しの字嫌い しのじぎらい 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

主人と太郎冠者とののんきなやりとりみたいで、狂言のようなのどかさです。

【あらすじ】

さるご隠居が、飯炊きの権助一人を置いて、暮らしている。

小女などは扱いがめんどうくさいし、泥棒の用心にも男の方がいいと使っているのだが、この男、いちいち屁理屈をこねて主人に逆らうので、癪の種。

灯を煙草盆に入れろと言えば
「煙草盆に火を入れたら焦がしちまう。火入れの中の灰の上へ灯を入れるだんべ」
とくるし、困らせてやろうと
「衝立の絵の虎が気味が悪いから、ふんじばってくれ」
と言うと
「棒でその虎を追い出してくらっせえ」
と、一休のようなことを言ってすましている。

どうにも始末におえないので、しの字封じをしてとっちめてやろうと思いつき、権助に
「しの字は死んだ、身代限り、仕合せが悪いという具合に縁起が悪いから、これからおまえも、しを言ってはいけない。言えば給金をやらない」
と申し渡す。

権助は、隠居がもし言った場合は、望むものをくれるという条件で承知する。

「待ってくだせえ。今しの字を書いて飲んでしまう。ひいふうみ、さ、もう言わねえ」

これで協定が成立したが、隠居、なんとか権助に「し」と言わせようと必死。

不意に
「水は汲んだか」
と声を掛ければ、いつものくせで
「水は汲んでしまいました」
と二回言うに違いないと考えて試すと、権助引っかからず
「汲んで終わった」

隠居、思わず
「しょうがねえ」
と言いかけて、あわてて口を押さえ、今度は四百四十四文の銭を並べて勘定させれば、イヤでも言わないわけにはいかないと企むが、敵もさるもの。

四百四十四のところにくると、ニヤリと笑い
「三貫一貫三百一百二十二十文だ」

「そんな勘定があるか。本当を言え」
「よ貫よ百よ十」
「この野郎、しぶとい野郎だ」
「ほら言った。この銭はオラのもんだ」

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【うんちく】

原話はチョンボ

古い原型は、正徳年間(1711-16)刊の上方笑話本『異本軽口大矢数』中の「四の字を嫌ふだんな」にあり、続いて天明6年(1786)刊『十千万両』中の「銭くらべ」が、短い小咄ながら、現行のパターンにより近いものとなっています。

これはケチだんなと小僧の賭けで、「四の字」を言ったらお互い銭五貫文という取り決めです。仕掛けるのは小僧で、使いから帰ってだんなに、小僧が「モシ、だんな様。今日通り丁(=町)で、鍋屋が木の鍋に精出して、火であぶつておりました」、だんなが「とんだやつだ。それは大きに、しりがこげるだろう」と、あっさりひっかかって五貫文せしめられるという、たわいないものですが、小僧の言葉をよく読むと完全チョンボで、小僧が先に「モシ、だんな様」「精出して」で「シ」を二回も言ってしまっています。

それに加えてもしこの小僧が江戸っ子なら当然、「火で」は「シで」と発音しているわけで、そうなると勝負は、小僧が三回で十五貫、だんなが一回で五貫、差し引きで小僧が十貫の罰金です。

現在でも演者によって、人物設定を原話の通りだんなと小僧の対話とする場合があります。

名人二代、連発

現存するもっとも古い速記は、明治29年(1896)7月の三代目柳家小さんのものですが、暉峻康隆は、この速記の大チョンボを指摘していました。

よく通しで読むと、実は、ほかのところで権助は三度も「シ」とやらかしていて、だんなはそれに気づいていない、というわけです。

だんなが気づかないだけでなく権助当人も気づかず、演じている小さん当人も、当時の読者も編集者も速記者もすべてだれも気づかなかったに違いありません。

ちなみに、この噺の一部ををマクラに組み入れている二代目(禽語楼)小さんの「かつぎや」(明治22年)を調べると、案の定ここでも、客が「昨日は途中でシつれいを」とやり、後の方でも「よんるい中でそのよん睦会をもよおシまシて」、主人も主人で「ただあっちの方てえのはおかシいが」とやらかしています。

