やんまきゅうじ【やんま久次】演目

三遊亭円朝の弟子の三遊一朝から林家彦六へ。しばらくの空白期を経て、いまでは雲助が復活させました。

別題:大べらぼう

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あ奴に切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も、もうこれまでと決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこになりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」と、さとす。

久次も泣いて、きっと真人間になると誓ったので、大助は安心して別れていく。

その後ろ姿に
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり、三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

伝・初代古今亭志ん生(1809-56)作。元の題は「大べらぼう」。三遊亭円朝の人情噺「緑林門松竹」の原話となったものに、芝居噺「下谷五人盗賊」があります。その中の「またかのお関」のくだりに、やんま久次郎が端役で登場しています。五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除されています。

円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵(彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。彦六は昭和57年(1982)に逝きました。その後は手掛ける者がありませんでしたが、平成6年(1995)に五街道雲助が復活させました。

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、前述のようにもとは長編人情噺でした。この続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」

(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「女郎」の意味があり、女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。ベラボーは、「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりましたが、それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼んだので、その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

飲む、打つ、買うの三道楽。「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源でもあります。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入り口です。杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

東京都千代田区三番町、大妻学院前バス停付近の坂下をいいました。近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

【語の読みと注】
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ

【RIZAP COOK】

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やまざきや【山崎屋】演目

道楽にはまってしまったご大家の若旦那。これはもう、三遊亭円生と林家彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若旦那、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若旦那は
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若旦那、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若旦那、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若旦那に、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われて旦那、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

【RIZAP COOK】

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まつだかが【松田加賀】演目

一見歌舞伎の世話物かと思いきや、やっぱり落語でした。

別題:頓智の藤兵衛

【あらすじ】

本郷も 兼安までは 江戸のうち

その本郷通りの雑踏で、年端もいかない小僧按摩が、同じ盲人に突き当たった。

こういう場合の常で、互いに杖をまさぐり合い、相手は按摩の最高位である検校とわかったから、さあ大変。

相手は、公家や大名とも対等に話ができる身分。

がたがた震えて、「ごめんくださいまし。ご無礼いたしました」という謝罪の言葉が出てこず、ひたすらペコペコ頭を下げるだけ。

こやつ、平の按摩の分際であいさつもしないと、検校は怒って杖で小僧をめった打ち。

これから惣録屋敷に連れていき、「おまえの師匠に掛け合う」と大変な剣幕。

周りは十重二十重の野次馬。

「おい、年寄りの按摩さん。かわいそうじゃねえか。よしなよッ」
「なに、わしはただの按摩ではない。検校だ」
「それなら、家に帰ってボウフラでも食え」
「なんだ?」
「金魚」
「金魚じゃない。けんぎょお」

大変な騒ぎになった。

そこへ通り合わせたのが、神道者で長年このあたりに住む、松田加賀という男。

話を聞いて、自分が一つ口を聞いてやろうと、
「もしもし、そこな検校どの。あなたに突き当たった小僧、年がいかないから度を失って、わびの言葉が出てこない。仲人は時の氏神、と申します。ここは私に任して、まるく納まってはくださいますまいか」
と丁重に持ちかけた。

検校は
「これはこれは、あなたはもののよくおわかりになる。お任せはしましょうが、ご覧の通り、わたくしは晴眼の方とは違います。あなたのお顔、なり形などは皆目わからない。仲人をなさいますあなたさまの、お所お名前ぐらいは承りたい」
と言うので、加賀、
「これは失礼いたしました。私はこの本郷に住んでいる、松田加賀と申します」
と正直に返事をしたが、興奮が冷めない検校、本郷のマツダをマエダと聞き違えて、これはすぐ近くに上屋敷がある、加賀百万石のご太守と勘違い。

「加賀さま……うへえッ」
と、杖を放り捨てて、その場に平伏。

加賀も、もう引っ込みがつかないから、威厳を作って
「いかにも加賀である」
「うへえーッ」
「検校、そちは身分のある者じゃな。下々の者は哀れんでやれ。けんか口論は見苦しいぞ」
「へへー。前田侯のお通り先とも存じませず、ご無礼の段は平にお許しを」

検校がまだ這いつくばっている間に、加賀はさっさと先へ行くと、
「高天原に神留まりまします」
と、門付けの御祓いをやりはじめた。

そうとは知らない検校、
「ええ、以後は決して喧嘩口論はいたしません。ご重役方にも、よろしくお取りなしのほどを」
と、さっきとは大違いで、ひたすらペコペコ。

野次馬連中、喜んでわっと笑った。

検校、膝をたたき
「さすがは百万石のお大名だ、たいしたお供揃え」

出典:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

元は「とんち噺」  【RIZAP COOK】

原話は、安永4年(1775)刊の笑話本『新落ばなし一のもり』中の「乗打」です。

これは、身分の低い盲人の配当が、最高位の検校に乗打、つまり駕籠に乗ったまま挨拶せずに行き過ぎたのをとがめられ、難渋しているのを、通りすがりの神道者が機転をきかせ、大名と偽って助けるというもので、オチは現行と同じです。

これが落語化され、仲裁者を「頓知の藤兵衛」という知恵者にし、藤兵衛が人助けでなく、大名に化けて盲人二人をからかうという、演じ方によってはあざとい内容になりました。

彦六が改題、洗練  【RIZAP COOK】

明治から大正にかけて「頓智の藤兵衛」の題で三代目小さんが得意にしていました。

戦後、しばらくすたれていたのを、八代目林家正蔵(彦六)が原話に近い形に戻した上、人情味を加味して、重厚な内容に仕上げました。演題を「松田加賀」と変えたのも正蔵です。正蔵はこの噺を若き日、私淑した円朝門下の三遊一朝老人(1930年没)に教わっています。

「頓智の藤兵衛」で演じるときは、「前田加賀」との洒落ができないため、当然、演出が大きく変わりますが、現在、このやり方は継承されません。速記、音源とも、残るのは正蔵のもののみです。正蔵の没後、昭和58年(1983)に三遊亭円窓が復活して高座に掛けました。

