にせきん【贋金】演目

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廃れた噺ですが、けっこうおもしろいですよ。

別題:錦屋の火事(上方)

【あらすじ】

ころは明治。

大酒飲みで名の通った某士族の家に、出入りの道具屋、金兵衛が、先日売った書画の残金三円を掛け取りにやってくる。

この殿さま、酔うと誰彼かまわずからむ癖があるやっかいな代物で、今日も朝からぐでんぐでんになった挙げ句、奥方や女中を悩ませている。

さっそく標的になった金兵衛、おそるおそる催促するが、殿さまは聞かばこそ。

三円ばかりの金をもらうという料簡だからきさまは大商人になれん、俺はきさまをひいきに思えばこそ金はやれんと、酔いに任せて吹き放題。

のまされるうちに金さんにも酔いが回ってきて、殿さまのためならご恩返しに首でも命でも捨てまさァ、と、言ってしまう。

「その一言に相違なければ、その方にちと頼みがある」
「だからさァ、首でも命でもあげますってのに」

その頼みというのが、実にとんでもないことで、友達が今度、おのおのが珍しいものを持ち寄って楽しむ会を催すことになり、そこで自分も珍物を出品したいが、それについて思い出したのがきさまの金玉。

「きさまのがタヌキ並みであることを知っておるによって、ぜひ切り取って譲ってもらいたい。明朝八時までに持ってくれば、代金五十円やる。いやなら即刻お出入り禁止にする」
ときた。

すっかり酔いが醒めた金兵衛、しどろもどろになったがもう遅い。

泣く泣く、チン物提供を約束させられてしまった。

翌日。

飲み明かして二日酔いの殿さま。

これが昨日のことはすっかり忘れてしまっている。

そこへ、青い顔をした金兵衛がやって来て
「お約束通り、金を切ってきました」

さあ、困ったのは、殿さま。

なにしろ、そんな約束はキレイさっぱり忘れているうえ、こんなものを持ちこまれても外聞が悪い。

しかたがないので、治療代五十円に、借金分兼口止め料三円も付けてようやく帰ってもらったが、そこでつくづく自分の酒乱を反省し、酒をのむたびに五十円の金玉を買ったのではたまらないので、すっぱりと酒を止めると、言いだす。

それにしても気の毒なのは金兵衛、と改めて包みの中をのぞいてみると、これが金玉とは真っ赤ないつわりで、蛸の頭を二つ生ゆでにして毛を刺しただけ。

「あいつめ、五十円ごまかしたな」

それから三日とたたないうちに、金兵衛はお召し捕り。「贋金づかい」というので、お仕置きになった。

底本:二代目(禽語楼)小さん

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【しりたい】

貨幣贋造は厳罰

江戸時代の「公事方御定書」ではもちろん死罪。それが緩和され、死刑の適用範囲が減った明治3年(1870)の「新律綱領」、明治15年(1882)の刑法でも死刑。ビクトリア朝英国でも、アメリカでも縛り首。かっては世界中、どこでも死罪でなかった国はないくらいの重罪で、現在でも死刑を科している国がけっこうあります。

柳家の噺を三遊宗家が復活か

オチの部分は文化4年(1807)刊の笑話本『按古落当世』中の小咄が原話です。

古くから柳家小さん系の噺で、明治24年6月の『百花園』に二代目(禽語楼)小さんが「酒の癖」と題して速記を載せています。上方では「錦屋の火事」の題で演じられていました。

二代目小さん以後、三代目小さん、三代目蝶花楼馬楽と弟子、孫弟子に継承されましたが、三遊系の三代目三遊亭円馬らも演じ、戦後、二代目小さんの速記をもとに六代目円生が復活しました。

禁演落語の一

戦時中「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語の一つです。モノがモノなので、艶笑落語という理由ではなく、この非常時に不謹慎な、という自粛もあったでしょう。

【語の読みと注】
公事方御定書 くじかたおさだめがき
按古落当世 あごおとせ

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ちょうちんや【提灯屋】演目

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上方から東京にもってきた噺。滑稽噺の秀作です。

【あらすじ】

無筆が多かった昔の話。

町内でチンドン屋が、広告を配って歩いている。

長屋の連中、広告を見てやってきたと言えば向こうで喜び、お銚子の一本も出すかも知れないと、さっそく出かける相談。

ところがあいにく、誰も字が読めず、何屋なのかわからない。

そば屋ならもっとのびた字を書きそうなものだし、寿司屋なら握った字を書いてあるはず、てんぷら屋か、はたまた中華料理か、変わったところで、大阪ではすっぽんをまるというから、こう字が丸まったところを見てすっぽん屋かしら、いや、かしわ(鶏)料理屋だろうと、食い意地が張って、片っ端から食い物屋の名前を並べ立てても、らちが明かない。

そこへ米屋の隠居が来たので、読んでもらうと、これが食い物ではなく、提灯屋の新規開店の広告。

一同がっかり。

「当日より向こう七日間は開店祝いとして、提灯のご紋、笠の印等は無代にて書き入れ申し候。柏町一丁目五番地、提灯屋ブラ右衛門」と、あった。

万一、書けない紋があるときは、お望みの提灯をタダでくれるというので、「大きなことを抜かしゃあがる。それなら証拠の広告を持って、タダでもらってこようじゃねえか」と、一座の兄貴分が計略を巡らす。

とても書けないような紋を言い立て、へこましてやろうという算段だ。

まず一人目が、
「鍾馗さまが大蛇を輪切りにした紋を書いてみろ」
と判じ物で迫り、降参させる。

鍾馗さまは剣を持っていて、うわばみを胴斬りにしたから、まっ二つに分かれて片方がうわ、もう片方がばみ。併せて、剣かたばみ、というわけ。

二人目は
「仏壇の地震てんだが、書けるか?」

仏壇に地震がくれば、りんもどうもひっくり返るから、りんどう崩し。

これで、ぶら提灯を二つせしめた。

三人目は「髪結床看板が湯に入って熱い」という、妙な紋。

髪結床の看板はねじれていて、熱いからうめろというので、合わせてねじ梅。

四人目は
「おめえだな、提灯をただくれるてえのは」
と、最初からもらったも同然というずうずうしさ。

この男のが長い。
「算盤の掛け声が八十一で、商売を始めて、もうかったが持ちつけない銭を持って、急に道楽を始めた。家に帰らないから嫁さんが意見がましいことを言う。なに言ってやんでえベラボウめ。男の働きだ。ぐずぐず言うならてめえなんぞ出ていけってんで、かみさんを離縁しちまった」
という紋。

謎解きは、八十一は九九、もうかったから利があり、これでくくり。かみさんが去っていったから、合わせてくくりざる。

出す提灯、出す提灯、みんなタダで持っていかれた提灯屋、もうなんとでも言ってきやがれ、とヤケクソ。

一方、町内は提灯行列。

そこへ、隠居までやって来た。

さあ、こいつが元締めかと、提灯屋はカンカン。

隠居、よりによって一番高い高張提灯がほしいと抜かす。しかも二つも家まで届けろというから、念がいっている。

「で、紋だが」
「ほうら、おいでなすった。鍾馗さまが大蛇を輪切りにして、仏壇の地震でもって、八十一が商売始めて、もうかってかみさんを離縁したって言おうてんだろう」
「落ち着きなさい。私の紋は丸に柏だ」
「うーん、元締めだけあって、無理難題を言ってきやがる。丸に柏、丸に柏と……あッ、わかった。すっぽんにニワトリだろう」

【しりたい】

提灯屋の集団

噺の中に「傘の印」とあるように、傘を合わせてあきなっているところも多く、その場合、傘の形をした看板に「ちゃうちん」と記してありました。「花筏」をご参照ください。

もちろん、この噺でわかるように、紋の染物屋も兼ねた、三業種兼業のマルチ企業だったわけです。

判じ物

判じ物は、狭義では絵や文字から、隠された意味を解かせるもので、現在の絵解きパズルに当たります。単なるなぞなぞ、なぞかけを意味することもあり、この噺で持ち込まれる難題は、そちらに当たります。

江戸っ子はシャレ好きで、地口、なぞかけなど、さまざまなクイズを楽しみ、時には賭けの対象にしました。

代表的ななぞかけには、

宵越しのテンプラ→揚げ(=上げ)っぱなし 
金魚のおかず→煮ても焼いても食えない 
やかんの蛸→手も足も出ない

などがあります。「宵越しのテンプラ」などは、現在でもエスカレーターが上りだけで下りがないビルなどに使えそうですね。

『浮世断語』(三代目三遊亭金馬著、河出文庫から復刻)」は、江戸っ子学の宝庫で、こうしたなぞかけ、判じ物についてわかりやすく解説し、実例も豊富に載っています。

残る速記は五代目小さんのだけ

落語としては上方が本家で、東京移植者は三代目三遊亭円馬と言われますが、はっきりしません。円馬から四代目柳家小さんを経て、五代目小さんに継承されました。現在、小さん一門を中心に演じられていますが、手掛ける者は多くはないようです。

速記、音源とも、長らく五代目のものだけでしたが、柳家小三治、三遊亭小遊三などのCDも出ています。上方では、露の五郎兵衛が演じていました。

発掘された原話

原話はずっと不明とされていましたが、武藤禎夫(落語研究家)は、明和6年(1769)刊『珍作鸚鵡石』中の「難題染物」を原型としてあげています。

これは、提灯屋は登場しませんが、大坂・嶋の内に「難題染物」の看板を掲げる店があり、そこの主人が無類の囲碁好き。今日も友人と碁盤を囲んでいるときに「一つ足らん狐の一声」という紋の注文が来ます。わからずに考え込むと、友人が、「九曜の紋(大円の周りを八つの小円が囲む)なら十に一つ足らず、狐の一声なら『コン』で、合わせて紺の九曜」と、教えるという筋です。

紋を注文するのに、なぞかけで出すという趣向が、確かに「提灯屋」の原話と思わせる小咄です。

【語の読みと注】
鍾馗 しょうき
判じ物 はんじもの:謎かけ

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竹の水仙 たけのすいせん 演目

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講談の名匠ものを借用した一席。だから、オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎、
「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」
と言い渡す。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になり、このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公
「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然と
「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

いよいよ出発という時、甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平、ゲンキンなもので
「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

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【うんちく】

小さんの人情噺

五代目柳家小さんの十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸がやっていました。柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一説を落語化したものとみられます。

「三井の大黒」「ねずみ」など、落語の「甚五郎」ものはいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「三井の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があって、三代目桂三木助は「ねずみ」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご

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大仏餠 だいぶつもち 演目

【RIZAP COOK】

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八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

【あらすじ】

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

「三代目になっちゃった」

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかも知れませんね。やはり、自分の専売特許を侵害された(?)文楽のタタリでしょうか。「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、大阪の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、安永9年(1780)刊の秋里籬島著「都名所図絵」にも絵入で紹介されるほどの名物で、同書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。滝沢馬琴が享和2年(1802)、京都に旅したおり、賞味して大いに気に入ったとか。この店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。

袴着の祝い

男児が初めて袴をはく儀式です。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。

朝鮮さはりの水こぼし

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

【語の読みと注】
八百善 やおぜん
面桶 めんつう

【RIZAP COOK】

相撲の蚊帳 すもうのかや 演目

【RIZAP COOK】

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これまた、くだらないといえば実にくだらないネタですね。

別題:蚊帳相撲 こり相撲 妾の相撲

【あらすじ】

横町の米屋のだんな。

大の相撲好きで、町で会っても「関取」と呼ばないと、返事をしない。商売のことも、商談で出かけることを興行と呼ぶくらい。

十日の相撲なら、小屋を建てるところから壊すところまで、十二日間見ないと気が済まないほど。

今日も、贔屓の相撲が負けたのでご機嫌斜めで妾宅に帰ってくる。

あまりぐちるので、お妾さんがなんとか慰めようと、私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりになって気分が晴れるでしょうと、提案する。

それもいいだろうと、帯を締め込みに、蚊帳を四本柱に見立て、布団を土俵にハッケヨイ。

お妾さんは、裸にだんなのフンドシ一丁だけを腰に巻かれるというあられもない姿にされたが、恥ずかしがっても、自分が言いだしたことだからしかたがない。

だんなが立ち上がると、お妾さんは捕まれば投げられるから、蚊帳の中をぐるぐる逃げ回る。

それをだんなが追いかけて、まるで鬼ごっこ。

とうとう、だんなの上手がマワシに掛かり、エイとばかりに豪快な上手投げ。

弾みは怖いもので、ほうり投げられたお妾さんが、蚊帳にくるまったまま台所へ転がった。

だんな、仁王立ちになって土俵をにらみつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群がここぞとばかり攻め寄せる。

「ブーン」
「ははあ、勝ったから、数万の蚊がうなってくれた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【うんちく】

三語楼が改作

原話は文政7年(1824)刊『噺土産』中の「夫婦」。明治29年(1896)11月、三代目柳家小さんの速記が残り、このオリジナル版は「こり相撲」「妾の相撲」「蚊帳相撲」など、いろいろな別題があります。

大正末に、初代柳家三語楼(1875-1938)が「賽(妻)投げ」として改作しました。三語楼は、異色のナンセンス落語で売り出した落語家。古今亭志ん朝(美濃部強次)の名付け親でもありました。当時、志ん生が三語楼の弟子だったからなのですが。

三語楼版では、投げるのをお妾さんでなく本妻とし、夫婦げんかで奥方が外へ放り出されると、巡査が通りかかって家に同道。だんなに賭博容疑で署まで来てもらうと言います。なぜだと聞くと、「今、サイ(賽=妻)を投げたではないか」というダジャレオチ。まあ、ここまではぎりぎりで普通のお色気噺、寄席で演じられるギリギリの限界は保っていたのですが、後がもういけません……。

