くびぢょうちん【首提灯】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

芝の辺で酔っぱらいの町人。
訛りの強い侍を侮った。
えいやあっ。あとは謡を鼻歌で。
サンピンめ。首が横にずれて。
ざらにない傑作です。

別題:上燗屋(上方)

【あらすじ】

芝山内しばさんない

追い剥ぎや辻斬りが毎日のように出没していた、幕末の頃。

これから品川遊廓に繰り込もうという、町人一人。

すでに相当きこしめしていると見え、千鳥足でここを通りかかった。

かなり金回りがいいようで、
「これからお大尽遊びだ」
と言いかけて口を押さえ
「……おい、ここはどこだい。おっそろしく寂しいところだ。……おや、芝の山内さんないだ。物騒な噂のある場所で、大金を持ってるのはまずかったかな……」

さすがに少し酔いが醒めた。

それでも空元気を出し、なんでも逆を言えば反対になるというので
「さあ、辻斬り出やがれ。追いぎ出ろい。出たら塩つけてかじっちまうぞ」
と、でかい声を張り上げる。

増上寺の四ツ(午後十時ごろ)の鐘がゴーン。

あたりは人っ子一人通らない。

「……おい、待て、おい……」

いきなり声をかけられて、
「ぶるっ、もう出たよ。何も頼んだからって、こうすみやかに出なくても……」

こわごわ提灯の灯をかざして顔を見上げると、背の高い侍。

「おじさん、何か用か」
「武士をとらえて、おじさんとはなにを申すか。……これより麻布の方へはどうめえるか、町人」

なまっていやがる……。

ただの道聞きだという安心で、田舎侍だからたいしたことはねえという侮り、脅かされたむかっ腹、それに半分残っていた酒の勢いも手伝った。

「どこィでも勝手にめえっちまえ、この丸太ん棒め。ぼこすり野郎、かんちょうれえ。なにィ? 教えられねえから、教えねえってんだ。変なツラするねえ。このモクゾー蟹。なんだ? 大小が目に入らぬかって? 二本差しが怖くて焼き豆腐は食えねえ。気のきいた鰻は五本も六本も刺してらあ。うぬァ試し斬りか。さあ斬りゃあがれ。斬って赤え血が出なかったら取りけえてやる。このスイカ野郎」

カッと痰をひっかけたから、侍の紋服にベチャッ。

刀の柄に手が掛かる、と見る間に
「えいやあっ」

……侍、刀を拭うと、謡をうたって遠ざかる。

男、
「サンピンめ、つらァ見やがれ」
と言いかけたが、声がおかしい。

歩くと首が横にずれてくる。

手をやると血糊ちのりがベッタリ。

「あッ、斬りゃあがった。ニカワでつけたら、もつかな。えれえことになっちゃった」

あわてて走っていくと、突き当たりが火事で大混雑。

とびの者に突き当たられて、男、自分の首をひょいと差し上げ、
「はい、ごめんよ、はい、ごめんよ」

【しりたい】

原話と演者

安永3年(1774)刊の『軽口五色帋かるくちごしきかみ』中の「盗人ぬすっと頓智とんち」です。

忍び込んだ泥棒が首を斬られたのに気づかず、逃げて外へ出ると暗闇で、思わず首を提灯の代わりにかざします。

もともと小ばなしだったのを、明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)が、一席にまとめたものです。