按摩は杖にも階級  【RIZAP COOK】

平按摩は普通の木の杖、座頭は杖の上端に丸い把手が一つ、匂頭は上端に横木が半分渡してある片撞木、検校になると完全に横木を渡したT字型の撞木の塗杖を用いました。

検校  【RIZAP COOK】

盲人(按摩)の位は、衆分(平按摩)→座頭→匂頭→別当→検校→総検校の順で、検校の位を得るには、千両の金が必要でした。衆分は上納金がまったく払えない者で、市名を名乗り、公式にはもみ療治、鍼医、琵琶法師などの営業を許可されませんでした。

座頭になって初めて最下級の位がもらえ、「一」か「城」の名を付けることができます。したがって、勝新太郎やビートたけしの「座頭市」は厳密には誤り。「座頭一」でなければなりません。検校に出世すると、紫衣を着て撞木杖を持ち、高利貸などを営むことを許されました。

総検校  【RIZAP COOK】

検校の上が総検校です。江戸中期までは、総検校は京都にいましたが、元禄6年(1693)に鍼医の杉山検校和一が五代将軍綱吉の病を治したほうびに、総検校の位と、本所に屋敷を拝領。総検校から平按摩まで、すべての盲人の支配権を握りました。この時が、総録屋敷の始まりです。

官位のための上納金は、「三味線栗毛」にも出てくるように、座頭が十両、匂頭で百両、検校で千両でした。

江戸の総検校→京都の公家・久我家→京都の総検校の順に上納金が渡り、それぞれで中間搾取される仕組みになっていたわけです。神道者については「人形買い」をご参照ください。

兼安  【RIZAP COOK】

本郷は二、三丁目までは江戸御府内、四丁目から先は郡部とされていました。本郷三丁目の四丁目ギリギリにある兼安小間物店は、売り物の赤い歯磨き粉と堀部安兵衛自筆とされる看板で、界隈の名物でした。現在も健在です。

【語の読みと注】
兼安 かねやす
検校 けんぎょう
座頭 ざとう
匂頭 こうとう
片撞木 かたしゅもく
衆分 しゅうぶん
市名 いちな
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ

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ふだんのはかま【ふだんの袴】演目

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「おうむ」というジャンルの噺。付け焼き刃が次第にばれて。噺家の技の見せどころ。

【あらすじ】

上野広小路の、御成街道に面した小さな骨董屋。

ある日、主人が店で探し物をしていると、顔見知りの身分の高そうな侍がぶらりと尋ねてきた。

この侍、年は五十がらみ、黒羽二重に仙台平の袴、雪駄履きに細身の大小を差し、なかなかの貫禄。

谷中へ墓参の帰りだという。

出された煙草盆でまずは悠然と一服するが、煙草入れは銀革、煙管も延打で銀無垢という、たいそうりっぱなもの。

そのうち、ふと店先の掛け軸に目を止めた。

「そこに掛けてある鶴は、見事なものだのう」
「相変わらずお目が高くていらっしゃいます。あたくしの考えでは文晁と心得ますが」
「なるほどのう、さすが名人じゃ」

惚れ惚れと見入っているうち、思わず煙管に息が入り、掃除が行き届いているから、火玉がすっと抜けて、広げた袴の上に落っこちた。

「殿さま、火玉が」
と骨董屋が慌てるのを、少しも騒がず払い落とし
「うん、身供の粗相か。許せよ」
「どういたしまして。お召物にきずは?」
「いや、案じるな。これは、いささかふだんの袴だ」

これを聞いていたのが、頭のおめでたい長屋の八五郎。

侍の悠然としたセリフにすっかり感心し、自分もそっくりやってみたくなったが、職人のことで袴がない。

そこで大家に談判、ようやくすり切れたのを一丁借りだし、上は印半纏、下は袴という珍妙ななりで骨董屋へとやってくる。

さっそく得意気に一服やりだしたはいいが、煙管は安物のナタマメ煙管、煙草は粉になっている。

それでもどうにか火をつけて
「あの隅にぶる下がってる鶴ァいい鶴だなあ」
「これはどうも、お見それしました。文晁と心得ますが」
「冗談言うねえ。文鳥ってなあ、もうちっと小さい鳥だろ。鶴じゃねえか」

これで完全に正体を見破られる。

本人、お里が知れたのを気づかずに、さかんに、いい鶴だいい鶴だとうなりながら煙草をふかすが、煙管の掃除をしていないから火玉が飛び出さない。

悔しがってぷっと吹いた拍子に、火玉が舞い上がって、袴に落ちないで頭のてっぺんへ。

「親方、頭ィ火玉が」
「なあに心配すんねえ。こいつはふだんの頭だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

発掘は彦六   【RIZAP COOK】

原話は不詳で、古い速記はありませんが、八代目林家正蔵(彦六)が、二つ目時代に二代目蜃気楼龍玉(1867-1945)門下の龍志から教わり、その型が五代目柳家小さんに継承されました。

八代目春風亭柳枝も持ちネタにし、柳枝の最後の弟子だった、三遊亭円窓が復活して手掛けています。

御成街道  【RIZAP COOK】

おなりかいどう。神田の筋違御門(万世橋)から上野広小路にかけての道筋で、現在の中央通りです。将軍家が上野寛永寺に参詣するルートにあたり、この名が付きました。上野広小路寄りの沿道には、刀剣や鎧兜などを扱う武具商が軒を並べていました。

仙台平  【RIZAP COOK】

せんだいひら。主に袴地に使われます。仙台平の袴は武家の正装用で絹地の最高級品。「平」とは、たていと(経)とよこいと(緯)を交互に織り込む手法で「平織り」を略した言い方です。武家以外にも、富裕層の町人も使いました。一般には、5月5日(端午)から8月末日まで一重袴として使いました。9月1日から5月4日までは裏地付きの袷袴でした。五つのひだの筋が崩れずに美しさを保ち、派手でもないので、気品と落ち着きが漂う装いです。

八五郎が借りたのは、小倉木綿です。結城木綿とともに実用使いでした。剣術の稽古袴での小倉木綿は「駄小倉」と呼ばれていました。「三軒長屋」の楠運平が履くのが駄小倉です。