アラを探せばいくらでもこの種のチョンボはあらわれるもの。『古典落語・続』(興津要、講談社学術文庫)の速記(演者不明)でも、やっぱりありました。

おそらく、寄席で口演されるときでも、どの演者も一度や二度は必ずやっているはずです。

熟達の演者自身をも巻き込む、錯覚の恐ろしさ自体が、この噺のテーマと解釈すれば、実は傑作中の傑作ということになるでしょうか。

いずれにせよ、鶴亀鶴亀。一見前座噺のように見える軽い噺ですが、六代目三遊亭円生や三代目三遊亭小円朝のような、コトバに対して緻密な落語家しか手掛けなかったというのもなにやらうなずけます。

言霊の恐怖

類話に「かつぎや」があります。

同じ忌み言葉をめぐるお笑いでも、「しの字嫌い」の方は「かつぎや」の主人公と異なり、特に縁起かつぎというわけではありません。とはいえ、やはりそれなりに、日本人の言霊への根強い恐怖感が根底にあることはいなめないでしょう。

「し」をまったく発音しまいとするのは極端としても、披露宴の席での「忌み言葉」は厳として残り、「四」「九」の発音は「死」「苦」につながるという俗信は現在も残っていて、多くのアパートやマンション、ホテルでは444号室や44号室のルームナンバーは忌避されます。

江戸ことばでは四は、たとえば四文はヨモンというふうに発音を替えられるので問題ないものの、四十、四百は慣用的にシジュウ、シヒャクと発音せざるを得なかったので、そこにくすぐりが成立したわけです。

言葉によっては、四でも「四海波」をシカイナミと読まねばならないため、いちいち気にしていてはきりがありません。

おまけに、婚礼の席でうたわれる、おめでたい極みの謡曲「高砂」の一説に、「月もろともに出で潮の 波の淡路の島影や」と、ごていねいにも「シ」が二回入っているのですから、なにをか言わんやですね。 

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権助芝居 ごんすけしばい 演目

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最後はドタバタになる、おきまりの噺です。

【あらすじ】

町内で茶番(=素人芝居)を催すことになった。

伊勢屋の若だんなが役不足の不満から出てこないので、もう幕が開く寸前だというのに、役者が一人足りない。

困った世話人の喜兵衛、たまたま店の使用人で飯炊きの権助が、国では芝居の花形だったと常々豪語しているのを思い出し、この際しかたがないと口をかけると、これが大変な代物。

女形で「源太勘当」の腰元千鳥をやった時、舞台の釘に着物を引っ掛け、フンドシを締めていなかったのでモロにさらけ出してしまい
「今度の千鳥はオスだ」
とやったと自慢げに話すので、吉兵衛頭を抱えたが、今さら代わりは見つからない。

五十銭やって、芝居に出てくれと頼む。

「どんな役だ?」
「有職鎌倉山の泥棒権平てえ役だ」
「五十銭返すべえ。泥棒するのは快くねえ」
「芝居でするんだ。譲葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくる。鏡ったって納豆の曲物の蓋だ。それを押しいただいて、『ありがてえかっちけねえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪え取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言う」
「五十銭返すべえ」
「なぜ?」
「そんなに長えのは言えねえ」
「後ろでつけてやる。そこで紺屋の金さんの夜まわりと立ち回りになる。そこでおまえが当て身をくって目を回す。ぐるぐる巻きに縛られて」
「五十銭返すべえ」
「本当に縛るんじゃない。後ろで自分で押さえてりゃいい。誰に頼まれたと責められて、小藤太様がと言いかけると、その小藤太が現れて、てめえの首をすぱっと斬り落とす」
「五十銭返すべえ」

ようようなだめすかして、本番。

客は、泥棒が、若だんなにしては汚くて毛むくじゃらだと思って見ると、権助。

「やいやい権助、女殺し」
「黙ってろ、この野郎」
「客とけんかしちゃいけねえ」

苦労してセリフを言い、立ち回りは金さんの横っ面をもろに張り倒して、もみ合いの大げんか。

結局、縛られて舞台にゴロゴロ。

「やい権助。とうとう縛られたな。ばかァ」
「オラがことばかと抜かしやがったな。本当に縛られたんじゃねえぞ。ほら見ろ」

縄を離しちまったから、芝居はメチャクチャ。

太い奴だと、今度は本当にギリギリ縛られて
「さあ、何者に頼まれた。キリキリ白状」
「五十銭で吉兵衛さんに頼まれただ」

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【しりたい】

「マニア向け」の芝居噺

江戸の人々の芝居狂ぶりを、いきいきと眼前に見るような噺です。

原話は不詳で、古くから演じられてきた東京落語です。別題が多く、「素人茶番」「一分茶番」「素人芝居」、また、噺の中で演じられる歌舞伎の外題から「鎌倉山」とも呼ばれます。