弟子の改作

三語楼門下で語ん平と言っていた二代目古今亭甚語楼(1903-71)が、戦後、師匠の「妻投げ」をまた改作。さらにきわどくし、お座敷などで演じました。

筋は変わらないものの、たとえば、だんなが細君をフンドシ一丁にする場面で「帯がアソコに食い込んでいるじゃないか」と言ったり、「わき毛が濃いねえ」などとからかった後、取り組んで「ここでおまえの前袋を取る」「私、殿方のように前に袋はございませんから、私がつかみましょう」。「これはいかん、いつもの気分になってきた」「まわし、じゃまですわね。はずしましょうか……」。

ところが、まだこれでは終わりません。改作三度目、とうとうポルノに。作者、演者不明。

ある男、毎夜毎夜、細君を喜ばそうと苦心中。折も折、悪友から、女の門口を大金玉でピタンピタンたたくと喜ぶと聞き、さっそく夏みかんの特大を買い込む。これが大当たりで、かみさんは連日連夜「死ぬ、死ぬ」と大狂乱。真夜中なので、巡邏中のおまわりがこれを聞きつけ、戸を蹴破って踏み込んでくる。すったもんだでようやく事情をのみこんだおまわり、「あー、以後再びにせ金を使うこと、まかりならん」。四度目は……、もうありません。

超特急、大相撲史

宝暦から明和年間(1751-72)には、相撲の中心は上方から江戸に移り、初めて江戸独自の一枚刷り番付が発行されたのは宝暦7年(1757)でした。相撲場は、蔵前八幡境内から深川八幡、芝神明社、神田明神、市ヶ谷八幡、芝西久保八幡などを転々とし、天保4年(1833)に本所回向院境内が常打ち場に。以来、両国国技館開館の明治42年(1909)まで72年間、「回向院の相撲」が江戸の風物詩として定着。当初は小屋がけで晴天八日間興行だったのが、安永7年(1778)からは十日間になりました。天明から寛政年間(1789-1801)に入ると東西の大関に谷風、小野川が並立。雷電為右衛門の出現もあって、史上空前の寛政相撲黄金時代が到来します。

時代が下って、この速記の明治29年(1906)ごろは、明治中期の梅(梅ケ谷)常陸(常陸山)時代の直前。当時、初代高砂浦五郎(1838-1900)の相撲組織改革により、明治22年(1889)1月、江戸以来の相撲会所が廃止され、大日本相撲協会(実際は東京のみ)が発足。翌年2月、初めて番付に横綱(初代西ノ海嘉治郎)が表記されるなど、幕末以来、一時すたれていた相撲人気が再び盛り返してきていました。四本柱が廃止されたのは、はるかのちの戦後、昭和27年(1952)秋場所からです。

【語の読みと注】
贔屓 ひいき
妾宅 しょうたく:愛人の家

【RIZAP COOK】

三都三人絵師 さんとさんにんえし 演目

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志ん生も時折やってました。愉快なネタですね。

別題:京阪見物

【あらすじ】

江戸っ子の三人組が上方見物に来て、京の宿屋に泊まった。

その一人が寝過ごしているうちに、ほかの二人はさっさと市中見物に出かけてしまって、目覚めると誰もいない。

不実な奴らだと怒っていると、隣から声が聞こえる。

大坂の者と京者らしい。

よく聞いてみると、やれ鴨川の水は日本一で、江戸の水道はどぶ水だの、関東の屁毛垂れだの、人種が下等だのと、江戸の悪口ばかり。

さあ頭にきた江戸の兄さん、威勢よく隣室へ乗り込む。

さんざん悪態をついたあと
「やい黒ん坊、てめえの商売はなんだ」
「名前があるわ。わたいは大坂の絵師で、武斎ちゅうもんで」
「ムサイだあ? きたねえ面だからムサイたあよく付けた。やい青ンゾー、出ろ」
「うちは許してや」
「出ねえと引きずり出すぞ。てめえは何者だ」
「うちは西京の画工で俊斎」
「ジュンサイだあ? 道理でヌルヌルした面だ」
「それであんたは?」
「オレか? オレも絵師よ」

もちろん、大ウソ。

こうなればヤケクソで、
「姓は日本、名は第一、江戸の日本第一大画伯たあ俺のことだ」
と大見得を切る。

そこで、三都の絵師がせっかく一所にそろったのだから、ひとつ絵比べをしようじゃねえか、ということになった。

一人一両ずつ出し、一番いい絵を描いた者が三両取るという寸法。

俊斎が先に、木こりがノコを持って木を挽く絵を描いた。

「やい青ンゾー、てめえとても絵師じゃあメシがくえねえから死んじまえ」
「どこが悪い」
「木こりが持つのはノコじゃねえ。ガガリってえもんだ。それは勘弁してやるが、おが屑が描いてねえ」

これで、まず一両。

続いて武斎。

母親が子供に飯をくわせている図。

「やい、黒ん坊。てめえも絵師じゃ飯がくえねえが、二人並んで首ィくくるのもみっともねえから、てめえは身を投げろ。俺が後ろから突き飛ばしてやろう」

「これは、継子ならともかく、本当の子ならおっかさんが口をアーンと開いてやってこそ子供も安心して食べられる。それなのに、母親が気取って口を結んでいるとはどういうわけだ」

なるほどもっともなご託宣なので、武斎も、しかたなく一両出す。

いよいよ今度は、江戸っ子の番。

日本第一先生、もったいぶった顔で刷毛にたっぷり墨を含ませる。

ついでに二人の顔をパレット代わりに使い、真っ黒けにしてから、画箋を隅から隅まで黒く塗りつぶし、
「さあわかったか」
「さっぱりわからん」
「てめえたちのようなトンマにゃわかるめえ。こいつはな、暗闇から牛を引きずり出すところだ」

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【しりたい】

志ん生が復活した旅噺

この噺自体の原話は不明ですが、長編の「三人旅」シリーズの終わりの部分、「京見物(京阪見物)」の一部になっています。

三代目春風亭柳枝の明治26年(1893)の速記では「京阪見物」として、「東男」と称する市内見物の部分の後、「祇園会(祭)」の前にこの噺が挿入されています。

明治期にはほとんど「東男」や「祇園会」にくっつけて演じられましたが、二代目柳家小さんは、一席噺として速記を残しています。

その後すたれていたのを、戦後、五代目古今亭志ん生が復活。志ん生没後、ほとんどやり手はいません。

青ンゾー

青ん蔵とも書きます。ヒョロヒョロで顔が青いという印象で、京都人を嘲っているわけです。

上方落語「三十石」でも、船の中で大坂人が京都人をばかにして、「京は青物ばかり食ろうて往生(王城)の地や」と言う場面があります。

語源は北関東訛りの「アオンゾ」もしくは「アオンベイ」だといいます。

五代目志ん生は、「てめえはつらが長えから、あご僧だ」と言っていますが、これが志ん生の工夫なのか単なる勘違いかはわかりません。

同じく大坂の絵師をののしる「黒ん坊」は、芝居で舞台の介添えをする「黒子」のことです。

屁毛垂れ

へげたれ。江戸っ子をののしる言葉ですが、甲斐性なし、阿呆を指す上方言葉です。江戸者に使う時は、屁ばかり垂れている関東の野蛮人の意味と思われます。

ガガリ

大型のノコギリのことで、ガカリとも呼びます。用具に詳しいところから、この「江戸はん」は大工と見られます。

【語の読みと注】
屁毛垂れ へげたれ

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しの字嫌い しのじぎらい 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

主人と太郎冠者とののんきなやりとりみたいで、狂言のようなのどかさです。

【あらすじ】

さるご隠居が、飯炊きの権助一人を置いて、暮らしている。

小女などは扱いがめんどうくさいし、泥棒の用心にも男の方がいいと使っているのだが、この男、いちいち屁理屈をこねて主人に逆らうので、癪の種。

灯を煙草盆に入れろと言えば
「煙草盆に火を入れたら焦がしちまう。火入れの中の灰の上へ灯を入れるだんべ」
とくるし、困らせてやろうと
「衝立の絵の虎が気味が悪いから、ふんじばってくれ」
と言うと
「棒でその虎を追い出してくらっせえ」
と、一休のようなことを言ってすましている。

どうにも始末におえないので、しの字封じをしてとっちめてやろうと思いつき、権助に
「しの字は死んだ、身代限り、仕合せが悪いという具合に縁起が悪いから、これからおまえも、しを言ってはいけない。言えば給金をやらない」
と申し渡す。

権助は、隠居がもし言った場合は、望むものをくれるという条件で承知する。

「待ってくだせえ。今しの字を書いて飲んでしまう。ひいふうみ、さ、もう言わねえ」

これで協定が成立したが、隠居、なんとか権助に「し」と言わせようと必死。

不意に
「水は汲んだか」
と声を掛ければ、いつものくせで
「水は汲んでしまいました」
と二回言うに違いないと考えて試すと、権助引っかからず
「汲んで終わった」

隠居、思わず
「しょうがねえ」
と言いかけて、あわてて口を押さえ、今度は四百四十四文の銭を並べて勘定させれば、イヤでも言わないわけにはいかないと企むが、敵もさるもの。

四百四十四のところにくると、ニヤリと笑い
「三貫一貫三百一百二十二十文だ」

「そんな勘定があるか。本当を言え」
「よ貫よ百よ十」
「この野郎、しぶとい野郎だ」
「ほら言った。この銭はオラのもんだ」

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【うんちく】

原話はチョンボ

古い原型は、正徳年間(1711-16)刊の上方笑話本『異本軽口大矢数』中の「四の字を嫌ふだんな」にあり、続いて天明6年(1786)刊『十千万両』中の「銭くらべ」が、短い小咄ながら、現行のパターンにより近いものとなっています。

これはケチだんなと小僧の賭けで、「四の字」を言ったらお互い銭五貫文という取り決めです。仕掛けるのは小僧で、使いから帰ってだんなに、小僧が「モシ、だんな様。今日通り丁(=町)で、鍋屋が木の鍋に精出して、火であぶつておりました」、だんなが「とんだやつだ。それは大きに、しりがこげるだろう」と、あっさりひっかかって五貫文せしめられるという、たわいないものですが、小僧の言葉をよく読むと完全チョンボで、小僧が先に「モシ、だんな様」「精出して」で「シ」を二回も言ってしまっています。

それに加えてもしこの小僧が江戸っ子なら当然、「火で」は「シで」と発音しているわけで、そうなると勝負は、小僧が三回で十五貫、だんなが一回で五貫、差し引きで小僧が十貫の罰金です。

現在でも演者によって、人物設定を原話の通りだんなと小僧の対話とする場合があります。

名人二代、連発

現存するもっとも古い速記は、明治29年(1896)7月の三代目柳家小さんのものですが、暉峻康隆は、この速記の大チョンボを指摘していました。

よく通しで読むと、実は、ほかのところで権助は三度も「シ」とやらかしていて、だんなはそれに気づいていない、というわけです。

だんなが気づかないだけでなく権助当人も気づかず、演じている小さん当人も、当時の読者も編集者も速記者もすべてだれも気づかなかったに違いありません。

ちなみに、この噺の一部ををマクラに組み入れている二代目(禽語楼)小さんの「かつぎや」(明治22年)を調べると、案の定ここでも、客が「昨日は途中でシつれいを」とやり、後の方でも「よんるい中でそのよん睦会をもよおシまシて」、主人も主人で「ただあっちの方てえのはおかシいが」とやらかしています。

アラを探せばいくらでもこの種のチョンボはあらわれるもの。『古典落語・続』(興津要、講談社学術文庫)の速記(演者不明)でも、やっぱりありました。

おそらく、寄席で口演されるときでも、どの演者も一度や二度は必ずやっているはずです。

熟達の演者自身をも巻き込む、錯覚の恐ろしさ自体が、この噺のテーマと解釈すれば、実は傑作中の傑作ということになるでしょうか。

いずれにせよ、鶴亀鶴亀。一見前座噺のように見える軽い噺ですが、六代目三遊亭円生や三代目三遊亭小円朝のような、コトバに対して緻密な落語家しか手掛けなかったというのもなにやらうなずけます。

言霊の恐怖

類話に「かつぎや」があります。

同じ忌み言葉をめぐるお笑いでも、「しの字嫌い」の方は「かつぎや」の主人公と異なり、特に縁起かつぎというわけではありません。とはいえ、やはりそれなりに、日本人の言霊への根強い恐怖感が根底にあることはいなめないでしょう。

「し」をまったく発音しまいとするのは極端としても、披露宴の席での「忌み言葉」は厳として残り、「四」「九」の発音は「死」「苦」につながるという俗信は現在も残っていて、多くのアパートやマンション、ホテルでは444号室や44号室のルームナンバーは忌避されます。

江戸ことばでは四は、たとえば四文はヨモンというふうに発音を替えられるので問題ないものの、四十、四百は慣用的にシジュウ、シヒャクと発音せざるを得なかったので、そこにくすぐりが成立したわけです。

言葉によっては、四でも「四海波」をシカイナミと読まねばならないため、いちいち気にしていてはきりがありません。

おまけに、婚礼の席でうたわれる、おめでたい極みの謡曲「高砂」の一説に、「月もろともに出で潮の 波の淡路の島影や」と、ごていねいにも「シ」が二回入っているのですから、なにをか言わんやですね。 

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地口合わせ じぐちあわせ 演目

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「おやじくすぐり」などとさげすまされちまっては地口が泣きますね。

