いちすけざけ【市助酒】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

まじめで酒好きの市助は番小屋づとめ。ねぎらいの酒をのんで寝てしまった……。

寒い夜は熱燗をぐうーっと、という気持ちにさせてくれるかんじの噺です。

あらすじ

親父の跡を継ぎ、町内の番小屋で火の番兼走り使いをしている市助という男。

まじめな男だが、酒好きなのが玉に瑕。

ある夜も酔っぱらって火の用心とでかい声を張り上げ、夜回りに歩いていると、質屋の伊勢屋の店から灯が漏れているので、戸をドンドンたたき
「火の用心、ええ火の用心、火の用心」
と、しつこく叫んで、番頭の藤兵衛に追い払われる。

だんなはこれを聞くと、
「飲んべえでも、ちゃんと役目を果たしているのだし、本来なら町内の各表店で火の番に人を出さなければならないお定めなのを、市助を雇ってやらせている、寒い夜の見回りで、酒でものまなければわずらってしまう稼業なのだから、もっとねぎらってやらなければいけない」
と、さとす。

藤兵衛は反省して、
「明日の晩、市助が来たら酒をおごってやろう」
と待っていたが、どういうわけかなかなか現れない。

市助の方でも、伊勢屋をしくじったと思ったから、なるべく店の前を避けて回っていたが、とうとう見つかった。

藤兵衛はさっそく店に呼び入れて、恐縮するのを無理にのませると、酒が回ってだんだん気が大きくなった市助、
「番頭さんは実に親切でいい方だ。お店の台所まで指図して火の用心を心掛けなさるし、犬にまで情け深く、煙管も銀のいいのをお使いだ」
とおべんちゃらを並べたあげく、
「もう一杯、もう一杯」
とねだって、かれこれ五合。

すっかりいい機嫌で帰る。

番小屋に戻るとそのまま寝てしまったが、見回りの時刻だと若い衆にたたき起こされ、寝ぼけ眼で酔いも醒めないまま、また回り始めた。

藤兵衛が見つけて、
「あの後、またどこかで飲りやがったのだろう、また戸をたたかれて、小言の種をまかないうち、こっちからあいさつしてやろう」

「市助さん、あー、ご苦労。あたしのとこはしっかり気をつけてるよ」
「なあに、お宅は焼けたって、ようございます」

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しりたい

原話

原話は元禄14年(1701)刊の上方笑話本『百登瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「番太郎」、安永2年(1773)刊の『再成餅ふたたびもち』」中の「火の用心」。

原話二話のうち、後者はごく短いもので、番太郎が裏長屋を火の番で回っているとき、ある家から呼びいれられる筋で、オチも同じですが、ごちそうになるのは、貧乏長屋らしく、ねぎ雑炊二杯と、ごくわびしいものです。

上方落語の大ネタ「下役酒」として発展した噺を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。

番小屋

隣町との境の四つ辻に町木戸があり、その開閉と不審者の通報、火事の際の半鐘打ちなどに任じる木戸番(番太郎)の住む木戸番屋、町費で雇う書役(町役)の詰める自身番屋がありました。

前者は普通荒物屋や駄菓子屋を営み、後者には、地借りで表通りに店を出す商人が順番に宿直(店番)しましたが、主人の代理で番頭や手代などが詰めることが多かったとか。

火の用心の見回りは、本来は店番の仕事ですが、この噺では、これを非公式にあぶれ者の市助を雇い、使い走りをやらせているわけです。

火の番は「二番煎じ」にも登場しますが、木戸が閉まる四ツ過ぎ(午後10時頃)から明け六ツ(午前5時頃)まで、一晩中、特にこの噺の伊勢屋のような大店には一軒一軒回って「火の用心さっしゃりましょう」と呼びかけます。

噺の発端では、伊勢屋から深夜になっても明かりが漏れているので、市助が不用心だと気を回したわけです。

その他、半鐘が鳴った場合は、火の番は太鼓を叩いて火元の方角を触れてまわる義務がありました。

やはり「本家」は大阪

現在、東京ではあまり演じられません。

上方では比較的ポピュラーで、自身酒のみで、「一人酒盛り」など酒の噺を得意としていた六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が得意としていました。

オチは、東京のものは、前に番頭に怒鳴られたので気を使うあまり、おべんちゃらで「お宅は言わなくてもちゃんとしておられますから」というところを言葉の上で失敗したとされます。

やや唐突過ぎて、シャレになりません。

上方の方は「滅相な、ご当家ではどうでも大事ございません」とオチています。

こちらの方がまだ自然ですが、その分、平凡になります。

「大事ございません」だけならまともで、「どうでも」をつけたからあらぬ意味にとられるというわけです。

こうした言葉の機微を感じとれなければ、かえって、なんのことかわからなくなるでしょうね。

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ゆめのさけ【夢の酒】演目

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【どんな?】

酒を燗して飲もうとするけれど、夢がさめて……。

桂文楽が昭和10年頃に磨き上げた、珠玉の噺。

【あらすじ】

大黒屋の若だんなが夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若だんなが向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若だんながいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。

聞きつけたおやじが
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

おやじがあきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場でおやじは寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋のだんながお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若だんなが『おやじは三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」

【しりたい】

改作の改作の改作  【RIZAP COOK】

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを初代(鼻の)三遊亭円遊が現行のオチに直し、「隅田の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代え、より笑いを多くしたものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さんの、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」  【RIZAP COOK】

もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。

オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。どちらもオチは現行通りのものです。

夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」  【RIZAP COOK】

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりませんが、夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

「橋場の雪」のあらすじ  【RIZAP COOK】

少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若だんなが雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。

結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。

夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若旦那はまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。

三代目小さんは、主人公を旦那で演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」  【RIZAP COOK】

原話、作者は不明です。「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若だんなの善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。

ところが薬が効きすぎ、若だんなはたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。

世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。

落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。

ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若だんなのもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に、というハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生が、ノーカットでしっとりと演じました。

淡島さまと淡島信仰  【RIZAP COOK】

淡島さまの総本社は和歌山市加太の淡嶋神社です。ご神体は、少彦名命すくなひこなのみこと大己貴命おほなむじのみこと息長足姫命おきながたらしひめのみことです。

大己貴命は大国主命と同じとされています。

少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。

息長足姫命は神功皇后のことです。仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説で、明治期から昭和戦前期までは日本人の誰もが知っている人でした。後の応神天皇をおなかに抱えたまま船で韓半島に向かった勇ましい人です。

このように見ると、淡嶋神社は出雲系なのでしょう。しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。

江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺しんげんじ(世田谷区代沢三丁目)が有名でした。ともに、境内に淡島堂が建っています。

江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。

浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。これを淡島堂と呼んでいます。

森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。

それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。

明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。

噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。

淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。

淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。

たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。艶福家の渋沢栄一もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。

この町内にも淡島さまがありました。今はありませんが、明治期には清正公寺(日蓮宗)の境内にしっかりあったといいます。

水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。

淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。

和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。

おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。

街でぼろをまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸のなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。

『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。

「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。

これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命。でも、ものすごい潜在能力をもっていたこの神さまのイメージを重ねたのでしょう。見た目では侮れない存在として。

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