さんげんながや【三軒長屋】演目

 

両脇が鳶頭に剣術先生、真ん中が妾宅はうるさくて鬱々と。だんなが企んで。

あらすじ

三軒続きの長屋があって、一番端が鳶頭(とびがしら)政五郎の家、奥が剣術の先生で「一刀流指南」の看板を出す楠運平橘正国という、いかめしく間抜けな名の侍の道場兼住居。

その二軒にはさまれて、金貸しの伊勢屋勘右衛門、通称ヤカン頭のイセカンのお妾が、女中とチン一匹と一緒に住んでいる。このお妾、ここのところノイローゼ気味。

というのも、右隣の鳶頭の家には気の荒い若い者が四六時中出入りする上、年がら年中酒をのんでは「さあ殺せ」「殺さねえでどうする」と物騒な喧嘩騒ぎ。

おまけに木遣りの稽古でエンヤラヤと野蛮な声を張り上げられては生きた心地もしない。

左隣の道場はといえば、このごろは夜稽古まで始め、夜中まで「お面、小手」とやられて眠れない。

たまりかねてだんなのイセカンに、引っ越させてくれと要求する。

だんなも鳶頭の家の前を通る度に二階から、ヤカンヤカンとはやされるので腹が立っているが、このお妾、わがままで今まで何度も転居させられたので、費用も馬鹿にならない。

この長屋は家質に取ってあってもうすぐ流れるから、その時きっと追い出してやると慰めたのを、井戸端で女中がしゃべったから、鳶頭のかみさん、さあ怒った。

家主ならともかく、イセカンのお妾風情に店立てを食ってたまるかと、亭主をたきつける。

鳶頭、思案の末、運平先生にこれこれと相談した。

おのれ勘右衛門、武士を侮る憎い奴、隣に踏んごみ素っ首を……と憤るのをなだめ、あっしに策がありますと一計を授けて、何やら打ち合わせ。

翌日、運平先生がまずイセカンを訪れ、「この度道場が手狭になったので、転居することになったが、転居費用の捻出のため千本試合を催すことになった、真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つはお宅に転げ込むかと存ずるが、ご了承願いたい」と脅すと、ヤカン頭はたまげて、五十両出すからどうか試合は中止してほしいと平身低頭。

次は鳶頭。

こちらも、「転宅するが、やはり費用が馬鹿にならないので賭場を開く、座敷の真ん中にこもっかぶりの酒を置き、刺身は出刃を転がしておいて勝手に作ってもらうので、気の荒い鳶連中のこと、斬り合いになって首の二十や三十……」と言いだしたから、イセカン、うんざりしてまた五十両。

それにしても、隣の先生も同じようなことを、と気になって、「おまえさん。どこへ越すんだい」「へえ、あっしが先生のところに、先生があっしのところへ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

長い噺  【RIZAP COOK】

長いはなしなので、伊勢勘のお妾がだんなに苦情を言った後、場面変わって、鳶の若い者が喧嘩を始めるあたりで切って上・下に分け、リレー落語として演じられることもあります。

三軒長屋というのは、落語によく登場する貧乏な裏長屋と異なり、表通りに面していて、二階建てです。鳶頭や大工の棟梁など、社会的信用があり、人の出入りが多い稼業の人間が借りたものでした。

棟続きでも実際は一戸建ての借家に近く、それだけ家賃も高かったのです。

人物の移動が頻繁で、登場人物も多いので、よほどの力量のある大真打でないとこなせません。この噺を得意とした五代目古今亭志ん生は、自伝「びんぼう自慢」で、明治の名人・四代目橘家円喬は、鳶の者三十人ばかりが、「まるでそこいらにモソモソしているのが目に見えるようでありました」と回想しています。

艶笑版「三軒長屋」  【RIZAP COOK】

同じ題名でも、こちらはポルノ版です。

三軒続きでの長屋で、左側に独り者、真ん中に夫婦者、右側に夫婦と赤ん坊。

真ん中の夫婦は、所帯を持ってもう七、八年になるのに、まだ子供ができない。

「てめえの畑が悪い」「いや、おまえさんのタネが悪い」と、けんかの末、隣の夫婦は新婚で、半年たたないうちに子供をこさえたのは、何か製造法に秘密があるのだろうと夜、こっそり秘儀を見学。