【あらすじ】

隠居が俳諧に凝っているというので、遊びに行った八五郎が、ぜひあなたの同類にしておくんなさいと頼み、珍妙な句会が始まった。

隠居が雪の題で
「初雪や せめて雀の 三里まで」
という通句があると言うと、八五郎が
「雀が三里 灸をすえたんで?」

隠「初雪や 二の字二の字の 下駄の跡」
八「初雪や 一の字一の字 一本歯の下駄の跡」
隠「初雪や 狭き庭にも 風情ある」
八「初雪や 他人の庭では つまらない」

さらに八五郎が
「初雪や 鉄道馬車の馬の足跡 お椀八つかな」
「初雪や 大坊主小坊主 おぶさって一緒に 転んで頭の足跡 お供えかな」
と迷句を連発。

隠居が
「おまえはおしゃべりだから、俳句より地口(語呂合わせ)の方が向いている」
と言うと、八は
「これは得意だからまかしておくんなさい」
と、これまた自信作を次から次へ。

「侍がフンドシを締めて片手に大小、片手に団扇で飛び上がっていると、下に据え風呂桶があって、その中から煙が出ている」
という長ったらしい前置きで
「飛んで湯に入る夏の武士(飛んで火にいる夏の虫)」

爺さんが集会をしているところに雨が降って
「雨降ってジジかたまる」
とまあ、やりたい放題。

「今度は狂歌七度返しはどうだ」
と隠居が言う。

「りんりんりんと咲いたる桃さくら嵐につられ花はちり(散り)りん」
「りんりんりんと振ったるなぎなたを一振り振れば首はちりりん」
「りんりんりんとりんごや桃を売っているさも欲しそうに立ってキョロリン」
「山王の桜に去るが三下がり合の手と手と手手と手と手と」
「トテテトテトテトテテテ」
「ラッパだね。手と手と手手と手と手と」

「トテトテテテトテト」
とやっていると、表から人が
「箔屋さんはこちらですか?」

底本:二代目柳家小さん

★auひかり★

【うんちく】

名人の「遺言」

明治31年(1898)8月の『文藝倶楽部』に、二代目柳家小さんが、禽語楼の隠居名で「ぢぐち」と題して速記を載せたものです。ところが、当人はその一月前の同年7月3日、満49歳で没しているため、これは事実上の置き土産、遺言とでもいえるものとなってしまいました。実際、小さんが病床で、速記者を呼んで口述筆記させたものと速記の断り書きにあります。

まあ、遺言がダジャレの羅列というのも、いかにも噺家らしいといえるでしょう。

改変自在の地口噺

原話は不明で、地口(ダジャレ)を並べ立てただけのものに、オチの部分は「雑俳」の「りん廻し」の部分を付けています。

地口そのものがわかりにくくなったため、現在ではこの題で口演されることはほとんどありません。

後半部分は「雑俳」の一部となっています。

地口の部分は演者によって大幅に変わります。

例えば、こわい大家を壷で焼いて「差配(さはい=さざえ)の壷焼き」、樽の中に子供が遊んでいて「樽餓鬼(=柿)」など。

今、シャアシャアとやれば、トマトをぶつけられるような古めかしい噺ですが、そこが「古きよき時代」だったのでしょう。

箔屋

はくや。箔屋は、金、銀、銅、真鍮などをたたいて、薄く平たく延ばす商売。オチは、「トテトテトテ」というのを、箔屋の槌の音と間違えたというだけ。これをラッパに直し、「雑俳」のマクラに使うこともあります。

【語の読みと注】
真鍮 しんちゅう

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三人無筆 さんにんむひつ 演目

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柳派の噺。いまとまっては時流にはなじまないかもしれませんね。

別題:帳場無筆 向こうづけ 無筆の帳付け

【あらすじ】

お出入り先の伊勢屋の隠居が死んだ。

弔いの帳付けを頼まれたのが熊五郎と源兵衛の二人。

熊は字が書けないので、恥をかくのは嫌だから、どう切り抜けようかとかみさんに相談すると、
「朝早く、源さんよりも先に寺に行って、全部雑用を済ましておき、その代わり書く方はみんな源さんに押しつけちまえばいい」
と言う。

「なるほど」
と思って、言われた通り夜が明けるか明けないかのうちに寺に着いてみると、なんと、源さんがもう先に来ていて、熊さんがするつもりだった通りの雑用を一切合切片づけていた。

源さんも同じ無筆で、しかも同じことをかみさんに耳打ちされてきたわけ。

お互い役に立たないとわかってがっかりするが、しかたがないので二人で示し合わせ、隠居の遺言だからこの弔いは銘々付けと決まっていると、仏に責任をおっかぶせてすまし込む。

ところが、おいおい無筆の連中が悔やみに来だすと、ごまかしがきかなくなってきた。

困っていると地獄に仏、横町の手習いの師匠がやってきた。

こっそりわけを話して頼み込み、記帳を全部やってもらって、ヤレヤレ一件落着、と、後片付けを始めたら、遅刻した八五郎が息せききって飛び込んでくる。

悪いところへ悪い男が現れたもので、これも無筆。

頼みのお師匠さんは、帰ってしまって、もういない。

隠居の遺言で銘々付けだと言ったところで、相手が無筆ではどうしようもない。

三人で頭を抱えていると、源さんが
「そうだ。熊さん、おまえさんが弔いに来なかったことにしとこう」

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【うんちく】

無筆が無筆を笑う

オチの部分の原話は、明和9(=安永元、1772)年刊『鹿の子餅』中の「無筆」。弔問に来た武士と取り次ぎの会話となっています。

原型はそれ以前からあり、元禄14(1701)年刊『百登瓢箪』巻二中の「無筆の口上」では、客と取り次ぎの両方が無筆、というお笑いはそのままで、客がしかたなく印だけ押して帰るオチになっています。

この元禄年間(1688-1704)あたりから、無筆を笑う小咄は無数にでき、落語も「無筆の医者」「無筆の女房」「無筆の親」「無筆の犬」「按七」「無筆の下女」「手紙無筆」「無筆のめめず」など、やたらに作られました。 

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから寺子屋が普及、幕末には、日本人の識字率は70%を超えたといわれ、当時の世界最高標準でしたが、それでも三割近くは無筆。19世紀前後では、寄席に来る客の三、四割が無筆という割合で、「無筆が無筆の噺に笑っていた」ことになります。現代なら人権問題に及びそうですが、なんとも大らかな時代ではありました。

柳派に伝わる噺

明治28年(1895)11月、雑誌『百花園』掲載の三代目柳家小さんの速記があります。

無筆の小咄は遠く元禄年間まで溯るので、この噺も相当古くから口演されていたものと思われます。

小さん代々に継承される柳派系統の噺で、五代目小さんの音源もありますが、現在は無筆がほぼ皆無となり、だんだん理解されなくなる運命でしょう。

戦後では八代目春風亭柳枝(1959年没)が得意とし、柳枝は記帳する名に、噺家仲間の本名を使っていました。もとは柳枝門下だった三遊亭円窓が、独自の工夫で持ちネタにしています。

円窓のオチは、「そんなことをしたらだんなに申し訳がねえ」「いや、かまいません。ホトケの遺言にしときます」というもの。

落語に多い「三」

落語の世界で「三」は大きな要素です。

「三」のつく噺は、現在すたれたものを含め、「三人旅」「三人絵師」「三人息子」「三人癖」「三人ばか」「三人娘」「三方一両損」「三拍子」「三枚起請」「三軒長屋」……。まだまだあります。

仏教に「三界」という言葉があり、これは過去・現在・未来の三世のこと。全宇宙は「三千世界」。仏教の三宝は仏・法・僧で、長屋も三軒間口で三畳。

この噺に見られるように「三人寄れば文殊の知恵」となるパターンが落語に多いのは、「三」が最も安定した状態という、仏教哲学が深奥に潜んでいるのではないでしょうか。そもそも世界も「天地人」からなります。

【語の読みと注】
帳付け ちょうづけ:参列者の記帳
銘々付け めいめいづけ:自分で名前を書く

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三で賽 さんでさい 演目

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バクチの噺。「看板のピン」という題でも聴きますね。

【あらすじ】

髪結いの亭主で、自分は細々と人に小金を貸したりして暮らしている新兵衛という男。

死んだ親父は「チョボ一の亀」と異名を取った名代のバクチ打ちだが、親父の遺言で、決して手慰みはしてくれるなと言われているので、身持ちは至って固い。

しかし、新兵衛がその実欲深でおめでたく、かなりの金を貯め込んでいることを聞き込んだのが、町内の札付きの遊び人、熊五郎と源兵衛。

ここは一つ、野郎をペテンにかけて、金を洗いざらい巻き上げようと悪だみを練る。

二人は新兵衛に、金持ちのだんな方が道楽にバクチを開帳するので、テラ銭(場所代)ははずむから、奥座敷を貸してほしいと持ちかける。

つい欲に目がくらんだ新兵衛、承知してしまい、臨月のかみさんをうまく言いくるめて実家に帰す。

熊と源は、仲間をだんな衆に化けさせて当日新兵衛宅に乗り込み「人数が足りないから、すまねえがおまえさん、胴を取って(親になり、壺を振ること)くれ」と持ちかけた。

親父がバクチ打ちなので、胴元がもうかることくらいは百も承知の新兵衛、またもう一つ欲が出て、これも二つ返事で引き受ける。

ところが、二人が用意したのは、三の目しか出ないイカサマ寨。

おかげで、たちまち新兵衛はスッテンテン。

その上、なれ合いげんかを仕組み、そのすきに親父の形見の霊験あらたかな「ウニコーロの寨」と全財産をかっつぁらって、熊と源はドロン。

だまされたことに気づいた新兵衛だが、もう後の祭り。

泣いていると、大家がやってくる。

「大家さん、三で寨を取られました」
「なに、産で妻を取られた?」
「親父が遺言で、女房をもらっても決してしちゃあいけないと言いましたが、ついつい、熊さんの強飯にかかったんで(だまされたの意)」
「なに、もう強飯の支度にかかった?そいつは手回しがいい。して、寺はどうした?」
「テラは源さんが持っていきました」

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【しりたい】

ダジャレオチのバクチ噺

原話は不詳です。明治29年(1896)の三代目柳家小さんの速記がありますが、この噺自体は、小さん以後、ほとんど演じ手がありません。

本来この噺には、マクラとして現在「看板のピン」と題する小咄がつきます。これについては、「看板のピン」をご参照ください。

四代目小さんが「看板のピン」の部分を独立させ、一席噺に改作したもので、こちらは五代目小さんが継承、得意にしていました。

本体であるはずの「三で寨」がすたれたのは、ダジャレオチでくだらないのと、ストーリーがややこしくて、すっきりしないところがあるからなのでしょう。

わかりにくいオチ

「居残り佐平次」のそれと同じく、「だまされた」の意味の「おこわにかかる」を、大家が葬式の強飯(=おこわ)と勘違いしたものです。

チョボ一

一個のサイコロを使うので、こう呼びます。勝てば四倍、場合によれば五倍にもなるギャンブル性の強いもので、「チョボなら七里帰っても張れ」という、バクチに誘い込むことわざもありました。

遊び人

博徒とゆすりかたりの両方を指しました。とにかく「悪党」の代名詞です。

ウニコーロ

「ウニコーロ」とはポルトガル語で、北洋産のイルカに似た海獣とされます。雄の門歯が一本に長く突き出しているので、一角獣とも呼ばれます。その牙で作ったのが、ウニコーロ(ウニコール)の寨です。

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碁泥 ごどろ 演目

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典型的な滑稽噺。昔はマクラに使われていたそうです。

別題:碁盗人 碁打ち盗人(上方)

【あらすじ】

碁仇のだんな二人。

両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づかない。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決める。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。

「マッチがないぞ」
「たばこを持ってこい」

閉口したかみさん。

一計を案じ、マクワウリを小さく切って運ばせた。

二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かける。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁好きの泥棒。

誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとした。

すると、聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音。

矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。

風呂敷包みを背負ったままノッソリ中に入り込むと、観戦だけでは物足らず、いつしか口出しを始める。

「うーん、ふっくりしたいい碁石だな。互先ですな。こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目、助言はご無用、と。おや、あんまり見たことのない人だ、と。大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

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【しりたい】

おじさん、そこおかしいよ!

原話は不詳です。上方落語「碁打ち盗人」を三代目柳家小さんが、大阪の桂文吾に教わり、大正2年(1913)ごろ、東京に移しました。

小さんは、はじめは「芝居道楽」などのマクラとして演じていましたが、後に独立させました。

大正2年と、晩年の13年(1924)の速記が残りますが、最初の演題は上方にならって「碁盗人」でした。

両国の立花家でこの噺を演じたところ、十五、六の少年に、碁を打つ手の行き方が、碁盤に対して高すぎると注意され、その後きちんと碁盤の高さを計ってやるようになったと、大正13年の方のマクラで述べています。生意気なガキですが、前世の談志だったかも?

