たちきり【立ち切り】落語演目

 

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【どんな?】

美代吉と新三郎の粋なしんねこ。

そこに嫌われ男が逆上して割り込んで。

もとは上方の人情噺。聴かせる噺です。

別題:立ち切れ 立ち切れ線香(上方)

あらすじ

昔は、芸妓げいぎ花代はなだいを線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計った。

そのころの話。

美代吉は、築地の大和屋抱えの芸妓。

新三郎は、質屋の若だんな。

二人は、互いに起請彫きしょうぼりをするほどの恋仲だ。

ある日。

湯屋ゆうやで若いが二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、あぶく。

美代吉に岡惚れの油屋の番頭、九兵衛のこと。

通称、あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なのだ。

美代吉があぶくを嫌がっていると、同じ湯船にあぶくがいるとも知らずに、若い衆がさんざん悪口を言った。

あぶくは、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつける。

美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、あぶくも納得して帰る。

美代吉は困った。

新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、あぶくにも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙をあぶくの家に届けさせてしまう。

それを読んだあぶく。

文面には、あぶくのべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さては、とカンカン。

あぶくは、美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に、先回りして潜んだ。

美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、あぶくは匕首あいくち(鍔のない刀)で美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日。

新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて大変な売れっ子だ、という。

なににしても久しぶりの逢い引き。

新三郎の三味線で、幽霊の美代吉が上方唄を。

いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へーい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて、新三郎は
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

しりたい

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹しょうふくていしょうちく(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもの。

移植者は三代目柳家小さん小さん(豊島銀之助、1857-1930)とも、六代目桂文治(1848-1928、平野次郎兵衛)ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子いれぼくろ」と題した、明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録です。

その後、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が継承しました。

ここでのあらすじは、古い文治のものを参考にしました。ちょっと珍しい、価値あるあらすじです。

文治は、しっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も、原則では、線香が立ち切れたところで時間切れでした。

線香が燃え尽きると、客が「お直しぃー」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でした。

落語「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎ぎゅうたろう(店の従業員)の方が勝手に自動延長してしまう、ずうずうしさです。

明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれました。

この風習、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後まで残っていたようです。

この噺の根っこには、男女の恋愛だろうが、しょせんは玄人(プロ)と客とのでれでれで、金の切れ目が縁の切れ目、線香が燃え尽きたらはいおしまい、という世間のおおざっぱな常識をオチに取り入れているわけですね。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切りネタ(大ネタ)です。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当かんどうとなるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置き屋を訪れた。

事情を知らない小糸は、自分は捨てられたと思い込み、焦がれ死んだという。

後悔した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「……ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれる。

ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

起請彫り

入れぼくろの風習からの発展形です。

江戸初期、上方の遊廓でおこりました。

遊女が左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり、男女互いが親指のつけ根にほくろを入れたりしたそうです。

互いの心に揺らぎはないという、証しのつもりなんですね。

人は、内なる思いをなにかの形で示さないと信じ合えない、悲しい生き物なのです。

「起請」とは「誓い」のことですから、このような名称になりました。

江戸中期(18世紀以降)には江戸でも流行しました。

江戸時代は平和が200年以上続いた時代でした。

平和が100年ほど続くと、人間は持続して考えることができるわけです。

そうなると、いろんなことを考えたり編み出したりするものなんですね。

そんな中で、江戸で生まれたのが「〇〇命」という奇習。

今でも、下町なんかでたまに見ます。

相手の名前を彫る気っ風のよさが身上です。

平和ずっぽり時代の象徴といえましょう。鳩よりすごい。

【語の読みと注】
花代 はなだい:遊女や芸妓への遊興費
揚げ代 あげだい:芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋 あげや:遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋 ゆうじょや:置き屋
置き屋 おきや:芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓 げいぎ:芸者、芸子
娼妓 しょうぎ:遊女、公娼
入れ黒子 いれぼくろ:いれずみ
匕首 あいくち:つばのない短刀

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ちりからたっぽう【ちりからたっぽう】ことば

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ちりからは鼓、たっぽうは大鼓の擬音語。そこから、芸者を揚げてにぎやかで陽気なお座敷をこう言いました。「だいようき(大陽気)」も同義。

