なめる【なめる】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ちょっと色っぽいけど、怪談めいてて。奇妙な噺です。

別題:菊重ね 重ね菊

【あらすじ】

猿若町の芝居が評判なので、久しぶりに見物しようとやって来たある男。

三座とも大入りで、どこも入れない。

ようやく立見で入れてもらい
「音羽屋、音羽屋ッ」
とやっていると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物している。

年増女が男に
「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、よかったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」
と声をかけた。

願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、年増女が
「あなた、おいくつ」
と聞く。

「二十二」
と答えると、
「ちょうど良い年回りだ」
と思わせぶり。

聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。

そこで自然に
「お送りいたしましょう」
「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。

お嬢さんと差し向かいで、酒になる。

改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。

そのうちお嬢さんがもじもじしながら、
「お願いがあるのですが」
と言う。

「ここだ」と思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。かなえてくだされば苦楽をともにいたします」
という、妙な望み。

「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」

お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。

「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまった。

「その見返りに」
と迫ったとたん、表でドンドンと戸をたたく音。

聞くと、
「本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がよろしい」
と言うので、しかたなく、その夜は引き上げる。

翌朝。

友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もない。

隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。そこで探していたが、昨日芝居小屋でばか野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、あわれ、男はウーンと気絶した。

「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「うへへ、なめるのはもうこりごりだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

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【しりたい】

宝丹

上野の守田治兵衛商店で、今も販売する胃腸薬です。

別荘、下屋敷、隠居所、遊女の療養所などの総称でした。落語では、たいてい大店のお嬢さんが恋わずらいのブラブラ病で、向島の寮に隔離されます。

猿若町

猿若町は台東区花川戸の北側。いわゆる江戸三座の中村座、市村座、守田座があったことで知られます。江戸三座については、「淀五郎」をご参照ください。

業平

墨田区吾妻橋三丁目の内。昔も今も低湿地帯で、五代目古今亭志ん生ゆかりの「なめくじ長屋」で、落語マニアにはおなじみです。

類話「狸娘」

前半が似た噺に「狸娘」があります。

男二人が、芝居で娘と女中に声をかけられるくだりまでは同じですが、後半は、浅草・花屋敷の常磐屋という料亭で飲み食いした後、女中が「先に帰りますが、今度は、両国亀沢町の自分の実家にお嬢さんをお泊めするから、ぜひ後から来てほしい」と言うので、二人は据え膳だと大喜び。約束の印にと懐中時計(いかにも明治!)を持っていかれ、後で見ると紙入れもないので、かたりだと気付いたときにはもう手遅れ。しばらくして女が警察に挙げられ、「あれは狸穴(まみあな、港区麻布)の狸娘のおきんという評判のワル」と聞かされて、「道理で尻尾を出した」と、オチるものです。

エロ場面はなく、官憲をはばかった「なめる」の改作と思われますが、はっきりしません。こちらは明治中期に、初代三遊亭円左が演じましたが、その後はすたれました。

バレ噺としての演出も

演じようによっては、完全なバレ(ポルノ)になってしまう、キケンな噺です。現に、明治期には、乳房ではなく女陰をなめるやり方もあったそうですから。

別題に「重ね菊」「菊重ね」があります。これは、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。

円生十八番

原話は古く、元禄4年(1691)刊の初代露の五郎兵衛著『露がはなし』中の「疱瘡の養生」です。明治の四代目三遊亭円生から、四代目橘家円蔵を経て戦後は六代目円生が得意としました。現在でも、円生一門によって継承されています。

【RIZAP COOK】

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大名道具 だいみょうどうぐ 演目

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愉快なバレ噺の最高傑作。大名対大明神の戦いや、いかに。

【あらすじ】

さる殿さま。

男っぷりもなにも申し分ないお方だが、残念ながら男としての道具が相当に小ぶり。

欲求不満で業を煮やした奥方が、その方面にご利益があるという城下外れの金勢大明神に殿さまをむりやり引っ張っていき、モノをもう少し大きくしてもらうよう、祈願することになった。

もちろん、家中総出。

ところが、金勢さまのご神体は男子の一物を型どったもの。

四尺ぐらいのりっぱなものが、黒光りしてそそり立っている。

これを見せつけられた殿さま、カーッとなって
「おのれッ、余にあてつけおるなッ」

槍持ちの可内から槍をひったくると、拝殿にズブリと突き入れて、ご神体をゴロッとひっくり返してしまった。

さあ、怒ったのは大明神。

「いざ、神罰を思い知らせてくれよう」
と、その夜、天にもとどろく雷鳴。

殿さまの股間に冷たい風がスーッと吹いたかと思うと、ただでさえあるかないかだったお道具が、きれいさっぱりなくなった。

殿さまばかりか、家中三千人のモノまで、一夜にして一人残らず大切なものを取られてしまったから、大騒動。

あわててご神体を修理したが、お宝はいっこうに戻らない。

結局、山伏を招いて、秘法「麻羅返し」の祈祷をすることになった。

山伏が汗みどろで
「ノーマクサンマンダー」
とやっているのを見て、神さまも気の毒になったのか、修法三日目の夕刻、一天にわかにかき曇り、津波のような大音響とともに米俵が十俵、大広間にドサッ。

中からなんと、三千人分の道具がザーッとこぼれ出た。

殿さまは涼しい顔で、その中で一番大きなモノをくっつけると、さっさと奥へ入ってしまった。

さあ、それから広間は大混乱。

どれが誰のモノやら、わからない。

取り合いで大げんかになるやら、人のお道具を踏みつけるやらの騒ぎがようやくしずまったあと、まだ一人で大広間をごそごそ捜しているのが、槍持ちの可内で、家中第一の大道具の持ち主。

たった一つ発見したのは、四センチほどにも満たない代物。まさに、殿さまの所有物である。

「三太夫さま、あっしのがありません」
「そこにあるではないか」
「冗談じゃねえ。あっしのは、お城一番八寸銅返しってえ自慢のもんで」
「ああ、あれなら殿が持っていかれた」

可内、泣く泣くあきらめさせられたが、殿さまはめでたく「女殺し」に大変身。

三日三晩、寝所に居続けで、奥方は腰も立たないほど。

そこへバタバタと三太夫がやって来た。

「申し上げますッ」
「何事じゃ」
「ただいま槍持ちの可内めが、腎虚で倒れました」

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【うんちく】

艶笑落語の大傑作

スケールといい、奇想天外なストーリー展開といい、バレ噺の最高傑作の一つといえるでしょう。

原話は、明和9年(1772=安永元)刊の大坂小咄本『軽口開談儀』中の「大名のお道具紛失」と、安永年間(1772-81)刊の江戸板『豆談語』中の「化もの」。

このうち後者は、殿さま始め家来一同のエテモノを根こそぎさらうのが「化け物」とされているほかは、槍持ちの腎虚というオチまで、大筋はそっくりそのままです。

小島貞二によれば、能見正比古がこれらの原典を脚色、一席にまとめたものとか。能見は血液型による性格分類のパイオニアで知られる人。

当然ながら、口演記録はありません。

金勢大明神

通称は金勢さま。金精神、金精大明神、金精さまなどとも呼ばれます。男根の形をしたご神体をまつった神の一柱をさします。金清、金生、魂生、根性、根精などとも、さまざまな当て字で表記されています。男根の形をしたご神体をまつった神であることでひとくくりにされています。とにかく、ご神体は噺中に出るとおり、巨大でいきり立った男根。これに尽きます。男の永遠の憧れ、精力絶倫を象徴しているところから、五穀豊穣、安産、子孫繁栄、縁結びなどをつかさどります。古くから信仰を集め、社は日本全国に広く分布しています。