小さん代々相伝の噺

小さんのうまさは、名人円喬に「もうあたしは『碁泥』は演らない」と言わしめたほどだったといいますが、同じようなことを「笠碁」に対して円朝が言ったという話もあるので、あるいは混同されて伝わった逸話かも知れません。

門弟の四代目小さん、孫弟子の五代目小さんと継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。

戦後、三代目三遊亭小円朝も得意にしていましたが、小円朝は、最初の泥棒の助言に対して、主人が言葉で答えず、石を持った右手を耳の辺りで振ってみせるやり方でした。「本家」の上方では、現在はあまり演じられないようです。

煙草盆

たばこぼん。炭火を灰で埋めた小型の火鉢と、吸殻を捨てる竹筒(灰吹)を入れた四角の灰皿です。歌舞伎の小道具として、よく舞台で見られますね。

灰吹がほとんど見られなくなった現在、かつて五代目古今亭志ん生がやった、「畳に火玉が落ちたよ」「ハイ、フキましょう」というくすぐりも、理解されにくくなっています。

泥棒の語源

泥棒にもピンからキリまであります。

「おかめ団子」の主人公のように、本当に「出来心」でフラリと入ってしまうのが「空き巣ねらい」で、計画的に侵入する盗賊より罪が軽く、盗んだ金額にもよりますが、江戸時代には初犯なら百たたきで勘弁してもらえることが多かったようです。

「どろ」は「どら」「のら」と同義語で、もともと怠け者の意。怠惰で、まともに働く意欲がないから盗みに入るという解釈から。

古くは「泥た棒」「泥たん棒」「泥つく」とも呼び、イカサマ師やペテン師、スリなども合わせて「泥棒」ということがありました。

泥棒伯円

幕末から明治にかけて白浪(=盗賊)ものを得意にした講釈師、二代目松林伯円(1831-1905)は「泥棒伯円」とあだ名され、お上から「副業」にやっているのではないかと疑われたほど。

ところが、後に明治政府の肝いりで教導職となって「忠君愛国講談」に転向、明治天皇御前口演までやってのけました。彼が手掛けた泥棒は、鼠小僧、稲葉小僧始め、大物ばかりでコソ泥などいません。このことからも講談と落語の違いが明白です。

互先

実力が同じ者同士が、交互に白を持って先番になる取決めです。

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小いな こいな 演目

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柳橋の芸者さんが出てきて、ちょっと艶っぽい噺です。

【あらすじ】

幇間の一八が、この間の約束どおり芝居に連れていってくれと、だんなにせがみに来る。

ところがだんな、今日は都合でオレは行けないからと、代わりに、おかみさんに、女中と飯炊きの作蔵をつけて出そうとする。

作蔵、実は、これがだんなと一八の示し合わせた狂言らしいと見抜いているので、仮病を使って、家に残ってようすをうかがう。

二人きりになると、案の定、だんなは作蔵に、
「柳橋の小いなという芸者のところまで使いに行け」
と言いつけた。

かって知ったるだんなの女。

作蔵、にんまりして
「そう来べえと思ってた。行かれねえ」

さらに作蔵は
「おまえさま、あんだんべえ、今日はおかみさま、芝居エにやったなァ、柳橋の小いなァこけえ呼んで、大騒ぎする魂胆だんべえ」
と、すべて見通されては、だんなも二の句が継げない。

一八だけでなく、作蔵も代わりに芝居にやった藤助もグルなのだが、実はだんなは男の意気地で、小いなを三日でも家に入れてやらなければならない義理があるので、今日一日、おかみさんを芝居にやり、口実をこしらえて実家に帰すつもり。

「決して、かみさんを追い出そうというのではないから」
と作蔵を言いくるめ、やっと柳橋に行かせた。

まもなく、小いな始め、柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、たちまちのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ、藤助が血相変えて飛び込んできた。

「おかみさんが芝居で急に加減が悪くなり、これから帰ってくる」とのご注進だったので、さあ大変。

一八は、風を食らって逃げてしまった、という。

膳や盃洗を片づける暇もなく、小いなをどこかに隠そうとウロウロしている間に、玄関で、おかみさんの声。

しかたなく、部屋の中に入れないように、だんな以下、総出で襖をウンショコラショと、押さえる。

玄関に履物が散らばっているので、もうバレていておかみさんは、カンカン。

「きよや、早く襖をお開け」
「中で押さえてます」
「もっと強くおたたき」

女中が思い切りたたいたので、襖の引き手が取れて穴が開いた。

その穴からのぞいて、
「あらまあ、ちょいと。お座敷が大変だこと。おかみさん、ご覧あそばせ」
と言うと、襖の向こうから幇間が、縁日ののぞきカラクリの節で
「やれ、初段は本町二丁目で、伊勢屋の半兵衛さんが、ソラ、おかみさんを芝居にやりまして、後へ小いなさんを呼び入れて、のめや歌えの大陽気、ハッ、お目に止まりますれば、先様(先妻)はお帰り」

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【しりたい】

明治の新作

三代目柳家小さんの、明治45年(1912)の速記が残るだけで、現在はすたれた噺です。

新富座

噺の中で、かみさんや女中を芝居見物にやる場面がありますが、その劇場は、新富座となっています。

新富座は、日本最初の西洋式座席、ガス灯による照明を備えた近代的な劇場として、明治8年(1875)に開場。

この噺は、それ以後の作になります。オチは、のぞきからくりの口上、特に先客を追い出す時の文句を取り込んだものですが、現在では事前の説明がいるでしょう。

小さんは、この噺のマクラとして「権助提灯」を短縮して入れています。

のぞきカラクリ

「のぞき眼鏡」ともいいます。代金は二銭で、絵看板のある小さな屋台で営業しました。

眼鏡(直径約10cmのレンズ)をのぞくと、西洋画、風景写真などの様々な画面が次々と変わって現れます。

両側の男女が細い棒をたたきながら、独特の節回しで「解説」を付け、それに合わせて紐を引くと、画面が変わる仕掛けです。

明治5年(1872)夏ごろから、浅草奥山の花屋敷の脇で始まり、神保町、九段坂上など十数か所で興行され、たちまちブームに。

原型は江戸中期にすでにありましたが、維新後の写真の普及とともに、開花新時代の夏の風物詩となりました。

早くも明治10年前後には飽きられ、下火になったようです。

歌舞伎では、河竹黙阿弥が、幕末に書いた極悪医者の狂言「村井長庵巧破傘」の外題を明治になり、「勧善懲悪覗機関」と変えて、時代を当て込みました。

男の意気地

このだんな、まだ小いなを正式に囲ってはいません。あるいは、何か金銭的な理由その他で妾宅を持たせてやれない代わりに、二、三日なりと本宅に入れて、実を見せたというところ。

いかにも明治の男らしい、筋の通し方です。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
内儀さん おかみさん
村井長庵巧破傘 むらいちょうあんたくみのやれがさ
勧善懲悪覗機関 かんぜんちょうあくのぞきからくり

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親の無筆 おやのむひつ 演目

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「無筆」とは「読み書きのできなこと」という意味です。

別題:清書無筆 無筆の親(上方)

【あらすじ】

明治の初め、まだ無筆の人がざらにいたころの話。

ようやく学制が整い、子供たちが学校に通い出すと、覚え立ての難しい言葉を使って、無筆の親をへこますヤカラが出てくる。

そうなると、親父はおもしろくない。

「てめえは学校へ行ってから行儀が悪くなった、親をばかにしゃあがる」
と、小言を言い、
「習字を見せてみろ」
と見栄を張る。

「おとっつぁん、字が読めるの?」
「てめえより先に生まれてるんだ。読めなくってどうするものか」

よせばいいのに大きく出て、案の定シドロモドロ。

「中」の字を見せればオデンと読んでしまい、昔は仲間が煮込みのオデンを食ったからだとごまかし、木を二つ並べた字はなんだと聞かれて、
「ひょうしぎ」
と読んだあげく、
「祭りバヤシでカチカチと打つから昔は拍子木といった」
と、強弁する始末。

「じゃあ、おとっつぁん、このごろ、疫病よけに方々で仁加保金四郎宿と表に張ってあるのに、家にはないのは、なぜ?」
「忙しいからよ」
「書けないんだろう」

「とっとと外で遊んでこい」
と追い払ったものの、親の権威丸つぶれ。

癪でならない親父、かみさんに、
「しかたがないから近所のをひっぺがしてきて、子供が帰るまでに張っておけ」
と言われ、隣から失敬してくる。

今度こそはとばかり、
「表へ行って見てこい。おとっつぁんが書いて張っといたから」
「おとっつぁん、貸家と書いてあるよ」
「そう張っときゃあ、空き家と思って、疫病神も入ってこねえ」

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原型はケチ+粗忽噺

原話は、最古のものが元禄14年(1701)、かの浅野刃傷の年に京都で刊行された、露の五郎兵衛『新はなし』中の「まじなひの札」。

ついで、そのほぼ半世紀後の宝暦3年(1753)、これも上方で刊行の笑話本『軽口福徳利』中の「疫神の守」があります。

「まじなひ…」の方は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に張ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなりますが、買うのは代金が惜しいので、夜中にこっそりある家から盗み出します。

それを、よせばいいのに自慢げに隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

ここでは、男が札の文字を本当に読めなかったのか、それとも、風雨にさらされて読み取れなくなっていたのを勘違いしただけなのか、どちらとも解釈できますが、噺のおかしみの重点は、むしろ男のしみったれぶりとそそっかしさ、負け惜しみに置かれています。

後発の「疫神の守」は「まじなひ……」のコピーとみられ、ほとんどそっくりですが、やはり主人公は「しはき(=ケチな)」男となっていて字が読めないというニュアンスはあまり感じません。

実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられ、なおさら、これらの主人公が無筆文盲だったのかどうか疑問符がつくわけです。

もともとはケチ、または粗忽噺の要素が強かったはずが、落語化された段階で、いつの間にか無筆の噺にすりかえられたわけです。

読む人間にとって、筋は同じでもさまざまな「解釈」ができるという典型でしょう。

明治の無筆もの

もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われますが、はっきりしません。

明治28年(1895)の二代目(禽語楼)小さん、29年(1896)の三代目小さん師弟の、ほとんど同時期の速記が残り、それより前、明治27年(1894)には二代目小さんによる類話「無筆の女房」の速記も見られることから、この時期、落語界ではちょっとした「無筆ブーム」だったのかもしれません。

無筆を題材にした噺では、古くは「按七」「三人無筆」「無筆の医者」「手紙無筆」「犬の無筆」があり、明治以後につくられたと思われる噺に、「無筆の女房」「無筆の下女」などがあります。

江戸末期には、都市では寺子屋教育が定着、浸透し、すでに識字率はかなり高かったはずですが、実際には階層によっては、明治になっても依然として無筆の者は多かったのでしょう。

三代目金馬の改作

三代目三遊亭金馬は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作し、張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしました。いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいましたね。

豪傑の名前で厄病退治

二代目小さんの速記が「百花園」に掲載された明治28年は日清戦争終結と同時に、東京でコレラ大流行の年でした。

もっともこの年ばかりではなく、維新後は明治10、15、19、23、28年と、ほとんど五年置きに猛威を振るっています。

さすがに安政のコロリ騒動のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。

「仁加保金四郎」については詳細は未詳ですが、疫病神を退治したとされる豪傑の名です。

三代目小さんでは「三株金太郎」、時代が下って三代目三遊亭金馬の改作では「鎮西八郎為朝」としていました。

幕末のころは、嵯峨天皇の御製「いかでかは御裳濯川の流れ汲む人に頼らん疫病の神」を書いて張ったこともあったとか。

くすぐり

二代目小さん

おやじがくやしまぎれに「こりゃなんだ。赤犬と黒犬がかみあっているところなんぞ書いて」(犬の字が赤筆で直してある)  

三代目小さん

「おとっつぁん、百の足と書いてムカデと読むね」
「そうよ。五十の足ならゲジゲジ、八本がタコで、二本がズボン。一本なら傘のバケモノだ」                       

【語の読みと注】
仲間 ちゅうげん
癪 しゃく
御裳濯川 みもすそかわ

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臆病源兵衛 おくびょうげんべえ 演目

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その昔「臆病」というものは病気だったのでしょうか? 別題:浄行寺

【あらすじ】

「臆病源兵衛」とあだ名がつく男。

大変なこわがりで、日が暮れては戸を閉ざしてガタガタ一晩中震えているし、自分の家では夜は一人で便所にも行けない、というくらい。

退屈をもてあました近所のご隠居。

洒落心といじめ心があるので、ひとつ、この男をこっぴどく脅かしてやろうと、源兵衛の職人仲間の八五郎を抱き込み、一芝居たくらむ。

源兵衛、根は好色で、しかも独り身なので、まず隠居が嫁さんを世話してやると持ちかけた。

源兵衛が渋るのをむりやりに、夕方、自分の家に連れ込んだ。

幽霊が出そうだと、早くも震え出すのをなんとかなだめ、
「俺がここで見ていてやるから、水を汲んできてくれ」
と台所へ行かせる。

おっかなびっくり水瓶に近づくと、暗がりから八五郎の手がニューッ。

逆手に持った箒で顔をスーッとなでたからたまらず、
「ギャアーッ」

源兵衛、恐怖のあまり八五郎にむしゃぶりつき、金玉をギュッと握ったから、八五郎、目をまわした。

ところが隠居もさるもの。

少しもあわてず、これを利用して続編を考えつく。

化け物だと泣き騒ぐ源兵衛に
「ともあれ、おまえが八公を殺しちまったんだから、お上にバレりゃ、打ち首獄門だ。それがイヤなら死骸をつづらに押し込み、夜更けに高輪あたりの荒れ寺に捨ててこい」
と言う。

臆病も命には代えられない。

源兵衛、泣く泣く提灯を片手、念仏を唱えながら葛籠を背負って芝の古寺の前まで来ると、これ幸いとお荷物を軒下に放り棄て、あとは一目散。

そこへ通りかかった、品川遊廓帰りの三人組。

ふと葛籠に目を止めると、てっきり泥棒の遺留品と思い込み、欲にかられて開けてみると手がニョッキリ。

失神していた八五郎が「ウーン」と息を吹き返す。

三人、驚いたのなんの、悲鳴を上げて逃げ出した。

あたりは真っ暗闇。

八五郎は、すっかり自分が地獄へ来てしまったと思い込み、つづらからようよう這いだすと、幽霊のようにうろうろさまよい始める。

たまたま迷い込んだ寺の庭に蓮池があったので、
「ありがてえ、こりゃ極楽の蓮の花だ、ちょいと乗ってみよう」
と、さんざんに踏み散らかしたから、それを見つけた寺男はカンカン。