円蔵直伝の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が得意としました。

現在でもよく演じられます。

オチで、男が火事見舞いに駆けつけ、店先に、「ヘイ、八五郎でございます」と、自分の首を差し出すやり方もあります。

上方の「上燗屋じょうかんや

のみ屋で細かいのがなく、近くの古道具屋で仕込み杖を買って金をくずした男が、その夜入った泥棒を仕込み杖でためし斬り。

泥棒の首がコロコロ……という筋立て。

オチは同じです。

首なしで口をきくという、やや似たパターンの噺に、「館林」「胴取り」があります。

芝の山内

品川遊郭からの帰り道だったため、幕末には辻斬り、追い剥ぎなどが、ひんぱんに出没しました。

「山内」とは寺の境内。ここでいう「山内」は、三縁山広度院増上寺さんえんざんこうどいんぞうじょうじのこと。「芝山内」とは、増上寺の境内、という意味です。

浄土宗鎮西派じょうどしゅうちんぜいはの大本山です。徳川将軍家の菩提寺ぼだいじ(祖先の墓、位牌を置く寺)。徳川家康は熱心な浄土宗の門徒でした。

三代家光の時代に、上野に東叡山寛永寺とうえいざんかんえいじを建て、こちらも将軍家の菩提寺と認定されました。天台宗の寺院です。比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの向こうを張ったわけです。家康と家光の墓は日光にあります。こちらの寺院は輪王寺りんのうじです。神仏習合しんぶつしゅうごうですが、いちおう天台宗です。寛永寺の系統の寺院です。

寛永寺のなにがすごいかといえば、その命名です。「東叡山」とは関東の比叡山という意味。寺号に元号を冠するのは当時の最高の寺院を意味します。

仁和寺、延暦寺、建仁寺、永観堂、建長寺、天龍寺。限られています。これらを「元号寺」と称します。

延暦寺も元号寺ですから、寛永寺は完全に比叡山延暦寺の向こうを張っているわけです。天海の悲願、いやいや執念といえるでしょう。

徳川将軍家は多重信仰の一族でした。徳川家は、多くの宗派のパトロン(後援者)をも兼ねていました。

なんといっても、江戸時代という時代ほど、日本国内の宗教者にとってらくちんな時代はありませんでした。毎年、幕府や藩などから禄(米=給料)をもらえるのですから。なにもしなくても生活できたわけです。

例外的に弾圧されたのは、キリスト教と日蓮宗不受不施派にちれんしゅうふじゅふせはだけだそうです。

武江年表ぶこうねんぴょう』の文久3年(1863)の項にも「此頃、浪士徘徊して辻斬り止まず。両国橋畔に其の輩の内、犯律のよしにて、二人の首級をかけて勇威を示せり。所々闘諍とうじょうありて穏ならず」とあります。