現在は、「一分茶番」で演じられることが多いようです。

江戸時代の素人芝居(素人茶番)については、同じ題材を扱った「蛙茶番」をご参照ください。

明治29年(1896)の四代目橘家円喬の速記が残りますが、昔からこれといって、十八番の演者はありません。

蝶花楼馬楽時代の八代目林家正蔵(彦六)、八代目雷門助六、先代金原亭馬の助、三遊亭円弥といった、芝居噺が得意でどちらかと言えば玄人受けする腕達者が手掛けてきたようです。

六代目円生も手掛けたはずですが、記録は残りません。円生没後は一門の五代目三遊亭円楽、円窓、円龍が演じ、それぞれの門下の中堅・若手にも継承されてきました。

なお、戦前に、五代目三升家小勝が「素人演劇」として、モダンに改作したことがあります。

「源太勘当」

源平合戦、木曽義仲の滅亡を描いた全五段の時代物狂言「ひらかな盛衰記」のの第二段です。

原作の浄瑠璃は文耕堂ほかの合作で、歌舞伎の初演は元文4年(1739)4月、大坂角の芝居。千鳥は腰元で、主役の梶原源太景季と恋仲。後に遊女梅ケ枝となります。

「有職鎌倉山」

やはり鎌倉時代を背景にした時代物狂言で、寛政元年(1789)10月、京都・早雲座初演です。

実際はその五年前の天明4年(1784)3月24日、江戸城桔梗の間で、若年寄田沼意知が、五百石の旗本佐野政言に殺された事件を当て込んだものです。

源実朝の鷹狩りで獲物を射止めた佐野源左衛門は、手柄を同僚の三浦荒次郎に譲りますが、善左衛門を妬んだ荒次郎に事あるごとに辱められ、忍耐に忍耐を重ねた後、ついに殿中の柳営の大廊下で荒次郎を討ち果たし、切腹するという筋です。

本来、この噺で演じられるようなお家騒動ものではないはずですが、昔は、こじつけの裏筋が付けられていたのかも知れません。

芝居の泥棒

江戸時代、芝居の興行は、夜の明けないうちから始めて、夕方までやっていました。

お家騒動ものの発端は大方お決まりで、この噺に出てくるように、悪人側の黒幕の家来の、そのまた家来に命じられた盗賊が、お家の重宝(鏡、刀、掛軸など)を盗み出し、蔵を破って出てくるというパターン。

泥棒のセリフも、どれもほとんど紋切り型でした。

その後、雇い主の「小藤太様」が現れて品物を受け取り、これで忠義の善玉側に、この罪をなすりつけられるとほくそ笑んだ上、「下郎は口のさがなきもの。生けておいては後日の障り。金はのべ金」と、口塞ぎのため泥棒はバッサリ、というのがこれまたお決まり。

このシーンは早朝に出され、下回り役者ばかりが出るので、見物人などほとんどいなかったわけです。

泥棒が「主役」に昇格したのは、幕末の河竹黙阿弥の白浪狂言からでした。

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金玉医者 きんたまいしゃ 演目

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「娘がアゴを」「そりゃ、薬が効きすぎた」 。バレ噺の軽めなやつですね。

別題:顔の医者 過分量 すが目 皺め 頓智の医者 娘の病気 藪医者(改作)

【あらすじ】

甘井ようかんという医者。

飯炊き兼助手の権助と二人暮らしだが、腕の方はまるっきりヤブだということが知れ渡ってしまっているので、近所ではかかりに来る患者は一人もいない。

権助にも
「誰でも命は惜しかんべえ」
とばかにされる始末。

これでは干上がってしまうと一計を案じ、権助に毎日玄関で
「日本橋の越後屋ですが、先生のご高名を承ってお願いに」
などと、景気のいい芝居をさせ、はやっているふりをして近所の気を引こうとするのだが、口の減らない権助が、人殺しの手伝いをするようで気が引けるのだの
「越後屋ですが、先月の勘定をまだもらわねえ」
などと大きな声で言うので、先生、頭を抱えている。

