【五十四帖】ごじゅうしじょう 落語演目 あらすじ

成城石井

【どんな?】

「源氏物語」をもじった、ダジャレ丸出しの噺。

【あらすじ】

手習いの師匠をしている、村崎式部むらさきしきぶという浪人。

もとは某藩の祐筆ゆうひつ(書記)を務めていたが、これが、あだ名を「光君ひかるのきみ」と呼ばれたほどの色男。

吉原通いをするうちに玉屋たまや中将ちゅうじょうという花魁おいらん相思相愛そうしそうあいの仲に。

中将の年季が明けるのを機に身請けして女房にしたが、
「祐筆の身が遊女を女房にするとはけしからん」
とご重役方の怒りに触れて、あえなくクビ。

仕事上、書をよくしたので、子供らに習字を教えて、細々ほそぼそと生計を立てている、今日このごろ。

ところが、いい男だから、近所の菓子屋の娘で十五になるお美代というのが式部に夢中になり、いつしか二人はわりない仲に。

これがバレないはずがなく、中将、嫉妬しっとで黒こげ。

ある日。

式部がつい、反物たんものの仕立てをお美代に頼もうと、口走ったことから、かみさんの怒りが爆発。

夫婦げんかになった。

けんかが白熱して、母親の仲裁も聞かばこそ、『源氏物語』五十四帖の本を投げ合い、「源氏」尽くしの言い合いに。

「もうもうえん桐壺きりつぼと、思うておれど箒木ははきぎが、蜻蛉かげろうになり日なたになり、澪標みおつくし(=身を尽くし)、早蕨さわらびの手を絵合わして乙女おとめになるゆえそのままに、須磨すましておれど、向こうの橋(=菓子)姫と情交があるの、明石て言えと、いらざることを気を紅葉賀もみじのが、もう堪忍かんにん奈良坂ならさかや、この手拍子てびょうし真木まき(=薪)柱で、うつ(=打つ)せみにするぞ」

「いかに榊木さかき(=酒気)げんじゃとて、あんまりなこと夕顔ゆうがおでござんす。花のえん(=縁)があればこそ、末摘花すえつむはなを楽しみに、また若紫わかむらさきのころよりも、人目関屋せきや雲隠くもがくれ、心の竹川たけかわ言いもせで、(中略)いまだ十四五なあの胡蝶こちょうと、あんまり浮気な藤裏葉ふじのうらば、うら腹男、御法みのり(=祈り)殺してくりょう」

これでもまだ足りず、宇治十帖うじじゅうじょうまで行きそうな気配。

おっかさん、さじを投げて隣のかみさんに救援を頼んだ。

「まあ、おっかさんも大変じゃございませんか。やきもちけんかが、ただ始終苦情しじゅうくじょう(=四十九帖)で」
「いえ、五十四帖でございます」

底本:六代目桂文治

★auひかり★

【しりたい】

やきもちもペストも風雅な時代

原話は不明。

明治33年(1900)2月の『百花園』に掲載された六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記が残るだけです。

この年は、子年ねどしのうえペストが大流行し、東京府と東京市がネズミを一匹五銭で買い上げるという騒ぎになりました。

文治はこれを当て込んで、マクラでペストをあれこれ話題にし、ネズミがペストを媒介するなら、「夫婦げんかは犬も食わない」というのだからそれ以外のけんかは犬が媒介するのだろうと珍妙な論理を展開。

焼き餅による夫婦げんかがテーマの、この噺につなげています。

いずれにしても、源氏物語の五十四帖を読み込む趣向だけなので、文治以後、口演記録はありません。

手習いの師匠

江戸では、庶民はふつう「寺子屋」とは呼ばず、もっぱら「手習い」でした。

武士の子には、旗本、御家人のうちで書をよくする者が教えましたが、そこに町人が出入りしても、かまいませんでした。

町家の子は主に浪人が教えますが、むろん規模の小さい自宅営業。

多くは七歳の春に通い始め、弟子入りの時は母親が付き添い、束脩そくしゅう(入学金)として二朱、そのほかに天神机てんじんづくえ(引き出し付きの粗末な机)、すずり、砂糖一斤いっきんを持参するのが普通です。

月謝は普通、月二百文で、盆暮れに二朱ずつ、毎月二十五日に天神講の掛け銭が二十四文、夏には畳銭二百~三百文、冬には炭代を同額納めました。

天神講

てんじんこう。学問の神である天神を祭る行事のための積み立て金。

町家の子には習字のほか、必ず算盤そろばんを教えることになっていました。

「読み書きそろばん」と呼ぶゆえんです。

【語の読みと注】
祐筆 ゆうひつ:書記
花魁 おいらん
嫉妬 しっと
反物 たんもの
桐壺 きりつぼ
箒木 ははきぎ
蜻蛉 かげろう
澪標 みをつくし
早蕨 さわらび
須磨 すま
空蝉 うつせみ
末摘花 すえつむはな
若紫 わかむらさき
束脩 そくしゅう:入学金
算盤 そろばん

成城石井

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