【鹿野武左衛門】しかのぶざえもん 噺家 落語 あらすじ

【芸種】はなし
【活躍地】江戸
【定紋】
【本名】志賀安次郎
【生没年月日】慶安2年(1649)-元禄12年8月13日(1699.9.6)
【出身地】難波(大坂)→江戸堺町→長谷川町
【前歴】塗師(漆塗りの職人)
【ネタ】新作。武助馬など。
【出典】Wiki
【蛇足】その生涯は以下の通り。

蔦屋重三郎(1750-97)よりは約100年早い人です。

江戸落語の祖。そのわけは、江戸で初めて座敷仕方咄を演じた人とされているからです。

出身は難波(大坂)といわれます。上方から江戸に下ってきた人のようです。

鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。本名は志賀安次郎。志賀の安次郎なので、鹿野なのでしょうか。職業は塗師。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町(中央区日本橋人形町3丁目)、長谷川町(中央区日本橋堀留)の職人町に住んでいました。

このあたりは職人町です。石川流宣や古山師重もご近所さんだったようです。二人は絵師。武左衛門と仕事をする仲でした。

30歳頃から、人前ではなしをするようになりました。

天和・貞享(1681-88)の頃です。

場所は中橋広小路(中央区京橋1丁目)。

日本橋川と京橋川の中間にある掘割(紅葉川)の架かる中橋詰(橋のたもと)の広小路(幅広の街路)をさします。いまの京橋千疋屋本店のあたりです。

この町名は天明年間(1781-88)からだそうですから、武左衛門の頃にはおおざっぱに「中橋」と呼んでいたようです。

中村勘三郎が「猿若狂言尽」を興行して、江戸の常芝居発祥となった地ですから、往来はさかんだったわけです。

これで人気が出て、次第にお座敷にお呼びがかかります。

座敷仕方咄を演じては、いつしか人気者に。身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。その芸を座敷でするのが、座敷仕方咄です。

座敷に呼ぶのは、上級武士や富裕商人でした。

『家乗』(石橋生庵)に、そのようすが載っています。

石橋生菴(1642-1701)は紀州藩家老の三浦為隆に仕えた下級武士。「儒医」との記述もありますが、現在は武士だったことがわかっています。鹿野武左衛門とはほぼ同世代の人です。

『家乗』は石橋家の日記です。家乗とは家の記録を言います。

その書の、延宝9(1681)年1月10日のくだりに記された「福居徳庵門札」など13の演題は、落語の題名として最古の記録とされます。

●延宝9年(1681)1月10日
福居徳庵門札
黄蝶ノ沙汰
島ノ名違
蔭間ノ出ソコナヒ
大水の舟歌
奴子ノ喧嘩
太鼓ノ稽古
福蔵木遣
ワカシサマシ
老若ノ諍
太職冠
合碁打
念入弥介

●元禄元年(1688)9月30日
女養父入懺悔
家合吉原通
玉簾
籠太鼓
三面争物ニハ気ヲツケヨ
桂馬見立
七夕狂歌
公家見物
二王力紙
五百八十七曲

●元禄元年(1688)10月6日
人篇掛物
町男喧嘩
妻争
宇余木遣
仮名読損
謎解
大水舟歌
ハセ釣
五音誤
酒沸し醒し
福蔵木遣
浪人頓作
夢中戯
湯屋実盛
殺生石

1681年のあとは1688年というのは少々不自然な記述ですが、それでも、これだけの演目が記録されていることを喜ぶべきでしょう。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。

江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。

「そんな、馬鹿な」
「馬がしゃべるなんてなあ」
「エドじゃあるめえし」
「ここは江戸だぜ」

そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。

ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。

頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。

人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。

主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。

厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。

しゃべる馬の件です。

取り調べで二人は、こんなことを言っていたのです。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。

笑うための本ですね。

だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。

え、なに、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。

武左衛門は伊豆大島に流罪。

版元の本屋弥吉も江戸追放。

本は焼き捨てられました。

焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。

とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。

いやあ、もったいない。

武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。

中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。

人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。

お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。

町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。

存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。

その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。

暗黙のご法度となったのです。

江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。

岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。

それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。

二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。江戸時代おそるべし、です。

■残されている著作

『鹿野武左衛門口伝咄し』(3巻、1683)咄本
『鹿の巻筆』(5巻、1686)咄本 古山師重画
『枝珊瑚珠』(5巻、1690)※石川流宣らとの合作
『露鹿懸合咄』(5巻、1697)※露の五郎兵衛らとの合作

■年譜

慶安2年(1649)大坂難波で生まれる
天和元年(1681)江戸堺町に住む。塗師として
元禄元年(1688)長谷川町に住む。塗師として
この頃はなしで人気を得る
元禄6年(1694)4月下旬江戸でソロリコロリ流行、死者1万余
この頃嫌疑をかけられる
元禄7年(1693)3月伊豆大島に遠島の処罰
元禄12年(1699)4月罪許され江戸に戻る
元禄12年(1699)8月13日(9.6)死去

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたのだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

七十一番職人歌合しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ』という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代のどさくさの頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことなどできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、物合ものあわせという形式の歌集です。やんごとない人たちというのは、すさまじいほどに暇だったのですね。その歌集の三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、「画中詞」と呼ばれる、詞画きです。絵のちょっとした解説じみた文をさします。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。

いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。

歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職業のさまを垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶるのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。

「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。

塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずにできるなあ」などと、喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

 

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