正岡容は『明治大正風俗語事典』で、鳴り物入りの座敷は吉原に限るので、新宿などの「岡場所」の遊郭にはない、という説を紹介しています。

本所の達磨横丁を出て、全盛の吉原へやってきたが、ちりからたっぽう大陽気、両側はもう万燈のようで……。 

                                 文七元結

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つるつる【つるつる】落語演目

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【どんな?】

終始わさわさそわそわの噺。ちょっとばかりなまめかしくてよいです。

別題:思案の外幇間の当て込み 粗忽の幇間

【あらすじ】

頃は大正。 吉原の幇間たいこ一八いっぱちは、副業に芸者置屋おきやを営む師匠の家に居候いそうろうしている。 美人の芸者お梅に四年半越しの岡ぼれだが、なかなか相手の気持ちがはっきりしない。 今夜こそはと、あらゆる愛想あいそを尽くし、三日でいいから付き合ってくれ、三日がダメなら二日、いや一日、三時間、二時間、三十分十五分十分五分三分一分、なし……なら困ると、涙ぐましくかき口説く。 その情にほだされたお梅、色恋のような浮いた話ならご免だが、この間、あたしがわずらった時に寝ずの看病をしてくれたおまえさんの親切がうれしいから、もし女房にしてくれるというのならかまわないよ、という返事。 ところが、まだあとがある。今夜二時に自分の部屋で待っているが、おまえさんは酒が入るとズボラだから、もし約束を五分でも遅れたら、ない縁とあきらめてほしい、と釘を刺されてしまう。 一八は大喜びだが、そこへ現れたのがひいきのだんな樋ィさん。 吉原は飽きたので、今日は柳橋やなぎばしの一流どころでわっと騒ごうと誘いに来たとか。 今夜は大事な約束がある上、このだんな、酒が入ると約束を守らないし、ネチネチいじめるので、一八は困った。 今夜だけは勘弁かんべんしてくれと頼むが、 「てめえも立派な幇間になったもんだ」 と、さっそく嫌味を言って聞いてくれない。 事情を話すと、 「それじゃ、十二時までつき合え」 と言うので、しかたなくお供して柳橋へ。 一八、いつもの習性で、子供や猫にまでヨイショして座敷へ上がるが、時間が気になってさあ落ちつかない。 遊びがたけなわになっても、何度もしつこく時を聞くから、しまいにだんながヘソを曲げて、「おまえの頭を半分買うから片方坊主になれ」の、「十円で目ん玉に指を突っ込ませろ」の、「五円で生爪をはがさせろ」のと、無理難題。 泣きっ面の一八、結局、一回一円でポカリと殴るだけで勘弁してもらうが、案の定、酔っぱらうとどう水を向けてもいっこうに解放してくれないので、階段を転がり落ちたふりをして、ようやく逃げ出した。 「やれ、間に合った」 と安心したのもつか お梅の部屋に行くには、廊下からだと廓内の色恋にうるさい師匠の枕元を通らなければならない。 そこで一八、帯からフンドシ、腹巻と、着物を全部継ぎ足して縄をこしらえ、天井の明かり取りの窓から下に下りればいいと準備万端。 ところが、酔っている上、安心してしまい、その場で寝込んでしまう。 目が覚めて、あわててつるつるっと下りると、とうに朝のお膳が出ている。 一八、おひつのそばで、素っ裸でユラユラ。 「この野郎、寝ぼけやがってッ。なんだ、そのなりは」 「へへ、井戸替えの夢を見ました」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽vs.志ん生  【RIZAP COOK】

八代目桂文楽が、それまで滑稽噺こっけいばなしとしてのみ演じられてきたものを、幇間の悲哀や、お梅の性格描写などを付け加え、十八番に仕上げました。 五代目古今亭志ん生もよく演じましたが、お梅とのやりとりを省いて、だんなに話す形にし、いじめのあざとい部分も省略。 柳橋から帰る途中で、蒲鉾をかじりながらさいこどん節の口三味線くちじゃみせんで浮かれるなど、全体的に滑稽味を強くして特色を出しています。 今聴き比べてみても、両者甲乙つけがたいところです。私(高田)個人では、志ん生版が好みですが。

