鹿政談 しかせいだん 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

落協を出て間もない円生が1978年11月、早大でやったのを聴いたことあります。

【あらすじ】

奈良、春日大社の神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文の罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛という男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口で何やら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから=卯の花)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばった奴をピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿。

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代(代官)の塚原出雲の屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全の連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

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【うんちく】

上方落語を東京に移植

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目柳家(禽語楼)小さんが、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

東京では戦後、六代目三遊亭円生が得意にしたほか、主に音曲師として鳴らした七代目橘家円太郎(1902-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌、六代目春風亭柳橋も手掛け、もともとの本場上方では、戦後は桂米朝の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。

オチは、普通東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守

根岸肥前守鎮衛(1737-1815)は、優れた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢』の著者として、あまりにも有名。

最近では、風野真知雄作「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはすっかりおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

落語では、ほかに「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当である、奈良興福寺の私法。

ただし、石子詰めは、江戸時代には実際には行われていません。

幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置いていましたが、歴代奉行が、興福寺と事を構えるのを嫌い、この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

春日神社の鹿の数と、燈籠の数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

根岸肥前守の子孫

幕末に、根岸鎮衛の子孫と思われる、根岸衛奮という人物がいて、この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの三年間、奈良奉行を勤めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。

【語の読みと注】
耳嚢 みみぶくろ

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甲府い こうふい 演目

【RIZAP COOK】

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奇妙なタイトルです。日蓮宗がらみの噺ですね。

【あらすじ】

甲府育ちの善吉。

早くから両親をなくし、伯父夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山に断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺の境内で巾着をすられ、無一文に。

腹を減らして市中をさまよったが、これではいけないと葭町 よしちょう)の千束屋 ちづかや)という口入れ屋を目指すうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆が袋だたきにしようというのを、主人が止め、事情をきいてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々法華宗、
「これもお祖師さまの引き合わせだ」
と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金は出ないが、商高の応じて歩合が取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向なく懸命に
「豆腐ィ、胡麻入り、がんもどき」
と売って歩いた。

愛想がよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、放っておくと虫がつくから、早く婿を取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し
「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪ざっぽ持ってこい」
と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分風情がと遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付き地主。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所へは一度も帰っていないので、
「両親の十三回忌と身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」
と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度してやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若だんな、どちらへお出かけで?」
と聞かれて善吉が振り向き
「甲府 豆腐)ィ」
と言えば、お孝が
「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前人情噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治の速記が残ります。大筋は現行とほとんど変わりません。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、戦後は、八代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

「鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。流罪を許されて身延に隠棲した日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井(はきい)氏から寄進を受けて開基したものです。日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝(1422-1500)が現在の山梨県南巨摩郡身延町に移してますます発展させました。日蓮宗の本拠としては、江戸の池上本門寺があるので、江戸の門徒は通常、ここに参詣すればよいとされました。日蓮の終焉の地です。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増し始めたのは、宝永年間(1704-11)とか。宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録があります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語に頻繁に登場する「大家」は差配ともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人間です。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多く、その場合、地主と大家を兼ねていることになります。こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋で、通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁や鳶頭など、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵(1888-1945)は『落語通談』に記しています。「斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った」と。

この「古老扇橋」は声色(声帯模写)の名人としても知られた八代目入船亭扇橋(1865-1944)でしょう。改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりませんが、同書によれば、筋は大同小異。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、舅夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房に任せてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居になった「模範落語」

『落語通談』によると、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、戦時中、報国紙芝居になったとか。いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局にとって「期待される人間像」の典型であったかわかろうというものです。でも、泣かせます。

無名庵は当時の政府の片棒をかついで昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度の人。「何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった」。つまりは、そういう噺です。

【語の読みと注】
巾着 きんちゃく
葭町 よしちょう
千束屋 ちづかや
口入れ屋 くちいれや
居付き地主 いつきじぬし

【RIZAP COOK】

小言幸兵衛 こごとこうべえ 演目

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ブンブンうるさいおじさん。こういうの、どこかに必ずいそうですね。

別題:搗屋幸兵衛 道行幸兵衛 借家借り(上方)