蔵前駕籠」の舞台となった蔵前通りあたりは、まだ人通りがありました。

幕末の芝山内は荒野も同然。こんな、ぶっそうな場所はなかったのでしょう。

江戸っ子の悪態解説

「ぼこすり野郎」の「ぼこすり」は蒲鉾用のすりこぎ。

「デクノボー」「大道臼おおどううす」などと同じく、体の大きい者をののしった言葉です。

「かんちょうれえ(らい)」は弱虫の意味ですが、語源は不明です。

この男もわかっていません。

「モクゾー蟹」は、藻屑蟹ともいい、ハサミに藻屑のような毛が生えている川蟹で、ジストマを媒介します。

要するに、「生きていても役に立たねえ、木ッ葉野郎めッ」くらいの意味でしょう。

サンピン

もとは、渡り中間ちゅうげんや若党をののしる言葉でした。のちには、もっぱら下級武士に対して使われました。

中間の一年間の収入が三両一分だからとも、三両と一人扶持ぶち(日割り計算で五合の玄米を支給)だったからとも、いわれます。「サン」は三、「ピン」は一のこと。

浅黄裏

諸藩の武士、つまり、田舎侍のこと。別に、「浅黄裏あさぎうら(着物の浅黄木綿の裏地から)」「武左ぶざ」「新五左しんござ」などとも呼びました。

「浅黄裏」は野暮の代名詞で通っています。「棒鱈」にも登場しました。

https://www.youtube.com/watch?v=BCH2fCyKGz0

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ぼうだら【棒鱈】落語演目

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【どんな?】

「首提灯」「胴取り」と並ぶ痛快珍品。
江戸っ子のタンカが聴きどころです。
オチの「こしょう」は「故障」と「胡椒」を掛けています。

あらすじ

江戸っ子の二人連れ。

料理屋の隣座敷で、鮫塚という田舎侍が大騒ぎする声を、苦々しく聞いている。

ついさっきまで
「琉球へおじゃるなら草履ははいておじゃれ」
などというまぬけな歌をがなっていた。

静かになったと思ったら、芸者が来たようすで、隣の会話が筒抜け。

芸者が
「あなたのお好きなものは?」
と聞くと
「おいどんの好きなのは、エボエボ坊主のそっぱ漬け、赤ベロベロの醤油漬けじゃ」

エボエボ坊主がタコの三杯酢で、赤ベロベロがマグロの刺し身ときた。

「おい、聞いたかい。あの野郎の言いぐさをよ。マグロのサムスだとよ。……なに、聞こえたかってかまうもんか。あのバカッ」

大声を出したから、侍が怒るのをなだめて、
「三味線を弾きますから、なにか聞かせてちょうだい」
と言うと、侍は
「モーズがクーツバシ、サーブロヒョーエ、ナーギナタ、サーセヤ、カーラカサ、タヌキノハラツヅミ、ヤッポコポンノポン」
と歌い出す。

「おい、あれが日本の歌かい」
と、あきれかえっていると、今度は
「鳩に鳶に烏のお犬の声、イッポッポピーヒョロカーカー」
「おしょうがちいが、松飾り、にがちいが、テンテコテン」

気短な方が、もうがまんがならなくなって、隣座敷のテンテコテンがどんなツラぁしてるか、ちょいと見てきてやると、相棒が止めるのも聞かずに出かけていく。

廊下からのぞこうとしたが、酔っているからすべって、障子もろとも突っ込んだ。

驚いたのが田舎侍。

「これはなんじゃ。人間が降ってきた」
「なにォ言ってやがるんでえ。てめえだな。さっきからパアパアいってやがんのは。酒がまずくならあ。マグーロのサスム、おしょうがちいがテンテコテンってやがら。ばかァ」
「こやつ、無礼なやつ」
「無礼ってなあ、こういうんだ」
と、いきなり武士の面体に赤ベロベロをぶっかけたから
「そこへ直れ。真っ二つにいたしてくれる」
「しゃれたたこと言いやがる。さ、斬っつくれ。斬って赤くなかったら銭はとらねえ、西瓜野郎ってんだ。さあ、斬りゃあがれッ」
と大げんか。

ちょうど、そこへ料理人が、客のあつらえの鱈もどきができたので、薬味のこしょうを添えて上がろうとしたところへ、けんかの知らせ。

あわててこしょうを持ったまま
「まあ、だんな、どうかお静かに。ま、ま、親方。後でお話いたしますから」
と、間へ入ってもみ合ううちに、こしょうをぶちまけた。

「ベラボウめ、テンテコテンが、ハックション」
「ま、けがをしてはいけませんから、ハックション」
「無礼なやつめ。真っ二つにいたしてくれる。それへ、ハックション」
「まあまあ、みなさん、ハックション」
とやっていると、侍が
「ハックション、皆の者、このけんかはこれまでじゃ」
「そりゃまた、どうして」
「横合いからこしょう(故障=じゃま)が入った」

【RIZAP COOK】

しりたい

爽快な啖呵  【RIZAP COOK】

原話は不詳ですが、生粋きっすいの江戸落語で、「首提灯」と並んで、江戸っ子のイキのよさとタンカが売り物の噺です。

それだけに、歯切れよく啖呵たんかのきれる演者でないとサマにならず、昨今はあまり口演されません。

昭和34年(1959)9月、ラジオ公開録音中に脳出血で倒れ、翌月亡くなった八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が得意にしていました。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)もよく演じました。門下の十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)も持ちネタにしていました。

