しかせいだん【鹿政談】落語演目

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【どんな?】

春日大社の鹿は神の使いなので、殺した者は死罪の掟。

正直者の豆腐屋、店のキラズを食べる鹿を犬と見間違えてぶんなぐった。

神鹿は死んでしまい、豆腐屋はお縄となり、裁きとなる。

名奉行、鹿の死骸を見て「角がない。これは犬か。一同どうじゃ」……。

江戸期には奈良にも奉行がいまして、胸がスカッとするお裁き噺。

【あらすじ】

奈良、春日大社かすがたいしゃの神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子いしこ詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文ごかんもんの罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺こうふくじ東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛しょうじきろくべえという男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口でなにやら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばったやつをピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿しんろく

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹ほうたん、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代もくだい(代官)の塚原出雲つかはらいづもの屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全りょうぜんの連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみの取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

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【しりたい】

上方落語を東京に移植    【RIZAP COOK】

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守まつのかわちのかみ」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

東京では戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしたほか、音曲に長けた七代目橘家円太郎(有馬寅之助、1901-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)も手がけ、もともとの本場上方では、戦後は三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。オチは普通、東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守    【RIZAP COOK】

根岸肥前守は根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)のこと。

名奉行ながらすぐれた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢みみぶくろ』の著者としても有名です。

最近では、風野真知雄かぜのまちお「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

根岸肥前守は「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿    【RIZAP COOK】

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当(統括)である興福寺の私法でした。

ただし、石子詰めは江戸時代には行われていません。

春日大社と興福寺は神仏習合でセットの宗教施設です。

しかも、藤原氏の氏社で氏寺。鹿島神宮も藤原氏の氏社でした。

江戸幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置いていました。

歴代奉行が、興福寺と事を構えるのを嫌いました。

この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

どうでもよい話ですが、春日神社の鹿の数と燈籠とうろうの数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

ちなみに、春日大社の鹿は、常陸国ひたちのくに(茨城県)一宮いちのみや鹿島神宮かしまじんぐうにいる鹿を連れてきたことが知られています。

8世紀、藤原氏が春日大社を創建する際、鹿島神宮を勧請かんじょう(分霊を迎える)し、神鹿も約1年かけて陸路、奈良まで運んだそうです。

途中、亡くなった鹿を葬った地が鹿骨ししぼね(東京都江戸川区)と名づけられたりもしました。

これも知られた話です。

鹿島神宮の不思議

鹿島神宮の神宮とは、天皇家とかかわりを持つ神社をさします。

律令の細則を定めた延喜式えんぎしき神名帳しんめいちょうに記された神社を「式内社しきないしゃ」と呼び、今でも高い地位にあります。

ここに記された神宮は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみです。

熱田神宮、橿原神宮、平安神宮、明治神宮などは後世のものです。

となると、鹿島神宮と香取神宮の存在意義は、辺地にありながら、がぜん重要視されてきそうですね。

なぜなのでしょう。

春日大社も興福寺も藤原氏の氏社氏寺でした。

春日大社が祀るのは建御雷神たけみかづちのかみで、鹿島神宮からの勧請です。

中臣なかとみ氏の氏神うじがみです。

中臣鎌足なかたみのかまたりが死の直前に天智てんじ天皇から藤原姓を賜っています。

奈良に鹿島の神鹿を連れてきたのは、そんなところとかかわりがありました。

すべての中臣氏が藤原氏になったのではなく、鎌足の系統だけでした。

中臣氏は忌部いんべ(斎部)氏と同じく、神事や祭祀を受け持った中央豪族です。

根岸肥前守の子孫    【RIZAP COOK】

幕末の時期ですが、根岸鎮衛ねぎしやすもりの曽孫に根岸衛奮ねぎしもりいさむ(1821-76)という人物がいました。

この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの3年間、奈良奉行を務めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。

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こごとこうべえ【小言幸兵衛】落語演目

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【どんな?】

麻布の長屋。小言を吐きまくってる大家がうるさくて。

ブンブンうるさいおじさん。こういうの、必ずいますよね。

別題:搗屋幸兵衛 道行き幸兵衛 借家借り(上方)