実録「樋ィさん」  【RIZAP COOK】

文楽演出のこの噺や「愛宕山」に登場するだんなは、れっきとした実在の人物です。 八代目桂文楽の自伝『あばらかべっそん』によると、ィさんの本名は樋口由恵ひぐちよしえといい、甲府出身の山梨県会議員のせがれで、運送業(川崎陸送)で財をなした人です。文楽と知り合ったのは関東大震災の直後。若いころから道楽をし尽くした粋人すいじんで、文楽の芸に惚れこみ、文楽が座敷に来ないと大暴れして芸者をひっぱたくほどわがままな反面、取り巻きの幇間や芸者、芸人には、思いやりの深い人でもあったとか。 「つるつる」の一八を始め、文楽の噺に出てくる幇間などは、すべて当時樋口氏がひいきにしていた連中がモデルで、この噺の中のいじめ方、からみ方も実際そのままだったようです。

柳橋の花柳界  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に船宿を中心にして起こりました。 実際の中心は現在の両国付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者をリクルートした結果、最盛期を迎えました。 明治初年には芸者六百人を数えたといいますが、盛り場の格としては、深川(辰巳)より1ランク下とみなされました。 映画『流れる』(幸田文こうだあや原作、成瀬巳喜男なるせみきお監督、1952)は、敗戦直後、時代の波とともにたそがれゆく柳橋の姿を、リアルな視点で描写しています。

井戸替え  【RIZAP COOK】

井戸浚い、さらし井戸とも。 夏季に疫病防ぎのために、一年に一度、井戸水を全部汲みだして中を掃除することです。年中行事でした。 大屋の陣頭指揮、長屋総出で行います。専門業者の井戸屋が請け負うこともあります。いずれにしてもふんどし一丁で縄をつたって井戸底に下りる、一日がかりの危険な作業でした。 とはいえ、江戸は井戸のある長屋はかなり限定的でした。どこの長屋にあったわけでもないのです。川向こうの深川や本所にはありません。 掘っても海水ばかりが出てきてしまうからです。そこらへんの人々は水屋みずやから水を買っていました。本所の長屋には井戸はなかったのです。 井戸替えは深さを横へ見せるなり 横へ引っ張られる綱の長さで井戸の深さがわかるのだそうです。

もっと

八代目桂文楽のおはこ。三代目三遊亭円遊が明治22年(1889)にやった「思案しあんほか幇間たいこの当て込み」という速記が残っている。「つるつる」に当たるもの。原話は文化年間にあったそうだが、円遊が文楽への中継ぎをしたようなものだ。双方とも、おおまかな筋やオチなどは同じ。文楽のほうが、幇間のうわっついた調子や筋の運びに生彩と洗練を感じさせてくれる。オチの「井戸替え」が、今ではわかりにくい。毎年、 7月7日が井戸浚いの日だった。大名屋敷から裏長屋までそれぞれに行っていた。「井戸浚い」「さらし井戸」などとも呼んだそうだ。この日、長屋の住人は、井戸の化粧側をはずして、大桶に縄をつけて車で井戸の水をすくい上げる。7割ほどの水をすくうと、井戸屋の職人が縄を伝い「つるつる」と井戸の底に下りて、井戸の周りを洗ったり底に落ちているさまざまなものを拾い上げる。その上で井戸水を全部くみ上げて、作業は終わる。長屋の住人たちは、化粧側をつけ直し、板戸のふたをしてお神酒と塩を供える。井戸屋の伝う縄は水に濡れていたので、「するする」ではなく「つるつる」という音がしたのだとか。円遊は、オチのところを、「ああ、おまえのことだから、おおかた井戸さらいの夢でも見たのだろう」「なあに、ちょっとブランコの稽古でございます」と、やっている。「ブランコ」などとハイカラな物を出してしゃれたつもりなのだろうが、筋の効果では文楽のほうに磨きがかかっている。