八寸胴返し

平常時で24.24cm。いきり立つとどのくらいになるか背筋の寒くなる代物です。「胴返し」というのは撃剣で、胴を払った太刀先をそのまま返し、反対側の胴、面、小手をなぐ基本技です。ということは、ピンと反り返った「太刀先」が顔面を直撃……。まさかねえ。

腎虚

江戸時代には腎気(精力)の欠乏による病気の総称でした。狭義では、過度の性行為による衰弱症状です。これの症例に関しては「短命」で、隠居がわかりやすく解説してくれます。

大名道具

題名の「大名道具」とは、大名が持つにふさわしい一流品全般をいいます。ところで、特に限定していう場合、「大名道具」とは、松の位の太夫のこと。まさに、大名の権力と財力があって初めてちょうだいできる代物ということです。

太夫にかぎらず、お女郎のことを俗に「寝道具」ともいい、年期が明けてフリーになった遊女をタダで落籍するのを「寝道具をしょってくる」と称しました。同じ「大名道具」でも、花魁はハード、男のモノはソフトというわけでしょうか。どんなに特大のソフトを手に入れても肝心のハードがなければ、なんの意味もないわけです。いやはや。

【語の読みと注】
ご利益 ごりやく
金勢大明神 こんせいだいみょうじん
一物 いちもつ
麻羅返し まらがえし
腎虚 じんきょ

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宗漢 そうかん 演目

【RIZAP COOK】

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古代中国が舞台のバレ噺。戦国七雄を題材にしてもしょせんはね。

別題:薬籠持ち

【あらすじ】

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

戦国七雄

魏、楚ともに紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装

なんのことはなく、簪を抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も潜んだ噺

原話は不詳。四代目橘家円喬が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

「薬籠持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者にし、薬籠(=薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾をかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでするアブない噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ

【RIZAP COOK】

品川の豆 しながわのまめ 演目

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バレ噺。こんなあざといの、寄席では聴けっこありません。

別題:馬の豆 返し馬 左馬

【あらすじ】

町内の若い衆がそろって品川の穴守稲荷に参拝して、帰りにお女郎買いに繰り込もうということになった。

ところが一人、新婚がいて、かみさんにまだ遠慮があるから行きたくないが、こういうのに限ってやっかみ半分、強制的に誘われるから、やつも断れない。

そこでかみさんに
「つきあいで品川に行くけど、見世には上がっても女とは遊ばない」
と誓い、後日の証拠に、自分の道具の先に左馬を書いてもらった。

遊ばなければ消えないワケだが、ものの勢いというか、自分だけ花魁を買わない、ということはできない。

女房の手前、背を向けてじっとしてると、花魁が、
「あたしが嫌いかえ」
となじる。

実はこうこうと話すと、
「かわいいねえ。そういうかわいい男にゃ、なお遊ばせたいよ。心配せずにお遊びよ」
「だけど、左馬が消えちまう」
「そんなもの、後であたしが書き直してあげるよ」

帰って、亭主が
「ほら、この通り」
と前をまくって見せると、なるほどまだ馬の字が書いてあるにはあるが、なんだか変。

「少し大きくなってるねえ」
「そりゃそうだ。ゆんべ豆をくわせた」

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【うんちく】

原話は「うどん粉騒動」

「馬の豆」「返し馬」「左馬」など、いろいろ別題がありますが、原話は寛政10年(1798)刊の漢文体笑話本『善謔随訳続編』中の「麪(饂)塵異味」です。

これは現行よりもっとすさまじい話です。

かみさんが亭主のエテモノにうどん粉を塗りつけて送り出します。向こうで妙なことに使って、帰ったとき、「毛の一筋分でもはがれていてごらん。あたしゃ、恨み死にして七生まで祟ってやるからねッ。覚悟おしッ」。亭主もさるもの、予定通り妙なことに使ってお楽しみ。コトが済むと新しいうどん粉を塗り直し、何食わぬ顔でご帰還。ところが女房、粉まみれのアレをべろりとなめるや、目をむいて「違うよこれはッ! あたしのは塩を混ぜといたんだよッ」これでは、早いとこ恨み死にしていただいた方がよろしいようで。

実はこれのさらに原型が、鎌倉時代後期に成立した説話集『沙石集』巻七「嫉妬の心無き人の事」にすでにあり、こちらは、あまりの嫉妬深さに、亭主はとうとう女房を離縁するという結末になっています。

豆にもいろいろ

「豆」はもちろん、ご婦人の持ちものの隠語です。転じて、女性そのものの意味ともなりました。

小学校の教室などで、女の子と仲良くしていると「男と女とマーメイリ」などとはやされた経験をお持ちの人もいるかもしれませんが、あの「マーメイリ」は実は「豆入り」で、男の中に女が一人まじっていること(または逆)の意味です。

古くはお女郎屋を「豆商売」、間男を「豆泥棒」などと呼びました。その「豆泥棒」の意味を聞きに来た八五郎に、隠居がさまざまな「豆」の種類を教える「豆づくし」という小咄があります。

人の女房は素人だから白豆。芸者は玄人で黒豆。大年増はナタ豆で、小娘はおしゃらく豆。「それじゃご隠居さん、天女は?」「うん、ありゃ、ソラ豆だ」

穴守稲荷のご利益

穴守稲荷は東京都大田区羽田三丁目で、羽田空港の裏手。昔の羽田は、品川宿のはずれで、文政年間(1818-30)に大津波が羽田を襲ったあと、名主鈴木弥五右衛門が堤防を作り、松を植樹して後難に備えました。その際、堤防の上に五穀豊穣と、土地の安全を祈願して、稲荷社を勧請。

「穴守」の名の由来は不明ですが、商売繁盛の祈願と共に、花柳界や郭関係の信仰が厚かったところから、ほぼ見当はつきます。

江戸時代は、社殿から70mほどのところに、羽田の渡し場があり、参道は奉納の赤鳥居が並び、茶店や土産物屋が軒を並べてたいそう繁盛したといいます。

左馬

左馬は廓独特の鏡文字で、精力増強のまじない。馬の桁外れの精力にあやかろうとしたものでしょう。左馬の由来には諸説ありますが、有名な山形・天童の左駒護符のいわれによると、馬の逆字で「まう」と読み、「まう」→「舞う」で、舞はめでたい席で催されるので縁起がよい、また、左馬の文字の下部がきんちゃく型をしていて、富を招くとされる、などとあります。いずれにしても縁起物として、全国の神社で左馬の護符が売られるほか、花柳界でも、芸者の三味線の胴裏に書かれるなどしました。

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お釣りの間男 おつりのまおとこ 演目

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間男をネタにしたバレ噺。主人公はあの与太郎。どうなりますやら。