江戸詰め藩士などは、社交上、装飾を施した細身の刀を身につけました。

延打  【RIZAP COOK】

のべ。雁首と吸口が同じ材料でできた煙管です。落語や歌舞伎では、演じる人物の階級で煙管の持ち方が異なります。殿さまは中ほどを握って水平に構え、武士や町人はやや雁首近くを握って下向き。百姓は雁首そのものをつかむ、など。

文晁  【RIZAP COOK】

ぶんちょう。江戸後期の文人画家・谷文晁(1763-1840)のこと。洋画の技法を取り入れた独自の画風で知られ、渡辺崋山の師匠でもありました。三遊亭円朝の後期の作に「谷文晁の伝」があります。

五代目小さんのくすぐりより  【RIZAP COOK】

大家が、店賃を持ってきたかと勘違いすると八「そこが欲の間違えだ」

大家が、一昨年貸した鳴海絞りの浴衣をまだ返さないといやみを言うと、八「留んとこで子供が生まれたんで、『こんなボロでよけりゃ』ってやっちゃった。あの子が大きくなりゃあ、オシメはいらなくなるから、そんとき返しに…」

八五郎が骨董屋で、「今日は墓参りで、供の者にはぐれて…」とやりはじめると、親父が「この方がお供みてえだ」

【語の読みと注】
御成街道 おなりかいどう
仙台平 せんだいひら
袷袴 あわせばかま
煙草入れ たばこいれ
煙管 きせる
延打 のべ
文晁 ぶんちょう
筋違御門 すじかいごもん

【RIZAP COOK】

ねこただ【猫忠】演目

明治中期に上方から。当初は「猫の忠信」でしたが、お得意の縮めた呼称に。

あらすじ

美人の清元の師匠に、下心見え見えで弟子入りしている、次郎吉と六兵衛の二人。

次郎が、師匠と兄貴分の吉野屋常吉がいちゃついているのをのぞき、稽古を辞めると息巻くので、六さん、「常兄ィは堅い人なのにおかしいな」と首をひねり、二人で確かめに行くと、案の定、差し向かいで盃をさしつさされつ。

悔しいから、常吉のかみさんに告げ口して、夫婦げんかをあおってやろうと、相談する。

たまたま、今度のおさらい会で師匠が着る衣装を縫っていたかみさん、二人が「師匠が『お刺身の冷たいのは毒だよ』なんぞと口ん中でペロペロと温かにして、兄貴の口へ……」などと並べるのを聞いて「けんかをしずめてくれるのが情けなのに、わざわざ波風を立てに来るのはどういうつもりだい」と、怒り出す。

亭主は今の今、奥で寝ている、という。

噺を聞きつけて当の常吉がノッソリ現れたから、二人は仰天。

いきさつを聞いた常吉。

そういえば、最近床屋に行くと「やっぱり他人じゃないんで、唄のお仕込が違うんでしょう」などと妙なことを言われるので、オレの姿を借りて、師匠の家に入り込んでいる奴がいるのかもしれないと、思いめぐらす。

二人を連れて現場に駆けつけ、障子の隙間からのぞいてみると、なるほど、自分に瓜二つの男が師匠としっぽり濡れているから、驚いた。

これは狐狸妖怪に違いないと、二人に「先ィ入って、向こうで盃をくれたら、油断を見澄まして野郎の耳を触ってみろ。獣は耳を触られると動くから、そうしたら大声で『ぴょこぴょこッ』とでもどなれ」と、言いつける。

二人がおそるおそる声をかけると、酔っぱらった声で「よう、次郎と六じゃねえか。こっちィ入んねえ」

気のせいか、声の調子が違う。

酒を出されると「ひょっとして、馬の小便じゃねえか」と、二人はびくびく。

ご返盃に相手が手を出したところを押さえつけ、耳を触ると案の定、ぴくぴく動く。

「ぴょこぴょこだッ」
と叫ぶ声で、本物の常吉が飛び込んできたので、師匠は
「あら、常さんが二人」
と、仰天。

「やい、おれ……いや、てめえは化性のもんだな。真の吉野屋常吉、吉常(=義経)が調べる。白状しろ」

妖怪はすっかり恐れ入り、
(芝居がかりで)「はいはい、申します申します。わたくしの親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」

師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。

「兄貴、今度のおさらいは『千本桜』の掛け合いだろう。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(=猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。千本桜ができたね」
「肝心の静御前がいねえ」
「師匠が延静だから静御前」

師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」と言うと、側で猫が「にゃあう(似合う)」

【RIZAP COOK】

しりたい

著作権料は誰のもの?  【RIZAP COOK】

もともと古い上方落語で、大阪の笑福亭系の祖とされる、松富久亭松竹の創作といわれてきましたが、実は原話は、文政12年(1829)江戸板の初代林屋(家)正蔵著『たいこの林』中の「千本桜」で、ほとんど現行と同じです。

松竹という人、今もって生没年、経歴、年代不詳で、それどころか、実在自体が確認できない、「落語界の写楽」ともいえる謎の噺家です。

それでいて、松竹の手になるといわれる噺は多く、この「猫忠」のほか、「初天神」「松竹梅」「千両みかん」「たちぎれ」など、ほとんど現在でも、東西でよく演じられる名作、佳作ばかりです。

江戸の正蔵が始祖とすると、噺の伝播は江戸→大坂であって、松竹説は怪しくなるのですがともかく、噺としては上方で確立しており、松竹の年代も不明なため、東西どっちがパクったか、真相は藪の中。

猫又にでも、聞いてくださいな。

東西のやり方  【RIZAP COOK】

芝居噺の名手だった、六代目桂文治が明治中期に上方の型を東京に移植。初めは「猫の忠信」の題で演じられましたが、東京ではのちに縮まって「猫忠」とされ、それが現代では定着しました。