見ていると、亭主が後ろから……で、かみさんは、起きて泣き出した赤ん坊に乳をふくませ、

「ほら、オッパイないない」とあやしながらの大奮闘。これを見ていた隣の夫婦も早速まねして始め、亭主が突然抜いて、「ほら、オチンチンないない」。

これをのぞいていた独り者が、「ほら、お手手ないない」。

鳶頭の女房  【RIZAP COOK】

ここに登場する鳶頭の女房は、自分を「おれ」と呼ぶなど、男言葉を使い、乱暴な物言いをします。

歌舞伎『め組の喧嘩』のめ組の辰五郎女房・お仲も同じです。

乱暴者ぞろいの鳶の若い者をなめられず押さえていくためにはそうしなければならなかったのです。

五代目志ん生も、声は女で口調は男、それでいて年増女の色気が出なければいけないので、難しいと語り残しています。

囲われ  【RIZAP COOK】

「囲われ」「囲い」「囲い者」はお妾さんやお妾さんの住む場所(妾宅)をさします。富裕な町人のお妾さんを詠んだ川柳は数多くあります。経済力がなければ囲えないところから、やっかみ半分でさまざまに詠まれるのです。

囲われは 店賃でもの 見世をはり   十三2

お妾さんが店を出したようすです。裏長屋の土地持ちが旦那なのでしょう。店賃のもうけで店を出させてもらった、というかんじです。

囲われは 言ひ訳ほどの 見世を出し   四6

世間からなにか言われないように、世間の批判をかわすように、どうでもいいような店を出させてもらって、それでひっそりと生活しているように見せかけているようすです。

酢天蓋 などこしらへて 囲いまち   二十19

「天蓋」は、もとは虚無僧のかぶる編み笠のことですが、形が似ているため、お坊さん業界の隠語で「蛸」をも意味します。「天蓋屋」は輿屋(葬儀屋)。「酢天蓋」は「酢蛸」の意味です。お坊さんがお妾さんを持ったようすですが、「蛸」そのものが僧侶を意味しています。つるつる頭のかげんが似ているからでしょう。身分が保証されている僧侶。彼らが意外にお妾さんを持つことが多く、町民はやっかみ半分で蛸と呼んだわけです。蛸にはもう一つの意味として、蛸の吸盤のようにひきつける女性器をさしますから、どこか淫靡な深読みができそうです。

昭和初期の「寓」  【RIZAP COOK】

以下は、「お妾横丁」と題した、昭和4年(1929)頃の東京の「寓」をつづった一文です。筆者は今和次郎。考現学の泰斗です。江戸の風景がぼんやり覗けます。

「何々寓」と苗字ばかりを書いた住宅は、近年殆ど見られなくなった。その所謂「何々寓」は多く妾宅だつたことも事實である。ところが昭和の今日、その筋の干渉は「寓」なぞといふ曖昧模糊たる名札を許さなくなつた。それといふのも、大正七年の國勢調査の時、「職業」と書いて「妾」は果して正業なりや否やが問題になり、延いては「寓」なる名札までが論議せられた結果舟板塀に見越の松と洒落れた粋造りの門口に「××うめ」とか、「△△トラ子」とか云ふ様な本名札を見るやうになつた。だから今日では、お妾町として有名な日暮里渡邊町、上野櫻木町、蒲田などの町々を歩るいても、どこが妾宅なのか、ついウツカリ見過してしまふ。それ程お妾稼業も近代性を帯び一般社會性の中に溶解して來たことがわかる。神田町線道灌山下で電車を捨てて日暮里へ抜ける大通りを一直線、あかぢ橋を超えてだらだら坂を上ると、やがて左りへ拓けた横丁がある。丁度渡邊町富士見臺の足の下邊りから右に左りに切れ込んだ露地、昔は一ケ所に集合してゐたものだが、近頃では大凡そ三筋の川の字型に流れてゐる。表に女名前の表札をかけたのは大抵それだと云ふ噂。一體ここのお妾さんの素性は玄人上りが大半で、仲居、藝妓、遊藝師匠などが過半數だと云ふことである。旦那筋には傳統的に日本橋堀留邊りの大木綿問屋の隱居といつたところが、寮式に隱居所兼妾宅と乙に構えてゐるさうだ。その外谷中の延命院日當式の亜流も案外サバサバと五分刈り頭を夜更けてこの通りに現はすと云ふ。上野櫻木町では美術學校裏から濱田病院神易家の上山五黄本宅へかけての一帶、吉原「角海老」や「大文字」の別宅からそれに連なる裏手の小ジンマリした小宅はおほかたそれである、ここは震災でも別段の被害を見なかった故、外觀では最もお妾横丁の名に適しいかも知れない。靜かな通りに晝間でも粹な三味線の爪弾が漏れ聞こえる。坂下町にもお妾町があつたが今日では少ないらしい。四谷坂町っもこの方面で人に知られてゐる。映畫女優の徘徊する蒲田も或る通り、西郊高圓寺のそこここにも、噂には上つてゐる。しかし高圓寺は、新宿のカフエの女給などが、多く住んでゐることは事實だ。