あるいは、同じ小さん門下の柳家さん喬なども持ちネタにしています。若き日のさん喬がラジオで演じた「棒鱈」は実にみごとな出来でした。

TBS落語研究会で、橘家円太郎が熱演したこともありました。

棒鱈  【RIZAP COOK】

もとは、鱈を三枚におろしたものを日干しにしたものをさします。それを里芋や海老芋などで煮込んだ料理が、芋棒です。京都の名物ですね。

この噺では、それを呼んでいるのではありません。

俗語として、酔っぱらい、または愚か者、野暮天の意味で使いました。酔っぱらってぐだぐだになっている状態が、棒鱈にあたります。

この噺では鱈もどき(不詳。棒鱈の煮つけのことか?)という、田舎侍のあつらえた料理とひっかけた題名になっています。ここでは、棒鱈は明らかに侍のほうです。

料理とは本来、魚鳥のもののみを指し、野菜などの精進ものが出る場合は「調菜」と呼んで区別していました。

参考:原田信男『江戸の料理史―料理本と料理文化』(中公新書、1989年) 

浅黄裏  【RIZAP COOK】

江戸勤番の諸藩士が、着物の裏に質素な浅黄木綿あさぎもめんをつけて吉原などに出入りしたのをあざ笑って「浅黄裏あさぎうら」とも呼ばれ、野暮やぼの代名詞でした。

「浅黄裏」は諸般の武士をさします。田舎侍といった蔑称です。

この噺の侍は薩摩藩士と思われますが、落語では特にそれらしくは演じません。

ただ、薩摩の芋侍とすると、「首提灯」同様、薩長に対する江戸者の反感がとみに高まっていた幕末の世相を色濃く感じます。

タンカが売り物  【RIZAP COOK】

「浅黄裏」「サンピン」などと江戸っ子に蔑まれた勤番の諸藩士については、「首提灯」「胴取り」などがあります。

この噺の侍は薩摩藩士のようですが、落語では、特にそれらしくは演じません。

首提灯」同様、江戸っ子が痛快なタンカで田舎侍を罵倒するイキのよさが眼目の噺です。

幕府瓦解直後の寄席では、そのばかにしていた「薩摩芋さつまいも」や「長州猿ちょうしゅうざる」が天下を取り、憤懣やるかたない江戸っ子の鬱憤晴らしとして、この手の噺は、さぞ受けたことでしょう。

こしょう

オチの「故障」とは、①さしつかえ、さしさわり②異議、異論、じゃま、文句、抗議。

この故障と胡椒を掛けたわけです。今はすたれてしまいまって、その意味もわかりにくくなっていますが、「故障」は日常的によく使われていました。

【語の読みと注】
浅黄裏 あさぎうら:諸藩の武士



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どうとり【胴取り】落語演目

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【どんな?】

夜道、職人が田舎侍に斬られた、らしい。
首はどぶ板の上でしゃべってる。
胴体は気づかず歩いてる。
おいおい。これは困ったなぁ。

あらすじ

露天博打ですってんてんにされた職人。

寒さにふるえ、
「ついてねえ」
と、ぐちりながら
「土手は寒かろォォ」
と、やけで都々逸をうなって道を急いでいると、ふいに
「それへめえる町人、しばらく待て」
と呼び止められる。

驚いて、暗がりをすかして見ると、大柄な侍。

むかっ腹が立って
「なんの用だか知らなえが、江戸は火事早えんだ、とんとんやっつくれ」
と、まくしたてると
「身供は今日、国元より初めてまかり越した。麹町へはどうめえるか、教えろ」

男、田舎侍と侮って八つ当たり気味に
「この野郎、おおたばなことォぬかしゃあがって。どうでもめえれ。東ィ行ってわからなきゃあ西、西で知れなきゃ北、東西南北探せ。どっか出らあ。ぐずぐずしやがると、たんたんで鼻かむぞ」
「無礼を申すと手は見せんぞ。長いのが目に入らんか。……二本差しておるぞ」
「てやんでえ田子作め。見せねえ手ならしまっとけ。手妻使いじゃあるめえし、そんな長いもんが目に入るか。二本差しがどうしたんでえ。二本差しがこわくて田楽で飯が食えるか。気のきいた鰻なんぞァ四本も五本もさしてらァ。まごまごしゃあがると引っかくぞ」