棒を持って追いかけてくる。

「ウワー、ありゃ鬼。やっぱり地獄か」

やっと逃げ出して裏道へ駆け込むと、そこにいたのは、なかなかいい女。

「姐さん、ここは地獄かい」
「冗談言っちゃいけないよ。表向きは銘酒屋なんだから」

底本:三代目柳家小さん

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【しりたい】

やり方 その1

原話はまったく不明で、別題は「浄行寺」。これは、源兵衛が死骸を捨てていく、芝寺町の古寺の名から取ったものです。

明治期では三代目柳家小さんと二代目三遊亭金馬(1926年没)が得意にしました。この金馬は俗に「お盆屋の金馬」。往年の爆笑王、柳家金語楼の師匠です。続いて昭和に入ってからは、八代目桂文治(1955年没)が手掛けました。

あらすじでは、明治30年(1897)の小さんの速記を参照しましたが、二代目金馬のやり方は、後半が違っていて、葛籠が置き去りにされるのは浅草寺の境内、開ける二人は赤鬼と青鬼の扮装で脅かして金をせびる物乞いになっています。

逃げ込む先は付近の人家ですが、出てきたのが地獄のショウヅカの婆さんそっくりの奇怪な老婆。八五郎は自分も白装束なので、てっきり死んだと思い込み、「ここは地獄ですか」と聞くと、「いいえ、だんな(娘)のおかげで極楽さ」というオチになります。

やり方 その2

つまり、娘が囲われ者で、母親まで楽をさせてもらっているという食い違いですが、どちらにしても初めに説明しておかないと、現在では通じません。

前半は、「お化け長屋」や「不動坊」のように、臆病者を脅かすおもしろ味がありますが、後半がこのように古色蒼然としているため、八代目文治以後はまったくすたれていたのを、十代目金原亭馬生が復活し、後者のオチで演じていました。

今度こそもう継承者はないだろうと思ったら、桃月庵白酒が2005年11月、落語研究会の高座で熱演。こうした埋もれた噺が、意欲的な若手中堅によって次々に復活されるのは頼もしいかぎりです。

銘酒屋

曖昧屋ともいい、私娼を置いた最下級の売春宿です。ゴマカシのために申し訳程度に酒を置き、女は酌婦。昭和初期まではこの呼び方が残っていたようです。戦後は「青線」と称されました。

これを「地獄宿」、女を「ジゴク」「ジゴクムス」とも呼んだため、そこの女将が勘違いをしたというのがオチです。

小さんのくすぐり

源兵衛が隠居に、事が露見すれば死罪だと脅されて、
「キンタマぁ二つあるから、おまえさんと一つずつ握りつぶしたということに……」                  (三代目柳家小さん)

【語の読みと注】
箒 ほうき
葛籠 つづら
銘酒屋 めいしゅや

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石返し いしがえし 演目

【RIZAP COOK】

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ここの松公は与太郎。番町を夜なきそばで。江戸から上方へ移った珍しいはなし。

【あらすじ】

少しばかり頭が薄暮状態の松公は、夜なきそば屋のせがれ。

親父の屋台の後を、いつもヘラヘラして付いて回っているだけ。

今夜は親父が
「疝気が起こって商売に出られないから、代わりにおまえがそばを売って来い」
と言い渡す。

そばのこしらえ方や「お寒うございます」というお愛想の言い方を一通りおさらいし、屋台のそば屋はなるたけさびしい場所の方が客が捕まる、火事場の傍だと野次馬が大勢集まっているからもうかりやすい、などといった秘訣を、いちいち教えられた。

「じゃ、お父っつぁん、道具ゥ置いといて火ィつけてまわろうか」
「ばか野郎ッ」

頼りないながらも、最後に「そばあうううい」という売り声をなんとか親父が教え込み、松公は商売に出かけた。

さあ、それからが大変。

なかなか「そばあうううい」と出てこないので、暗い所で練習しておけば明るい所でも大丈夫だろうと、立ち小便の真っ最中の職人にいきなり
「(そ)ばあー」
とやってケンツクを食わされたり、客が
「一杯くれ」
と言うのに、
「明るいとこじゃ売れない、オレのそばが食いたきゃ墓場へ来い」
とやったりして、相変わらず頭のネジは緩みっぱなし。

そのうちに、ばかにさびしい所に出たので、いちだんと声を張り上げると、片側が石垣、片側がどぶとなっている大きな屋敷の上の方から侍が声を掛けてきた。

「総仕舞いにしてやるから、そばと汁を別々に、残らずここに入れろ」
と、上から鍋と徳利が下がってきたので、松公喜んで全部入れ、
「お鍋の宙乗りだ、スチャラかチャンチャン」
と囃すうちに、そばは屋敷の中に消える。

「代金をくれ」
と言うと、
「石垣に沿って回ると門番の爺がいるから、それにもらえ」
とのこと。

ところがその門番、
「あそこには人は住んでいない、それは狸で、鍋は金玉。きさまは化かされたのだからあきらめろ」
という。

「狸がたぶん引っ越しそばでもあつらえたんだろうから、そんな代金を人間が払う義理はない、帰れ帰れ」
と六尺棒で追い立てられ、松公は泣きべそで戻って報告した。

親父は
「あすこは番町鍋屋敷という所だ」
と屋台の看板を汁粉屋に書き換え、松公と一緒に現場へ急行。

「しるこォ」
と声を張り上げると、案の定呼び止められ、鍋が下がってきたので、親父、そいつに石を入れて
「お待ち遠さま」

侍、引き上げて驚き
「おいっ、この石はなんだッ」
「さっきの石返し(意趣返し)」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

小さん系の与太郎噺

古い江戸落語ですが、原話は不詳です。武士の横暴に仕返しする、町人のレジスタンス精神があふれ、なかなかおもしろい噺ながら、オチがダジャレ、つまり、石=イシと仕返しの意味の意趣=イシュを掛けた、くだらないせいか、最近はあまり演じられていないようです。

三代目小さんから四代目、七代目三笑亭可楽、そして五代目小さんに継承されました。与太郎(松公)の商売を、始めに汁粉屋、報復の時にうどん屋になって行く演出もあります。

江戸から上方へ

多くの滑稽噺とは逆に、これは江戸から大坂に移植されたものです。上方では戦後、最長老として重きをなした橘ノ円都 1883-1972)から門弟の橘家円三に継承されました。ここでのあらすじは、五代目小さんの速記をもとにしました。

夜鷹そば、風鈴そば

夜鷹そばともいい、風鈴が屋台に付いていたので、風鈴そばともいいました。ただし、元来、この二つは別で、夜鷹そばは二八そばのかけ、風鈴そばはしっぽく(そばの上に焼き玉子、蒲鉾などの種物をあしらったもの)。しっぽくの登場は文化年間(1804-18)と言われますから、後者の方が遅く、夜鷹そばの方は宝暦年間(1751-63)の文献には、もう名が出ています。

『論集江戸の食―くらしを通して』(石川寛子編著、弘学出版刊、2007年)によれば、貞享3年(1686)11月に、うどん、そば切りなどの夜間の行商が禁止になったとあるので、さらに起源は古いことになりますが、このころは蒸しそばだったと思われます。

夜鷹そばは二八そばともいいました。一杯の値段はずっと二八の十六文で通してきたものの、不潔なため、同じ夜間の行商人には「夜たかそば などと見くびる 甘酒屋」という川柳の通り、下に見られていたようです。幕末の慶応2年(1866)9月、二八そばの値段が二十文から二十四文に値上げされたという記録が残ています。

番町鍋屋敷表長屋、曰窓、笊

怪談「番町皿屋敷」をもじったもの。特に幕末には、直参・陪臣を問わず、このような侍の食い逃げがまかり通っていました。

表長屋と呼ぶ江戸詰めの勤番侍の住居は、この噺の通り二階建てで、下は仲間・小者、二階に主人の住居でした。

上から笊を下ろして品物を買う場面は「井戸の茶碗」にも登場しますが、出口は屋敷側に向いていて、表通りに面しているのは曰窓だけだったので、室内から手軽に買い物をするにはこうするよりほかなく、したがって、これを利用した悪事が横行したわけです。

【語の読みと注】
疝気 せんき
夜鷹 よたか
曰窓 いわくまど 横桟一本だけの窓。字に見立ててこう呼ぶ

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言い訳座頭 いいわけざとう 演目

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甚兵衛夫婦は年を越せるか! それは座頭の舌先三寸しだいで。

【あらすじ】

借金がたまってにっちもさっちも行かず、このままでは年を越せない長屋の甚兵衛夫婦。

大晦日、かみさんが、口のうまい座頭の富の市に頼んで、借金取りを撃退してもらうほかはないと言うので、甚兵衛はなけなしの一円を持ってさっそく頼みに行く。

富の市、初めは金でも借りに来たのかと勘違いして渋い顔をしたが、これこれこうとわけを聞くと
「米屋でも酒屋でも、決まった店から買っているのなら義理のいい借金だ。それじゃああたしが行って断ってあげよう」
と、快く引き受けてくれる。

「商人は忙しいから、あたしがおまえさんの家で待っていて断るのはむだ足をさせて気の毒だから」
と、直接敵の城に乗り込もうという寸法。

富の市は
「万事あたしが言うから、おまえさんは一言も口をきかないように」
とくれぐれも注意して、二人はまず米屋の大和屋に出かけていく。

大和屋の主人は、有名なしみったれ。

富の市が頼み込むと、
「今日の夕方にはなんとかするという言質をとってある以上待てない」
と突っぱねる。

富の市は居直って
「たとえそうでも、貧乏人で、逆さにしても払えないところから取ろうというのは理不尽だ。こうなったら、ウンというまで帰らねえ」
と店先に座り込み。

他の客の手前、大和屋も困って、結局、来春まで待つことを承知させられた。

次は、薪屋の和泉屋。

ここの家は、富の市が始終揉み療治に行くので懇意だから、かえってやりにくい。

しかも親父は名うての頑固一徹。

ここでは強行突破で
「どうしても待てないというなら、頼まれた甚さんに申し訳が立たないから、あたしをここで殺せ、さあ殺しゃあがれ」
と往来に向かってどなる。

挙げ句の果ては、「人殺しだ」とわめくので、周りはたちまちの人だかり。

薪屋、外聞が悪いのでついに降参。

今度は、魚金。

これはけんかっ早いから、薪屋のような手は使えない。

「さあ殺せ」
と言えば、すぐ殺されてしまう。

こういう奴は下手に出るに限るというので、
「実は甚兵衛さんが貧乏で飢え死にしかかっているが、たった一つの冥土のさわりは、魚金の親方への借金で、これを返さなければ死んでも死にきれない」
と、うわ言のように言っている、と泣き落としで持ちかけ、これも成功。

ところが、その当の甚兵衛が目の前にいるので、魚金は
「患ってるにしちゃあ、ばかに顔色がいい」
と、きつい皮肉。

さすがの富の市もあわてて、
「熱っぽいから、ほてっている」
とシドロモドロでやっとゴマかした。

そうこうするうちに、除夜の鐘。ぼーん。

富の市は急に、
「すまないが、あたしはこれで帰るから」
と言い出す。

「富さん、まだ三軒ばかりあるよ」
「そうしちゃあいられねえんだ。これから家へ帰って自分の言い訳をしなくちゃならねえ」

底本:五代目柳家小さん

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明治の新作落語

三代目柳家小さんが明治末に創作した噺です。三代目小さんは漱石も絶賛した名人です。小さんは、四代目橘家円喬から「催促座頭」という噺(内容不明)があるのを聞き、それと反対の噺をと思いついたとか。してみると、「催促座頭」は、文字通り借金の催促に座頭が雇われる筋だったということでしょう。

初演は、明治44年(1911)2月、日本橋常盤木倶楽部での第一次第70回落語研究会の高座でした。

師走の掛け取り狂騒曲

借金の決算期を「節季」ともいい、盆と暮れの二回ですが、特に歳末は、商家にとっては掛け売りの貸金が回収できるか、また、貧乏人にとっては時間切れ逃げ切りで踏み倒せるかが、ともに死活問題でした。

そこで、この噺や「掛け取り万歳」に見られるような壮絶な「攻防戦」が展開されたわけです。

むろん、ふだん掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内のなじみの生活必需品(酒屋、米屋、炭屋、魚屋など)に限られます。落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったのでしょう。

大晦日の噺

井原西鶴の「世間胸算用」が、江戸時代初期の上方(京・大坂)の節季の悲喜劇を描いて有名ですが、落語で大晦日を扱ったものは、ほかにも「三百餅」「尻餅」「にらみ返し」「加賀の千代」「引越しの夢」「芝浜」など多数あります。

こうした噺のマクラには、大晦日の川柳を振るのがお決まりです。

大晦日 首でも取って くる気なり
大晦日 首でよければ やる気なり

五代目小さんが使っていたものも秀逸です。

大晦日 もうこれまでと 首くくり
大晦日 とうとう猫は 蹴飛ばされ

三代目小さんの作品だけあって、小さんの系統がやります。九代目入船亭扇橋、その後は柳家小里ん、柳家権太楼あたり。

炭屋

「子別れ」では、家を飛び出したかみさんが子供を連れ、炭屋の二階に間借りしている設定でしたが、裏長屋住まいの連中は、高級品は買えないため、ふだんは「中粉」という、炭を切るときに出るカス同然の粉を量り売りで買ったり、粉に粘土を加えて練る炭団を利用しました。当然どちらも火の着きはかなり悪かったわけです。