今和次郎編『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)より

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【三軒長屋 五代目柳家小さん】

ゆめのさけ【夢の酒】演目

八代目桂文楽が昭和10年ごろに磨き上げた、珠玉の噺。オチが有名ですね。

【あらすじ】

大黒屋の若旦那が夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若旦那が向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若旦那がいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。

聞きつけた親父が
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

親父があきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場で親父は寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋の旦那がお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若旦那が『親父は三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」

【しりたい】

改作の改作の改作  【RIZAP COOK】

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを初代(鼻の)三遊亭円遊が現行のオチに直し、「隅田の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代え、より笑いを多くしたものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さんの、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」  【RIZAP COOK】

もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。

オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。どちらもオチは現行通りのものです。

夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」  【RIZAP COOK】

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりませんが、夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

「橋場の雪」のあらすじ  【RIZAP COOK】

少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若旦那が雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。

結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。

夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若旦那はまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。

三代目小さんは、主人公を旦那で演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」  【RIZAP COOK】

原話、作者は不明です。「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若旦那の善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。

ところが薬が効きすぎ、若旦那はたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。

世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。

落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。

ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若旦那のもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に、というハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生が、ノーカットでしっとり演じました。

淡島さまと淡島信仰  【RIZAP COOK】

淡島さまの総本社は和歌山市加太の淡嶋神社です。ご神体は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)です。大己貴命は大国主命と同じとされています。少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。息長足姫命は神功皇后のことです。仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説で、明治期から昭和戦前期までは日本人の誰もが知っている人でした。後の応神天皇をおなかに抱えたまま船で韓半島に向かった勇ましい人です。このように見ると、淡嶋神社は出雲系でしょう。しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。

江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺(世田谷区代沢三丁目)が有名でした。ともに、境内に淡島堂が建っています。江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。

浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。これを淡島堂と呼んでいます。

森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。

噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。

淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。艶福家の渋沢栄一もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。すごい。この町内にも淡島さまがありました。今はありませんが、明治期には清正公寺(日蓮宗)の境内にしっかりあったといいます。

水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。

和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。

おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。

街でぼろをまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸のなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命。でも、ものすごい潜在能力をもっていたこの神さまのイメージを重ねたのでしょう。見た目では侮れない存在として。

【RIZAP COOK】

ひとつあな【一つ穴】演目

権助の登場する噺。古い江戸落語です。

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【あらすじ】

ある金持ちのだんな。

ケチな上に口が悪いので、奉公人には評判がよろしくない。

そのだんなにお決まりで、外に女ができたという噂。

お内儀さんは心穏やかでない。

飯炊きの権助を五十銭で口説き落とし、今度だんなが夜外出するとき、跡をつけて女の所在と素性を突き止めてくるよう、言いつける。

まもなく、二、三日ぶりに帰宅しただんなが、また本所の知人宅へ出かけると言いだした。

さああやしいと、細君は強引に権助をお供に押しつける。

だんなが途中でうまく言い繕い、帰そうとする。

権助は
「人間は老少不定、いつどこで行き倒れになるかわからねえ」
などと屁理屈をこね、どこまでもついてくる。

ところがその権助の姿がふいに見えなくなったので、だんなは安心して、両国の広小路から、本所とは反対方向に清澄通りを左折していく……。

巻かれたふりをして、こっそり尾行する権助に気づかず、だんなは、大橋という大きな茶屋の横町を曲がり、角から二軒目で抜け裏のある、格子造りの小粋な家に入っていった。

権助が黒塀の節穴からのぞくと、二十一、二で色白のいい女。

だんながでれでれになり、細君の顔を見ると飯を食うのもイヤだの、ウチの飯炊きのツラは鍋のケツだのと、言いたい放題のあげ句、昼間だというのにぴしゃっと障子を閉めてしまったのを見て、権助はカンカン。

