【佐々木政談】ささきせいだん 落語演目 あらすじ
【どんな?】
南町奉行がさかしいガキを検分。
その頓智の妙たるや。
落語世界の期待される人間像ですかね。
別題:池田大助
【あらすじ】
嘉永年間のこと。
名奉行で知られた南町奉行・佐々木信濃守が、非番なので下々のようすを見ようと、田舎侍に身をやつして市中見回りをしていると、新橋の竹川町で子供らがお白州ごっこをして遊んでいる。
おもしろいので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さっそうと奉行役が登場。
これも年は同じぐらいで、こともあろうに佐々木信濃守と名乗る。
色は真っ黒けで髪ぼうぼう、水っぱなをすすりながらのお裁き。
なんでも、勝ちゃんというのが
「一から十まで、つがそろっているか」
ともう一人に聞き、答えられないので殴った、という。
ニセ信濃守はすまして、
「さような些細なことをもって、上に手数をわずらわすは不届きである」
セリフも堂にいったもので、二人を解き放つ。
つのことを改めて聞かれると、
「一から十まで、つはみなそろっておる」
「だって、十つとは申しません」
「だまれ。奉行の申すことにいつわりはない。中で一つ、つを盗んでいる者がある。いつつのつを取って十に付けると、みなそろう」
その頓智に、本物はいたく舌を巻き、その子を親、町役人同道の上、奉行所に出頭させるよう、供の与力に申しつける。
さて、子供は桶屋の綱五郎のせがれ、当年十三歳になる四郎吉。
奉行ごっこばかりしていてこのごろ帰りが遅いので、おやじがしかっていると、突然奉行所から呼び出しが来たから、
「それみろ、とんでもねえ遊びをするから、とうとうお上のおとがめだ」
と、おやじも町役一同も真っ青。
その上、奉行ごっこの最中に、お忍びの本物のお奉行さまを、子供らが竹の棒で追い払ったらしいと聞いて、一同生きた心地もしないまま、お白州に出る。
ところが、出てきたお奉行さま、至って上機嫌で、四郎吉に向かい、
「奉行のこれから尋ねること、答えることができるか。どうじゃ」
四郎吉、
「こんな砂利の上では位負けがして答えられないから、そこに並んで座れば、なんでも答える」
と言って、遠慮なくピョコピョコと上に上がってしまったので、おやじは気でも違ったかとぶるぶる震えているばかり。
奉行、少しもかまわず、
「まず星の数を言ってみろ」
と尋ねると、四郎吉少しもあわてず、
「それではお奉行さま、お白州の砂利の数は?」
これでまず一本。
父と母のいずれが好きかと聞かれると、出された饅頭を二つに割り、どっちがうまいと思うかと、聞き返す。
饅頭が三宝に乗っているので、
「四角の形をなしたるものに、三宝とはいかに」
「ここらの侍は一人でも与力といいます」
「では、与力の身分を存じておるか?」
「へへ、この通り」
懐から出したのが玩具の達磨(だるま)で、起き上がり小法師。
錘が付いているので、ぴょこっと立つところから、身分は軽いのに、お上のご威勢を傘に着て、ぴんしゃんぴんしゃんしているというわけ。
「ではその心は」
と問うと、天保銭を借りて達磨に結び付け
「銭のある方へ転ぶ」
最後に、
「衝立に描かれた仙人の絵がなにを話しているか聞いてこい」
と言われて
「へい、佐々木信濃守はばかだと言ってます。絵に描いてあるものがものを言うはずがないって」
ばかと子供に面と向かって言われ、腹を立てかけた信濃守、これには大笑い。
四郎吉が十五になると近習に取り立てたという「佐々木政談」の一席。
底本:六代目三遊亭円生
【しりたい】
江戸町奉行
江戸町奉行は、三千石以上の旗本から抜擢され、老中、若年寄、寺社奉行に次ぐ要職でした。評定所一座の一員です。
天保年間までは大坂町奉行、奈良奉行などを経て就任した経験豊かな者も多くいました。
在職期間も「大岡裁き」で有名な大岡越前守(忠義→忠相、1677-1752)の19年間(1717-36)を筆頭に10年以上勤めた人もいることはいました。
江戸町奉行という役職は相当な激務であって、在任中途での「殉職」も珍しくなく、こちらのほうがむしろ多数派でした。
幕末になって人材が払底し、文久3年(1863)から翌元治元年(1864)にかけ、1年間で8人も交代するありさまとなりました。➡町奉行
佐々木信濃守
佐々木信濃守顕発(1806-76)は、嘉永5年(1852)から安政4年(1857)まで大坂東町奉行を勤め、江戸に戻って文久3年(1863)、北町奉行に就任。
数か月で退いた後、再び年内に南町奉行として返り咲き、翌年退職しました。➡町奉行
オチがある上方演出
民話の「児裁判」の筋と「一休頓智話」を合わせた中身。
幕末に大坂の三代目笑福亭松鶴(武田龜太郎、1845-1909)が創作したものです。
そのオチは
「あんたが佐々木さんでお父さんが綱五郎、あたくしが四郎吉、これで佐々木四郎高綱」
「それは余の先祖じゃ。そちも源氏か」
「いいえ、平気(=平家)でおます」
わけのわからないダジャレオチとなりますが、子供が出世したかどうかについてはふつう触れられずに終わります。
東京では円生十八番
三代目三遊亭円馬(橋本の円馬、1882-1945)が、おそらく大正初期に東京に紹介・移植しました。
円馬は、大阪で長く活躍し、八代目文楽(並河益義、1892-1971)の芸の師でもある人です。
この噺を円馬は、史実通りに、佐々木を江戸南町奉行として演じました。
円馬の演出を踏襲した六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が十八番としました。
今回のあらすじも円生のものを底本にしました。
ただし、時代が嘉永年間というのは誤りで、「落語のウソ」です。
後輩の円生から移してもらい、これも得意にしていた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は「池田大助」の題で演じ、四郎吉が後に大岡越前守の懐刀・池田大助となるという設定でした。
これだと当然、時代は150年近く遡ることになります。
この噺は子供の描写が命です。
へたくそが演じるとまるで与太郎と区別がつかなくなるため、やはり相当の年季と修練が必要な大真打の噺でしょうね。
竹川町
たけかわちょう。東京都中央区銀座七丁目、ちょうど中央通りをはさんでヤマハビルの真向かいになります。
寛永の切絵図にも載っている「古町」で、江戸では由緒ある町でした。
地名の由来は、その昔、竹を売る店があったことから竹屋町とつけられ、その後、竹川町になったとか。
朱座が置かれました。
朱や朱墨を扱う業者の座(同業組合)です。
朱とは、顔などに塗る顔料ながら、有毒性のものです。伊勢の丹生で取れました。
全国に「丹生」のつく地名や神社は、朱となにかしらかかわりを持ちます。
竹川町には、ほかには、焼き接ぎ、菓子、蒲焼き、寿司などのなりわいも軒を連ねていました。