その文治の明治30年(1897)の速記を始め、八代目文治、大阪の五代目・六代目松鶴、六代目三遊亭円生とさまざまな名人の速記が残っています。

東西で大きな異同はありませんが、上方では初めに次郎吉が師匠の家を覗く場面があります。上方は見あらわしに乗り込むとき、最初に常吉ではなく、女房がいっしょに行くところが東京と異なり、大阪では女師匠が義太夫、東京では常磐津か清元である点も違っています。

円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。「百川」に登場の歌女文字師匠のように「文字」が付けば常磐津です。

「千本桜」四段目の口の舞踊「道行初音旅」は、義太夫と清元もしくは常磐津の掛け合いになるので、噺にこうした師匠が登場するわけです。

東ではやはり、この人  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後にかけ、東京でのこの噺の第一人者はやはり、六代目三遊亭円生でした。円生は三代目三遊亭円馬から習っています。オチは、円生以外は東西ともほとんど「ニャウニャウ」と二声でしたが、円生は円馬に倣って、すっきりと一声に改めました。東京ではほかに、三代目桂三木助も演じました。

「義経千本桜」のパロディー   【RIZAP COOK】

『義経千本桜』は人形浄瑠璃(文楽)の作品です。全五段の時代浄瑠璃で、通称「千本」とも。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大浄瑠璃の一つとされています。初演は延享4(1747)年11月、大坂・竹本座、作者は『仮名手本忠臣蔵』と同じチームで、竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作です。

この噺は、人物名がすべて「千本桜」の役名のもじり。オチ近くの化け猫のセリフは、四段目の切「河連法眼館」(通称「狐忠信」)のパロディーで、芝居の狐の、「わたくしはあの、鼓の子でござります」のもじりです。詳しくは「初音の鼓」をご参照ください。

5世尾上菊五郎演じる忠信を描いた錦絵/画・豊原国周 、国立国会図書館所蔵

弁慶橋  【RIZAP COOK】

東京都中央区岩本町二丁目のあたり。神田の藍染川に架かっていた橋ですが、幕末にはもうありませんでした。付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。藍染川、駿河町については「三井の大黒」参照。「ちきり伊勢屋」の弁慶橋は同じ千代田区にあるのですが、ここではありません。

初音の鼓 三井の大黒 ちきり伊勢屋

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ながやのはなみ【長屋の花見】演目

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お茶けに「練馬」のかまぼこ。ビンボー長屋の愉快で哀しい花見風景です。

別題:隅田の花見 貧乏花見(上方)

【あらすじ】

貧乏長屋の一同が、朝そろって大家に呼ばれた。

みんな、てっきり店賃の催促だろうと思って、戦々恐々。

なにしろ、入居してから18年も店賃を一度も入れていない者もいれば、もっと上手はおやじの代から払っていない。

すごいのは
「店賃てな、なんだ」

おそるおそる行ってみると、大家が
「ウチの長屋も貧乏長屋なんぞといわれているが、景気をつけて貧乏神を追っぱらうため、ちょうど春の盛りだし、みんなで上野の山に花見としゃれ込もう」
と言う。

「酒も一升瓶三本用意した」
と聞いて、一同大喜び。

ところが、これが実は番茶を煮だして薄めたもの。

色だけはそっくりで、お茶けでお茶か盛り。

玉子焼きと蒲鉾の重箱も、
「本物を買うぐらいなら、むりしても酒に回す」
と大家が言う通り、中身は沢庵と大根のコウコ。

毛氈も、むしろの代用品。

「まあ、向こうへ行けば、がま口ぐれえ落ちてるかもしれねえ」
と、情なくも、さもしい料簡で出発した。

初めから意気があがらないことはなはだしく、出掛けに骨あげの話をして大家に怒られるなどしながら、ようやく着いた上野の山。

桜は今満開で、大変な人だかり。

毛氈のむしろを思い思いに敷いて、
「ひとつみんな陽気に都々逸でもうなれ」
と大家が言っても、お茶けでは盛り上がらない。

誰ものみたがらず、一口で捨ててしまう。

「熱燗をつけねえ」
「なに、焙じた方が」
「なにを言ってやがる」

「蒲鉾」を食う段になると
「大家さん、あっしゃあこれが好きでね、毎朝味噌汁の実につかいます。胃の悪いときには蒲鉾おろしにしまして」
「なんだ?」
「練馬の方でも、蒲鉾畑が少なくなりまして。うん、こりゃ漬けすぎで、すっぺえ」

玉子焼きは
「尻尾じゃねえとこを、くんねえ」

大家が熊さんに、
「おまえは俳句に凝ってるそうだから、一句どうだ」
と言うと
「花散りて死にとうもなき命かな」
「散る花をナムアミダブツと夕べかな」
「長屋中歯をくいしばる花見かな」

陰気でしかたがない。

月番が大家に、
「おまえはずいぶんめんどう見てるんだから、景気よく酔っぱらえ」
と命令され、ヤケクソで
「酔ったぞッ。オレは酒のんで酔ってるんだぞ。貧乏人だってばかにすんな。借りたもんなんざ、利息をつけて返してやら。くやしいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな。どうだ。灘の生一本だ」
「宇治かと思った」
「口あたりはどうだ」
「渋口だ」

酔った気分はどうだと聞くと
「去年、井戸へ落っこちたときと、そっくりだ」

一人が湯のみをじっと見て
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」
「酒柱が立ちました」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

明治の奇人、馬楽十八番

上方落語「貧乏花見」を、明治37年(1904)ごろ、奇人でならした薄幸の天才、三代目蝶花楼馬楽が東京に移しました。明治38年(1905)3月の、日本橋常磐木倶楽部での第四回(第一次)落語研究会に、まだ二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。

これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、江戸(東京)と違うところです。

馬楽から小さんへ

馬楽から弟弟子の四代目柳家小さんが継承し、小さんは、馬楽が出していた女房連をカット、くすぐりも入れて、より笑いの多い楽しめるものに仕上げました。

そのやり方は五代目小さんに伝えられ、さらにその門下の柳家小三治の極めつけへとつながっています。

オチは、馬楽のものは「酒柱」と「井戸へ落っこった気分」が逆で、後者で落としています。

このほか、上方のオチを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎをなれあい喧嘩で妨害し、向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって「ちょっと踊らしてもらおうと」「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」「酒のお代わりを持ってきました」とする場合もあります。