【語の読みと注】
節季 せっき
炭団 たどん

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穴子でからぬけ あなごでからぬけ 演目

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与太郎にからかわれる短い噺です。円生の逃げ噺としても使われました。

【あらすじ】

与太郎が、源さんとなぞなぞの賭けをする。

まず十円賭けて
「まっ黒で大きくて、角があって足が四本あって、モーッと鳴くもの、なんだ」
「てめえが考えつくのはせいぜいその程度だ。牛に決まってら」

これでまず、十円負け。

今度は、よせばいいのに二十円に値上げして
「じゃ、もっと難しいの。やっぱり黒くて嘴があって空飛んで、カアーッって鳴くもの」
「どこが難しい。カラスだろ」

次は犬を出して簡単に当てられる。

いくら取られても懲りない与太郎、こともあろうに今度は五百円で、
「絶対に当たらない」
という問題。

「長いのがあれば短いのもある。太いのも細いのもあって、つかむとヌルヌルするもの、なあーんだ」
「この野郎、オレがヘビだと言やあウナギ、ウナギと言やあヘビと言うつもりだな。ずるいぞ」
「じゃ、両方言ってもいいや」
「ヘビにウナギだ」
「へへっ、残念。穴子でからぬけ」

与太郎、次にまた同じ問題を出すので、源さん
「ヘビにウナギに穴子だな」
ってえと与太郎、
「へへっ、今度はずいきの腐ったのだ」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

なぞかけ勝負

最後の「長いのもあれば……」のくだりの原話は明和9年(1772)刊の小咄本『楽牽頭』中の「なぞ」で、ここでは、最初にまともに「うなぎ」と言い当てられ、続けて同じ問題で、今度は「蛇」と答えたのを「おっと、うなぎのつら(面)でござい」と落としています。

前の二問も、おそらくそれぞれネタ本があったか、代々の落語家がいろいろに考えたものが、いつしかこの形に固定したのでしょう。

原話では、このなぞなぞ遊びは「四割八分」の賭けになっています。これは、勝つと掛け金が5倍につくという、ハイレートのバクチで、最初は一両のビットですから、「うなぎ」と答えた方は五両のもうけですが、これが恐ろしい罠。イカサマ同然の第二問にまんまとひっかかり、今度は何と二十五両の負けになったしまったわけです。こうなると遊びどころではなく、血の雨が降ったかもしれません。

からぬけ

完全に言い逃れた、または出し抜いたの意味です。題名は、穴子はぬるぬるしていて、つかむとするりと逃げることから、それと掛けたものでしょう。

ずいき

サトイモの茎で、「随喜」と当て字しますが、特に「肥後ずいき」として、江戸時代には淫具として有名でした。艶笑落語や小咄には、たびたび登場します。オチの通り、帯状の細長いもので、これを何回りも男のエテモノに巻きつけて用いたものですが、「効果」のほどは疑問です。

隠れた「円生十八番」

六代目三遊亭円生が、いわゆる「逃げ噺」として客がセコなとき(客種が悪く、気が乗らない高座)で演じた噺の一つです。円生のこの種の噺では、ほかに「四宿の屁」「おかふい」などが有名でした。普通は前座噺、またはマクラ噺で、円生は普通「穴子でからぬけだ」で切っていました。

「からぬけ」からの噺家

四代目柳家小さんは、その『芸談聞書き』(安藤鶴夫・述)で、昔は楽屋内で「『穴子でからぬけ』からやった」というと、天狗連から化けたのではなく、前座からちゃんとした修行を積んだという証しで、大変な権威になっていた、と語っていました。明治大正では、入門して一番最初に教わるのが、この噺であることが多かったのでしょう。相撲で言う「序の口(前相撲)から取った」と同じことですね。

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麻暖簾 あさのれん 演目

スヴェンソンの増毛ネット

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落語の按摩さんは、なぜか強情な人が多いです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

ジュアル落語の典型

原話は不明です。この噺を得意にしていた晩年の三代目小さんの、「按摩の蚊帳」と題した速記(大正13年)が残されていますが、もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なので、速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触るというものです。これも目で見ていないとその芸の細かさはわからないでしょう。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、戦後この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

志ん生の隠れた逸品

戦後は五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかりません。やり方は三代目小さんのものを踏襲しながら、「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目小さんが時々演じたくらいで、現在はあまりやり手がいません。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりです。こうした内容も、昨今ではいろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状でしょう。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。部屋の大きさによって、五六 五六は縦横の割合。三畳用)や六七 四畳半用)などの種類がありました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八 正確には七八。六畳用)で代用しています。

女性の按摩

按摩は按摩取ともいい、マッサージ、鍼灸師の古称です。この仕事は江戸時代には目の不自由な人がほとんどでした。四世鶴屋南北作の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、同じく黙阿弥作『加賀鳶』の熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。女性の按摩もけっこう多かったようです。女性の按摩には按摩以外にも売春をする者もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。

男性の按摩は「当道座」という全国的な互助組合が組織させていましたが、女性の按摩には「瞽女座」がありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。こちらは全国組織ではなく、駿河、甲斐、信濃、越後あたりに留まり、多くは藩が抱えていました。瞽女の主たる仕事は三味線を弾いて歌謡して流すこと。とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領、継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませました。

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は四十八文が相場。自宅で「診療所」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。ステータスと技術は、「振り」とは段違いでした。「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
瞽女 ごぜ
杢市 もくいち
贔屓 ひいき
当道座 とうどうざ
瞽女座 ごぜざ

【麻のれん 五代目古今亭志ん生】

スヴェンソンの増毛ネット

長短 ちょうたん 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

短気屋とのんびり屋の、こっけいシーンの最高潮ですね。

別題:気の長短

【あらすじ】

気の長い長さんと、むやみに気短な短七の二人は幼なじみ。

性格が正反対だが、なぜか気が合う。

ある日、長さんが短七の家に遊びに来て、
「ゆうべええ、よなかにいい、しょんべんが、でたく、なって、おれがあ、べんじょい、こおう、よろうと、おもって、あまどをお、あけたら……うーん、はえええ、はなしがあ」
とゆっくりゆっくり話し始めたから、短七、
「ちっとも早かねえ」
と、早くもイライラ。

星が出ていなくて空が真っ赤だったから、明日は悪くすると雨かなと思ったら、とうとう今日は雨が降っちゃった、と、ただそれだけのことを言うのに、昨夜の小便から始めるのだから、かなわない。

菓子を食わせれば食わせたで、いつまでもモチャモチャやっているから、じれた短七、
「腐っちまう」
と、ひったくって、自分で丸のみ。

長さん、煙草を吸いだしたはいいが
「たんひっ、つぁんは、きが、みじかい、から、おれの、することが、まどろっこしくて、みて、られない」

そう言いながら、悠然と煙管に煙草を詰めてから、火玉を盆に落とすまで、あまりに間延びしているので、
「それじゃ生涯かかっても煙草に火がつきゃしない」
と、
「煙草なんてもなァ、そう何服も何服もね、吸い殻が皿ん中で踊るほどのむもんじゃないんだよ。オレなんか、急ぐときなんざ、火をつけねえうちにはたいちまうんだ」
と、短七、あっという間に一動作やってしまう。

気のいい長さんが感心してると、あまりせっかちすぎて、火玉が自分のたもとに入ってしまうが、そそっかしいのでいっこうに気がつかない。

これを見た長さん、
「これでたんひっつぁんは、きがみじかいから、しとにものォおそわったりすると、おこるだろうね」
「ああ、大嫌いだ」
「おれが、おしえても、おこるかい?」
「おめえとオレとは子供のころからの友達だ。オレに悪いとこがあったら教えてくれ。怒らないから」
「……ほんとに、おこらないかい? そ、ん、な、ら、いうけどね、さっき、たんひっつぁんが、にふくめの、たばこを、ぽんとはたいた、すいがらね、たばこぼんのなかィはいらないで、しだりのたもとんなかィ、すぽおっと、はいっちまやがって、……だんだんケムがつよくなってきたが、ことによったら、けしたほうが」
「ことによらなくたっていいんだよ。なんだって早く教えねえんだッ。みろ、こんなに焼けっ焦がしができちゃった」
「それみねえ、そんなにおこるからさ、だからおせえねえほうがよかった」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

ルーツは中国笑話

明末の文人、馮夢竜(1574-1645)が撰した笑話集『笑府』巻六の殊稟(=奇人)部にある「性緩」という小咄が、オチの着物が焦げる部分の原話です。これにもさらにネタ本があるらしく、宋代の巷談集『古今事文類聚』(1246年ごろ)に載っていた実話をおもしろおかしく脚色したもののようです。

この原話では、スローモー男と普通人の会話になっていますが、内容は現行の落語にそっくりです。

これを翻案したのが、寛文7年(1667)刊の仮名草子『和漢りくつ物語』巻一の「裳の焦げたるを驚かぬこと」で、主人公はそのままもろこし(=中国)の「生れ付きゆたかにして、物事に騒がぬ人」となっています

。安永9(1780)年刊『初登』中の「焼抜」が同話のコピーですが、これには「物事については、よく見届けないうちは発言しないものだ」というもったいぶった「教訓」が付いています。

『笑府』をネタ本に、無数の江戸小咄が作られていますが、その多くはバレ噺です。現行の落語では「三軒長屋」「松山鏡」「饅頭こわい」が『笑府』ダネです。

噺のバーター取引?

この噺、もともと小咄かマクラ噺扱いだったらしく、古い口演記録や速記が見つかりません。したがって、いつ誰が一席の噺としてまとめたのかはっきりしないのですが、戦後は、三代目桂三木助、次いで五代目柳家小さんの十八番でした。

三木助は短気な方、小さんは気長な方に、それぞれ芸風が出ていました。実は、三木助が「長短」を教える代わりに、弟分の小さんから「大工調べ」を移してもらったというエピソードが残ります。ご存じのように、二人は義兄弟の仲でした。

三木助のマクラ

「……戦争に負けてッからこっち、なんだか知らないけど、どんどん、どんどん、日がたッちゃいますな。われわれこのゥ日本人てェものが、みんなこうせッかちンなりましてな、(大きな声で)こんちや、ッてぇと、(さらにまた大きな声で)さいならッてぇん。なんにも用なんかいわないで帰ッちゃうンですからな、やっぱし、あれ、気が短いッてンでしょうなァ……」(安藤鶴夫『三木助歳時記』より)

戦後間もない昭和24年(1949)春、再建されたばかりの人形町末広で、橘ノ円時代の三木助が勉強会に「長短」を演じる場面。

「食い物は、何が好きだい?」
「おさしみ」
「うーん、お酒によくっておマンマにいいんだからね。で、ワサビをきかして?」
「いんや、オレはジャムをつけて食ってみてえ」

同じく、後年の「長短」のマクラ。いささかゲテながら、人の好き好き→性格の違いから、本題に入っています。

【語の読みと注】
笑府 しょうふ
馮夢竜 ふうぼうりゅう
裳 すそ
橘ノ円 たちばなのまどか

本膳 ほんぜん 演目

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【RIZAP COOK】

今も悩ますテーブルマナー。フレンチばかりか和食にだって昔から。

【あらすじ】

ある村のむらおさ(庄屋)の家で嫁取りをした。

村の衆が婚礼の際に祝物を贈った返礼に、今夜、村のおもだった者三十六人が招待され、ごちそうになることになったが、誰も本膳の作法や礼式を知らない。

恥をかきたくないので、江戸者の手習いのお師匠さんに頼んで、泥縄で教えてもらうことにした。

相談された師匠、
「今夜ではとても一人ずつ稽古する時間はないから、上中下どこの席についても、自分のすることをまねするように」
と言い、
「羽織りだけは着ていくように」
と注意する。

「それなら間違えがねえ」
と一同安心して、いよいよ宴席。

主人があいさつし、盃が回された後、いよいよ本膳。

師匠が汁碗の蓋を取ると、一同同じように蓋を取る。

師匠が一口吸うと、隣の男が次席の者に
「これ、二口吸うでねえぞ。礼式に外れるだ。一口だぞ。一口一口」

これを順番に同じ文句で隣の人間に伝えていくのだから、末席まで伝わるのにえらく時間がかかる。

今度はご飯を一口食うと、同じように
「たんと食ってはダミだぞ」
と伝達が回る。

師匠、おかしくなってクスリと笑うと、とたんに鼻先に飯粒が二粒くっついた。

一同、さあ、食うだけでは礼式を違えると、一斉に飯粒を鼻へ。

間違って五粒くっつけてしまった男が、あわてて三粒食ってしまう騒ぎ。

平碗が出て、中身は悪いことに里芋の煮っころがし。しかも箸が塗り箸だから、ヌルヌルしてはさめない。

師匠、不覚にもつるっと箸がすべって、膳の上に芋が転がり出た。

仕方なく箸で突っ付いていると、さっそくあちらでもこちらでも芋をコロコロコロ。箸でコツンコツンやるから、膳は傷だらけ。

先生、
「今のは違う違う」
といくら注意しても聞こえないから、隣の脇腹を拳固で突いた。

「あいてッ、今度の礼式はいてえぞ」
とまた、その隣をドン。それがまた隣をドン。

「いてえ、あにするだ」
「本膳の礼式だ。受け取ったら次へまわせ」
「さあ、この野郎」
「そっとやれ」
「そっとはやれねえ。覚悟スろ。ひのふのみ」
「いててッ」

最後の三十六人目が思いきり突いてやろうと隣を見ても誰もいない。

「先生さまぁ、この礼式はどこへやるだ?」

底本:八代目林家正蔵(彦六) 三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

大昔から変わりなく

後漢(25-220)の笑話集『笑林』中の「-人欲相共只喪」が最古の原話とされます。

これは、葬列で足を踏まれた人が怒って「バカ」と罵ったのを後ろの者が追悼の儀礼と勘違いし、一同まねして「バカ」と叫んだというお話。 

日本の笑話では、元和年間(1615-24)刊の『戯言養気集』中の無題の小咄で、信濃国深志の連中が伊勢参宮して御師(=伊勢神宮の神職)に膳をふるまわれ、先達の坊さんが山椒にむせて顔をしかめ、水をのんだのを全員まねする、というお笑い。万治2年(1659)刊の『百物語』にも、にゅう麺の薬味の山椒にむせてクシャミをし、四つんばいで退出するのをまた一同まねする小咄があります。