別題:七両二分 二分つり

【あらすじ】

町内の与太郎。

女房が昼間中から間男を引き込んで、堂々と家でいちゃついているのにも、いっこうに気づかない。

知らぬは亭主ばかりなりで、髪結床ではもう、おあつらえ向きの笑い話となっている。

悪友連中、火のあるところにさらに煙をたきつけてやろうと、通りかかった与太郎に
「てめえがおめでてえから、留守に女房が粋な野郎を引きずり込んで間男をやらかしてるんだ。友達の面汚しだから、帰って暴れ込んでこい」
とたきつける。

悪い奴もあるもので
「今ごろ酒でものんでチンチンカモカモやっている時分だから、出し抜けに飛び込んで『間男見つけた、重ねておいて四つにするとも八つにするともオレの勝手だ。そこ一寸も動くな』と芝居がかりで脅かしてやれ」
と、ごていねいにも出刃まで用意してけしかけたから、人間のボーッとした与太郎、団十郎のマネができると大喜び。

その上、間男の相場は七両二分だから、脅せば金が取れると吹き込まれ、喜び勇んで出かけていく。

乗り込んでみると、案の定、女房と間男がさしつさされつ堂々とお楽しみ中。

「間男見つけた。重ねておいて」
「なにを言ってるんだねえ。どこでそんなことを仕込まれてきたんだい」
「文ちゃん、源さん、八つァんに、七公に、髪結床で教わった」
「あきれたもんだねえ」
「さあ、八つになるのがイヤなら、七両二分出せ」
「今あげるからお待ち」

金でまぬけ亭主を追い出せるなら安いものと、こちらも願ったりかなったり。

八円で手を打った。

「一枚二枚三枚……八枚。毎度あり」
「さあ、この女ァ、オレが連れていくぜ」
「ちょっと待っておくれ」
「まだ文句があるのか」
「八円だから、五十銭のお釣りです」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

原話「七両二分」

原話は寛政6年(1794)刊『喜美談話』中の「七両二分」。「竹里作」とある、この小咄は……。

どうも女房がフリンしているらしいので亭主、遠出すると見せかけてかみさんを油断させた上、隣家に頼んで、朝早くから張り込ませてもらい、壁越しにようすをうかがっていると、果たして間男が忍んできたようす。さあ重ねておいて四つ切りだと、勇んで踏み込んでみると、なんと、枕屏風の外に小判で八両。亭主、これを見るとすごすごと引き返し、隣のかみさんに、「ちょっと二分貸してくれ」。

八両から間男の示談金の「七両二分」を引いて、二分の釣りというわけですが、思えばこの「竹里」なるペンネーム、どう考えても「乳繰り」をもじったもので、怪しげなこと、この上なしです。

初代円遊のバレ噺

この噺、別題「二分つり」「七両二分」ともいい、上方でも江戸でも、しょせん、ある種の会やお座敷でしか演じられなかった代物です。

むしろ江戸時代よりさらに弾圧がきびしくなった明治になって大胆不敵にも、これを堂々と何度も寄席でやってのけた上、速記 明治26年)にまで残したのが、鼻の円遊こと、初代三遊亭円遊でした。

よくもまあ、検閲をすり抜けたものだと感心しますが、さすがにお上の目は節穴でなく、それ以後の口演記録はありません。

現在でも、さすがにこういう噺を寄席で一席うかがう猛者はいませんが、この噺を短くしたものや、類話の間男噺で、与太郎が間男の噂を当の亭主にばらしてしまい、「誰にも言うなよ」というオチがつく小噺がよく「紙入れ」などのマクラにも用いられます。

間男代金・七両二分の由来については、「紙入れ」をご覧ください。

間男の川柳、名セリフ

間男の類語は「不義」「密通」「姦通」、今でいう「不倫」。武家社会の「不義」は、間男のみならず、恋愛一般の同義語でした。つまり、当事者が奥方でも娘でもお妾でも女中さんでも、色恋ざたは、見つかり次第なます斬りがご定法だったわけで。間男の川柳は数々あります。

主に、噺のマクラに用いられるものです。

町内で 知らぬは亭主 ばかりなり

間男と 亭主抜き身と 抜き身なり

据えられて 七両二分の 膳を食い

天明期に「賠償金」の額が下落すると、こんなのがつくられました。

生けてお く奴ではないと 五両とり

女房は ゆるく縛って 五両とり

女房の 損料亭主 五両とり

亭主が現場を押さえた時の口上は、この噺にもある通り、出刃包丁を突きつけ「間男めっけた。重ねておいて四つにするとも八つにするともオレが勝手だ。そこ一寸も動くな」が通り相場。

「団十郎のマネができる」と、与太郎が喜ぶことでもわかるように、このセリフは芝居からきています。歌舞伎でも生世話物がすたれつつある今日、このセリフを歌舞伎座で聞くことも、あまりなくなりました。

【語の読みと注】
竹里 ちくり
乳繰り ちちくり

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大男の毛 おおおとこのけ 演目

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図抜けたお相撲さんが吉原に行ったらどうなる? きてれつなバレ噺です。

【あらすじ】

ヌッと立つと、乳から上は雲に隠れて見えないというくらいの、大男の関取を連れて、ひいきの石町のだんなが吉原へ。

なにしろ、とてつもなく巨大な代物なので、お茶屋は大騒動。

座敷に通して酒を出すのに、普通の杯では飲み込んでしまうというので、酒樽を猪口代わりに、水瓶であおるというすさまじさ。

その関取、これでも
「ワシは酒が弱い」
と言って、こくりこくりと居眠りを始めた。

部屋の中に山ができたようなもので、じゃまでしようがないので、どこかへ片づけてしまえと、襖をぶち抜いて一六五畳敷きの広間をこしらえ、そこに寝かせることにしたが、それがまた一大事。

布団は蔵からあるだけ運んで、座敷中、片っ端から並べ、枕は長持ちを三つ分くくり付けた代用品。

寝間に担ぎ込むのに十人がかりで
「頭はどこだ」
「巽の方角だ」
「磁石を持ってこい」
と大騒ぎ。

掛け蒲団も山のように盛り上げて、まるで熊野浦に鯨が揚がったよう。

ようやく作業が完了したところで、今度は花魁の出番。

年増ではダメだから、せいぜい若いのをというだんなの指示で、年は十七だが、そこはプロ。

泰然自若として、心臓に毛が生えている。

ところが、この大山にはさすがに仰天。

無理もない。関取がいびきをかくごとに、魔術のように火鉢が中空へ。

下りると、また噴き上げられる。

寝返りを打つと家鳴りがして、まるで地震か噴火。

「驚いたねえ。ちょいと、関取の懐はどこだい」
「へえ、向こうが五重の塔になりますから、三の輪見当でしょう」

それでも花魁、関取の腹にヒョイとまたがった。

「おそろしく高いねえ。江戸中が見渡せるよ。わちきの家があそこに見える。おや、段々坂になった。ここは穴蔵かしらん」
「これ、ワシのへその穴をくすぐるな」

そのうちに、段々坂から花魁がすべり落ちて、コロコロ転がる拍子に、薪ざっぽうのようなものにぶつかった。

妙な勘違いをして
「不思議なこと。大男に大きな○○はないというけど、関取、おまはんのは、体に似合わず小粒だねえ」
「ばかァ言え。そりゃ毛だ」

底本:四代目橘家円喬

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【しりたい】

円喬の艶笑落語

原話は天明6年(1786)刊の絵入笑話本『腹受想』中の「大物」。

この噺のようなバレ噺(艶笑落語)で、実名で速記や上演記録が残ることはまずありません。今回、あらすじの参考にしたのは明治28年(1895)4月の「百花園」に掲載された、四代目橘家円喬の速記ですが、名前入りでしかも当時の大看板の口演記録が残るのは、きわめて珍しい例です。

