【三軒長屋】さんげんながや 落語演目 あらすじ
【どんな?】
両脇が鳶頭に剣術先生、間が妾宅。
女はうるさくて鬱々と。
そこでだんなが企んだ手は。
痛快、傑作、大笑い。
別題:楠運平
【あらすじ】
三軒続きの長屋があった。
一番端が鳶頭政五郎の家、奥が剣術の先生で「一刀流指南」の看板を出す楠運平橘正国という、いかめしく間抜けな名の侍の道場兼住居。
その二軒にはさまれて、金貸しの伊勢屋勘右衛門、通称ヤカン頭のイセカンのお妾が、女中とチン一匹と一緒に住んでいる。このお妾、ここのところノイローゼ気味。
というのも、右隣の鳶頭の家には気の荒い若い者が四六時中出入りする上、年がら年中酒をのんでは「さあ殺せ」「殺さねえでどうする」とぶっそうな、けんか騒ぎ。
おまけに木遣りの稽古でエンヤラヤと野蛮な声を張り上げられては生きた心地もしない。
左隣の道場はといえば、このごろは夜稽古まで始め、夜中まで「お面、小手」とやられて眠れない。
たまりかねてだんなのイセカンに、引っ越させてくれと要求する。
だんなも鳶頭の家の前を通る度に二階から、ヤカンヤカンとはやされるので腹が立っているが、このお妾、わがままで今まで何度も転居させられたので、費用も馬鹿にならない。
この長屋は家質に取ってあってもうすぐ流れるから、その時きっと追い出してやると慰めたのを、井戸端で女中がしゃべったから、鳶頭のかみさん、さあ怒った。
家主ならともかく、イセカンのお妾風情に店立てを食ってたまるかと、亭主をたきつける。
鳶頭、思案の末、運平先生にこれこれと相談した。
おのれ勘右衛門、武士を侮る憎い奴、隣に踏んごみ素っ首を……と憤るのをなだめ、あっしに策がありますと一計を授けて、何やら打ち合わせ。
翌日、運平先生がまずイセカンを訪れ、
「この度道場が手狭になったので、転居することになったが、転居費用の捻出のため千本試合を催すことになった、真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つはお宅に転げ込むかと存ずるが、ご了承願いたい」
と脅すと、ヤカン頭はたまげて、五十両出すからどうか試合は中止してほしいと平身低頭。
次は鳶頭。
こちらも、
「転宅するが、やはり費用が馬鹿にならないので賭場を開く、座敷の真ん中にこもっかぶりの酒を置き、刺身は出刃を転がしておいて勝手に作ってもらうので、気の荒い鳶連中のこと、斬り合いになって首の二十や三十……」
と言いだしたから、イセカン、うんざりしてまた五十両。
それにしても、隣の先生も同じようなことを、と気になって、
「おまえさん。どこへ越すんだい」
「へえ、あっしが先生のところに、先生があっしのところへ」
底本:五代目柳家小さん
【しりたい】
長い噺 【RIZAP COOK】
長いはなしなので、伊勢勘のお妾がだんなに苦情を言った後、場面変わって、鳶の若い者が喧嘩を始めるあたりで切って上・下に分け、リレー落語として演じられることもあります。
三軒長屋というのは、落語によく登場する貧乏な裏長屋と異なり、表通りに面していて、二階建てです。鳶頭や大工の棟梁など、社会的信用があり、人の出入りが多い稼業の人間が借りたものでした。
棟続きでも実際は一戸建ての借家に近く、それだけ家賃も高かったのです。
人物の移動が頻繁で、登場人物も多いので、よほどの力量のある大真打でないとこなせません。
この噺を得意とした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、自伝『びんぼう自慢』で、こんなことを語り残しています。
四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は、鳶の者三十人ばかりが「まるでそこいらにモソモソしているのが目に見えるようでありました」とのこと。
円喬を尊敬する志ん生の回想です。
艶笑版「三軒長屋」 【RIZAP COOK】
同じ題名でも、こちらはポルノ版です。
三軒続きでの長屋で、左側に独り者、真ん中に夫婦者、右側に夫婦と赤ん坊。
真ん中の夫婦は、所帯を持ってもう七、八年になるのに、まだ子供ができない。
「てめえの畑が悪い」「いや、おまえさんのタネが悪い」と、けんかの末、隣の夫婦は新婚で、半年たたないうちに子供をこさえたのは、何か製造法に秘密があるのだろうと夜、こっそり秘儀を見学。
見ていると、亭主が後ろから……で、かみさんは、起きて泣き出した赤ん坊に乳をふくませ、
「ほら、オッパイないない」とあやしながらの大奮闘。