各地の民話に類話があるようで、現代の結婚式風景などを見ても、テーブルマナーなるものが古今東西、いかに人を悩ませてきたかが伺われます。

本膳

日本料理の正式の膳立てで、ふつうは三の膳まであります。最初に出る一の膳を本来「本膳」と呼びますが、三の膳までひっくるめてそう呼ぶ場合もあります。

正式なマナーとしては、和え物と煮物に続けて箸をつけない、菜と汁をいっしょに食べない、迷い箸をしない、おかわりの時は飯碗を受け取ったら必ず一度膳に置く、などがあります。いやはや、うるさいことです。本膳では、一の膳に飯がつくのがふつうです。

彦六、小さんが得意に

三代目柳家小さんから四代目を経て、五代目小さんに受け継がれていたほか、三代目小さんの養子だった二代目柳家つばめに教わって、八代目林家正蔵(彦六)もよく演じました。地味で笑いも少なく、ウケにくい噺なので、現在は若手ではほとんど手掛ける者がなく、CDも出ているのは五代目小さんのもののみです。

正蔵のものは、小さん系のやり方とほとんど変わりありませんが、招待されるきっかけが違っています。三代目小さんの大正3年(1914)の速記では名主の家へ江戸者の婿が来る披露で、庄屋以下が出かける設定です。江戸の人間に村の恥を見せたくないという見栄が、師匠に作法を習いに行く動機になっているわけです。

正蔵ではこの要素を省き、村長の招待で村民一同が出かけることにしてあります。これで、名主と庄屋は同じであるのに、同じ地方の一つの村に同時にいるのはおかしいという矛盾を解消しています。

オチは、五代目小さんは「この拳はどこへやるだ?」としていました。

村長

むらおさ。庄屋、名主に同じです。藩主(天領の場合は幕府→代官)の任命で、地頭(代官)の下で年貢そのほか、村の事務を司りました。関東以北で名主、関西で庄屋と呼びました。

講談にも類話

講談「荒茶の湯」では、福島正則以下の無骨な侍が、茶の席で上座の加藤清正を逐一まねして失敗します。

【RIZAP COOK】

二人旅 ににんたび 演目

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謎かけは落語の代表的なジャンル。謎かけがふんだんの噺です。

別題:煮売屋(上方)

【あらすじ】

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

煮売屋

上方落語「煮売屋」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さんの工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

ただ、それ以前に、東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍した三代目三遊亭円馬が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があり、その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。昭和初期から戦後にかけては、柳家三亀松が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん

ろくろ首 ろくろくび 演目

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上方噺。どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太郎の松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。水木しげるによると、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さんが東京に移しました。直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さんは「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さんがあらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

【語注】
丑三ツ時 うしみつどき:午前2時頃
行灯 あんどん
褌 ふんどし
瞽女 ごぜ

短命 たんめい 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

美人と結婚するとろくなことがないという、ひがみ丸出しのお話です。

別題:長命 長生き

【あらすじ】

大店の伊勢屋。

養子が、来る者来る者、たて続けに一年ももたずに死ぬ。

今度のだんなが三人目。

おかみさんは三十三の年増だが、めっぽう器量もよく、どの養子とも夫婦仲よろしく、その上、店は番頭がちゃんと切り盛りしていて、なんの心配もないという、けっこうなご身分だというのに……。

先代から出入りしている八五郎、不思議に思って、隠居のところに聞きにくる。

「夫婦仲がよくて、家にいる時も二人きり。ご飯を食べる時もさし向かい。原因はそれだな」

八五郎、なんのことだかわからない。

「おまえも血のめぐりが悪い。いいかい、店の方は番頭任せ、財産もある。二人でしょっちゅう朝から退屈して、うまいもの食べて、暇があるってのは短命のもとだ」
「短命って、なんです?」
「命の短いのを短命、長ければ長命」
「じゃあなんですか、いい女だと、だんなは短命なんで?」
「まあ、そういうことかな」

早い話、冬なんぞはこたつに入る。そのうちに手がこう触れ合う。白魚を五本並べたような、透き通るようなおかみさんの手。顔を見れば、ふるいつきたくなるいい女。そのうち指先ではすまず、すーっと別の所に指が触って……。

なるほど、これでは短命にもなるというもの。

三度同じことを言わせて、ようやく納得した八五郎、ついでにお悔やみの言い方も
「悲しそうな顔で口許でぼそぼそ言っていればそれでいい」
と、教えてもらった。

家に帰ると、女房が、早くお店に行け、とせっつく。

その前に茶漬けをかき込んで、というところでふと思いつき
「おい、夫婦じゃねえか。給仕をしろやい。おい、そこに放りだしちゃいけねえ。オレに手渡してもらいてえんだ」

ブスっ面で邪険に突き出したかみさんの指と指が触れ
「顔を見るとふるいつきたくなるようないい女……。あああ、オレは長命だ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

短命

この噺のようなケースは、江戸時代には「腎虚」とされました。

つまりはアッチの方が過ぎ、精気を吸い取られてあえなくあの世行きというわけです。男の精水(山田風太郎流だと「精汁」)は「腎水」とも呼ばれ、腎臓が出所と誤って考えられていたことによります。

腎虚と内損は二大道楽病とされ、それぞれ「のむ」「打つ」がもたらす災いです。三道楽のうち、残る一つの「打つ」の結果は言うまでもなく「金欠病」ですが。

五代目古今亭志ん生の速記でも、隠居が「内損か腎虚とわれは願うなり、とも百歳も生きのびし上」と、言っています。

思わずニヤリ

昔はこの程度でも艶笑落語のうちに入り、なかなか高座には掛けにくかったといいます。現在は、ちょっと味のあるお色気噺として、普通に演じられます。

まあ、オトナの味わいというのか、以心伝心のやりとりは、むしろほほえましく、なかなかよろしいものです。

五代目古今亭志ん生、五代目小さんが得意にしていました。志ん生は、最後のかみさんとの会話にくすぐりを多く用いるなど工夫し、オチは「おめえとこうしてると、オレは長生きができる」というものでした。

オチから別題は「長命」ですが、噺の全体のプロットからしてやはり「短命」が妥当でしょう。

志ん生のくすぐりから

●その1

隠「二階へ、あの奥さんが上ってゆかァ」
八「ええ、ええ」
隠「二階には、だァれもいないやァ」
八「ええ」
隠「で、短命なんだよ」
八「二階にだァれもいないで、短命ですか」
隠「そうだよ」
八「二階から、落っこちたんですかァ」

●その2

八「え、二階に上ろうじゃねえか」
女「家にゃァ二階はないよ」
八「じゃあ、屋根へ」

【語の読み】
大店 おおだな:大商店
腎虚 じんきょ:房事過度で起こる衰弱症
精水 せいすい:精液
腎水 じんすい:精液
内損 ないそん:酒による内臓障害、主に肝の病

試し酒 ためしざけ 演目

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今村信雄の新作。いや、ブラックの。いやいや、中国の笑話だとか。諸説紛々。

【あらすじ】

ある大家の主人。

客の近江屋と酒のみ談義となる。

お供で来た下男久造が大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争い。

挙げ句に賭けをすることになる。

もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。

久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。

さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久造、
「ちょうだいすますべえ」

一升入りの盃で五杯、息もつかさずあおってしまった。

相手のだんな、すっかり感服して小遣いをやったが、しゃくなので
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ、五升なんて酒ェのんだことがねえだから、心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

諸説いろいろ

今村信雄(1894-1959)が昭和初期にものした新作といわれています。父は講談や落語を専門とした速記者、今村次郎(1868-1937)。第一次落語研究会の発起人の一人でした。息子の信雄も速記者で、『落語の世界』(青蛙房、1956年、のち平凡社ライブラリー)などもある落語研究家でした。

ところが、この噺には筋がそっくりな先行作があります。

明治の異色の英国人落語家、初代快楽亭ブラックが明治24年(1891)3月、「百花園」に速記を残した「英国の落話」がそれで、主人公が英国ウーリッチの連隊の兵卒ジョン、のむ酒がビールになっている以外、まったく同じです。

このときの速記者が今村次郎ということもあり、今村信雄はこのブラックの速記を日本風に改作したのではと思われます。

では、オリジナルはブラックの作または英国産の笑話かというと、それも怪しいらしく、さらにさかのぼって、中国(おそらく唐代)の笑話に同パターンのものがあるともいわれます。具体的な文献ははっきりしません。

結局、この種のジョークは気の利いた文才の持ち主なら誰でも思いつきやすいということでしょう。案外、世界中に類話が分布しているのかもしれません。

小さん十八番

初演は七代目可楽で、その可楽の演出を戦後、五代目柳家小さんが継承、ほぼ古典落語化するほどの人気作にしました。

今村信雄自身も『落語の世界』で、「今(1956年)『試し酒』をやる人は、柳橋、三木助、小勝、小さんの四人であるが、(中略)中で小さん君の物が一番可楽に近いので、今、先代可楽を偲ぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」と述べています。

飲兵衛噺を得意にしていた人だけに、大杯をあおる場面の息の継ぎ方のうまさなど今さら言うまでもありません。

その小さん門下を中心に、現在もよく演じられ、大阪では桂米朝の持ちネタでもありました。

【語の読み】
落話 おとしばなし

酢豆腐 すどうふ 演目

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【RIZAP COOK】

江戸から上方へ行って「ちりとてちん」に。キザ者を茶化す悪ふざけが過ぎます。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若だんな、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてえものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の「大通法語」に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の「文藝倶楽部」に掲載された初代柳家小せんの速記から、若だんなの洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げえせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊「聞上手」中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生、古今亭志ん朝が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別演出で、石けんを食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵から、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬に伝わっていました。「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石けんで……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目小さん門下だった初代柳家小はんが豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。大阪に移植され、古くは三代目林家菊丸が得意にしたほか、初代桂春団治も得意にしました。

東京では五代目柳家小さん、桂文朝などがこちらで演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

【語の読み】
乙 おつ
簪 かんざし
江戸生艶気樺焼 えどうまれうわきのかばやき
拙 せつ

【RIZAP COOK】

水屋の富 みずやのとみ 演目

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水を売る小商いが富くじに当たったという噺。さて、どうなることやら。

【あらすじ】

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

江戸の「水」事情

江戸時代、本所や深川などの、水質が悪く井戸水が使えない低湿地帯では、天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていました。

水売りとも呼ばれたこも商売、狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもならず、しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあり、水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運んで、それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで得意先の客に売り歩いたものです。

水売り

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていましたが、こちらは今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち

原話は明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」などで、いくつかの小咄をつなぎあわせてできた噺です。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがり、オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げするというもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられましたが、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?

「水屋の富」には、運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学の影響が見られるといわれます。「天災」参照。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきませんし、この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズム的な異様さを感じる人も少なくないと思います。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。それよりそんな悪知恵も、金を活かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。してみると、結局これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生描く江戸の「どん底」

三代目柳家小さんの十八番でしたが、戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かし、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。結局、哀しい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はないようです。

富くじ

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。「宿屋の富」参照。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺などで、当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でしたが、この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。今の宝くじを想像していただければよろしいかと思いますが、明治になって廃止となり、戦後まで日本の社会では絶えていました。この制度、じつは不思議なものです。

唐茄子屋政談 とうなすやせいだん 演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

強情灸 ごうじょうきゅう 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

筋よりも表情や仕方が命。演技力が問われる、なかなかの噺です。 

別題:やいと丁稚(上方)

【あらすじ】

ある男が友達に、灸をすえに行った時の自慢話をしている。

大勢の先客が、さぞ熱いだろうと尻込みする中で、自分の番がきたので、すーッと入っていくと、
「この人ァ、がまんできますかな」
「まあ、無理でしょう」
と、ひそひそ話。

癪にさわった強情者、
「たかが灸じゃねえか、ベラボウめ、背中で焚き火をするわけじゃああるめえ」
と、先生が止めるも聞かばこそ、一つでも熱くて飛び上がるものを、両側で三十二もいっぺんに火をつけさせて、びくともしなかったと得意顔。

それだけならいいが、順番を譲ってくれたちょっといい女がニッコリ笑って、心で「まあ……この人はなんて男らしい……こんな人をわが夫に」なんて思っているに違いないなどと、自慢話が色気づいてくるものだから、聞いているほうは、さあ面目ない。

「やい、豆粒みてえな灸をすえやがって、熱いの熱くねえのって、笑わせるんじゃねえや。てめえ一人が灸をすえるんじゃねえ。オレの灸のすえ方をよっく見ろっ」

よせばいいのに、左腕にモグサをてんこ盛り。

「なんでえ、こんな灸なんぞ……石川五右衛門てえ人は、油の煮えたぎってる釜ん中へ飛び込んで、辞世を詠んでらあ。八百屋お七ィ見ろい。火あぶりだ。なんだってんだ……これっぽっちの灸……トホホホホ、八百屋お七……火あぶりィ……石川五右衛門……お七……五右衛門……お七……五右衛門……」
「石川五右衛門がどうした」
「ウーン、五右衛門も、熱かったろう」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

