成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
「くやしい」とだけ言えば済むものを、言葉尻の「しい」から「獅子」を掛け、延々と言葉遊びにしています。
文殊は知恵を司る菩薩。獅子に乗っているという伝承があるので、こう付けたもの。
これも、将棋で負けたときのくやしまぎれのむだ口かもしれません。
この後さらにおふざけで「トッピキピイの角兵衛獅子」と続けることも。
こうなるともはやヤケのヤンパチで、芸者などが嫉妬のあまり、やけ酒をあおって毒づくようすが想像できます。
500題超。演目ごと1000字にギュッと。どこよりも深くわかりやすく。
【どんな?】
悋気=嫉妬。
浮気性のだんな。
行くか行かぬか。
小僧相手に独楽で占い。
別題:三ツ紋の独楽 辻占独楽 喜撰
【あらすじ】
だんなが田中さんのところへ行くと言って、夜出かけていった。
やきもち焼きのおかみさん、これは女のところだと当たりを付け、小僧の長吉に提灯の火を頼りに後をつけさせるが、これに気づいただんなが、長吉を買収しようとお妾さん宅へ連れていく。
長吉は抜け目がなく、口八丁手八丁。
小僧は口も身上も軽いと脅し、酒をたらふく呑んだ挙げ句、二十銭で寝返ることにする。
「えー、まさに賄賂受納つかまつりました」
だんなは
「帰ったら、山田さん宅をのぞいてオレに声をかけられたことにし、ただいま碁が始まるようすですから、今夜のお帰りはないでしょう、と言え」
と言い含める。
証拠物件にと、
「これはだんなさまが店の者に食わせろとおっしゃったと、こう言うんだ」
と餡ころ餠まで渡す周到さ。
そうしているうち、長吉がきれいな箱を見つけた。
中には三つの独楽。
それぞれ違った紋がついている。
旦那が言うには、花菱の紋はおめかけさんの独楽。
「はあ、副細君で」
「変な言い方をするな。こっちの三柏がうちのやつのだ」
「ご本妻の」
「これが抱茗荷で、おれのだ。これを三つ一度にまわす。そこで、おれの独楽が花菱の方へ着けばここに泊まるという、辻占の独楽だ」
遊びに独楽売りから買ったものだからと、だんなが独楽をくれたので、長吉は喜んで、そろそろ引き揚げることにした。
「決してご心配ありません。お楽しみ」
「お楽しみだけ余計だ。こっちへ来たら時々寄れ」
「へい、日に三、四度」
「そんなに来られてたまるか」
どうせおかみさんからも、にせ情報を流した上二十銭ふんだくるつもり。
店はもう戸締まりしていたので、
「だんなのお帰り」
と大声で叫んで堂々と通ると、さっそく
「おかみさんがお呼びだ」
という。
だんなの筋書きが功を奏して、執拗な尋問をなんとかかわしたと思ったら、
「奉公人が用をするのは当たり前だよ」
と、なにもくれない。
逆に、肩をたたいてくれと言いつけられる。
しぶしぶ肩につかまっているうち、眠くなるので、長吉、本店のお嬢さんがこの間、踊りのおさらいにお出になったときの「喜撰」はよかったと、
「チャチャチャンチン、世辞で丸めて浮気でこねてェ、ツチドンドン」
と拍子に乗って背中を突いた。
その拍子に、独楽がポロリ。
紋がついているのでごまかしきれず、ついにすべて白状させられる。
おかみさんが
「やってお見せ」
と言うので実演すると、だんなの独楽はツツツーと花菱の方へ。
「えー、あちらにお泊まりです」
「おまえのやり方が悪いんだ。もう一度おやり」
「へい。……あっ、おかみさんの独楽が近づいた。だんなの独楽が逃げる逃げる逃げる……あちらへお泊まりです」
おかみさん、カンカンで、
「こっちィおよこし」
と自分でまわすが、なぜかだんなの独楽がまわらない。
「これはまわらないわけです。心棒(=辛抱)が狂いました」
【しりたい】
やり手など
幕末には純粋な上方落語でした。
明治になって三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。
あまり根付かなかったらしく、速記は小さんのほかは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)のものくらいです。
先の大戦後では、やはり上方の三代目林家染丸(大橋駒次郎、1906-68)、東京で上方落語を演じた二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)が得意にし、小南門下だった二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)もレパートリーにしていました。
だんなと本妻の虚々実々の腹の探りあいがニヤリとさせ、「権助提灯」などよりずっとおもしろいのに、あまりやり手がいないのは惜しいことです。
四代目志ん生の改作
四代目古今亭志ん生(鶴本勝太郎、1877-1926、鶴本の)は、五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の二度目の師匠です。
「転宅」「あくび指南」などを得意とした、江戸前の粋な芸風でした。
その志ん生が音曲の素養を生かし、この噺を「喜撰」と題して改作しています。
後半の独楽回しの部分を切り、小僧が清元の「喜撰」に熱中するあまりおかみさんを小突くので、「おまえ、人を茶にするね(=馬鹿にするね)」「へい、今のが喜撰(宇治茶の銘柄と掛けた)です」というサゲにしました。
これは一代限りで継承者はなく、五代目志ん生にも伝わっていません。
五代目志ん生は「稽古屋」で「喜撰」をうたっています。
独楽