【あらすじ】

麻布古川町、大家の幸兵衛。

のべつまくなしに長屋を回って小言を言い歩いているので、あだ名が「小言幸兵衛」。

しまいには猫にまで、寝てばかりいないで鼠でもとれと説教しだす始末。

そこへ店を借りにきた男。商売は豆腐屋。

子供はいるかと聞いてみると、餓鬼なんてものは汚いから、おかげさまでそんなのは一匹もいないと、胸を張って言うので、さあ幸兵衛は納まらない。

「とんでもねえ野郎だ、子は子宝というぐらいで、そんなことをじまんする奴に店は貸せない。子供ができないのはかみさんの畑が悪いんだろうから、そんな女とはすっぱり別れて、独り身になって引っ越してこい。オレがもっといいのを世話してやる」
と、余計なことを言ったものだから、豆腐屋はカンカンに怒り、毒づいて帰ってしまう。

次に来たのは仕立て屋。

物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えたが、二十歳になるせがれがいると聞いて、にわかに雲行きが怪しくなる。

町内の人に鳶が鷹を生んだと言われるほどのいい男だと聞いて、幸兵衛、
「店は貸せねえ」

「なぜといいねえ、この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘がお花。今年十九で、麻布小町と評判の器量良し。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がり込んで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身、たちまち腹がポンポコリンのボテレンになる。隠してはおけないから涙ながらに白状するが、一人息子に一人娘。婿にもやれなければ嫁にもやれない。親の板挟みで、極楽の蓮の台で添いましょうと、雨蛙のようなことを言って心中になる」

(ここで芝居がかりになり)「本舞台七三でにやけた白塗りのおまえのせがれが『……七つの金を六つ聞いて、残る一つは未来に土産。覚悟はよいか』『うれしゅうござんす』『南無阿弥陀仏』……おい、おまえの宗旨は? 法華だ? 古着屋は真言だから、『ナムミョウホウレンゲッキョ』『オンガボキャベエロシャノ』。これじゃ、心中にならない。てえそうな騒動を巻き起こしゃあがって、店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛び込んできたのは、えらく威勢のいい男。

「やい、家主の幸兵衛ってのはてめえか。あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思え。店賃なんぞ高えことォ抜かしゃがるとただおかねえぞ」
「いや、乱暴な人だ。おまえさんの商売は?」
「鉄砲鍛冶よ」
「なるほど、それでポンポンいい通しだ」

底本:二代目古今亭今輔、六代目三遊亭円生

【しりたい】

切り離された前半

これももともと上方落語です。

本来は、豆腐屋の前に搗米つきごめ屋が長屋を借りにきて、「仏壇の先妻の位牌が毎日後ろ向きになっているので、後妻が、亡霊に祟られているのではないかと気にしてやがて病気になり、死んでしまった。跡でその原因が、搗米屋が夜明けにドンドンと米をつくためだとわかった。してみりゃあ同業のてめえも仇の片割れだ。覚悟しゃあがれ」と、幸兵衛に因果話で脅かされて、ほうほうの体で逃げ出すくだりがあり、そこから「搗屋幸兵衛」の別題があります。

現在では、この前半は別話として切り離して演じられるのが普通です。

搗米屋または搗屋は、今で言う精米業者のこと。

精白されていない米を力を込めて杵で搗きつぶすので、その振動で位牌が裏向きになったというわけです。

原話に近い上方演出

正徳2年(1712)に江戸で刊行された『新話笑眉』中の「こまったあいさつ」が原話です。

上方落語「借家借り」の古いやり方はこれに近く、最初に搗米屋、次に井戸掘りが借りに来て、それぞれ騒音と振動の原因になりやすいので断られることになります。

ここでは因果話がなく、「出来合いの井戸を(長屋の庭に)掘るのかと思った」というオチも今ではわかりにくく、おもしろさにも欠けるためか、現在では東西とも仕立て屋、鉄砲鍛冶を出すことが多くなっています。

麻布古川町

あざぶふるかわちょう。芝あたり。新堀川(古川、金杉川)北岸低地の年貢町屋。

江戸時代の当初は麻布本村あざぶほんむらの中に属していたのですが、元禄11年(1698)に白金しろかね御殿御用地になり、代地として三田村(古川右岸)の古川あたりを与えられました。

これがその名の由来です。港区南麻布1丁目。

正徳3年(1698)に町方支配となりましたが、町奉行と代官の両者の支配を受けていました。

江戸の内とはいえなかったようです。

鷹場があったため、年貢やその他の諸役を務める町でした。

家数2
地主9
店借7

これだけ。小さかった。この噺の設定にはもってこいだったようです。

古川右岸は三田古川町といいました。だから、古川町は麻布と三田にあったことになります。

古川(新堀川、金杉川)という、芝の将監橋から引かれた掘割ほりわりの左岸(のち河川改修のため右岸)に広がった町なのでこの名があります。

将監橋については、項目を立てさらに記しました。お読みください。

麻布十番もこの付近で、十番の由来は、前記の将監橋から麻布一の橋まで古川沿岸の工事区を十区に分けた終点、十番目にあたるところから、という説もあるのですが、こちらも諸説ごろごろ。