さっそく、ご本宅に駆け込んで、ご注進に及んだ。

もちろん、お内儀さんも権助以上にカンカン。

現場を押さえるため、今すぐに先方に乗り込むと息巻く。

権助はさすがに心配になったが、下手に止めるとおまえも一つ穴の狐だと言われ、しかたなくお供をして妾宅に乗り込んでいく。

一方、こちらはだんな。

一杯機嫌でグウグウ寝込んでいるところへ、お妾さんの金切り声でたたき起こされる。

寝ぼけ眼でひょいと枕元を見上げると、紛れもない細君が恨めしそうな顔でにらんでいるので仰天したが、もう後の祭り。

初めはしどろもどろ言い訳し、なんとかこの場を逃れようとするが、お内儀は聞かばこそ。

ネチネチと嫌みを言うので、しまいにはこちらの方も頭にきて、居直った挙げ句、ポカリとやったから、さあ大変。

大げんかになる。

見かねて仲裁に権助が飛び込んできたからだんな、ますます怒って、
「てめえは裏切り者だ、犬畜生だ」
と、ののしる。

こうなると、売り言葉に買い言葉。

「おらあ国に帰ると、天下のお百姓だ。どこが犬だ」
「なにを言いやがる。あっちでもこっちでも尻尾ォ振ってるから犬だ」
「ああそれで、おめえは犬といい、お内儀さんは一つ穴の狐だと言った」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今は昔、名人綺羅星のごと 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末にはもう口演されていた生粋の江戸噺。

ことわざからでっちあげられた噺は、ほかには「大どこの犬」「長崎の強飯」「みいらとり」くらいで、案外、あるようでないものです。

この噺、古い速記がやたらに多く、明治28年(1895)12月の四代目橘家円喬を始め、四代目円蔵、初代円右、二代目小円朝と、明治・大正の名人がずらり。

昭和から戦後でも、八代目桂文治、八代目春風亭柳枝、六代目三遊亭円生が得意にしましたが、今は見る影もなし。

わずかに、柳枝、円生両人に師事した三遊亭円窓、本法寺で禁演落語の会を開いていた「ロイド眼鏡の円遊」くらいでしょうか。

噺にも、はやりすたりがあるということでしょう。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

円生は、この噺のカンどころとして、権助が塀から濡れ場を覗いて独白するくだりを挙げ、「向こうの言っている言葉を、いちいち復唱するように」と芸談を残している通り、描写が写実的で詳細でした。

そういえば、お内儀が権助に、だんなの尾行を強要する前半部は「権助魚」「悋気の独楽」などと共通しているので、噺として独自色を出すためには、後半の濃密なエロ描写を眼目にするほかないのでしょう。

円喬以来、演出はさほど変わっていませんが、二代目小円朝のように、発端部分をばっさり切って、権助が帰ってきた場面から入る演者もありました。

名誉の禁演落語  【RIZAP COOK】

当然ながらこの噺、戦時中の「禁演落語」の内で、昭和16年(1941)10月30日、浅草・本法寺の噺塚に「祭られた」栄えある53演目の一つ(穴?)です。

もっとも、これほど濃密なエロ具合では、禁演になる以前に、昭和10年代には「問題外」だったでしょうね。

一つ穴の狐  【RIZAP COOK】

もはや死語と言っていいでしょう。現在は「同じ穴のむじな」として、辛うじて生き残っている慣用句です。

同腹、同類、共謀者を指す古い江戸ことばですが、動物が替わって「一つ穴の古狸」「一つ穴のむじな」となる場合もあり、いずれも意味は同じです。

これらは、巣穴を掘る習性のあることと、古くから人を化かすといわれるのが共通点です。

「一つ」にも、独立して同じ共犯の意味があり、歌舞伎でよく「○○と一つでない証拠をお目にかけん」などと力んで、腹に刀を突き立てたりします。

【語の読みと注】

お内儀 おかみ
大橋 たいきょう
妾宅 しょうたく

【RIZAP COOK】

てんたく【転宅】演目

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泥棒より数枚上手な女の話。この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

あらすじ

おめかけさんが「権妻ごんさい」と呼ばれていた明治のころ。

船板塀に見越みこしの松の妾宅しょうたくに、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところをおめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言いだしたから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。方々で遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられ(だまされ)た」

しりたい

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

明治の爆笑王、鼻の円遊こと初代三遊亭円遊が得意にしました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

権妻

本妻に対しての愛人(妾、おめかけさん)をいいます。
「権」を「けん」ではなく「ごん」と読む場合は、「権大納言ごんだいなごん」「権禰宜ごんねぎ」と言うように「次なる方」という敬称で、愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅しょうたくの象徴として、三世瀬川如皐じょこう作の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店げんじだな』(お富与三郎)にも使われました。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越みこしの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田しったもすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。