艶笑がかっているのは、オチの部分だけで、前半はただ、関取の巨人ぶりの極端な誇張による笑いと、右往左往する宿の連中の滑稽だけです。

これと対照的なのが、「小粒」「鍬潟」といった小物力士の噺ですが、どちらも艶笑噺の要素はありません。この噺の前半と似て、力士の巨体を誇張する噺に「半分垢」があります。

巨人ランキング

相撲取りで歴代随一の巨人は、土俵入り専門の看板力士だった生月鯨太左衛門(1827-50)にとどめをさすでしょう。記録によると、二十歳で身長233cmといわれますが、一説には243cmあったとも。それに次ぐのが、大関、釈迦ケ獄雲右衛門(1749-75、227cm)、文政期の看板力士、龍門好五郎(1807-33、226cm)、同じく大空武右衛門(1796-1832、228cm)という面々。明治以後では、関脇、不動岩三男(1924-64、212cm)が現在に至るまでの記録保持者です。

外国人力士も多くなり、身長、体重の平均値は昔とは比較にならないほどの現在の相撲界でも、210cmを超えるとなると、そうザラには出ないということでしょう。

大男に大きな……というのはまったく当てにならないらしく、相撲界に巨根伝説は数多いのですが、その反対の話はついぞ聞きません。これは普通人のやっかみ、負け惜しみと思った方がいいでしょう。

【語の読みと注】
猪口 ちょこ
襖 ふすま
巽 たつみ:東南の方角
花魁 おいらん
年増 としま
腹受想 ふくじゅそう
生月鯨太左衛門 いけづきげいたざえもん

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氏子中 うじこじゅう 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

短いバレ噺です。むふふ、ですね。類話に「町内の若い衆」があります。

【あらすじ】

与太郎が越後に商用に出かけ、帰ってきてみると、かみさんのお美津の腹がポンポコリンのポテレン。

いかに頭に春霞たなびいている与太郎もこれには怒って
「やい、いくらオレのが長いからといって、越後から江戸まで届きゃあしねえ。男の名を言え」
と問い詰めても、お美津はシャアシャアと、
「これは、あたしを思うおまえさんの一念が通じて身ごもったんだ」
とか、果ては
「神田明神へ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神さまの子だ」
とか、言い抜けをしてなかなか口を割らない。

そこで、親分に相談すると
「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代りお美津さんのところに出入りするようすなんで、注意はしていたが、四六時中番はできねえ。実は代わりの嫁さんはオレが用意していて、二十三、四で年増だが、実にいい女だ。子供が生まれた時、荒神さまのお神酒で胞衣を洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫の紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織の紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつに熨斗を付けてくれてやって、おまえは新しいかみさんとしっぽり。この野郎、運が向いてきやがった」

さて、月満ちて出産、お七夜になって、いよいよ親分の言葉通り、間男の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。

お美津は平気の平左。

シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると、浮き出た文字が「神田明神」。
「そーれ、ごらんな」
「待て、まだ後に字がある」
というので、もう一度見ると
「氏子中」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

原話のコピーがざっくざく

現存最古の原話は正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集『新話笑眉』中の「水中のためし」。

これは、不義の妊娠・出産をしたのが下女、胞衣を洗うのがたらいの水というディテールの違いだけで、ほぼ現行の型ができています。結果は字ではなく、紋がウジャウジャ現れ、「是はしたり(なんだ、こりゃァ!)、紋づくしじゃ」とオチています。

その後、半世紀たった宝暦12年(1762)刊の『軽口東方朔』巻二「一人娘懐妊」では、浮かぶのが「若者中」という文字になって、より現行に近くなりました。

「若者中」というのは神社の氏子の若者組、つまり青年部のこと。

以後、安永3年(1774)刊『豆談語』中の「氏子」、文政4年(1821)起筆の松浦静山の随筆集『甲子夜話』、天保年間刊『大寄噺尻馬二編』中の「どうらく娘」と続々コピーが現れ、バリエーションとしては文政2年(1819)刊『落噺恵方棚』中の「生れ子」もあります。これは、連名で寄付を募る奉加帳にひっかけ、産まれた赤子が「ホーガ、ホーガ」と産声をあげるという「考えオチ」。いずれにしても、これだけコピーがやたら流布するということは、古今東西、みなさんよろしくやってるという証。類話ははるか昔から、それも世界中に散らばっていることでしょう。

もめる筈 胞衣は狩場の 絵図のやう
                   (俳風柳多留四編、明和6=1769年刊)

荒神さまのお神酒

荒神様は竈の守り神で、転じて家の守護神。そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。別に、女房が荒神様を粗末にすれば下の病にかかるという俗説も。胞衣の定紋の俗信は古くからあります。

神田明神

千代田区外神田二丁目。江戸の総鎮守ですが、祭神はオオナムチノミコトと平将門です。オオナムチノミコトは五穀豊穣を司る神なので、当然元を正せば荒神様とご親類。明神は慶長8年(1603)、神田橋御門内の芝崎村から駿河台に移転、さらに元和2年(1616)、家康が没したその年に、現在の地に移されました。

噺が噺だけに

明治26年(1893)の初代三遊亭遊三の速記の後、さすがに速記はあっても演者の名がほとんど現れません。類話の「町内の若い衆」の方が現在もよく演じられるのに対し、胞衣の俗信がわかりにくくなったためか、ほとんど口演されていませんが、五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生は「氏子中」の題で「町内の若い衆」を演じていました。

【語の読みと注】
荒神さま こうじんさま
お神酒 おみき
胞衣 えな:胎児を包む膜
情夫 いろ
熨斗 のし
竈 へっつい:かまど

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短命 たんめい 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

美人と結婚するとろくなことがないという、ひがみ丸出しのお話です。

別題:長命 長生き

【あらすじ】

大店の伊勢屋。

養子が、来る者来る者、たて続けに一年ももたずに死ぬ。

今度のだんなが三人目。

おかみさんは三十三の年増だが、めっぽう器量もよく、どの養子とも夫婦仲よろしく、その上、店は番頭がちゃんと切り盛りしていて、なんの心配もないという、けっこうなご身分だというのに……。

先代から出入りしている八五郎、不思議に思って、隠居のところに聞きにくる。

「夫婦仲がよくて、家にいる時も二人きり。ご飯を食べる時もさし向かい。原因はそれだな」

八五郎、なんのことだかわからない。

「おまえも血のめぐりが悪い。いいかい、店の方は番頭任せ、財産もある。二人でしょっちゅう朝から退屈して、うまいもの食べて、暇があるってのは短命のもとだ」
「短命って、なんです?」
「命の短いのを短命、長ければ長命」
「じゃあなんですか、いい女だと、だんなは短命なんで?」
「まあ、そういうことかな」

早い話、冬なんぞはこたつに入る。そのうちに手がこう触れ合う。白魚を五本並べたような、透き通るようなおかみさんの手。顔を見れば、ふるいつきたくなるいい女。そのうち指先ではすまず、すーっと別の所に指が触って……。