おなじみのくすぐり

どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽が考案し、百年も変わっていないくすぐりです。

いかに日本人がプロトタイプに偏執するか、これをもってもわかるというものです。

冒頭の「家賃てえのはなんだ」というのもこの噺ではお決まりですが、こちらは上方で使われていたくすぐりを、そのまま四代目小さんが取り入れたものです。

長屋

表長屋は表通りに面し、二階建てや間口の大きなものが多かったのに対し、裏長屋(裏店=うらだな)は新道や横丁、路地に面し、棟割(むねわり、一棟を間口九尺、奥行二間の何棟かに仕切ったもの)になっています。

同じ裏長屋でも、路地に面した外側は鳶頭や手習いの師匠など、ある程度の地位と収入のある者が、木戸内の奥は貧者が住むのが一般的でした。

上野の桜

「花の雲鐘は上野か浅草か」という、芭蕉の有名な句でも知られた上野山は、寛永年間(1624-44)から開けた、江戸でもっとも古く、由緒ある花の名所でした。

しかし、寛永寺には将軍家の霊廟があり、承応3年(1654)以来、皇族の門主の輪王寺宮が住職を務める、江戸でもっとも「神聖」な地となったため、下々の乱痴気騒ぎなどもってのほか。

「山同心」が常時パトロールして目を光らせ、暮れ六つ(午後六時ごろ)には山門は閉じられる上、花の枝を一本折ってもたちまち御用となるとあって、窮屈極まりないところでした。

そのため、上野の桜はもっぱら文人墨客の愛するものとなり、市民の春の行楽地としては、次第に後から開発された、品川の御殿山、王子の飛鳥山、向島に取って代わられました。

したがって、たとえ「代用品」ででも花見でのめや歌えをやらかそうと思えば、この噺にかぎっては、厳密には時代を明治以後にするか場所を向島にでも変えなければならないわけです。

はなみざけ【花見酒】演目

酒のみの噺。呑み助は、いろんなところでしくじるもののようですね。

あらすじ

幼なじみの二人。

そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。

ところが、あいにく二人とも金がない。

そこで兄貴分がオツなことを考えた。

横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。

酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。

もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。

そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。

着いてみると、花見客で大にぎわい。

さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。

そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。

それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。

「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。

二人はもうグデングデン。

「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」

なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。

ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。

「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」

またどうぞもなにもない。

客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。

「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

経済破綻を予言 『花見酒の経済』   【RIZAP COOK】

昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎の『花見酒の経済』は、当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見した名著でした。

つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。

向島の桜  【RIZAP COOK】

八代将軍吉宗の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。

向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。

復活待たれる噺  【RIZAP COOK】

八代目林家正蔵(彦六)や六代目春風亭柳橋が手がけました。おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。

明治期の古い速記では、四代目橘家円喬のが残っています。二代目三遊亭金馬のものも。明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。

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かじむすこ【火事息子】演目

火事好きのせがれ。家出の果ては全身文身の臥煙に。火事が親子の対面。

あらすじ

神田三河町の、伊勢屋という大きな質屋。

ある日近所で出火し、火の粉が降りだした。

火事だというのに大切な蔵に目塗りがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。

その時、屋根から屋根を、まるで猿のようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。

身体中見事な刺青で、ざんばら髪で後ろ鉢巻に法被という粋な出で立ち。

ぽんと庇の間に飛び下りると、
「おい、番頭」

声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。

男は火事好きが高じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当になったまま行方知れずだったこの家の一人息子・徳三郎。

慌てる番頭を折れ釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。

「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあおめえの忠義になるめえ」

おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。

見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。

「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。

しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。

顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。

「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。

勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。

わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」

そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。

甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。

「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。

母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。

「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。

「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」

意味を察して、母親は大張り切り。

「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」

しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言いだすから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」

しりたい

命知らずの臥煙渡世   【RIZAP COOK】

ここでは、徳三郎は町火消ではなく、定火消、すなわち武家屋敷専門の火消人足になっている設定です。

これは臥煙(がえん)とも呼ばれますが、身分は旗本の抱え中間(武家奉公人)で、飯田町(今の飯田橋辺)ほか、10か所に火消屋敷という役宅がありました。もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたります。平時は役中間部屋の大部屋で起居しています。太い丸太ん棒を枕にしてざこ寝して、いざ火事となると不寝番が丸太ん棒の端っこを叩いて起こす、という粗っぽさ。法被一枚、下帯一本で火事場に駆けつけます。家々を回って穴開き銭の緡縄を高値で押し売りしたり、役中間部屋では年中賭場を開いたりしている、江戸のダニです。やくざです。それでも火事となるといさみにましらのごとく屋根から屋根を飛び移っては消火に励むわけで、まさに役に参ずる人たちでした。

せがれが臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆きが推量できますが、この連中は町火消のように刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったわけです。

小説「火事息子」   【RIZAP COOK】

落語の筋とは直接関係ありませんが、劇作家・演出家でもあった久保田万太郎(1889-1963)に、やはり、爽やかな明治の江戸っ子の生涯を描いた同名の小説があります。

これは、作者の小学校同窓であった、山谷の名代の料亭「重箱」の主人の半生をモデルとしたものです。重箱は今も赤坂にある鰻屋。超高級店です。江戸時代には山谷にありました。今と違って、山谷は避暑地でした。

八代目正蔵の生一本   【RIZAP COOK】

徳三郎は、番頭を折釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。

ともすればお涙ちょうだいに堕しがちな展開を、この親子の心意気で抑制させた、すぐれた演出です。

こうした、筋が一本通った古きよき江戸者の生きざまを、数ある演者の中で、特に八代目林家正蔵が朴訥に、見事に表現しました。

明治期には初代三遊亭円右の十八番で、昭和に入っては正蔵始め、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生、三代目桂三木助など、名だたる大看板が競演しています。