総じて、江戸時代を通して、麻布あたりはほとんどが武家屋敷と寺社地で、町屋はその合間を縫って細々と点在していたに過ぎません。

現在の繁栄ぶりが信じられないような、狸やむじなが出没する寂しい土地だったようです。

家主

いえぬし。上方では「家守やもり」、江戸では「大家おおや」「差配さはい」とも。

普通は地主に雇われた家作かさく(借家)の管理人です。

町役人ちょうやくにんを兼ねていたので、店子に対しては絶大な権限を持っていました。

ちなみに、上方では土地や家屋の所有者を「家主いえぬし」呼びます。江戸では「地主」。

家主 江戸☞貸家の管理人   
   上方☞貸家の所有者

ややこしいです。

万一の場合、店子の連帯責任を負わされます。

その選択に神経質になるのは当たり前で、幸兵衛の猜疑心は、異常でもなんでもなかったわけです。

幸兵衛が、最初の賃貸希望者の豆腐屋に「近所にはないからちょうどいい」と言うくだりもあります。

町内の職業分布にも気を配って、「合格者」を決定していたことがよくわかります。

江戸では実際、トラブルを避ける意味もあって、小売商は一町内に一職種しか認められませんでした。

ラーメン屋の隣がラーメン屋、またその向かいがラーメン屋などという、商道徳がズレた現代とはだいぶ違います。

将監橋

江戸には、「将監橋しょうげんばし」という名の橋が二つありました。

芝の将監橋   金杉川に架かっていました。
日本橋の将監橋 紅葉川に架かっていました。

芝の将監橋は、川さらいを受け持つ、幕府の川浚奉行だった岡田善同よしあつ善政よしまさ親子(ともに将監を名乗る)の功労を後世に伝える主旨で名づけられたのだそうです (続江戸砂子) 。

岡田将監は、治水、土木工事の達人だったのですね。

日本橋の将監橋は、海賊衆といわれ、水主同心かこどうしんを担当し幕府御用船の保管と運航を担当していた、船手頭ふなてがしらの向井将監の屋敷が隣接していたことにちなんでいます。

向井正綱が仇敵徳川家康の家臣となり、幕府の水軍と水運の親玉となって、十一代にわたり「将監」を世襲しました。

そこらへんのところは隆慶一郎の『見知らぬ海へ』に描かれています。この当時の「海賊」ということばは、海の専門家、くらいの意味です。

将監というのは、近衛府このえふ(天皇の警護にあたる役所)の三番目の役職名です。

かみ、すけ、じょう、さかん。これが四等官ですから、「じょう」にあたる職名が将監ということです。

あんまり偉くないですが、江戸時代にはもう、そんなことはどうでもよくなっていました。そのあらましは以下の通りです。

官職について

官職とは、公的な役所で働く人が与えられる役職名です。平安時代まではまともで、朝廷がそれなりの人に与えていました。

ところが、鎌倉時代になると、儀式や法会の資金欲しさに、朝廷は官職名を売り出すようになりました。

天皇に直結する朝廷は日本の最高ブランド。

これを利用して人々の名誉欲を金で釣ったわけです。欲しがって釣られた人々は武士です。

御家人を任官させたり、名国司みょうこくし(実体のない国司の名称)に補任させたり。

武士の間では官名を称するのが普通になってきました。

これに拍車をかけたのが、朝廷を丸ごとのみこむ争乱、南北朝時代(1338-92)の争いです。日本全国の武士が北朝か南朝かに別れて争った時代。

彼らは戦うための支柱となる朝廷の後ろ盾を必要としました。

そこで、北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らが、配下となった主なる武士に「官途書出かんどかきだし」といって叙位任官を朝廷に取り次いで与えるという慣習を乱発しました。

朝廷が二つあったわけですから、官位官職の数も二倍以上。大安売りです。

南北朝の争乱は、六十余年に及びましたから、その後も由々しき慣習は消えず、武家政権が続く間、つまり明治にいたるまで横行していったわけです。

とりわけ、戦国時代という無政府状態にあっては、守護大名が家臣などに官途状を出して国司名(受領名ずりょうめい)を与えていました。

それどころか、その官名のを勝手に名乗ること(私称)を許すケースが多く登場してきました。

これは朝廷のあずかり知らない僭称せんしょう(勝手に自称する)です。

公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりしていたようです。

太郎、次郎などの輩行名はいこうめい左衛門さえもん兵衛ひょうえなどの官職名を組み合わせた名を与える、「仮名書出けみょうかきだし」という慣習も登場して、とどまるところを知りませんでした。