なるほど、これでは短命にもなるというもの。

三度同じことを言わせて、ようやく納得した八五郎、ついでにお悔やみの言い方も
「悲しそうな顔で口許でぼそぼそ言っていればそれでいい」
と、教えてもらった。

家に帰ると、女房が、早くお店に行け、とせっつく。

その前に茶漬けをかき込んで、というところでふと思いつき
「おい、夫婦じゃねえか。給仕をしろやい。おい、そこに放りだしちゃいけねえ。オレに手渡してもらいてえんだ」

ブスっ面で邪険に突き出したかみさんの指と指が触れ
「顔を見るとふるいつきたくなるようないい女……。あああ、オレは長命だ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

短命

この噺のようなケースは、江戸時代には「腎虚」とされました。

つまりはアッチの方が過ぎ、精気を吸い取られてあえなくあの世行きというわけです。男の精水(山田風太郎流だと「精汁」)は「腎水」とも呼ばれ、腎臓が出所と誤って考えられていたことによります。

腎虚と内損は二大道楽病とされ、それぞれ「のむ」「打つ」がもたらす災いです。三道楽のうち、残る一つの「打つ」の結果は言うまでもなく「金欠病」ですが。

五代目古今亭志ん生の速記でも、隠居が「内損か腎虚とわれは願うなり、とも百歳も生きのびし上」と、言っています。

思わずニヤリ

昔はこの程度でも艶笑落語のうちに入り、なかなか高座には掛けにくかったといいます。現在は、ちょっと味のあるお色気噺として、普通に演じられます。

まあ、オトナの味わいというのか、以心伝心のやりとりは、むしろほほえましく、なかなかよろしいものです。

五代目古今亭志ん生、五代目小さんが得意にしていました。志ん生は、最後のかみさんとの会話にくすぐりを多く用いるなど工夫し、オチは「おめえとこうしてると、オレは長生きができる」というものでした。

オチから別題は「長命」ですが、噺の全体のプロットからしてやはり「短命」が妥当でしょう。

志ん生のくすぐりから

●その1

隠「二階へ、あの奥さんが上ってゆかァ」
八「ええ、ええ」
隠「二階には、だァれもいないやァ」
八「ええ」
隠「で、短命なんだよ」
八「二階にだァれもいないで、短命ですか」
隠「そうだよ」
八「二階から、落っこちたんですかァ」

●その2

八「え、二階に上ろうじゃねえか」
女「家にゃァ二階はないよ」
八「じゃあ、屋根へ」

【語の読み】
大店 おおだな:大商店
腎虚 じんきょ:房事過度で起こる衰弱症
精水 せいすい:精液
腎水 じんすい:精液
内損 ないそん:酒による内臓障害、主に肝の病

二階の間男 にかいのまおとこ 演目

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バレ噺。女房が亭主を尻目に自宅であいびき。二階付き長屋での噺です。

別題:お茶漬け 二階借り 茶漬け間男(上方)

【あらすじ】

ある夫婦、茶飲み話に亭主の友達の噂話をしている。

「畳屋の芳さんは粋でいい男だなァ」
「あらまァ、私もそう思っているんですよ。男っぷりもよし、読み書きもできるし、子供好きでつきあいもいいし」
「おらァ、男ながら惚れたョ」
「あたしも惚れましたよ」

ところが、間違いはどこに転がっているかわからないもので、この女房、本当に芳さんに惚れてしまった。

こうなると、もう深みにはまって、はらはらどきどき密会を重なるうち、男の方はもうただでは刺激がないとばかり、一計を案じて、亭主のいる所で堂々と間男してやろうと、ある日、ずうずうしくも乗り込んでくる。

「実はさる亭主持ちの女と密通しているので、お宅の二階を密会の場所にお借り申したい」
というのである。

まぬけな亭主、わがことともつゆ知らず、
「そいつはおもしろい」
というわけで、言われるままに当の女房を湯に入ってこいと追い出し、ごていねいにも
「いろ(相手の女)は明るい所は体裁が悪いと言っているから、外でエヘンとせき払いをしたらフッと明かりを消してください」
という頼みも二つ返事。

こうもうまくいくと、かえって女房の方が心配になり、表で姦夫姦婦の立ち話。

「あたしゃいやだよ。そんなばかなことができるもんかね」
「まかしとけ。しあげをごろうじろだ」
「明かりをつけやしないかしら」

亭主は能天気にパクパクと煙草をふかした後、かねての合図でパッと灯火を消すと、あやめも分かたぬ真っ暗闇。

「どこの女房だかしらないが、ズンズンおはいんなさいよ」

うまくいったとほくそ笑んだ二人。

女房は勝手を知ったる家の中。

寝取られ亭主になったとも知らず
「この闇の中で、よくまァぶつからねえで、さっさと上がれるもんだ」
と、妙に感心しているだんなを尻目に、二階でさっさとコトを始めてしまった。

亭主、思わず上を眺めて
「町内で知らぬは亭主ばかりなり。ああ、そのまぬけ野郎のつらが見てえもんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【うんちく】

二階付き長屋

「三軒長屋」にも登場しました。二階付き長屋は数が少なく、おもに鳶頭のように、大勢が出入りする稼業の者が借りました。八代目林家正蔵(彦六)が、終生、稲荷町の二階付き長屋に住んでいたことはよく知られています。

円生の逸品

原話は、天保13(1842)年刊の『奇談新編』中の漢文体笑話です。明治23年(1890)5月、「百花園」に掲載された初代(鼻の)三遊亭円遊の速記が残っています。

「紙入れ」「風呂敷」と同じく、間男噺ですが、その過激度では群を抜いていて、現在、継承者がいないのが惜しまれます。

この噺は演者によって題が異なります。桂米朝は「茶漬け間男」で、六代目三遊亭円生は「二階の間男」で、五代目春風亭柳昇は「お茶漬け」で、それぞれやっていました。ここでの「茶漬け」は亭主が茶漬けを食っている間にコトを済ます、というすじだからです。ここでは六代目三遊亭円生の速記を使いました。あの謹厳実直を絵に描いたようなイメージの、昭和の名人の、です。

寝取られ男

この言葉に対応するフランス語は「コキュ(cocue)」が有名です。cocuはカッコウから来ている言葉のようで、「かっこうの雌は他の鳥の巣で卵を産むことから」のようです。そういえば、大学時代にこんなことをしていた女性がいましたっけ。ちゃっかりしてました。フランスでは伝統的にコキュを描いた文学や演劇などが多くあります。他人のセックスを覗いて笑うネタにするのは世界共通ですが、フランスはもう少し高度な文化のようでして、他人の持ち物で楽しむ人を覗いて笑う趣味がある、ということでしょうか。古木優。

熊の皮 くまのかわ 演目

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「先生、女房がよろしく申してました」。 思わずニヤリ。艶笑噺です。

別題:八百屋

【あらすじ】

横町の医者から、祝い事があったからと、赤飯が届けられた。

その礼に行かなければということで、少し人間のネジがゆるみ加減の亭主の甚兵衛に、女房が口上を教える。

「うけたまわれば、お祝い事がありましたそうで、おめでとう存じます。お門多のところを、手前どもまで赤飯をちょうだいしまして、ありがとう存じます。女房からくれぐれもよろしく申しました」