【あらすじ】

麻布古川町、大家の幸兵衛。

のべつまくなしに長屋を回って小言を言い歩いているので、あだ名が「小言幸兵衛」。

しまいには猫にまで、寝てばかりいないで鼠でもとれと説教しだす始末。

そこへ店を借りにきた男。商売は豆腐屋。

子供はいるかと聞いてみると、餓鬼なんてものは汚いから、おかげさまでそんなのは一匹もいないと、胸を張って言うので、さあ幸兵衛は納まらない。

「とんでもねえ野郎だ、子は子宝というぐらいで、そんなことをじまんする奴に店は貸せない。子供ができないのはかみさんの畑が悪いんだろうから、そんな女とはすっぱり別れて、独り身になって引っ越してこい。オレがもっといいのを世話してやる」
と、余計なことを言ったものだから、豆腐屋はカンカンに怒り、毒づいて帰ってしまう。

次に来たのは仕立て屋。

物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えたが、二十歳になるせがれがいると聞いて、にわかに雲行きが怪しくなる。

町内の人に鳶が鷹を生んだと言われるほどのいい男だと聞いて、幸兵衛、
「店は貸せねえ」

「なぜといいねえ、この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘がお花。今年十九で、麻布小町と評判の器量良し。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がり込んで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身、たちまち腹がポンポコリンのボテレンになる。隠してはおけないから涙ながらに白状するが、一人息子に一人娘。婿にもやれなければ嫁にもやれない。親の板挟みで、極楽の蓮の台で添いましょうと、雨蛙のようなことを言って心中になる」

(ここで芝居がかりになり)「本舞台七三でにやけた白塗りのおまえのせがれが『……七つの金を六つ聞いて、残る一つは未来に土産。覚悟はよいか』『うれしゅうござんす』『南無阿弥陀仏』……おい、おまえの宗旨は? 法華だ? 古着屋は真言だから、『ナムミョウホウレンゲッキョ』『オンガボキャベエロシャノ』。これじゃ、心中にならない。てえそうな騒動を巻き起こしゃあがって、店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛び込んできたのは、えらく威勢のいい男。

「やい、家主の幸兵衛ってのはてめえか。あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思え。店賃なんぞ高えことォ抜かしゃがるとただおかねえぞ」
「いや、乱暴な人だ。おまえさんの商売は?」
「鉄砲鍛冶よ」
「なるほど、それでポンポンいい通しだ」

底本:二代目古今亭今輔、六代目三遊亭円生

【しりたい】

切り離された前半

これももともと上方落語ですが、本来は、豆腐屋の前に搗米(つきごめ)屋が長屋を借りにきて、「仏壇の先妻の位牌が毎日後ろ向きになっているので、後妻が、亡霊に祟られているのではないかと気にしてやがて病気になり、死んでしまった。跡でその原因が、搗米屋が夜明けにドンドンと米をつくためだとわかった。してみりゃあ同業のてめえも仇の片割れだ。覚悟しゃあがれ」と、幸兵衛に因果話で脅かされて、ほうほうの体で逃げ出すくだりがあり、そこから「搗屋幸兵衛」の別題があります。

ただし、現在では、この前半は別話として切り離して演じられるのが普通です。

搗米屋または搗屋は、今で言う精米業者のこと。精白されていない米を力を込めて杵で搗きつぶすので、その振動で位牌が裏向きになったというわけです。

原話に近い上方演出

正徳2年(1712)に江戸で刊行された『新話笑眉』中の「こまったあいさつ」が原話ですが、上方落語「借家借り」の古いやり方はこれに近く、最初に搗米屋、次に井戸掘りが借りに来て、それぞれ騒音と振動の原因になりやすいので断られることになります。

ここでは因果話がなく、「出来合いの井戸を(長屋の庭に)掘るのかと思った」というオチも今ではわかりにくく、おもしろさにも欠けるためか、現在では東西とも仕立て屋、鉄砲鍛冶を出すことが多くなっています。

麻布古川町

あざぶふるかわちょう。芝あたり。新堀川(古川、金杉川)北岸低地の年貢町屋。江戸時代の当初は麻布本村(ほんむら)の中に属していたのですが、元禄11年(1698)に白金(しろかね)御殿御用地になり、代地として三田村(古川右岸)の古川あたりを与えられました。これがその名の由来です。港区南麻布1丁目。

正徳3年(1698)に町方支配となりましたが、町奉行と代官の両者の支配を受けていました。江戸の内とはいえなかったようです。鷹場があったため、年貢やその他の諸役を勤める町でした。

