馬のす うまのす 演目

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意外に珍しい、釣りの噺。オチがうまく機能しているのかが不明です。 

別題:馬の尾(上方)

【あらすじ】

釣好きの男。

今日も女房に文句を言われながら、こればかりは止められないと、ウキウキして出かけていく。

釣場に着くと、さっそく道具の点検。

オモリよし、浮きよし、ところが肝心のテグスがダメになっている。

出先で替えはない。

困っていると、馬方が馬を引いて通りかかる。

そこで馬がどうしても言うことを聞かず、前に進まなくなったので、しかたなく木につないで、男に「ちょっとの間お願い申します」と見張りを押しつけると、そのまま行ってしまった。

「ああ、ダメだよ。おい、そんなところに……あああ、行っちまいやがった」

舌打ちしたが、何の気なしに馬の尻尾を見て、はたと手を打つ。

こいつは使えそうだと引っ張ると、なかなか丈夫そう。

三本、釣糸代わりにちょうだいしたところへ、友達の勝ちゃん。

馬の尻尾を抜いたと聞くと、いやに深刻な顔をして
「おまえ、えれえことをした。馬の尻尾を抜いたらどういうことになるか知らないな」
と思わせぶりに言う。

不安になって、教えてくれと頼んでも
「オレだってタダ習ったんじゃねえんだから、親しき中にもなんとやらで、酒でも一杯ごちそうしてくれれば教えてやる」
と条件をつける。

酒はないと言っても、今朝、かみさんがよそからもらった極上の一升瓶をぶらさげているのを見られている。

知りたさと不安はつのるばかりなので、しかたなく承知して、勝公を家に連れていく。

腰を据えた勝公、酒はのみ放題、枝豆は食い放題。

じれた相棒がせっついても、話をそらしていっこうに教えようとしない。

そればかりか、オレも同じように馬の尻尾の毛を抜いてると、年配の人に、これこれこういう祟りがあると聞いて、恐ろしさに震え上がっただの、気を持たせるだけ持たせ、ついに酒も枝豆もきれいに空にしてしまった。

「ごちそうさん。さあ、馬の尻尾のわけ、教えてやろう」
「どうなるんだい」
「馬の尻尾……抜くとね」
「うん」
「馬が」
「馬が」
「痛がるんだよ」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ふしぎな怖さを覚える噺

どこがどうということもない、たわいないといえばたわいない噺なのですが、オチの「痛がるんだよ」を聴いてしまった後も、なんとはなしに、これで終わりではないのではないか、まだ、とてつもなく恐ろしいなにかが隠されているのではと、薄気味悪さ、不気味さがぬぐいきれません。みなさんはいかがでしょうか。

相手がなにも言わないから、よけい不安がつのります。たぶん、脅かす常套手段でしょうが、そうでないかもしれません。

馬のすは本来、白馬の尾をいい、この噺の馬も、当然そうでしょうが、実を言うと、飯島友治は、日本人は古来、白い動物に神秘性や呪力を感じていて、それを恐怖し畏怖する本能が受け継がれている、という説を述べています。この噺の「えれえことをした」ということばも、その恐怖の象徴というのです。さて、どうでしょうか。

八代目文楽の「逃げ噺」

れっきとした東京の噺家ながら長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬の直伝で、八代目桂文楽が得意にしていました。

とはいっても、これは、大ネタの十八番と違って、夏場の、客が「セコ」なときなどに短く一席やってお茶をにごす、いわゆる「逃げ噺」です。

六代目円生の「四宿の屁」などもそうですが、大看板は必ずこうした「逃げ噺」を持っています。文楽も、ある夏はトリ(=主任、興行の責任者)の席以外は毎日「馬のす」で通したこともあったといいます。

文楽の写実芸

この噺、もともとは上方ダネですが、小品といえども、後半の枝豆を食べる仕種に、伝説的な「明烏」の甘納豆を食べる場面同様、文楽一流の巧緻な写実芸が発揮されていました。

短い噺で、本来は小ばなしとしてマクラに振られるに過ぎなかったのを、前述の円馬が独立した一席に仕立て、文楽がそれを受け継いで、それなりに磨きをかけたものです。

文楽も「大仏餅」のような大物人情噺をじっくり演じる時間があるときには、そのマクラに「馬のす」を添えることがありました。

馬のすとは

「馬尾毛」とも書き、一説には、群馬県多野郡の万馬というところの方言ともいいます。先に紹介の通り、白馬の尾で、上方では味噌こし網に用いました。

テグスとはテングス?