「おまえさんはおめでたいから、決して最後のを忘れるんじゃない。それからあの先生は道具自慢だから、なにか道具の一つも褒めといで」
と注意されて送り出される。

まあ、おなじみの与太郎ほどではないから、
「ありがとう存じます」
まではなんとか言えたが、肝心の 「女房が」 以下をきれいに忘れてしまった。

「はて、まだなにかあったみてえだが……」

座敷へ上げてもらっても、まだ首をひねっている。

「……えー、先生、なにかほめるような道具はないですか」
「ナニ、道具が見たいか。よしよし、……これはどうだ」
「へえ、こりゃあ、なんです」
「珍品の熊の皮の巾着だ」

なるほど本物と見えて、黒い皮がびっしりと生えている。

触ってみると、丸い穴が二か所開いている。鉄砲玉の痕らしい。

甚兵衛、感心して毛をなでまわしている間に、ひょいとその穴に二本の指が入った。

「あっ、先生、女房がよろしく申しました」

【しりたい】

触るものはいろいろ

原話は安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「熊革」ですが、その他、同3年刊『豆談語』、同5年刊『売言葉』、同8年刊『鯛味噌津』など、複数の出典に類話があります。

男が最後になでるものは、「熊革」ではたばこ入れですが、のちに胴乱(腰に下げる袋)、熊の敷皮など、いろいろ変わりました。

前出の『売言葉』中の「寒の見まい」では敷皮になっていて、現在ではほぼこれが定着しています。

エロ味を消す苦心

五代目柳亭左楽(八代目桂文楽の師匠)、六代目蝶花楼馬楽、六代目三升家小勝など、かつてはどちらかというとマイナーで「玄人好み」の落語家が手掛けた噺でしたが、最近では、桂文朝、柳家喜多八などもやっていました。おふたりとも、故人になられているのがじつにもう残念でありますが。

この程度の艶笑噺でも、やはり公ではそのままはやりにくいとみえ、昔からエロ味を消した、当たり障りのないオチが工夫されています。

たとえば、同じ毛皮を触るやり方でも、女房が亭主のスネ毛を引っ張ったので、後でその連想で思い出したり、熊の皮は尻に敷くものだと言われて初めて「女房がよろしく……」となったり、演者によっていろいろですが、いずれもおもしろくもなんともなく、味も素っ気もありません。

医者と巾着

昔の医者は、往診の際に巾着を薬入れに使ったため、それがオチの「小道具」として用いられるのがいちばん自然ですが、現在では理解されにくくなっています。

隠語では巾着は女性の局部を意味するので、特別な会やお座敷で艶笑噺として演じる場合は当然、オチに直結するわけです。

鉄砲玉の痕をくじるやり方はかなり後発のものらしく、安永年間のどの原話にも見られません。

たばこ入れ、巾着、敷皮と品は変わっても、すべてなめし革ではなく、毛のびっしり付いたものですから触るだけでも十分エロチックで、穴まで出すのは蛇足なばかりか、ほとんどポルノに近い、えげつない演出といえます。

【熊の皮 三遊亭遊雀】

金玉医者 きんたまいしゃ 演目

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「娘がアゴを」「そりゃ、薬が効きすぎた」 。バレ噺の軽めなやつですね。

別題:顔の医者 過分量 すが目 皺め 頓智の医者 娘の病気 藪医者(改作)

【あらすじ】

甘井ようかんという医者。

飯炊き兼助手の権助と二人暮らしだが、腕の方はまるっきりヤブだということが知れ渡ってしまっているので、近所ではかかりに来る患者は一人もいない。

権助にも
「誰でも命は惜しかんべえ」
とばかにされる始末。

これでは干上がってしまうと一計を案じ、権助に毎日玄関で
「日本橋の越後屋ですが、先生のご高名を承ってお願いに」
などと、景気のいい芝居をさせ、はやっているふりをして近所の気を引こうとするのだが、口の減らない権助が、人殺しの手伝いをするようで気が引けるのだの
「越後屋ですが、先月の勘定をまだもらわねえ」
などと大きな声で言うので、先生、頭を抱えている。

そんなある日。

八丁堀の大店・伊勢屋方から、娘が病気なので往診をお願いしたいと使いが来る。

今度は正真正銘本物、礼金はたんまりと、ようかん先生勇み立ち、権助を連れて、もったいぶった顔で伊勢屋に乗り込む。

ところが、いざ脈を取る段になると、娘の手と猫の手を間違えたりするので、だんなも眉に唾を付け始める。

娘は気鬱の病で、十八という、箸が転んでもおかしい年頃なのに、ふさぎこんで寝ているばかり。

ところが不思議や、ようかん先生が毎日通い出してからというもの、はじめに怪しげな薬を一服与えて、後は脈をみるとさっさと帰ってしまうだけなのに、娘の容体が日に日によくなってきたようす。

だんなは不思議に思って、どんな治療をしているのか尋ねてみると、答えがふるっている。

「病人は、薬ばかり与えてもしかたがない。ことにお宅の娘さんは気の病。これには、おかしがらせて気を引き立てる。これが一番」

なんと、立て膝をして、女がふだん見慣れない金玉をチラチラ見せるという。

だんな、仰天したが、現に治りかけているので、それでは仕上げはおやじの自分がと、帰るとさっそく
「これ、娘や、ちょっと下を見てごらん」

ひょいと見ると、ふだん先生は半分しか見せないのに、今日はおとっつぁんがブラリと丸ごとさらけ出しているから、娘は笑った拍子にアゴを外してしまった。

「先生、大変です。これこれで、娘がアゴを」
「なに、全部出した? そりゃ、薬が効きすぎた」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

エロ味を消した改作

今でこそ、この程度はたわいない部類ですが、戦前は検閲も厳しく、師匠方はアブナい部分をごまかそうと四苦八苦したようです。

たとえば、四代目柳家小さんは前半の権助とのやり取りで切って「藪医者」と題しました。五代目小さんもこれにならっています。

その他、「顔の医者」と題して百面相をしてみせるやり方もよくあり、現在でもこの演出が多くなっています。

無筆!? ようかん先生

明治の三代目小さんは「皺め」の題名で演じましたが、その前に、源さんなる患者がやってきて、医者と滑稽なやり取りをする場面を付けています。

ようかん先生は按摩上がりで字が読めないので、絵で薬の上書きを付けているという設定で、チンが焚火を見てほえている絵だから「陳皮」、蚊が十匹いて、狐がいるから「葛根湯(かっこんとう)という具合。

明治9年(1876)1月、医師が免許制になるまで、いかにひどい代物が横行していたかがわかります。五代目小さんもこのネタを短くし、マクラに使っていました。

落語の藪医者

落語に登場の医者で、まともなのはほとんどいません。そろいもそろって、「子ゆえの 闇に医者を 呼ぶ医者」と川柳でばかにされる手合いばかりです。

名前もそれ相応に珍妙なのばかりで、今回登場の「甘井ようかん」は、さじ加減(見立て)が羊羹のように甘いというのと、あまりお呼びがかからないので黒の羽織が脱色して羊羹色(小豆色)になっているのをかけたもので、落語のやぶ医者では最もポピュラーです。