こま。日本渡来は平安時代以前で、コマは高麗から渡ったことから付いた名称です。
江戸時代になり、八方独楽、銭独楽、博多独楽など、さまざまな種類が作られ、賭博や曲独楽もさかんに行われました。
「喜撰」
歌舞伎舞踊「六歌仙容彩」の四段目で、『古今和歌集』で有名な六歌仙のそれぞれを、それぞれの性格に応じて踊り分けるものです。
第一段が僧正遍昭(義太夫)、以下、文屋康秀(清元)、在原業平(長唄)、喜撰法師(清元・長唄の掛け合い)、大伴黒主(長唄)となり、それぞれに小野小町と、その分身である茶汲み女・祇園のお梶がからみます。
天保2年(1831)3月中村座初演で、代々の坂東三津五郎のお家芸となっています。
「世辞で丸めて浮気でこねて」は、喜撰が花道に登場するときの冒頭の歌詞で、浮き立つようなしゃれた節回しで有名です。
それにつけても、一介の商家の小僧にまで踊りや音曲の素養が根付いていた、かつての江戸東京の文化水準の高さには驚かされます。
花菱
はなびし。家紋の一つです。わりと一般的です。
菱とは、ヒシ科の一年生植物。池、沼などの中に生えて、水面に浮かんでいます。
葉の形状は菱状三角形です。夏に四弁の白い小花が咲きます。実は硬くて、角状のトゲが目立ち、中の白い種子は食用になります。
花菱とは、この菱の葉に似た四つの弁を並べて、花びらに見立てた形からつきました。
唐花菱、唐花とも呼ばれます。
大陸由来の文様とされています。
平安期には有識文様として、公家の調度品や衣装などに用いられていました。
使いはじめは、甲斐の武田氏でした。
「武田菱」は有名です。
江戸期には、松田氏、安芸氏、板倉氏、松前氏なども使っていました。
三柏
みつかしわ。家紋です。日本十大家紋の一つとされています。
三柏は、柏紋の中でも一般的に広く使われています。
さまざまなバリエーションがついて派生しています。
「丸に三柏」「蔓柏」「剣三柏」「鬼三柏」「三土佐柏」「三巴柏」「実付き三柏」「八重三柏」などがあります。
抱茗荷
だきみょうが。こちらも家紋。
ミョウガの花を図案化したものです。
こちらも日本十大家紋の一つです。
バリエーションは70種類以上ありますが、実際に使われている紋のほとんどは「抱茗荷」と、それを丸で囲んだ「丸に抱茗荷」です。
普及したのは戦国時代以後で、しかも摩多羅神の神紋として用いられるのが大きな特徴です。
さらには、音が「冥加」に通じることから、神仏の加護が得られる縁起のよい紋と考えられています。
神社や寺などでよく目にします。
【どんな?】
女通いのだんな、権助を金で口止め。
おかみさんは金で権助を吐かせようと。
権助、高額のだんなになびく。
田中さんと向島で網打ち、ということに。
権助は魚屋で鰹片身、伊勢海老、目刺し、蒲鉾を。
「どこの川に蒲鉾が泳いでる」
「網をブッて捕った時、みんな死んでた」
別題:熊野の牛王
【あらすじ】
だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。
嫉妬で黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助を呼んで、問いただす。
権助はシラを切るので、饅頭と金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。
両国広小路あたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。
「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。
なにも知らないだんな。
いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。
この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。
例によって絵草紙屋の前にさしかかる。
今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。
「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。
ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若。
「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」
逆に五十銭で買収。
「駒止で田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺から植半でひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。
「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」
その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。
権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものは鰹の片身に伊勢海老、目刺しに蒲鉾。
たちまちバレた。
「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川に蒲鉾が泳いでるんだい」
「ハア、どうりで網をブッて捕った時、みんな死んでた」
【しりたい】
ゴンスケは一匹狼?