火消屋敷

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おしのつり【唖の釣り】演目

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これもう聴けない噺です。物語の底力に魅力あるのでこちらで笑ってください。

【あらすじ】

ばかの与太郎に、釣りをする奴はばかと言われた七兵衛、思わずむっとして、殺生禁断の不忍池で鯉を密猟し、売りさばいてもうけていることをばらしてしまう。

弱みを握られ、その夜、与太郎を連れて「仕事」に行く羽目に。

そこで七兵衛、
「見張りの役人に見つかったら、どうせ4発はぶたれるから、出る涙を利用し『長の患いの両親に、精のつく鯉を食べさせたいが金がなく、悪いこととは知りながら孝行のため釣りました。親の喜ぶ顔さえ見れば名乗って出るつもりでした』と泣き落とせば、孝行奨励はお上の方針、見逃してくれる」
と知恵をつける。

ところが与太郎、あまりに簡単に釣れたので大はしゃぎ。

案の定、捕まって10発も余計にぶたれたが、教えられた泣き落としがなんとか効き、お目こぼしでほうほうの体で逃げていく。

一方、七兵衛、池の反対側でせっかくこっそり釣っていたのに、与太郎のとばっちりで見つかり、これまたポカポカポカ。

恐怖と痛さで腰が抜け、ついでにあごも外れてしまう。

とっさにこれを利用して、アーウーアーウーと身振り手振りを交えて大熱演。

役人、
「口がきけない奴ではしかたがない」
と、これまためでたく釈放。

許してつかわすと言われて思わず
「ありがたいッ」

【しりたい】

これも上方発祥

口の不自由な者が最後に口を利くというオチの部分の原話はかなり古く、京都辻ばなしの祖とされる初代露の五郎兵衛が元禄11年(1698)に刊行した『露新軽口ばなし』中の笑話「又言ひさうなもの」です。

上方落語「唖の魚釣り」として細部が整えられ、東京には八代目林家正蔵が、大阪の二代目桂三木助に教わったものを移しました。

舞台は大阪では天王寺の池、東京の正蔵では寛永寺の池と言い、普通は具体的には言わないもののようです。

正蔵は大阪で甚兵衛といっている主人公の名を七兵衛と変えましたが、これは身振り手振りで名前が出やすいようにという配慮の由です。

殺生禁断

江戸時代、寺社の池はどこも仏教の殺生戒により、殺生禁断が寺社奉行より申し渡されていましたが、上野の近辺は寛永寺の将軍家御霊屋があるため、不忍池では禁忌が特に厳しく徹底されていたわけです。

下手をすれば密漁人は死罪に処さなければならないので、番人もなるべく未遂で済まそうと警戒怠りなかったのでしょう。

蛇足ですが、松竹新喜劇の人気演目『浪花の鯉の物語』(平戸敬二作)は、やはり狩猟禁止の大坂・厳島神社の鯉の密漁騒動をめぐる人情喜劇で、あるいは落語になんらかのヒントを得ているのかも知れません。

オチが同じ「ひねりや」

正蔵も芸談で触れていますが、今はもうやり手のいない、古い江戸落語「ひねりや」はオチが「唖の釣」と同じで、明治33年(1900)の初代三遊亭円左の速記が残ります。

あらすじは、町内一のひねり屋(=変わり者、あまのじゃく)・捻(ひねり)屋素根右衛門が、沢庵石に注連縄を張って拝んだ結果、素根吉という男の子を授かります。この子が成長するとひきこもりになり、本ばかり読んでいるので、親父が「明烏」よろしく、道楽をしないと勘当だと脅すので、渋々大八車で吉原へ。

これが親父まさりのひねくれで、さんざん妙なものを注文したあげく、目が三つあるような変わった花魁を出してくれたら、ご祝儀に二十両、花魁には百両はずむと言い出したので、欲にかられた帳場では目は不自由ながら耳は聞こえるという女郎を「急造」して座敷に出します。

にわか花魁、百両欲しさに目をむいて身振り手振りで大奮闘。ムームー言っているうち、女の名前を「権兵衛」と聞き違えた素根吉若だんな、喜んで百両出すと、女は感激のあまり「ああら、ちょいと、ありがとう」「おや、口をきいた」。

すたれさせるにはもったいないエスプリの利いた噺ですが、時代の趨勢、「唖の釣り」同様まったく演じられません。しかたありません。

いちがんこく【一眼国】演目

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みんなが同じならヘンでもナンでもないんですねえ。

【あらすじ】

諸国をまわり歩く六部が、香具師(やし)の親方のところに一晩の宿を借りた。

香具師はなにか変わった人間でもいれば、いや化物ならなおさらいいが、とにかく捕まえて見世物にし、金もうけの種にしようと八方手を尽くして探している。

翌朝、六部に
「おまえさんは諸国をずいぶんと歩いている間に、ヘソで唄をうたったとか、足がなくって駆けだしたとか、そういう変わった代物を見ているだろう。ひとつ話を聞かせてくれないか」
と持ちかけたが、六部は
「そんな話はとんとない」
という。

一宿の恩をたてにさらにしつこく聞くと、ようやく、
「まァ、つまらないことですが……」
と、六部が思い出した話を披露する。

こちらに来る途中、道に迷って東へ東へと歩いていくと、森に入り、日も暮れかかったので、野宿でもしなければならないかと、ため息をつきながら木の根方に腰を掛け、一服やっていた。