男、侍にいきなり痰と唾をひっかけた。

これがご紋どころへ、べっとり。

侍、堪忍袋の緒が切れて
「おのれ無礼者ッ」
と、長いのをすっと抜く。

さすがに驚いて、ばたばたと逃げてかかると、追いかけた侍、
「えいっ」
と、掛け声もろとも居合いでスパッと斬り、あっという間に鞘に納めると、謡をうたって行ってしまった。

男、「つらァみやがれ」と、悪態をついているうちに、なんだか首筋がひんやり。

首がだんだん左回りに回ってずれてくる。

そのうち完全に真横を向き、息が漏ってきた。

「野郎、いったい何しゃあがったか」と、首筋をしごくと赤い血がベットリ。

「野郎、斬りゃあがった」
と、あわてて下を向くと、とたんに首は前に転げ、胴体だけが掛け出し、橋を渡ったところでバッタリ。

そこへ、威勢よく鼻唄をうなった男が来かかる。

酒が入って懐が温かいらしい。首だけで見上げると、友達の熊。

いきなり声をかけられたが、姿が見えないのでキョロキョロ。

「どこにいるんだ?」
「足もと」

見ると首だけがどぶ板に乗っかって、しゃべっている。

「どうしたんだよ。……おやおや、だから言わねえこっちゃねえ。くだらねえサンピンにかかわるなって。で、胴はどうした? 橋向こう? そりゃ、てえへんだ」

熊が
「今日は博打の目が出て、二、三十両もうかった」
と自慢すると、首が
「五両貸してくれ」
と、頼む。

「そらあ、友達だから貸さねえもんでもねえが、その金でどうしようってんだ?」
「へへっ、橋向こうに胴を取りに行く」

しりたい

クビが飛んでも動いてみせるわ

前半は「首提灯」と同じで、原話は安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の「盗人の頓智」ほかの小咄です。「首提灯」をお読みください。

江戸落語と思いきや、噺としては上方種です。長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が東京に移植しました。

先の大戦後は、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が持ちネタにしましたが、ポピュラーな「首提灯」と前半がほとんど同じなので、小円朝没後はほとんど演じられません。

一つには、「館林」「首提灯」と同様に首を斬られてもしゃべるという奇想天外さを持ちながら、斬られてからのセリフが長すぎるため、せっかくの新鮮な印象が薄れてしまうということも、あるのでしょう。

おおたば

「この野郎、おおたばなことォぬかしゃァがってェ」
と、タンカの先陣を切りますが、おおたばは「大束」で、本来は「並々でないことを安易に安っぽく扱うこと」。

ところが、どこかで意味の誤用が定着したのか、それと正反対の「大げさなこと」という意味に変わりました。

さらにそこから、「傲慢」「尊大」「横柄」「大言壮語」という意味がついたのですから、ややっこしいかぎりです。

この場合は悪態ですから、当然第二の意味ですが、「もっとご丁寧に頼むのが礼儀なのに、町人と侮って、安易にぬかしゃあがって」という意味にも取れなくはありません。

蛇足ながら、ネイティブの発音では「おおたば」の「ば」は「ば」と「ぼ」の中間の破裂音です。

胴取り

バクチで親になることで、オチは、もちろんそれと掛けた洒落です。

浅黄裏

あさぎうら。「棒鱈」「首提灯」を聴いてもわかりますが、ご直参の旗本には一目置いていた江戸っ子も「浅黄裏」と蔑称する田舎侍は野暮の象徴です。

江戸勤番ともいい、参勤交代で藩主について国許から出てきた藩士です。

同じ藩中でも、江戸詰めの者は、中には江戸の藩邸で生まれ、勤務はずっと在府で、国許を知らないことさえあったのですから、その立ち居ふるまいや暮らしぶりの違いは相当なものでした。