古木優

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きんぎょのげいしゃ【金魚の芸者】落語演目



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【どんな?】

いやあ、奇妙な噺。鶴の恩返しならぬ、金魚の……。

別題:錦魚のおめみえ

【あらすじ】

本所で金魚屋を営む六左衛門という男。

ある日、金魚の会の道すがら、小石川の武嶋町辺を通りかかると、子供らが池で魚をつかんでいる。

見ると、池から小さな金魚が飛び出してピンピン跳ねた。

丸っ子といって、泳ぎ方が変わっているので珍重される品種。

それを子供が素手でぐいとつかんで持っていこうとするので、あわてて、
「そんなことをしたら手の熱で死んでしまう」
と注意して、浦島よろしく、五銭銀貨一枚やって買い取り、珍品なので、太刀葵と名付け、家の泉水で大切に飼育した。

おかげで大きないい金魚に育ち、品評会でも好評なので気をよくしていると、ある夜、金魚が夢枕に立ち、
「私は武嶋町であなたに助けられましたから、なにか恩返しをと思っていますところへ、あなたが今日、もし私が人間に育って、芸者にでもなったら売れっ子になるだろうとおっしゃるのを聞きました。どうぞ私を芸者にして恩を返させてください。明日の朝、人間の姿で伺いますから、決してお疑いのないよう」
と言ったかと思うと、スーッと消えた。

不思議なこともあるものと、夫婦で話していると、戸口で「ごめんくださいまし」
と女の声。

出てみると、
「私、金魚のお丸でございます」

顔は丸いが、なかなかいい女。

まさかと思って池の中を見ると、金魚がいない。

これは本物と、六左衛門大喜び。

お丸が、今日からでも柳橋から芸者に出たい、柏手を三つ打ってくれれば金魚の姿になるから、手桶に入れて置屋に連れていってくれればよい、というので、試してみると、お丸の言う通り。

柳橋の吉田屋の主人が芸者を一人欲しがっていたので、さっそく連れて行き、また柏手を打つと不思議や、お丸はまた女の姿に。

吉田屋の旦那、一目でお丸が気に入って、
「この人は、おまえさんの娘かい?」
「いえ、実は拾い子で」
「どこで拾いなすった」
「どぶの中で」
「ひどい親があるもんだ。兄弟はありますか?」
「ウジャウジャいますが、黒田さまへ一人、宮さま方にも二、三人」
「どんなものが好きだい?」
「そりゃあボーフラ、もとい、麩が好きなんで。飯粒はいけません。目が飛び出しますから」

変な具合だが、最後に、
「のどを聞かせてほしい」
とだんなが言うので、お丸、三味線を手に取って、器用に清元を一段語った。

「あー、いい声(=鯉)だ」
「いえ、実は金魚です」

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【しりたい】

初代円遊の新作

明治26年(1893)6月、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)が「錦魚のおめみえ」の題で速記を残しています。

同時代の口演記録もなく、これは、夏の季節をあてこんだ、円遊の新作でしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、マクラの小咄程度に演じたのみです。

金魚の噺としては、ほかに、昭和初期の田河水泡(高見澤仲太郎、1899-1989)の「猫と金魚」が目立つくらいです。

金魚は江戸の風物詩

金魚が中国から最初に移植されたのは、文亀2年(1502)のこと。江戸期にはワキンとリュウキン(中国種)、ランチョウ(朝鮮種)などをかけあわせ、盛んに養殖、品種改良が行われるようになりました。

金魚屋ができたのは、慶安から延宝にかけて(1650-81)とか。

当初は、この噺の六左衛門のように、自宅に池を設けて放し、売っていました。

のち、江戸期から昭和初期にかけて夏の風物詩となる棒手振りの金魚屋が登場するのは、それから約1世紀後の安永年間(1772-80)でした。

三代目歌川豊国(1786-1865)が、金魚売りの錦絵を残しています。

容器はギヤマン(=ガラス)製の徳利型が、江戸時代にはもう現れましたが、なんといっても高価で、庶民には高根の花。

長屋では用水桶や盥で泳がすのが普通でした。棒手振りも見ての通りです。

犀星、晩年の佳作

室生犀星(室生照道、1889-1962、詩人、小説家)が晩年の昭和34年(1959)に刊行した小説「蜜のあはれ」は、金魚が、飼い主である画家に恋をするというロマンチックなもの。