家数2
地主9
店借7

これだけ。小さかった。この噺の設定にはもってこいだったようです。

古川右岸は三田古川町といいました。だから、古川町は麻布と三田にあったことになります。

古川(新堀川、金杉川)という、芝の将監橋から引かれた掘割の左岸(のち河川改修のため右岸)に広がった町なのでこの名があります。将監橋については、項目を立てさらに記しました。お読みください。

麻布十番もこの付近で、十番の由来は、前記の将監橋から麻布一の橋まで古川沿岸の工事区を十区に分けた終点、十番目にあたるところから、という説もあるのですが、こちらも諸説ごろごろ。

総じて、江戸時代を通して、麻布あたりはほとんどが武家屋敷と寺社地で、町屋はその合間を縫って細々と点在していたに過ぎません。現在の繁栄ぶりが信じられないような、狸やむじなが出没する寂しい土地だったようです。

家主

いえぬし。大坂では「家主」、江戸では「大家」または「差配」。普通は地主に雇われた家作(長屋を含む借家)の管理人ですが、町役を兼ねていたので、絶大な権限を持っていました。

万一の場合、店子の連帯責任を負わされますから、その選択に神経質になるのは当たり前で、幸兵衛の猜疑心は、異常でもなんでもなかったわけです。

幸兵衛が、最初の賃貸希望者の豆腐屋に「近所にはないからちょうどいい」と言うくだりもあり、町内の職業分布にも気を配って「合格者」を決定していたことがよくわかります。

江戸では実際、トラブルを避ける意味もあって、小売商は一町内に一職種しか認められませんでした。ラーメン屋の隣がラーメン屋、またその向かいがラーメン屋などという、商道徳が地に堕ちた現代とはえらい違いです。

将監橋

江戸には、「将監橋」という名の橋が二つありました。

芝の将監橋   金杉川に架かっていました。
日本橋の将監橋 紅葉川に架かっていました。

芝の将監橋は、川さらいを受け持つ、幕府の川浚奉行だった岡田将監の功労を後世に伝える主旨で名づけられたのだそうです (続江戸砂子) 。

岡田将監という人は、治水、土木工事の達人だったのですね。

日本橋の将監橋は、海賊衆といわれ、水主同心を担当し幕府御用船の保管と運航を担当していた、船手頭の向井将監の屋敷が隣接していたことにちなんでいます。向井正綱が仇敵徳川家康の家臣となり、幕府の水軍と水運の親玉となって、十一代にわたり「将監」を世襲しました。

そこらへんのところは隆慶一郎の『見知らぬ海へ』に描かれています。この当時の「海賊」ということばは、海の専門家、くらいの意味です。

将監というのは、近衛府(天皇の警護にあたる役所)の三番目の役職名です。かみ、すけ、じょう、さかん。これが四等官ですから、「じょう」にあたる職名が将監ということです。

あんまり偉くないですが、江戸時代にはもう、そんなことはどうでもよくなっていました。そのあらましは以下の通りです。

官職について

官職とは、公的な役所で働く人が与えられる役職名です。平安時代まではまともで、朝廷がそれなりの人に与えていました。ところが、鎌倉時代になると、儀式や法会の資金欲しさに、朝廷は官職名を売り出すようになりました。

天皇に直結する朝廷は日本の最高ブランド。これを利用して人々の名誉欲を金で釣ったわけです。欲しがって釣られた人々は武士です。御家人を任官させたり、名国司(実体のない国司の名称)に補任させたり。武士の間では官名を称するのが普通になってきました。

これに拍車をかけたのが、朝廷を丸ごとのみこむ争乱、南北朝時代(1338-1392)の争いです。日本全国の武士が北朝か南朝かに別れて争った時代。彼らは戦うための支柱となる朝廷の後ろ盾を必要としました。

そこで、北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らが、配下となった主なる武士に「官途書出」といって叙位任官を朝廷に取り次いで与えるという慣習を乱発しました。朝廷が二つあったわけですから、官位官職の数も二倍以上。大安売りです。

南北朝の争乱は、六十余年に及びましたから、その後も由々しき慣習は消えず、武家政権が続く間、つまり明治にいたるまで横行していったわけです。

とりわけ、戦国時代という無政府状態にあっては、守護大名が家臣などに官途状を出して国司名(受領名)を与えていました。

それどころか、その官名のを勝手に名乗ること(私称)を許すケースが多く登場してきました。これは朝廷のあずかり知らない僭称です。公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりしていたようです。