天蚕糸と書き、絹製の釣り糸で、テグス蚕の幼虫から取り出すので、この名があります。

釣りの出てくる噺はほかに、「野ざらし」「おしの釣り」「釣り指南」があり、そのほか、「船徳」「あたま山」にも釣り竿や釣り師が登場しますが、あまり多くありません。これは、江戸も幕末になるまでは、釣りは主に武士のたしなみで、庶民の娯楽としては、いまひとつ浸透していなかったためかもしれません。

唖の釣り おしのつり 演目

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これもう聴けない噺です。物語の底力に魅力あるのでこちらで笑ってください。

【あらすじ】

ばかの与太郎に、釣りをする奴はばかと言われた七兵衛、思わずむっとして、殺生禁断の不忍池で鯉を密猟し、売りさばいてもうけていることをばらしてしまう。

弱みを握られ、その夜、与太郎を連れて「仕事」に行く羽目に。

そこで七兵衛、
「見張りの役人に見つかったら、どうせ4発はぶたれるから、出る涙を利用し『長の患いの両親に、精のつく鯉を食べさせたいが金がなく、悪いこととは知りながら孝行のため釣りました。親の喜ぶ顔さえ見れば名乗って出るつもりでした』と泣き落とせば、孝行奨励はお上の方針、見逃してくれる」
と知恵をつける。

ところが与太郎、あまりに簡単に釣れたので大はしゃぎ。

案の定、捕まって10発も余計にぶたれたが、教えられた泣き落としがなんとか効き、お目こぼしでほうほうの体で逃げていく。

一方、七兵衛、池の反対側でせっかくこっそり釣っていたのに、与太郎のとばっちりで見つかり、これまたポカポカポカ。

恐怖と痛さで腰が抜け、ついでにあごも外れてしまう。

とっさにこれを利用して、アーウーアーウーと身振り手振りを交えて大熱演。

役人、
「口がきけない奴ではしかたがない」
と、これまためでたく釈放。

許してつかわすと言われて思わず
「ありがたいッ」

【しりたい】

これも上方発祥

口の不自由な者が最後に口を利くというオチの部分の原話はかなり古く、京都辻ばなしの祖とされる初代露の五郎兵衛が元禄11年(1698)に刊行した『露新軽口ばなし』中の笑話「又言ひさうなもの」です。

上方落語「唖の魚釣り」として細部が整えられ、東京には八代目林家正蔵が、大阪の二代目桂三木助に教わったものを移しました。

舞台は大阪では天王寺の池、東京の正蔵では寛永寺の池と言い、普通は具体的には言わないもののようです。

正蔵は大阪で甚兵衛といっている主人公の名を七兵衛と変えましたが、これは身振り手振りで名前が出やすいようにという配慮の由です。

殺生禁断

江戸時代、寺社の池はどこも仏教の殺生戒により、殺生禁断が寺社奉行より申し渡されていましたが、上野の近辺は寛永寺の将軍家御霊屋があるため、不忍池では禁忌が特に厳しく徹底されていたわけです。

下手をすれば密漁人は死罪に処さなければならないので、番人もなるべく未遂で済まそうと警戒怠りなかったのでしょう。

蛇足ですが、松竹新喜劇の人気演目『浪花の鯉の物語』(平戸敬二作)は、やはり狩猟禁止の大坂・厳島神社の鯉の密漁騒動をめぐる人情喜劇で、あるいは落語になんらかのヒントを得ているのかも知れません。

オチが同じ「ひねりや」

正蔵も芸談で触れていますが、今はもうやり手のいない、古い江戸落語「ひねりや」はオチが「唖の釣」と同じで、明治33年(1900)の初代三遊亭円左の速記が残ります。

あらすじは、町内一のひねり屋(=変わり者、あまのじゃく)・捻(ひねり)屋素根右衛門が、沢庵石に注連縄を張って拝んだ結果、素根吉という男の子を授かります。この子が成長するとひきこもりになり、本ばかり読んでいるので、親父が「明烏」よろしく、道楽をしないと勘当だと脅すので、渋々大八車で吉原へ。

これが親父まさりのひねくれで、さんざん妙なものを注文したあげく、目が三つあるような変わった花魁を出してくれたら、ご祝儀に二十両、花魁には百両はずむと言い出したので、欲にかられた帳場では目は不自由ながら耳は聞こえるという女郎を「急造」して座敷に出します。

にわか花魁、百両欲しさに目をむいて身振り手振りで大奮闘。ムームー言っているうち、女の名前を「権兵衛」と聞き違えた素根吉若だんな、喜んで百両出すと、女は感激のあまり「ああら、ちょいと、ありがとう」「おや、口をきいた」。

すたれさせるにはもったいないエスプリの利いた噺ですが、時代の趨勢、「唖の釣り」同様まったく演じられません。しかたありません。

野ざらし のざらし 演目

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釣り帰り、川べりに髑髏。手向けの酒を。その夜お礼参りの幽霊としっぽりと。

【あらすじ】

頃は明治の初め。

長屋が根継(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくて情婦のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島からの釣りの帰り、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかに葦が風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向けの回向をしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それを真似て『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨の上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんな所に死骸をさらし、迷っていましたところ、今日はからずもあなたのご回向で浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音は陰にこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

これを聞いていたのが、悪幇間の新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間(たいこ)でゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

【しりたい】

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国・明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛が登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『十八史略』中の「鴻門(こうもん)の会」で名高い英雄・樊會(はんかい)が現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた臭気ただようオチです。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若旦那が木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。これがまた、尻を提供するというので、「ああ、それで釜割りにきたか」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものですが、どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」をまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻が疼くような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林家正蔵(生没年不詳)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。

ところが、明治になって、それをまたひっくり返したのが、爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊です。

円遊は「手向けの酒」の題で演じ、男色の部分は消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から戦後にかけては、明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好、端正な語り口の八代目春風亭柳枝が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)まで演らず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。今はほとんどこのやり方です。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間(たいこ)と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。