小説でも、金魚の擬人化はきわめて珍しいものですが、果たして犀星が、この噺を知っていたかどうか。

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おやこぢゃや【親子茶屋】落語演目

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【どんな?】

親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

あらすじ

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承  【RIZAP COOK】

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。

落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。

大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。

東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。

オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜  【RIZAP COOK】

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。

起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江の島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江の島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。

この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。

無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。

いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。

頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり  【RIZAP COOK】

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳

「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

茶屋にもいろいろありまして  【RIZAP COOK】

茶屋にはさまざまな種類がありました。美人ばかり雇っている店もあれば、表も裏も融通無碍な店も。

川柳が取り上げるのは、なかでも目立った印象に残る茶屋ということでしょうね。

べら坊で 居所の無い 二十軒   十一10

「二十軒」とは浅草仲見世の隣にあった「二十軒茶屋」の略称。最初は三十六軒あったので「歌仙茶屋」と呼ばれました。「お福茶屋」とも。享保年間に二十軒ほどになったので、こう呼ばれるようになりましたが、文化には十六軒、天保には十軒、明治30年には一軒に。それでも「二十軒」といえば、ここの茶屋をさしたそうです。美人を雇っていることが特徴でした。「二十軒=美人茶屋」というイメージでしょうか。これも落語や川柳のお約束です。

ほれるかほれるかと 茶をくらつて居   十二42

これはわかりやすいですね。今も変わらずの句。

手前まあ 内はどこだと 楊枝見世   五34

「楊枝見世」は浅草奥山にあった楊枝の店。ここも美人を置いていました。娘の住所を聞いているところ。繁盛したわけです。

楊枝屋は 残米も売り 緡も売り   二十二18

「緡」は銭の穴を通して百文、四百文、一貫文にまとめるための細い藁縄のこと。楊枝屋で売っていました。とりわけ欲しくもないのに美人見たさに買いに行く風景ですね。

美しさ 男へたんと 五倍子が売れ   十六36

「五倍子」は「五倍子鉄漿」のこと。五倍子とは、ヌルデの葉にアリマキが寄生して、その刺激によってできたこぶ。タンニンを含み、染色、インクなどの原料になるものです。鉄漿は、鉄を酸化させてできた暗褐色の液で、お歯黒に使いました。五倍子の粉を鉄漿にひたして作った黒い染料が五倍子鉄漿です。真っ黒です。この句は五倍子を売る店(五倍子店)の美人の売り子に惹かれて買いに来る亭主たちの長い鼻の下を詠んでいるそうですが、わかりますかね。

大和茶で ただの話も くどくやう   十六36

「大和茶」とは「大和茶屋」のこと。浅草などにあって、美人を接客に雇っていたそうです。今のキャバクラみたいな店だったようです。

水茶屋と 見せ内証は これこれさ   十七23

裏表 ある水茶屋は はやるなり   二十一10

水茶屋とはいっても、裏でのサービスもいろいろあったようです。江戸時代はなんでもありなんですね。

茶屋女 せせなげほどな 流れの身   六2

「せせなげ」は下水やどぶ。「流れの身」とは「川竹の流れの身」のことで、遊女の境涯をさします。「川竹の身」とか「流れの身」とかは清らかな川の流れのイメージなのですが、遊女を連想させる鍵語です。この句に詠まれた茶屋女は遊女ほどに清らか(?)ではないながらも、つまり下水の流れのような境涯ながらも、同じ春を売る身の上だ、ということを言っているようです。なんとも雅味のある句でしょう。

【語の読みと注】
緡 さし
五倍子 ふし
鉄漿 かね

【RIZAP COOK】

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こいな【小いな】落語演目

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【どんな?】

柳橋の芸者さんが出てきて、ちょっと艶っぽい噺です。

【あらすじ】

幇間の一八が、この間の約束どおり芝居に連れていってくれと、だんなにせがみに来る。

ところがだんな、今日は都合でオレは行けないからと、代わりに、おかみさんに、女中と飯炊きの作蔵をつけて出そうとする。

作蔵、実は、これがだんなと一八の示し合わせた狂言らしいと見抜いているので、仮病を使って、家に残ってようすをうかがう。

二人きりになると、案の定、だんなは作蔵に、
「柳橋の小いなという芸者のところまで使いに行け」
と言いつけた。

かって知ったるだんなの女。

作蔵、にんまりして
「そう来べえと思ってた。行かれねえ」

さらに作蔵は
「おまえさま、あんだんべえ、今日はおかみさま、芝居エにやったなァ、柳橋の小いなァこけえ呼んで、大騒ぎする魂胆だんべえ」
と、すべて見通されては、だんなも二の句が継げない。