「やいと丁稚」と「強情灸」

江戸っ子の熱湯好きと強情のカリカチュアなので純粋な江戸落語という印象がもたれますが、実は、上方落語「やいと丁稚」が東京に移植されたものです。両者を比べると、かなりのニュアンスの相違、東西の気質の違いが明白です。

「やいと丁稚」は、商家の主人が丁稚にやいと(灸)をすえ、泣き叫ぶので自分ですえてみせますが、あまりに熱いので「辛抱でけんかったら、こうやって払い落としたらええのや」とポンポンとはたく仕種でオチになるもので、子供の手前強がってみせるだけで結局がまんもなにもしませんから、強情噺でもなんでもありません。古い商家の日常の一コマを笑い飛ばしたに過ぎないはなしでしょう。

その点、東京の「強情灸」のほうは、かなりの落語的誇張があるとはいえやせがまんという、いかにも「武士は食わねど…」の町らしい江戸っ子気質が前面に出ていますから、いわば本歌取りでまったく新しい噺を作ったに等しいといえます。

だいいち、プラグマティストの大阪人から見れば、こんなたわいなく子供じみたガマンくらべなど、ただのアホとしか見えないのではないでしょうか。

志ん生、小さんの強情くらべ

五代目古今亭志ん生、ついで五代目柳家小さんの十八番で、どちらを聴いても四、五十年前までは生き残っていた爺さん連、銭湯で水をうめようとするとどなりつけたという下町気質の人々を思い起こさせます。

いずれにしても「見る」要素の強い噺で、だんだん表情が変わり、顔が真っ赤になっていくところが見せ場です。

短いので、マクラ噺として、熱湯に入った男が強情を張り、「あー、ぬるい、トホホホ、あんまりぬるいんで気が遠くなっちゃった」「うん、ぬるくて、足に湯が食いつくね」「ぬるいってのに、あー、なんだ、こっちを向くな。動くんじゃねえっ」(志ん生)という次第になる小咄を入れます。

有痕灸と無痕灸があり、有痕灸の方は皮膚に直接モグサを乗せるので熱く、わざと火傷を作ってその強烈な刺激で、血液中に免疫物質を作り出して治す、というのが一応の能書きです。

無痕灸はずっと穏やかで、皮膚にショウガ、ニンニク、ニラ、杏の種、味噌、塩などを塗り、その上にモグサを乗せるので、痕も残らず苦痛もありません。

当然、この噺の灸は前者の有痕灸で、これは普通の人間で一回に米粒大のを一つ、それを五回程度といいますから一度に三十二すえたときの熱さがどれほどのものか。やるほうもやるほう、やらせるほうもやらせるほうで、これは焼身自殺に近い、狂騒曲のさまです。

モグサ

ヨモギを乾燥させて精製したもので、伊吹山の麓が本場です。

モグサ売りの口上は、「江州伊吹山のほとり柏原、本家亀屋左京、薬もぐさよろし」というもので、節を付けて売り歩きました。

初代亀屋左京は江戸に出て、吉原のお女郎さんに頼んでこの宣伝歌を広めてもらった、というのが桂米朝師匠の説。

彦六の強情話

強情で「トンガリ」の異名があった、八代目林家正蔵(彦六)は熱湯好きで、弟子を引き連れて湯に行ってもうめさせず、尻込みしていると「てめえたちゃあ、へえらねえと破門だぞ」と脅したという、弟子の林家木久扇演じる「彦六伝」の一節。

志ん生のSP

戦時中の昭和18年(1943)6月、「がまん灸」と題してテイチクからリリースしています。志ん生の戦前のレコードはこれが最後で、金原亭馬生時代の昭和10年(1935)2月に発売された「氏子中」以来、14種出されています。

蜘蛛駕籠 くもかご 演目

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「駕籠は足が八本ある」「本当の蜘蛛駕籠だ」せこい客のおかしな道中話。 

別題:雀駕籠 住吉駕籠(上方)

【あらすじ】

鈴が森で客待ちをしている駕籠屋の二人組。

ところが、昨日ここに流れてきた前棒がおめでたい野郎で、相棒がかわやに行っている間に、ほんの数メートル先から、塵取りを持ってゴミ捨てに来た茶店のおやじをつかまえて
「だんな、へい駕籠」

屁で死んだ亡者のように付きまとい、むりやり駕籠に乗せようとして
「まごまごしてやがると、二度とここで商売させねえからそう思え」
とどなられて、さんざん。

次に来たのが身分のありそうな侍で、
「ああ駕籠屋、お駕籠が二丁じゃ」
「へい、ありがとう存じます」

前の駕籠がお姫さま、後ろがお乳母どの、両掛けが二丁、お供まわりが四、五人付き添って、と言うから、てっきり上客と、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら、
「そのような駕籠が通らなかったか」

またギャフン。

その次は酔っぱらい。

女と茶屋に上がり、銚子十五本空にして、肴の残りを竹の皮に包んで持ってきたことや、女房のノロケをえんえんと繰り返し、おまけにいちいち包みを懐から出して開いてみせるので、駕籠屋は閉口。

やっと開放されたと思うと、今度は金を持っていそうなだんなが呼び止めるので、二人は一安心。

酒手もなにもひっくるめて二分で折り合いがつき、天保銭一枚別にくれて、出発前にこれで一杯やってこいといってくれた。

駕籠屋が大喜びで姿を消したすきに、なんともう一人が現れて、一丁の駕籠に二人が乗り込んだ。

この二人、江戸に帰るのに話をしながら行きたいが、歩くのはめんどうと、駕籠屋をペテンに掛けたというわけ。

帰ってきた駕籠屋、やせただんなと見えたのにいやに重く、なかなか棒が持ち上がらないので変だと思っているところへ、中からヒソヒソ話し声が聞こえるから、簾をめくるとやっぱり二人。

文句を言うと、
「江戸に着いたらなんとでもしてやるから」
と頼むので、しかたなくまたヨロヨロと担ぎ出す。

ところが、駕籠の中の二人、興が乗って相撲の話になり、とうとうドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまららない。

たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなった。

下りてくれと言っても、
「修繕代は出すからこのままやれ、オレたちも中でかついで歩くから」
と、とうとう世にも不思議な珍道中が出現。

これを見ていた子供が、
「おとっつぁん、駕籠は足何本ある?」
「おかしなことォ聞くな。前と後で足は四本に決まってる」
「でも、あの駕籠は足が八本あるよ」
「うーん、あれが本当の蜘蛛駕籠だ」

底本:五代目柳家小さん、三代目桂米朝

【しりたい】

盛りだくさん

駕籠の底が抜けて、客が歩く部分の原話は享保12年(1727)刊の笑話本『軽口初賣買』中の「乗手の頓作」ですが、実在した大坂船場の豪商で奇人として有名だった河内屋太郎兵衛の逸話をもとにしたものともいわれます。

上方落語「住吉駕籠」として有名で、これは住吉街道を舞台にしていることからですが、東京には、おそらく明治期に三代目柳家小さんが移したものでしょう。

上方の演出ははでで、登場人物も東京より多彩です。夫婦連れが駕籠屋をからかったりはいいとしても、酔っ払いが吐いて駕籠に「小間物」を広げるシーンなどはあざとく、潔癖な江戸っ子は顔をしかめるものでしょう。

雀駕籠

上方のやり方では、駕籠に客を乗せてからの筋は二つに分かれます。

一つは現行の、駕籠の底が抜けるものです。別筋で、今はすたれましたが、「雀駕籠」と題するものがあります。

スピードがあまりに速いので、宙を飛ぶようだから宙=チュンで雀駕籠、という駕籠屋の自慢を聞いた客が、無理やり駕籠屋にいろいろな鳥の鳴きまねをさせ、「今度はウグイスでやってくれ」「いえ、ウグイスはまだ籠(=駕籠)慣れまへん」とオチるものがありました。

東京では小さん系

三代目小さんの速記は残されていませんが、その門弟の柳家小はんが高座に掛けていたのを五代目小さんが継承して演じていました。

大阪よりかなりあっさりとはしているものの、酔っ払いがしつこく同じセリフを繰り返してからむくだりなどは「うどんや」と同じく、そのままなので、カットしない場合は、かなりねちっこくなっていたのは否めません。

上方はもとより本家で、五代目、六代目笑福亭松鶴、先代文枝、米朝ほか、多くの演者が手掛けています。

雲助

流れ者の駕籠かきのことで、そのいわれは雲のように居所が定まらないからとも、蜘蛛のように網を張って客をつかまえるから、また、雲に乗るように速く爽快だからとも、いろいろな説があります

「蜘蛛駕籠」は雲助の駕籠の意味で、「雲駕籠」とも書きました。

歌舞伎「鈴が森」で白井権八にバッタバッタと斬られるゴロツキの雲助どものイメージがあったため、今日にいたるまで悪い印象が定着していますが、落語では東西どちらでも、いたって善良に描かれています。

むしろそれが実態だったらしく、桂米朝も噺の中で、「こういう(住吉街道のような人通りの多い)ところの駕籠屋は、街中の辻駕籠同様、いたってタチがよかったもので」と弁護しています。

両掛けが二丁

両掛けは武士の旅行用の柳行李(やなぎごうり=衣類籠)で、天秤棒の両端に掛けて、供の者にかつがせるのでこの名があります。

金玉医者 きんたまいしゃ 演目

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「娘がアゴを」「そりゃ、薬が効きすぎた」 。バレ噺の軽めなやつですね。

別題:顔の医者 過分量 すが目 皺め 頓智の医者 娘の病気 藪医者(改作)

【あらすじ】

甘井ようかんという医者。

飯炊き兼助手の権助と二人暮らしだが、腕の方はまるっきりヤブだということが知れ渡ってしまっているので、近所ではかかりに来る患者は一人もいない。

権助にも
「誰でも命は惜しかんべえ」
とばかにされる始末。

これでは干上がってしまうと一計を案じ、権助に毎日玄関で
「日本橋の越後屋ですが、先生のご高名を承ってお願いに」
などと、景気のいい芝居をさせ、はやっているふりをして近所の気を引こうとするのだが、口の減らない権助が、人殺しの手伝いをするようで気が引けるのだの
「越後屋ですが、先月の勘定をまだもらわねえ」
などと大きな声で言うので、先生、頭を抱えている。

そんなある日。

八丁堀の大店・伊勢屋方から、娘が病気なので往診をお願いしたいと使いが来る。

今度は正真正銘本物、礼金はたんまりと、ようかん先生勇み立ち、権助を連れて、もったいぶった顔で伊勢屋に乗り込む。

ところが、いざ脈を取る段になると、娘の手と猫の手を間違えたりするので、だんなも眉に唾を付け始める。

娘は気鬱の病で、十八という、箸が転んでもおかしい年頃なのに、ふさぎこんで寝ているばかり。

ところが不思議や、ようかん先生が毎日通い出してからというもの、はじめに怪しげな薬を一服与えて、後は脈をみるとさっさと帰ってしまうだけなのに、娘の容体が日に日によくなってきたようす。

だんなは不思議に思って、どんな治療をしているのか尋ねてみると、答えがふるっている。

「病人は、薬ばかり与えてもしかたがない。ことにお宅の娘さんは気の病。これには、おかしがらせて気を引き立てる。これが一番」

なんと、立て膝をして、女がふだん見慣れない金玉をチラチラ見せるという。

だんな、仰天したが、現に治りかけているので、それでは仕上げはおやじの自分がと、帰るとさっそく
「これ、娘や、ちょっと下を見てごらん」

ひょいと見ると、ふだん先生は半分しか見せないのに、今日はおとっつぁんがブラリと丸ごとさらけ出しているから、娘は笑った拍子にアゴを外してしまった。

「先生、大変です。これこれで、娘がアゴを」
「なに、全部出した? そりゃ、薬が効きすぎた」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

エロ味を消した改作

今でこそ、この程度はたわいない部類ですが、戦前は検閲も厳しく、師匠方はアブナい部分をごまかそうと四苦八苦したようです。

たとえば、四代目柳家小さんは前半の権助とのやり取りで切って「藪医者」と題しました。五代目小さんもこれにならっています。

その他、「顔の医者」と題して百面相をしてみせるやり方もよくあり、現在でもこの演出が多くなっています。

無筆!? ようかん先生

明治の三代目小さんは「皺め」の題名で演じましたが、その前に、源さんなる患者がやってきて、医者と滑稽なやり取りをする場面を付けています。

ようかん先生は按摩上がりで字が読めないので、絵で薬の上書きを付けているという設定で、チンが焚火を見てほえている絵だから「陳皮」、蚊が十匹いて、狐がいるから「葛根湯(かっこんとう)という具合。

明治9年(1876)1月、医師が免許制になるまで、いかにひどい代物が横行していたかがわかります。五代目小さんもこのネタを短くし、マクラに使っていました。

落語の藪医者

落語に登場の医者で、まともなのはほとんどいません。そろいもそろって、「子ゆえの 闇に医者を 呼ぶ医者」と川柳でばかにされる手合いばかりです。

名前もそれ相応に珍妙なのばかりで、今回登場の「甘井ようかん」は、さじ加減(見立て)が羊羹のように甘いというのと、あまりお呼びがかからないので黒の羽織が脱色して羊羹色(小豆色)になっているのをかけたもので、落語のやぶ医者では最もポピュラーです。

ただ、名前は演者によって適当に変わり、この噺でも明治の三代目柳家小さんの速記では「長崎交易」先生となっています。

その他、主なところでは「山井養仙(=病よう治せんのシャレ)」、「藪井竹庵」がありますが、ケッサクなのは立川談志が「姫かたり」で使っていた「武見太郎庵」ですが、いまどきこれを使ったところで誰が笑うでしょうか。武見太郎など、過去の人です。