権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。
与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。
「権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。
蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。
作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。
「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。
噺の成り立ち
上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。
明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。
前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。
古くは、「熊野の牛王(護符)」の別題で演じられたこともありました。
この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。
絵草紙屋
役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。
明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。
明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。
山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。
深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。
長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。
「おふみ」の後半
日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。
ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣な算段なのですが……。
いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。
鉄瓶がかっかと熱くなる擬音語から、嫉妬に胸を焦がす意味です。
これは男の場合にも言いますが、ほとんどは女のヤキモチ。
「熱い」の意味から、まったく反対の嫉妬される側、すなわち熱々の恋人同士を指すことも。
この場合には次項の「ちんちんかもかも」として使われた場合が大半です。
花魁の方じゃ、いやな芸者じゃあないかってんで、ちんちんを起こして、あっしを夜っぴて花魁が寝かさない。
ちきり伊勢屋
【どんな?】
「源氏物語」をもじった、ダジャレ丸出しの噺。
【あらすじ】
手習いの師匠をしている、村崎式部という浪人。
もとは某藩の祐筆(書記)を務めていたが、これが、あだ名を「光君」と呼ばれたほどの色男。
吉原通いをするうちに玉屋の中将という花魁と相思相愛の仲に。
中将の年季が明けるのを機に身請けして女房にしたが、
「祐筆の身が遊女を女房にするとはけしからん」
とご重役方の怒りに触れて、あえなくクビ。
仕事上、書をよくしたので、子供らに習字を教えて、細々と生計を立てている、今日このごろ。
ところが、いい男だから、近所の菓子屋の娘で十五になるお美代というのが式部に夢中になり、いつしか二人はわりない仲に。
これがバレないはずがなく、中将、嫉妬で黒こげ。
ある日。
式部がつい、反物の仕立てをお美代に頼もうと、口走ったことから、かみさんの怒りが爆発。
夫婦げんかになった。
けんかが白熱して、母親の仲裁も聞かばこそ、『源氏物語』五十四帖の本を投げ合い、「源氏」尽くしの言い合いに。
「もうもう縁を桐壺と、思うておれど箒木が、蜻蛉になり日なたになり、澪標(=身を尽くし)、早蕨の手を絵合わして乙女になるゆえそのままに、須磨しておれど、向こうの橋(=菓子)姫と情交があるの、明石て言えと、いらざることを気を紅葉賀、もう堪忍が奈良坂や、この手拍子の真木(=薪)柱で、空(=打つ)蝉にするぞ」
「いかに榊木(=酒気)げんじゃとて、あんまりなこと夕顔でござんす。花の宴(=縁)があればこそ、末摘花を楽しみに、また若紫のころよりも、人目関屋の雲隠れ、心の竹川言いもせで、(中略)いまだ十四五なあの胡蝶と、あんまり浮気な藤裏葉、うら腹男、御法(=祈り)殺してくりょう」
これでもまだ足りず、宇治十帖まで行きそうな気配。
おっかさん、さじを投げて隣のかみさんに救援を頼んだ。
「まあ、おっかさんも大変じゃございませんか。やきもちけんかが、ただ始終苦情(=四十九帖)で」
「いえ、五十四帖でございます」
底本:六代目桂文治
【しりたい】
やきもちもペストも風雅な時代
原話は不明。
明治33年(1900)2月の『百花園』に掲載された六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記が残るだけです。
この年は、子年のうえペストが大流行し、東京府と東京市がネズミを一匹五銭で買い上げるという騒ぎになりました。
文治はこれを当て込んで、マクラでペストをあれこれ話題にし、ネズミがペストを媒介するなら、「夫婦げんかは犬も食わない」というのだからそれ以外のけんかは犬が媒介するのだろうと珍妙な論理を展開。
焼き餅による夫婦げんかがテーマの、この噺につなげています。
いずれにしても、源氏物語の五十四帖を読み込む趣向だけなので、文治以後、口演記録はありません。
手習いの師匠
江戸では、庶民はふつう「寺子屋」とは呼ばず、もっぱら「手習い」でした。
武士の子には、旗本、御家人のうちで書をよくする者が教えましたが、そこに町人が出入りしても、かまいませんでした。
町家の子は主に浪人が教えますが、むろん規模の小さい自宅営業。
多くは七歳の春に通い始め、弟子入りの時は母親が付き添い、束脩(入学金)として二朱、そのほかに天神机(引き出し付きの粗末な机)、硯、砂糖一斤を持参するのが普通です。
月謝は普通、月二百文で、盆暮れに二朱ずつ、毎月二十五日に天神講の掛け銭が二十四文、夏には畳銭二百~三百文、冬には炭代を同額納めました。
天神講
てんじんこう。学問の神である天神を祭る行事のための積み立て金。
町家の子には習字のほか、必ず算盤を教えることになっていました。
「読み書きそろばん」と呼ぶゆえんです。
【語の読みと注】
祐筆 ゆうひつ:書記
花魁 おいらん
嫉妬 しっと
反物 たんもの
桐壺 きりつぼ
箒木 ははきぎ
蜻蛉 かげろう
澪標 みをつくし
早蕨 さわらび
須磨 すま
空蝉 うつせみ
末摘花 すえつむはな
若紫 わかむらさき
束脩 そくしゅう:入学金
算盤 そろばん