江戸勤番でも、「立ち返り」といってそのまま引き返す者と、藩主の在府中、江戸に留まる者とに分かれていました。

やがては、浅黄裏どもに完膚なきまでにやられ、江戸を思いのままにされてしまったのですから、ベランメエも口ほどにもありません。

露天博打

野天丁半ともいい、ほとんどイカサマでした。江戸では浅草の大鳥神社境内が本場。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の「怪談牡丹燈籠」の伴蔵の啖呵、「二三の水出しやらずの最中、野天丁半ぶったくり」は有名で、水出しも最中も露天博打の種類です。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たてばやし【館林】落語演目

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 【どんな?】

町人が剣術を。
江戸後期ではふつうの光景。
実態は武士と町人(百姓)の二層でした。
士農工商なんてなかったそうです。

別題:上州館林

あらすじ

町人の半さん。

剣術を少しばかり稽古してすっかり夢中になり、もう道場の先生の右腕にでもなったつもりでいる。

そこである日。

半さん、諸国を修業してまわり、腕を上げてきたい、と先生に申し出る。

本気で、商売をやめて剣術遣いになるつもりらしい。

先生心配になって、自分の武者修行の時の体験談をひとくさり。

ある時、上州館林のご城下を歩いていると、一軒の造り酒屋の前に人だかりがし、何やら騒いでいる。

聞いてみると、まだ夕方なのに泥棒が入り、そいつが抜き身を振り回して店の者を脅し、土蔵に入り込んだ。

外から鍵をかけ、雪隠詰めにしたものの、入ってくる奴がいれば斬り殺そうと待っているので、誰でも首が惜しいから、召し捕ろうとする者もいない、とのこと。

先生、
「しからば拙者が」
と。

そこが武芸者。

飯六杯に味噌汁三杯も食って、腹ごしらえの上、生け捕りにしてくれようと、主人を呼んで、空き俵二俵を用意させ、左手で戸を開ける。

右手で俵を中に放り込んだ。

向こうは腹が減って気が立っているから、俵にぱっと斬りつけるところを、小手をつかんで肩に担いで岩石落とし、みごと退治した、という一席。

しかし、泥棒の腕がナマクラだったから幸いしたが、腕が立っていたらどうなったかわからない。

「おまえも、もう少し腕を磨いた上で」
と先生がさとすので、半さんもそんなものかと思い直して、帰っていく。

しかし。

「オレも先生のような目にあってみたい」
と、未練たらたらな半さん。

独り言をいいながら歩いていくと、ちょうど夕方。

町の居酒屋の前に人だかり。

聞いてみると、侍に酔っぱらいがからんでけんかを吹っかけた。

「斬るほどのこともない」
と峰打ちを食わせたが、酔っぱらいがまだしつこくむしゃぶりつくから、侍は
「めんどうくさい」
と酒屋の土蔵に逃げ込んでしまった、という。

さあ、ここが腕の見せどころ、と半さん。

「あのお侍は悪くはないんだから、おまえが出て騒ぎを大きくすることはない」
と止められても聞かばこそ、先生のまねをして
「しからば拙者が生け捕りにいたしてくれる。所は上州館林。そやつを捨ておけば数日の妨げ。主人、炊き立ての飯を出せ」

腹ごしらえまでそっくりまねて、いよいよ生け捕りの計略。

俵を持ってこさせると、土蔵の戸を右手で開け、左手で俵を放り込む。

向こうは血迷っているから、ぱっと斬りつけ……て、こない。

もう一俵放り込んでも中は、しーん。

こりゃ約束が違う。

「中でどうしているんだろう」
と言いながら、首をにゅっと入れた。

とたん、侍の刀が鞘走り、半公の首がゴロゴロ。

「先生、うそばっかり」

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うんちく

切れのいいシュール落語

首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴取り」があります。オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。

原話は不詳で、別題を「上州館林」。

昭和初期には八代目桂文治(山路梅吉、1883-1955)が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(今西久吉、1888-1929、居残りの)も演じました。

先の大戦後、文治の没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。

六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、半公はたたきつけられるだけにしていました。演者自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまった悪例です。

