山内

品川遊郭からの帰り道だったため、幕末には辻斬り、追い剥ぎなどがひんぱんに出没しました。

『武江年表』の文久3年(1863)の項にも、「此頃、浪士徘徊して辻斬り止まず。両国橋畔に其の輩の内、犯律のよしにて、二人の首級をかけて勇威を示せり。所々闘諍(とうじょう)ありて穏ならず」とあります。

「蔵前駕籠」の舞台となった蔵前通りあたりはまだ人通りがありましたが、こちらは当時は荒野も同然。こんなぶっそうな場所はなかったでしょう。

江戸っ子の悪態解説

「ぼこすり野郎」の「ぼこすり」は蒲鉾用のすりこぎ。「デクノボー」「大道臼(おおどううす)」などと同じく、体の大きい者をののしった言葉です。

「かんちょうれえ(らい)」は弱虫の意味ですが、語源は不明です。この男もわかっていません。

「モクゾー蟹」は、藻屑蟹ともいい、ハサミに藻屑のような毛が生えている川蟹で、ジストマを媒介します。要するに「生きていても役に立たねえ木ッ葉野郎」くらいの意味でしょう。

サンピン

元は渡り中間(ちゅうげん)や若党をののしる言葉でしたが、のちにはもっぱら下級武士に対して使われました。

中間の一年の収入が三両一分だからとも、三両と一人扶持(日割計算で五合の玄米を支給)だったからともいわれます。

浅黄裏

田舎侍のことを別に「浅黄裏(着物の浅黄木綿の裏地から)」「武左(ぶざ)」「新五左(しんござ)」などとも呼びました。とりわけ、「浅黄裏」は野暮の代名詞です。