先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れました。

向井将監は代々「将監」を名乗っていました。

だからこそ、向井といえば将監、将監橋が命名される由縁となるのです。

こうなると、朝廷はまったく関知せず、武士が官名を勝手につける「自官じかん」という慣習が定着していきました。ブランド壟断ろうだん。むちゃくちゃです。

百官名

ひゃっかんな。家系や親の持つ官職を名乗ることをいいます。

百官名が受領名と違うのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点です。

てきとうなんですね。

戦国時代からは、武士の間で官名を略して、「大膳だいぜん」「修理しゅり」など役所の名だけを名乗る人や、「将監しょうげん」「将曹しょうそう」など官職の等級だけを名乗る人などの風習が広がりました。

そうなると、百官名というのはもう、官位官職ではなく、ただの名前でしかありませんね。

百官名を名乗る場合は、官職と同じく。


名字+百官名+いみな(名前)


こういう方式が一般的です。

向井将監忠勝、吉良上野介義央、といったかんじです。

ただ、われわれは、「吉良上野介こうずけのすけ」と呼んでいて、「義央よしなか」という本当の名前はすでに忘れていますね。

まあ、向井将監も同じです。正綱だろうが、忠勝だろうが、向井の家は将監。向井将監は海賊衆だ、という認識です。

ちなみに、上野介。

これは、「親王任国しんのうにんこく」といって、上野国こうずけのくに(群馬県)、常陸国ひたちのくに(茨城県)、上総国かずさのくに(千葉県)だけは、国司の長官(かみ、守)は親王が任命されるので、臣下の最高位は次官(すけ、介)となる慣習でした。

だって、親王自身は京都にいるわけで、実際に任地に赴くのは「介」以下、ということになるのです。

9世紀、平安時代の初めの頃からの慣習です。奈良時代には臣下の上野守こうずけのかみが代々出ています。

そんなわけで、実質的には、他国の「守」と同じ位置にあるのが「上野介こうずけのすけ」「常陸介ひたちのすけ」「上総介かずさのすけ」となります。ややこしいですが。

話はここから。

吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られました。

その前には、本多正純ほんだまさずみ。この人も、上野介を名乗っていましたが、宇都宮釣り天井事件(1622年)であえない最期でした。

江戸時代には、百官名で「上野介」をいただくのを、みなさん避けていました。不幸な死に方したくないから。

もう一人。小栗上野介忠順ただまさ

この幕末の能吏は、最初は豊後守だったのですが、阿部正外まさとうが豊後守だったため、はばかって百官名を変えようとしたようでして、とうぜん、空きのあった上野介を名乗ったとのこと。

阿部は後に老中となる人で、小栗とは格が違っていました。

小栗はそういうことには無頓着の人だったようです。

その結果が斬首に。悲劇です。

ま、そんなことが、佐藤雅美の『覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―』(岩波書店、2007年)にたしか載っていましたっけ。

三つの先例があるのなら、上野介は忌み名と呼ばれてもおかしくはありませんね。

東百官

あずまひゃっかん。

これはなにか。

関東地方、東国で行われていた慣習です。京都から遠く離れていたため、お侍のみなさんはけっこう好き勝手にやっていたわけなんですね。百官名もどきです。

頼母たのも」「平馬へいま」「一学」「左膳」「久米くめ」「求馬もとめ」「靱負ゆきえ」「右門うもん」といった、官職に似せた名、つまり、擬似官名とでもいうものが東国では広く流布していました。

もう、ここまでくれば、お武家の勝手し放題、なんでもあり、ですね。

東百官は「相馬百官」とも呼んでいたそうですから、これは、平将門が新皇しんのうに就いたときに始まったものなのでしょう。

それを思うと、関東独自のお家芸のようで、後世も大切にはぐくんでいきたいものです。

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ちはやふる【千早ふる】落語演目

【どんな?】

無学者もの。知ったかぶりの噺。苦し紛れのつじつまあわせ。あっぱれです。

別題:百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早ふる」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、意味を知ればおもしろくもおかしくもない歌です。隠居の珍解釈の方がよほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早ふる」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。天皇の在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。