すると、
「おじさん、おじさん」
と呼ぶ声がしたので、振り返って見ると、五つか六つの女の子。

よく眺めると目が一つしかない。

仰天して夢中で駆け出し、ようやく里に出た、というもの。

香具師は喜んで、六部に金を包んで出発させ、さっそくその日のうちに旅支度をして家を出た。

東へ東へと歩いたが、なにも出ない。

そのうちに日も暮れてきて、これは六部のやつに一杯食ったかと悔しがっているうち、四、五丁も歩いたところで森に出た。

話の通り木の根方でプカリプカリと煙草をふかしていると、後ろの方で
「おじさん、おじさん」
という声。

「しめた、こいつだ」
と思って振り返ると、案の定、目が一つ。

これは見世物にすればもうかると欲心に駆られて、ものも言わずに飛びかかってひっ捕まえると、子供を小脇に抱え、森の外に向かって一目散。

子供はキャアッと悲鳴を上げる。

その声を聞きつけたのか、ホラ貝の音が響きわたったかと思うと、鋤鍬担いだ百姓たちが大勢追いかけてくる。

みんな一つ目。

必死で逃げたが、ついに木の根っこにつまずいて
「この人さらいめ」

寄ってたかってふん縛られ、突き出された先がお奉行所。

奉行が
「こりゃ、人さらい。面を上げい」

ひょいと見上げると、お奉行も役人もみんな一つ目。

奉行の方もびっくり。

「やや、こやつ……おのおの方ごらんなされ。こやつ目が二つある。調べは後回しじゃ。見世物に出せ」

【しりたい】

彦六の古風な味

柳家小さん系の噺で、生ッ粋の江戸落語です。

四代目小さんが得意にしていましたが、戦後この噺を磨き上げた彦六の八代目林家正蔵は、円朝門下の最後の生き残り、一朝爺さんこと三遊一朝(昭和5年没)からの直伝で、小さんの型も取り入れたと述べています。

ほかにこの噺をよく演じた五代目志ん生のような面白さはありませんが、正蔵独特の、古風なしっとりとした語りを聞かせました。

志ん生の「一眼国」

六部が珍しい話などないと言うと、それまで、泊まっていけ、飯を食えと愛想を振りまいていたのが一変し、「ああ、お茶なんぞォいれなくったっていいやァもう、うん。ああご飯いいんだよ、もう、帰ってもらやァいいんだからァ」と豹変して脅しにかかるところが、この人独自で笑わせます。

そのほか、行く先が「江戸から東へ三日行った森」(一眼国は小田原あたりか?)だったり、奉行が「なぜ、人の子供を黙ってさらう?」と言ったり(いちいち許可を得てさらうかどわかしはありません)、とにかくハチャメチャなのが、いかにも志ん生です。

見世物

地味な噺なので、正蔵も志ん生も、笑いをとるため、マクラに江戸時代の両国広小路や浅草奥山のインチキ見世物をおもしろおかしく説明します。

これについては「がまの油」や「花見の仇討ち」でも詳しく記しましたが、正蔵は「鬼娘」「目が三つ歯が二本の化物(ゲタ)」「八間の大燈籠(ただ通って表に出されるだけ)」といった向両国・回向院境内の見世物、俗に「モギドリの小屋」について説明していて、今では貴重な証言です。

「モギドリ」は、銭を客からもぎ取ってしまえば、あとはいっさいかまわないということからきています。

香具師

やし。見世物師ですが、「鬼娘」「手なし男」など、身体障害者を「親の因果が子に報い……」の口上で見世物にする悪質な香具師を「因果者師」と呼びました。今ではむりです。

この噺の主人公がそれで、八代目正蔵では「男の子と女の子が背中合わせで生まれたとか、アヒルの首が逆にくっついているなんてえのはねえかい?」と六部に尋ねていますし、志ん生は「足がなくって駆け出すとか、へそでなんか食べるとかね、なんか変わってるものがいいんだがねェ、ないかねェ? 天井裏ィ足の裏くっつけて歩く人とか……」と香具師に言わせています。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『因果小僧』では、主人公の盗賊・六之助の老父・野晒小兵衛が落ちぶれた因果者師の成れの果てという設定です。

六部

ろくぶ。巡礼者で、法華経六十六部を写経し、日本全国六十六か所の霊場に各一部ずつを納めたことにその名が由来します。したがって、正しくは「六十六部」と記します。

全国の国分寺や一の宮を巡礼する行者です。

のちには鉦をたたき、鈴を振って各家を物ごいして歩く者の名称にもなりました。落語には「花見の仇討ち」「山崎屋」「長者番付」などにも登場します。

古郷へ 廻る六部は 気の弱り (俳風柳多留・初)

一眼

ギリシア神話のキュクロプスをはじめ、世界各国に伝説があります。

山の神信仰が元といわれ、山神の原型である天目一箇命(あまのまのひとつのみこと)が隻眼隻足とされていたことから、こうした山にすむ妖怪が考えられたとみられます。

ぞろぞろ【ぞろぞろ】演目

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「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。

【あらすじ】

浅草田圃の真ん中にある、太郎稲荷という小さな社。

今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。

老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物や飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。

爺さんも婆さんも貧しい中で信心深く、神社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。

ある日のこと。

夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。

雨が止むまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。

こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。

一度飛び出していった客が、また戻ってきた。

外がつるつる滑って危なくてしかたがないという。

ふと天井からつるした草鞋(わらじ)を見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」

一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。

夫婦で、太郎稲荷さまのご利益だと喜び合っていると、近所の源さんが現れ、鳥越までこれから行くからワラジを売ってくれと頼む。

「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」

言われて見上げると、確かに一足ある。

源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。

それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。

これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験だと、この茶屋はたちまち名所に。

田町あたりの、はやらない髪床の親方。

客が来ないので、しかたなく自分のヒゲばかり抜いている。

知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。

行ってみると、押すな押すなの大盛況。

茶店のおかげで稲荷も繁盛し、のぼり、供え物ともに以前がうそのよう。

爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念品にワラジを買う人間が引きも切らない。

親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参りをする。

満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。

親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀をあてがってすっと剃ると、後から新しいヒゲが、ぞろぞろっ。

【しりたい】

彦六ゆかりの稲荷綺譚

これも元々は上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ圓都(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷(大阪市浪速区稲荷町)でした。

東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(六代目円生の師匠)が手がけ、その演出を継承した彦六の八代目林家正蔵が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。

戦後では三代目三遊亭小円朝も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。

太郎稲荷盛衰記 その1

太郎稲荷は、浅草田圃の立花左近将監(筑後柳川十一万九千六百石)下屋敷の敷地内にありました。

当時の年代記『武江年表』の享和3年(1803)の項に、その年二月中旬から、利生があらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。

あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日(一日)、十五日、二十八日および午の日と制限したほどでした。

太郎稲荷盛衰記 その2

文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。

この噺にある通り、さびれていた祠がりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。

ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝・車町から発した大火で灰燼に帰し、それから二度と復興されませんでした。

太郎稲荷のおもかげ

夭折した浮世絵師、井上安治(1864-89)が、明治初期の太郎稲荷を描いています。満月が照らす荒涼とした風景はぐっとくる懐かしさです。

樋口一葉(1872-96)の『たけくらべ』でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。

浅草田圃太郎稲荷 井上安治 東京都立中央図書館所蔵

せんりょうみかん【千両みかん】演目

 

病床の若だんな、真夏にみかんを食べたいと。番頭は四苦八苦。

【あらすじ】

ある呉服屋の若だんなが急に患いつき、食事も受け付けなくなった。

大切な跡取り息子なので両親も心配して、あらゆる名医に診てもらうが、決まって
「これは気の病で、なにか心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」
と言うばかり。

そこで、だんなは番頭の佐兵衛を呼んで、
「おまえはせがれを小さい時分からめんどうを見ているんだから、気心は知れている。なにを思い詰めているか聞き出してほしい。なんだろうとせがれの命には換えられないから、きっとかなえてやる」
という命令。

若だんなに会って聞きただすと、
「どうせかなわないことだから、かえって不孝になるので、言わずにこのまま死んでいく」
と、なかなか口を割らない。

どうせどこかの女の子に恋患いでもしたんだろうと察して、
「必ずどうにかしますから」
とようやく白状させてみると、
「それじゃ、おまえだけに言うがね、実は、……みかんが食べたい」

あっけに取られた番頭、そんなことなら座敷中みかんで埋めてあげますと請け合って、喜んで主人に報告。

ところがだんな、難しい顔で、
「とんでもないことを言ったもんだ。じゃ、きっと買ってくるな」
「もちろんです」
「どこにみかんがある」

それもそのはず、時は真夏、土用の八月。

はっと気づいたが、もう遅い。

「おまえが今さら、ないと言えば、せがれは気落ちして死んでしまう。そうなれば主殺し。磔だ。きっと召し連れ訴えてやるからそう思え。それがイヤなら……」

それがイヤなら、江戸中探してもみかんを手に入れてこいと脅され、佐兵衛、かたっぱしから果物屋を当たるが、今と違って、どこにもあるわけがない。

ハリツケ柱が目にちらつく。

しまいに金物屋に飛び込む始末。

同情した主人から、神田多町の問屋街へ行けばひょっとすると、と教えられ、ワラにもすがる思いで問い合わせると
「あります」
「え、ある? ね、値段は?」
「千両」

蔵にたった一つ残った、腐っていないみかんが、なんと千両。

とても出すまいと思ってだんなに報告すると
「安い。せがれの命が千両で買えれば安いもんだ」

これに佐兵衛はびっくり。

「あのケチなだんなが、みかん一つに惜しげもなく千両。皮だって五両ぐらい。スジも二両、一袋百両。あー、もったいない」
と思いつつもみかんを買ってきた。

喜んで食べた若だんな、三袋残して、
「これを両親とお祖母さんに」
と言う。

「オレが来年別家してもらう金がせいぜい三十両……。この三袋で……えーい、長い浮世に短い命、どうなるものかいっ」

番頭、みかん三袋持ってずらかった。

【しりたい】

古い上方落語   【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「蜜柑」を、大阪の松(笑)福亭系の祖で、文政、天保期(1818-44)に活躍した初代松富久亭松竹が落語に仕立てたものです。

オチにすぐれ、かつての大坂船場の商家の人間模様も織り込んだ、古い上方落語の名作ですが、東京に移されたのは比較的新しく、戦後と思われます。

東西の演者   【RIZAP COOK】

東京では八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭志ん生が演じました。

正蔵は、みかん問屋を万屋惣兵衛としました。「万惣」は、神田多町の老舗問屋で、のちに千疋屋と並ぶ有名なフルーツパーラーになりました(現在は閉店)。

志ん生のくすぐりでは、金物屋で番頭が、引き回しやハリツケの場面を聞かされて腰を抜かすくだりが抱腹ですが、この部分は上方の演出を踏襲しています。

上方の桂米朝のは、事情を説明すると問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店の見栄で、金に糸目はつけないとしつこいので、問屋も意地になって千両とふっかける、という段取りでした。

青物市場   【RIZAP COOK】

みかんを始め、青果を扱う市場は、江戸では神田多町、大坂では天満で、多数の問屋が並び、それぞれこの噺の東西の舞台です。

多町の方は、開設は元禄元年(1688)ですが、それ以前の慶長年間(1596-1615)に、名主の河津五郎太夫という者が、すでに野菜市を開いていたとのことです。

大坂・天満は、京橋片原町(大阪市都島区片町)にあった市を承応2年(1653)に現在の天満橋北詰に移したものです。天満には当時からみかん専門店がありました。

「夏は、穴ぐらか、それとも夏でもひんやりする土蔵の中で、何重にも特殊な梱包をして、残そうとしたのでしょうか。囲うということをやった」(桂米朝)

みかん   【RIZAP COOK】

栽培は古く、垂仁天皇のころ、田道間守を常世の国につかわし、非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を求めさせたというくだりが『日本書紀』にありますが、事実かどうか。

ただし、飛鳥時代にはすでに栽培されていて、「万葉集」にも数歌に詠みこまれています。当時はユズ、ダイダイなどかんきつ類一般を「橘(たちばな)」と呼びました。

時代は飛んで、江戸に有田みかんが初入荷したのは寛永11年(1634)11月。その時にもう、京橋に初のみかん問屋が開業しています。

とめれ、この噺は人情噺のようでいて人情噺でない、不思議な感覚を覚える噺ですね。現代人の感性からすると、番頭の最後の独白が、しごくもっともと感じられるせいでしょうか。どんな忠義者といえども、この若だんなや親ばかだんなのような連中には、いくらなんでもつき合っていられないでしょうからねえ。

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