太郎、次郎などの輩行名と左衛門、兵衛などの官職名を組み合わせた名を与える、「仮名書出」という慣習も登場して、とどまるところを知りませんでした。

先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れました。向井将監は代々「将監」を名乗っていました。だからこそ、向井といえば将監、将監橋が命名される由縁となるのです。

こうなると、朝廷はまったく関知せず、武士が官名を勝手につける「自官」という慣習が定着していきました。ブランド壟断。むちゃくちゃです。

百官名

ひゃっかんな。家系や親の持つ官職を名乗ることをいいます。

百官名が受領名と違うのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点です。てきとうなんですね。

戦国時代からは、武士の間で官名を略して、「大膳」「修理」など役所の名だけを名乗る人や、「将監」「将曹」など官職の等級だけを名乗る人などの風習が広がりました。

そうなると、百官名というのはもう、官位官職ではなく、ただの名前でしかありませんね。

百官名を名乗る場合は、官職と同じく、
名字+百官名+諱(名前)
という方式が、一般的です。

向井将監忠勝、吉良上野介義央、といったかんじです。ただ、われわれは、「吉良上野介」と呼んでいて、「義央(よしなか)」という本当の名前はすでに忘れていますね。まあ、向井将監も同じです。正綱だろうが、忠勝だろうが、向井の家は将監。向井将監は海賊衆だ、という認識です。

ちなみに、上野介。

これは、「親王任国」といって、上野国、常陸国、上総国だけは、国司の長官(かみ、守)は親王が任命されるので、臣下の最高位は次官(すけ、介)となる慣習でした。だって、親王自身は京都にいるわけで、実際に任地に赴くのは「介」以下、ということになるのです。9世紀、平安時代の初めの頃からの慣習です。奈良時代には臣下の上野守が代々出ています。

そんなわけで、実質的には、他国の「守」と同じ位置にあるのが「上野介」「常陸介」「上総介」となります。ややこしいですが。

話はここから。

吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られました。その前には、本多正純。この人も、上野介を名乗っていましたが、宇都宮釣り天井事件であえない最期。

江戸時代には、百官名で「上野介」をいただくのを、みなさん避けていました。不幸な死に方したくないから。

もう一人。小栗上野介忠順(ただまさ)。

幕末の能吏は、最初は豊後守だったのですが、阿部正外(まさとう)が豊後守だったため、はばかって百官名を変えようとしたようでして、とうぜん、空きのあった上野介を名乗ったとのこと。阿部は後に老中となり人で、小栗とは格が違っていました。小栗はそういうことには無頓着の人だったようです。その結果が斬首に。悲劇です。ま、そんなことが、佐藤雅美の『覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―』(岩波書店、2007年)にたしか載っていましたっけ。

三つの先例があるのなら、上野介は忌み名と呼ばれてもおかしくはありませんね。

東百官

あずまひゃっかん。これはなにか。関東地方、東国で行われていた慣習です。京都から遠く離れていたため、お侍のみなさんはけっこう好き勝手にやっていたわけなんですね。百官名もどきです。

「頼母(たのも)」「平馬(へいま)」「一学」「左膳」「久米(くめ)」「求馬(もとめ)」「靱負(ゆきえ)」「右門(うもん)」といった、官職に似せた名、つまり、擬似官名とでもいうものが東国では広く流布していました。

もう、ここまでくれば、お武家の勝手し放題、なんでもあり、ですね。

東百官は「相馬百官」とも呼んでいたそうですから、これは、平将門が新皇に就いたときに始まったものなのでしょう、きっと。それを思うと、関東独自のお家芸のようで、後世も大切にはぐくんでいきたいものです。

千早ふる ちはやふる 演目

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無学者もの。知ったかぶりの噺。苦し紛れのつじつまあわせ。あっぱれです。

【あらすじ】

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
「龍田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫の花魁道中に出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫に口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

【しりたい】

「ちはやふる……」

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、  龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、おもしろくもおかしくもないもの。隠居の解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さんの十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院」がつけられていました。

オチの異同

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町(ふきやちょう)にあった「元吉原」といわれる時代(寛永年間、1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

「陽成院」

陽成院の歌、「つくばねのみねより落つる男女(みな)の川恋ぞつもりてふちとなりぬる」の珍解釈。

京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。

男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」

見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持(ふち)をたまわったので、「声(=こい)ぞつもりてふち(扶持=淵)となりぬる」

しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

というわけです。