ただ、名前は演者によって適当に変わり、この噺でも明治の三代目柳家小さんの速記では「長崎交易」先生となっています。

その他、主なところでは「山井養仙(=病よう治せんのシャレ)」、「藪井竹庵」がありますが、ケッサクなのは立川談志が「姫かたり」で使っていた「武見太郎庵」ですが、いまどきこれを使ったところで誰が笑うでしょうか。武見太郎など、過去の人です。

尻餅 しりもち 演目

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大晦日。極貧夫婦、女房の尻をたたき餅つきにみせる苦いバレ噺もどき。

【あらすじ】

亭主が甲斐性なしで、大晦日だというのに、餠屋も頼めない貧乏所帯。

女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。

これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、自作自演で景気よく餠屋に餠をつかせている芝居をしようと言い出す。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、親方、毎度ありがとうございます」
と叫び、子供にお世辞を言ったりする場面も一人二役で大奮闘。

いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタン。

そのうち、尻は真っ赤になる。

かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとう、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼あるの?」
「へい、あと二臼です」
「おまえさん、後生だから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

【しりたい】

原話は「中華」

明和5年(1768)に抄訳が刊行され、以後につくられた多くの落語、小ばなしのネタ本になった、中国明代の笑話本『笑府』に類話があるとされますが、具体的にどの話がそれに相当するのか、いまひとつはっきりしません。

「尻をたたく」というシチュエーションでいえば、新婚初夜にはでに「泣き声」が聞こえたので、客が後で冷やかすと、実はそれは花婿が、新婦に尻をたたかれて発した声だったという、『笑府』閨風部の艶笑小ばなし「婿呼痛」がそれかもしれません。

おこわと白蒸

もともと上方落語で、オチは東京では「おこわにしとくれ」ですが、上方は「白蒸(しろむし)でたべとくれ」です。

白蒸は、もち米を蒸して、まだ搗いていない状態のもので、なるほど、「もう叩かないどくれ」という意味ではこちらの方が明快でしょう。

上方では笑福亭系の噺で、五代目・六代目松鶴の十八番でした。東京では、あらすじでもテキストにした八代目三笑亭可楽のやり方が現行の基本になっています。

可楽はこの前に「掛取万歳」の後半部を付け、この夫婦の貧乏と能天気を強調しておくやり方でした。

餅屋

江戸時代、ふつう餅つきは12月26日から。

これを餅つき始といいました。

この日から大晦日まで、「引摺り」といって、餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩きます。

正月の餅はおろか、鏡餅も買えないせっぱつまった状況というのは、落語では「三百餅」「子ころし」などにも描かれます。

「尻餅」の直接の原話である、享和2年(1802)刊の江戸板笑話本『臍くり金』中の「餅搗」では、貧乏な医者が下男の三介の尻をたたく設定になっています。

ほのかなエロティシズム

東京でも上方でも、女房の尻をまくって亭主が「白い尻だなあ」と、思わず見とれたように言う(生唾をのみ込む?)セリフがあります。

江戸時代には、アノ時の「後ろから」の体位は、畜生道ということでタブーだったわけで、この亭主も、所帯を持って初めて、まじまじとその部分を拝み、新鮮な感動をおぼえたのでしょう。

いずれにしても、この「餅つき」、禁断のセックスの暗喩と勘ぐれば、エロの色調もより濃厚になってきそうです。(とはいうものの、さほどのもんじゃありません)

三年目 さんねんめ 演目

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逝かれた亭主。 出てこない女房。 しびれ切らした亭主。共にわけありで。

【あらすじ】

ある夫婦、大変に仲むつまじく暮らしていた。

ある年、かみさんがふとした風邪がもとでどっと床につき、亭主の懸命の看病の甲斐なく、だんだん弱るばかり。

いよいよ今日か明日かという時になって、病人は弱々しい声で
「私が死んだ後、あなたが後添いをおもらいになると思うとそればかりが心残りでございます」
と言う。

「なにを言っている、あたしはおまえに万万が一のことがあっても、決して生涯、再婚などしない」
といくら言っても、
「いえ、あなたは必ず後添いをおもらいになります」
と繰り返すばかり。

あまりしつこいので亭主、
「そんなことはない。決してそんなことはないけれども、もし、あたしが後添いをもらうようなことがあったら、おまえ、婚礼の晩に化けて出ておいで。前妻の幽霊がとりついているようなところに嫁に来るような女はないから、そうすればどうでもあたしは独り身で通さなくてはいけなくなるんだから」
「それでは、八ツの鐘を合図に、きっと」
「ああいいとも」

えらいことを約束してしまったが、亭主のその言葉を聞くと、かみさんやっと安心したのか、にわかに苦しみだしたかと思うと、ついにはかなく息は絶えにけり。

泣きの涙で弔いを出し、初七日、四十九日と過ぎると、そろそろ親類連中がやかましくなってくる。

まだ若いのだし、やもめを通すのは世間の手前よくない、いい人がいるから、ぜひとも再婚しろと、しつこく言われるのを、初めのうちは仏との約束の手前、耳を貸さなかったが、百か日にもなると、とうとう断りきれなくなる。

それはそうで、まさか先妻とこれこれの約束をしたから……などと、ばかなことは言えない。

いよいよ婚礼の晩になり、亭主、幽霊がいつ出るかと、夜も寝ないで待っていたが、八つの鐘はおろか、二日たっても、三日たっても、いっこうに現れないものだから、
「ばかにしてやがる。恨めしいの、とり殺すの、と言ったところで息のあるうちだけだ」

それっきり先妻のことは忘れるともなく忘れ、後妻もそれほど器量が悪いという方ではないから、少しずつなじんでいくうちに、月満ちて玉のような男の子も生まれた。

こうして、いつしか三年目。

子供の寝顔に見入っているうち、ふと先妻のことを思い出している。

と、どこで打ち出すのか、八つの鐘がゴーン。

急にブルブルッと寒気がきたので、これはおかしいと枕元をヒョイと見ると、先妻の幽霊が髪をおどろに振り乱して、恨めしそうにこっちを見ている。

「……あなた、まあ恨めしいお方です。こんな美しい方をおもらいになって、かわいい赤ちゃんまで……お約束が違います」
「じょ、冗談言っちゃいけない。おまえが婚礼の晩に出てくるというから、あたしはずっと待っていたんだ。子供までできた後に恨みを言われちゃ困るじゃないか。なぜもっと早く出てこない」
「それは無理です」
「なぜ?」
「私が死んだ時、坊さんにしたでしょう」
「ああ、親戚中が一剃刀ずつ当てた」
「坊さんでは愛想を尽かされるから、髪の伸びるまで待ってました」

【しりたい】

「原作者」は中興の祖

本業の落語はもちろん、黄表紙、笑話本、滑稽本の執筆から茶道、絵画、狂歌と多芸多才、江戸のマルチタレントとして活躍した桜川慈悲成(しらがわじひなり、1762-1833)が、享和3年(1803)刊の笑話本『遊子珍学問』」中の「孝子経曰、人之畏不可不畏」が原作です。