そんなある日。

八丁堀の大店・伊勢屋方から、娘が病気なので往診をお願いしたいと使いが来る。

今度は正真正銘本物、礼金はたんまりと、ようかん先生勇み立ち、権助を連れて、もったいぶった顔で伊勢屋に乗り込む。

ところが、いざ脈を取る段になると、娘の手と猫の手を間違えたりするので、だんなも眉に唾を付け始める。

娘は気鬱の病で、十八という、箸が転んでもおかしい年頃なのに、ふさぎこんで寝ているばかり。

ところが不思議や、ようかん先生が毎日通い出してからというもの、はじめに怪しげな薬を一服与えて、後は脈をみるとさっさと帰ってしまうだけなのに、娘の容体が日に日によくなってきたようす。

だんなは不思議に思って、どんな治療をしているのか尋ねてみると、答えがふるっている。

「病人は、薬ばかり与えてもしかたがない。ことにお宅の娘さんは気の病。これには、おかしがらせて気を引き立てる。これが一番」

なんと、立て膝をして、女がふだん見慣れない金玉をチラチラ見せるという。

だんな、仰天したが、現に治りかけているので、それでは仕上げはおやじの自分がと、帰るとさっそく
「これ、娘や、ちょっと下を見てごらん」

ひょいと見ると、ふだん先生は半分しか見せないのに、今日はおとっつぁんがブラリと丸ごとさらけ出しているから、娘は笑った拍子にアゴを外してしまった。

「先生、大変です。これこれで、娘がアゴを」
「なに、全部出した? そりゃ、薬が効きすぎた」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

エロ味を消した改作

今でこそ、この程度はたわいない部類ですが、戦前は検閲も厳しく、師匠方はアブナい部分をごまかそうと四苦八苦したようです。

たとえば、四代目柳家小さんは前半の権助とのやり取りで切って「藪医者」と題しました。五代目小さんもこれにならっています。

その他、「顔の医者」と題して百面相をしてみせるやり方もよくあり、現在でもこの演出が多くなっています。

無筆!? ようかん先生

明治の三代目小さんは「皺め」の題名で演じましたが、その前に、源さんなる患者がやってきて、医者と滑稽なやり取りをする場面を付けています。

ようかん先生は按摩上がりで字が読めないので、絵で薬の上書きを付けているという設定で、チンが焚火を見てほえている絵だから「陳皮」、蚊が十匹いて、狐がいるから「葛根湯(かっこんとう)という具合。

明治9年(1876)1月、医師が免許制になるまで、いかにひどい代物が横行していたかがわかります。五代目小さんもこのネタを短くし、マクラに使っていました。

落語の藪医者

落語に登場の医者で、まともなのはほとんどいません。そろいもそろって、「子ゆえの 闇に医者を 呼ぶ医者」と川柳でばかにされる手合いばかりです。

名前もそれ相応に珍妙なのばかりで、今回登場の「甘井ようかん」は、さじ加減(見立て)が羊羹のように甘いというのと、あまりお呼びがかからないので黒の羽織が脱色して羊羹色(小豆色)になっているのをかけたもので、落語のやぶ医者では最もポピュラーです。

ただ、名前は演者によって適当に変わり、この噺でも明治の三代目柳家小さんの速記では「長崎交易」先生となっています。

その他、主なところでは「山井養仙(=病よう治せんのシャレ)」、「藪井竹庵」がありますが、ケッサクなのは立川談志が「姫かたり」で使っていた「武見太郎庵」ですが、いまどきこれを使ったところで誰が笑うでしょうか。武見太郎など、過去の人です。

権助提灯 ごんすけぢょうちん 演目

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短い噺。マクラに振る噺家もいますね。素っ気ないほどにおかしみが。

【あらすじ】

さるご大家(たいけ)のだんな。

おめかけさんを囲っているが、おかみさんがいたってものわかりがよく、またおめかけさんの方も本妻を立てるので、家内は円満、だんなは本宅と妾宅に交互にお泊まりという、大変にうらやましい境涯。

ある夜、だんなが本宅に帰ると、おかみさんが、
「今夜は火のもとが心配だから、あちらに行っておやりなさい」
と言うので、だんなはその言葉に甘えて、飯炊きの権助に提灯を付けさせて供をさせ、妾宅に引き返した。