ヤットウヤットウ

江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営は苦しかったようです。

背に腹はかえられず、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にした道場が多く出てきました。

武士と町人の身分差のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じました。

ただ、江戸は武士の町です。武士の感化で、町人にも尚武の気風が強くなっています。

さらには、当時の江戸は、治安も悪かったのです。

自衛の意味で柔や剣術を身につけたい、という町人が江戸中期ごろから増え始めていました。

町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわしていました。

幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸には四大道場には志願者が殺到でした。

四大道場とは。

士学館 鏡新明智流 桃井春蔵(沼津藩、1825-85) 日本橋南茅場町→南八丁堀大富町
玄武館 北辰一刀流 千葉周作(陸奥馬医者、1793-1856) 日本橋品川町→神田於玉ヶ池
練兵館 神道無念流 斎藤弥九郎(越中農民、1798-1871) 九段坂下俎橋付近→九段坂上
練武館 心形刀流 伊庭秀業(幕臣、1810-1858) 下谷和泉橋通

練武館を除いて、三大道場と称することもありました。練武館は佐幕系だったので、明治期にはずされたようです。

明治という時代は、けっこう作為的で恣意的だったのですね。

これらの道場の勃興で、「町人は原則だめ」のたてまえは、次第に怪しくなってきました。

ちなみに、町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。

「士農工商」

道場の先生も武士でない出身も多く、習う者も町内の若い衆で、幕末に新選組が登場する素地は、江戸中期から次第につくられていったようです。

江戸時代とはいっても、18世紀を境に前期と後期に区別できるほど、社会史、経済史、文化史といった方面で明らかな断裂が生じています。

江戸前期までの日本は銀の輸出国でしたが、18世紀半ば以降には銀の輸入が始まります。

その頃には、石見銀山から採掘できなくなってくるのです。銀の枯渇です。

近頃の教科書では「士農工商」の用語が載らなくなり始めたようです。

この言葉、『漢書』(班固編著、BC70年頃)には「士農工商、四民に業あり」と載っています。

とはいえ、ただ昔からあった言葉というだけであって、江戸時代に使われていたわけでもありません。「士農工商」という四階層の身分制度があったわけではありません。

この噺のように、江戸中期以降、町人が剣術の心得を持つのは決して珍しくはないのです。

身分制があったのは、あえていえば、「武士」と「その他」(農工商が入る)という区分です。

都市部では、「武士」と「町人」
農山漁村では、「武士」と「百姓」(農工商が含まれる)。

それでさえ、消費しかしない(生産活動をしない)武士階層が困窮の果てに、自らの武士の利権を「その他」の人々に売ることは、ときにある現象でした。

こうなると、四民は入り交じり状態。こんな社会のまま幕末になだれ込んだわけです。

全国の「志士」と称する輩を見ると、足軽どころか、農民、神主、商人、漁民など、まさに草莽の連中でした。

この時点で、すでに身分制は崩壊状態だったのでしょう。

問題は、四民とは別に扱われていた穢多、非人などの人々です。この人たちを明治という社会に組み込むかが、政府の大きな課題だったようです。これはあちこちで問題が勃発。看過できない問題でした。

話を戻します。

「士農工商」という言葉。

これはもう、明治時代に日本の歴史を編纂する際、蒙昧な国民に江戸時代を説明しやすくするため、歴史学者がちゃっかり使ったものなんだそうです。

その伝でいくと、「幕府」も「藩」も同様です。そう、「鎖国」も。

「鎖国」は志筑忠雄しずきただお(1760-1806)が使った、と言われています。長崎の商人出身の蘭学者です。

当時の日本人が「今の日本は鎖国なんだぜ」なんて、日常生活で使っていたわけでもありません。

「鎖国」は、明治の学者が教科書用に転用した、ご都合主義の日本史用語です。

1990年代以降、このような「明治の呪縛」から私たちを少しずつ解放しようという研究が、歴史学の世界で進んでいます。遠からず、教科書から「鎖国」の二文字が消える日、来るようです。

【語の読みと注】
雪隠詰め せっちんづめ
伊庭秀業 いばひでなり
桃井道場 もものいどうじょう



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