これは、やもめ男が昼飯を食っていると、ドロドロと死んだ女房が現れたので、幽霊ならなぜ夜出てこないととがめると、「だってえ、夜は恐いんだもん」というオチ。

上方で演じられる「茶漬幽霊」は、「昼飯中」が「茶漬け中」に変わっただけで、大筋とオチは同じです。

「髪がのびるまで待っていた」は、「夜はこわい」の前の幽霊の言い訳で、東京の「三年目」は、ここで切っているわけです。

三年目とは

今でいう三周忌(三回忌)です。『十王経』という仏教の啓蒙書に、七七忌(四十九日)、百ヶ日、一周忌など忌日、法事の規定があるのが始まりです。

坊さんにする

江戸時代までは、髪剃り(こうぞり)といい、男女を問わず、納棺の直前に坊さんに剃髪してもらう習慣がありました。

東は悲話、西はドライ

東京の「三年目」では、亭主は約束を守りたかったのに、周囲の圧力でやむなく再婚する設定で、それだけに先妻に未練があり、オチでも「すれ違い」の悲劇が色濃く出ます。

これに対し、上方の「茶漬幽霊」は、男は女房のことなど小気味いいほどきれいに忘れ、すぐに新しい女とやりたい放題。薄情でドライです。

幽霊が出るのが「茶漬中」というのもふざけていますし、オチも逆転の発想で笑わせ、こっけい噺の要素が強くなっています。

バレ噺「二本指」

類話に「二本指」という艶笑小ばなしがあります。

惚れぬいたかみさんがあの世に行き、ある夜化けて出てきて、「あたしが死んだから、おまえさんが浮気でもしてやしないかと思うと、心配で浮かばれないよ」と愚痴を言います。あんまりしつこいので、めんどうくさくなった亭主、そんなに信用できないならと、自分の道具をスパッと切って渡しますが、翌晩また現れて、「あと、右手の指が二本ほしい」

二代目露の五郎兵衛が「指は知っていた」の題で演じました。逸物をチョン切るときの表情が抱腹絶倒です。

円生、志ん生のくすぐり

●円生

(マクラで、幽霊を田舎言葉で)「恨めしいぞォ……おらァはァ、恨めしいで、てっこにおえねえだから……生き変わり死に変わり、恨みを晴らさでおかねえで、このけつめど野郎」

土左衛門になると、男は下向き、女は上向きで流れてくる。この間横になって流れてきたので、聞いてみたらゲイボーイ。

●志ん生

(亭主が幽霊に)「そんなわけのわからねえ、ムク犬のケツにのみがへえったようなことを言ったって、もうダメだよ」

いやあ、この二人が戦後では「三年目」の双璧でした。

せんきのむし【疝気の虫】演目

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疝気とは泌尿器科全般の病。そこに虫がいて悪さする果てに女体ではどうなる。

【あらすじ】

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦が大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気で苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天した虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散に腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

【しりたい】

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎、胆石、膀胱炎、睾丸炎等々、ひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女の癪(しゃく)に相当するもので、

「悋気(りんき)は女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、癪・恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形」「万病円」「にせ金」「夢金」「狸の釜」ほか、挙げればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫がそばが好物というのは、そばは腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生の独壇場で、四代目三遊亭円遊も得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑に扮した五代目志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古する場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、そばをたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロ辺りを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

最近人気の怪談集「新耳嚢」の本家、根岸鎮衛著「耳嚢」巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

「阿蘭陀(おらんだ)法の書を翻訳 する者有て其(の)説を聞(く)に、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一匁を酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】

さいぎょう【西行】演目

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佐藤義清とは西行のこと。染殿内侍との逢瀬はほどほどに。ご教訓めいたバレ噺。

【あらすじ】

遍歴の歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達し、気の毒に思しめして、義清(のりきよ)あてに御文をしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

もとは佐藤兵衛尉義清という、禁裏警護の北面の武士だった。

染殿内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」と詠まれたのに対し、義清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」とある。

「はて、この意味は」と思い巡らしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三ツ時。

西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれてついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ「我なれば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」と詠んで帰ろうとした途端に義清、危うく目を覚まし、「宵は待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に義清が、「またの逢瀬は」と尋ねると内侍は「阿漕(あこぎ)であろう」と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」。

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」

「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

【しりたい】

阿漕

阿漕(あこぎ)とは、 

伊勢の海 阿漕が浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ

という「古今六帖」の古歌から。

阿漕ケ浦は、今の三重県津市南部の海岸。

伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。

内侍

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえてぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、西行先生、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微で、歌をひねくりまわしているうちにいつの間にかエロ噺と化しているのですね。

セックスといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍は1118年(永久6、元永元)生まれの西行とは200歳ほども「年上」。

この時代に南禅寺があるわけもなく、この噺、でたらめが過ぎます。まあ、この際、そんな時代考証めいた野暮はどうでもよいのでしょう。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の痴楽がたまに演じていました。

【西行 三代目三遊亭円歌】

すずふり【鈴ふり】演目

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遊行寺が舞台、仏門の噺。禁欲の証は一物に鈴を。バレ噺の傑作。「甚五郎作」も。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺という名刹。この寺の住職は大僧正の位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次期住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧がというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾の内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋の選りすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、普段女色禁制で免疫のできていない坊さん連はたまったものではない。

「色即是空、空即是色」
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠をつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺

五代目古今亭志ん生の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会で堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林の言い立て。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人の「踊り念仏」で有名な時宗の総本山。正しくは藤沢山無量光院清浄光寺といいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。意外に新しいのです。

規模が小さいことと同じ念仏系のため、浄土宗系寺院と重なることもありますが、この噺のごちゃごちゃぶりはさすがに落語的です。

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生もたまに演じていました。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅」をやる予定でした。その前に八代目林家正蔵(彦六)が「藁人形」を。これは関係者の不手際によるものでした。ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」と忌むのが落語の世界です。そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度は他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけですね。志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院という寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣の勝願寺という寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺へ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺という寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金の東漸寺という寺に入り、東漸寺を抜けて、生実の大厳寺へ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎の大念寺へ入って、上州館林の善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺へ入って、結城の弘経寺へ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼の弘経寺というところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊厳寺に入り、霊厳寺を抜けて、上州新田の大光院に入って、瓜連の常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院へ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺へ入って、そこで緋の衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺に入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭堂と対談をしています。タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っています。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭堂(石橋エータローの父親)は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋なんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫を調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。いきだなあ。

【語の読みと注】
下谷の幡随院 したやのばんずういん
鴻巣の勝願寺 こうのすのしょうがんじ
川越の蓮馨寺 かわごえのれんけいじ
岩槻の浄国寺 いわつきのじょうこくじ
下総小金の東漸寺 しもうさこがねのとうぜんじ
生実の大厳寺 おうみのだいがんじ
滝山の大善寺 たきやまのだいぜんじ
常陸江戸崎の大念寺 ひたちえどさきのだいねんじ
上州館林の善導寺 じょうしゅうたてばやしのぜんどうじ
本所の霊山寺 ほんじょのりょうざんじ
結城の弘経寺 ゆうきのぐきょうじ:紫の衣一枚
下総国飯沼の弘経寺 しもふさのくにいいぬまのぐきょうじ:隠居檀林
深川の霊厳寺 ふかがわのれいがんじ
上州新田の大光院 じょうしゅうにったのだいこういん
瓜連の常福寺 うりづらのじょうふくじ:紫の衣二枚
小石川の伝通院 こいしかわのでんづういん
鎌倉の光明寺 かまくらのこうみょうじ:緋の衣一枚
芝の増上寺 しばのぞうじょうじ:緋の衣二枚 大僧正

【甚五郎作+鈴ふり 古今亭志ん生】