これを見ていた隣の夫婦も早速まねして始め、亭主が突然抜いて、「ほら、オチンチンないない」。
これをのぞいていた独り者が、「ほら、お手手ないない」。
鳶頭の女房 【RIZAP COOK】
ここに登場する鳶頭の女房は、自分を「おれ」と呼ぶなど、男言葉を使い、乱暴な物言いをします。
歌舞伎『め組の喧嘩』のめ組の辰五郎女房、お仲も同じです。
乱暴者ぞろいの鳶の若い者をなめられず押さえていくためにはそうしなければならなかったのです。
五代目志ん生も、声は女で口調は男、それでいて年増女の色気が出なければいけないので、難しいと語り残しています。
囲われ 【RIZAP COOK】
「囲われ」「囲い」「囲い者」はお妾さんやお妾さんの住む場所(妾宅)をさします。富裕な町人のお妾さんを詠んだ川柳は数多くあります。
経済力がなければ囲えないところから、やっかみ半分でさまざまに詠まれるのです。
囲われは 店賃でもの 見世をはり 十三2
お妾さんが店を出したようすです。裏長屋の土地持ちがだんななのでしょう。
店賃のもうけで店を出させてもらった、というかんじです。
囲われは 言ひ訳ほどの 見世を出し 四6
世間からなにか言われないように、世間の批判をかわすように、どうでもいいような店を出させてもらって、それでひっそりと生活しているように見せかけているようすです。
酢天蓋 などこしらへて 囲いまち 二十19
「天蓋」は、もとは虚無僧のかぶる編み笠のことですが、形が似ているため、お坊さん業界の隠語で「蛸」をも意味します。
「天蓋屋」は輿屋(葬儀屋)。
「酢天蓋」は「酢蛸」の意味です。
お坊さんがお妾さんを持ったようすですが、「蛸」そのものが僧侶を意味しています。つるつる頭のかげんが似ているからでしょう。
身分が保証されている僧侶。彼らが意外にお妾さんを持つことが多く、町民はやっかみ半分で蛸と呼んだわけです。
蛸にはもう一つの意味として、蛸の吸盤のようにひきつける女性器をさしますから、どこか淫靡な深読みができそうです。
昭和初期の「寓」 【RIZAP COOK】
以下は、「お妾横丁」と題した、昭和4年(1929)頃の東京の「寓」をつづった一文です。筆者は今和次郎(1888-1973、建築、民俗)。考現学で有名な方です。江戸の風景がぼんやり覗けます。
「何々寓」と苗字ばかりを書いた住宅は、近年殆ど見られなくなった。その所謂「何々寓」は多く妾宅だつたことも事實である。ところが昭和の今日、その筋の干渉は「寓」なぞといふ曖昧模糊たる名札を許さなくなつた。それといふのも、大正七年の國勢調査の時、「職業」と書いて「妾」は果して正業なりや否やが問題になり、延いては「寓」なる名札までが論議せられた結果舟板塀に見越の松と洒落れた粋造りの門口に「××うめ」とか、「△△トラ子」とか云ふ様な本名札を見るやうになつた。だから今日では、お妾町として有名な日暮里渡邊町、上野櫻木町、蒲田などの町々を歩るいても、どこが妾宅なのか、ついウツカリ見過してしまふ。それ程お妾稼業も近代性を帯び一般社會性の中に溶解して來たことがわかる。神田町線道灌山下で電車を捨てて日暮里へ抜ける大通りを一直線、あかぢ橋を超えてだらだら坂を上ると、やがて左りへ拓けた横丁がある。丁度渡邊町富士見臺の足の下邊りから右に左りに切れ込んだ露地、昔は一ケ所に集合してゐたものだが、近頃では大凡そ三筋の川の字型に流れてゐる。表に女名前の表札をかけたのは大抵それだと云ふ噂。一體ここのお妾さんの素性は玄人上りが大半で、仲居、藝妓、遊藝師匠などが過半數だと云ふことである。旦那筋には傳統的に日本橋堀留邊りの大木綿問屋の隱居といつたところが、寮式に隱居所兼妾宅と乙に構えてゐるさうだ。その外谷中の延命院日當式の亜流も案外サバサバと五分刈り頭を夜更けてこの通りに現はすと云ふ。上野櫻木町では美術學校裏から濱田病院神易家の上山五黄本宅へかけての一帶、吉原「角海老」や「大文字」の別宅からそれに連なる裏手の小ジンマリした小宅はおほかたそれである、ここは震災でも別段の被害を見なかった故、外觀では最もお妾横丁の名に適しいかも知れない。靜かな通りに晝間でも粹な三味線の爪弾が漏れ聞こえる。坂下町にもお妾町があつたが今日では少ないらしい。四谷坂町っもこの方面で人に知られてゐる。映畫女優の徘徊する蒲田も或る通り、西郊高圓寺のそこここにも、噂には上つてゐる。しかし高圓寺は、新宿のカフエの女給などが、多く住んでゐることは事實だ。
今和次郎編『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)より