ごんすけざかな【権助魚】落語演目



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【どんな?】

女通いのだんな、口止めに権助を買収します。権助はだんなに冷たくて。

別題:熊野の牛王

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。

「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。



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りんきのひのたま【悋気の火の玉】落語演目

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【どんな?】

「悋気」は「ねたみ」。「吝嗇」は「けち」。この噺はねたみがテーマなんですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろだんながひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、だんなが飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのはだんなで、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くとだんな、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。

原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。

これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(1762-1833)によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。

わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶだんあ一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。

文楽は、だんながお妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

文楽の没後は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)がよく演じ、現在でも高座に掛けました。

音源は文楽のみです。

ケチと悋気は親類?  【RIZAP COOK】

悋(ねたむ)と吝(おしむ)は同訓で、悋には吝嗇(吝も嗇もおしむ)、つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。

一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉りんしつ」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。

それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。

悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

やきもちは遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。

別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。

「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。

西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。

芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の、山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、先の大戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。

向かいは、樋口一葉(樋口なつ、1872-96)ゆかりの地、かつての下谷竜泉寺町です。

箕輪の浄閑寺(浄土宗、荒川区南千住二丁目)、新鳥越橋南詰(台東区浅草七丁目)にあった西方寺(浄土宗、俗称は土手の道哲、豊島区西巣鴨に移転)とともに、吉原のお女郎さんのむくろが投げ込まれる、投げ込み寺でもありました。

蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

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