するとおめかけさんの方でも、本妻に義理を立てて、
「おかみさんに済まないから、今夜はお帰りください」
と言う。

またも本宅へ引き返すと、おかみさんが承知せず、こうして何度も本宅と妾宅を行ったり来たりするうち、提灯の火が消えた。

「おい、権助、提灯に火を入れな」
「それには及ばねえ。もう夜が明けちまっただ」

底本:三代目柳家小さん、三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

権助

もともと、個人名というより、地方出身ながら商家の使用人、特に飯炊き専門に雇われた男の総称。職業名を示す普通名詞です。

権七とも呼ばれましたが、落語では「権助芝居」「権助魚」「かつぎや」「王子の幇間」ほか、多数の噺に狂言回しとして登場、笑いをふりまきます。

時に「清蔵」「久蔵」「百兵衛」など、実名で呼ばれることもありますが、みな同じで、「ゴンスケの○兵衛」というのが正確なところです。

上方では久三といいますが、落語にはほとんど登場せず、代わりに「おもよ」という、大和言葉らしい田舎言葉を使う女中が「貝野村」その他に登場します。こちらはよくある名前というだけで、個人名です。

どんな呼び方をされても落語における「権助」の条件は、田舎言葉を使うことです。

落語世界の田舎言葉

権助のお国なまりは、六代目三遊亭円生によると下総(しもうさ、千葉県北部)なまりに近いということですが、やはり落語独特の架空のものです。

このなまりは、権助のほかに「お見立て」や「五人回し」に登場する田舎大尽(だいじん=大金持ち)の杢兵衛(もくべえ)も使います。

江戸を支えた権助の群れ

19世紀初頭の文化・文政年間以後、江戸では越後を始め、地方から出てきた人々が急増。

わけあり水呑の次・三男が大多数でしたが、庄屋や本百姓の子息で、江戸遊学で来ていた人々もけっこういたようです。

逃散(ちょうさん)などにおける幕府の禁令がゆるんだこともありますが、これも、そんなことを言っていられない時代の流れで、江戸っ子がいくら「椋鳥(むくどり)」などと小ばかにしても、実際にはこうした労働力なしには、すでに江戸の経済は成り立ちませんでした。これは当然、大坂も同じです。

もっとも、寛政元年(1789)刊の『廻し枕』に、「今宵の旦那も明朝には忽(たちま)ち権七さんになる」とありますから、飯炊き男や下男のすべてが田舎者ではなかったはずです。

職業としてのおめかけさん

享保年間(1716-36)から、江戸でも武士、町人、僧侶など、階層を問わず富裕な者はおめかけさんを持つことが一般化しました。

安政大地震(1855)以後、下級武士や町家の娘が、生活の助けにおめかけさんとして身を売るケースが増え、今で言う契約愛人がドライな「商売」として成り立つようになったのです。

複数のだんなと、別個に契約を結ぶおめかけさんも現れ、共同妾宅に二、三人で住むこともありました。

安囲いと半囲い

「安囲い」という、おめかけさんの商売がありました。一月または二月契約で、月2-5両の手当の者は、だんなが通ってくる日数まで契約で決まっていたとか。

「半囲い」と呼ばれる形態は、商家の番頭や僧侶がパトロンとなって、女に船宿、茶屋などの店を出させるものです。作家の永井荷風もこの「半囲い」をやっていました。

小便組

明和年間(1764-72)から文化年間(1804-18)にかけ、「小便組」と呼ばれる詐欺が横行しました。これは、美女をおめかけさん業に斡旋し、初夜にその女性が寝小便して、わざと追い出されるよう仕組みます。支度金(契約金)をだまし取る手口でした。

権助魚 ごんすけざかな 演目

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愛人通いのだんな、口止めに権助を買収したはずが。権助は制度の批判者です。

【あらすじ】

だんながこのところ外に愛人を作っているらしいと嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬で黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助を呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路あたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんの所へ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれるだんななので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、作戦を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若。

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くならだんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

「駒止で田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺から植半でひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものは鰹の片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように頭の弱い者として見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

「権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、昭和40年代に藤子不二雄氏がヒットさせたギャグSF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(前名・初代三遊亭金馬で、五代目古今亭志ん生の最初の師匠)や二代目古今亭今輔が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残していますが、前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王(ごおう=護符)」の別題で演じられたこともありましたが、この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれましたが、明治21年ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び、評判になったと山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』にあります。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪らつな算段なのですが……。

いや、けっこう笑えます。お後はどうなりますやら。