一八だけでなく、作蔵も代わりに芝居にやった藤助もグルなのだが、実はだんなは男の意気地で、小いなを三日でも家に入れてやらなければならない義理があるので、今日一日、おかみさんを芝居にやり、口実をこしらえて実家に帰すつもり。

「決して、かみさんを追い出そうというのではないから」
と作蔵を言いくるめ、やっと柳橋に行かせた。

まもなく、小いな始め、柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、たちまちのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ、藤助が血相変えて飛び込んできた。

「おかみさんが芝居で急に加減が悪くなり、これから帰ってくる」とのご注進だったので、さあ大変。

一八は、風を食らって逃げてしまった、という。

膳や盃洗を片づける暇もなく、小いなをどこかに隠そうとウロウロしている間に、玄関で、おかみさんの声。

しかたなく、部屋の中に入れないように、だんな以下、総出で襖をウンショコラショと、押さえる。

玄関に履物が散らばっているので、もうバレていておかみさんは、カンカン。

「きよや、早く襖をお開け」
「中で押さえてます」
「もっと強くおたたき」

女中が思い切りたたいたので、襖の引き手が取れて穴が開いた。

その穴からのぞいて、
「あらまあ、ちょいと。お座敷が大変だこと。おかみさん、ご覧あそばせ」
と言うと、襖の向こうから幇間が、縁日ののぞきカラクリの節で
「やれ、初段は本町二丁目で、伊勢屋の半兵衛さんが、ソラ、おかみさんを芝居にやりまして、後へ小いなさんを呼び入れて、のめや歌えの大陽気、ハッ、お目に止まりますれば、先様(先妻)はお帰り」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

明治の新作

三代目柳家小さんの、明治45年(1912)の速記が残るだけで、現在はすたれた噺です。

新富座

噺の中で、かみさんや女中を芝居見物にやる場面がありますが、その劇場は、新富座となっています。

新富座は、日本最初の西洋式座席、ガス灯による照明を備えた近代的な劇場として、明治8年(1875)に開場。

この噺は、それ以後の作になります。オチは、のぞきからくりの口上、特に先客を追い出す時の文句を取り込んだものですが、現在では事前の説明がいるでしょう。

小さんは、この噺のマクラとして「権助提灯」を短縮して入れています。

のぞきカラクリ

「のぞき眼鏡」ともいいます。代金は二銭で、絵看板のある小さな屋台で営業しました。

眼鏡(直径約10cmのレンズ)をのぞくと、西洋画、風景写真などの様々な画面が次々と変わって現れます。

両側の男女が細い棒をたたきながら、独特の節回しで「解説」を付け、それに合わせて紐を引くと、画面が変わる仕掛けです。

明治5年(1872)夏ごろから、浅草奥山の花屋敷の脇で始まり、神保町、九段坂上など十数か所で興行され、たちまちブームに。

原型は江戸中期にすでにありましたが、維新後の写真の普及とともに、開花新時代の夏の風物詩となりました。

早くも明治10年前後には飽きられ、下火になったようです。

歌舞伎では、河竹黙阿弥が、幕末に書いた極悪医者の狂言「村井長庵巧破傘」の外題を明治になり、「勧善懲悪覗機関」と変えて、時代を当て込みました。

男の意気地

このだんな、まだ小いなを正式に囲ってはいません。あるいは、何か金銭的な理由その他で妾宅を持たせてやれない代わりに、二、三日なりと本宅に入れて、実を見せたというところ。

いかにも明治の男らしい、筋の通し方です。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
内儀さん おかみさん
村井長庵巧破傘 むらいちょうあんたくみのやれがさ
勧善懲悪覗機関 かんぜんちょうあくのぞきからくり

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