きょうかいえぬし【狂歌家主】落語演目

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【どんな?】

江戸前の噺。これは狂歌噺。全編に洒落がたっぷり効いています。

別題:三百餅

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日。

正月用の餅きを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分。

つまり、たった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付けた。

夫婦は、それを言い訳の種にすることで、相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅さまの縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったな、こいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家は、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、総後架そうごうか(共同便所)に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから、三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅をかず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、滑稽味や風刺を織り込んだ和歌です。

詩歌で滑稽味を含ませていることを「狂体」と呼びます。

狂歌とは、狂体の和歌の意味です。

起源は『万葉集』巻十六の「戯咲歌ぎしょうか」まで遡れます。大伴家持おおとものやかもちが詠んだ、遊戯と笑いを含んだ歌です。

平安時代には「狂歌」という言葉がありました。

『古今和歌集』の俳諧歌はいかいかも狂歌の一種でしょう。

とはいえ、古い記録があまり残っていません。

日本人の歌への姿勢には、歌道神聖が根底に漂っていたからです。

まじめな歌は歌集に残るのですが、遊戯と笑いの歌は、詠んだその場でひとしきり笑えばそれで終わりにしていたからです。

歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったわけです。

歌に笑いを求めなかったのです。

日本人は、笑いの感情を一段低く見ていたのかもしれません。

中世になると、落首や落書などの機知や滑稽を前面に表現した文芸が登場しました。

ただ、これも、たぶんに匿名性がセットになっていました。

うしろめたさがついてまわっていました。

ここでも、滑稽や風刺を含んだ笑いは、歌への冒瀆ととらえていました。

豊臣秀吉などは出身とのかかわりもあるのか、狂歌を楽しんだといいます。

人情の機微、認識の矛盾、世相の混乱といった人の心の摩擦を、皮肉や風刺で卑俗化する手法を獲得しました。

その導線に、京都で松永貞徳まつながていとく(1571-1653)によって創始された貞門俳諧ていもんはいかいがありました。

この一派が、江戸時代に花咲く狂歌の基本を形作ったのでした。

江戸の狂歌

狂歌が江戸で人気を得るまでには少々時間がかかりました。

明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろもきっしゅう(1743-1802、幕臣、四谷忍原横丁)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、まずは、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まりました。

その後、狂歌合わせなどが、安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。

狂歌合わせとは、左右に分かれて狂歌の優劣を競う遊びです。

なかでも、太田南畝おおたなんぽ(1749-1823、幕臣、牛込生まれ)は「狂歌の神さま」的存在でした。

この方は、四方赤良よものあから、のちに蜀山人しょくさんじんとも称しました。

ほかには、朱楽菅江あけらかんこう(1738-99、幕臣、市谷二十騎町)、大屋裏住おおやのうらずみ(1734-1810、更紗屋→貸家業、日本橋金吹町)、元木網(1724-1811、京橋北紺屋町で湯屋→芝西久保土器町で落栗庵)、智恵内子ちえのないし(1745-1807、元木網の妻、芝西久保土器町で落栗庵)、宿屋飯盛やどやのめしもり(1753-1830、日本橋小伝馬町で旅籠、石川雅望)、鹿都部真顔しかつべまがお(1753-1829、数寄屋橋門外で汁粉屋、恋川好町)などが、狂歌師(作者)として名を馳せました。

幕末が迫ってくると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化し、川柳とともに大いに支持されていきました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛け取り万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。

古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。

「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根よこね(性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛冶町かんだかじちょう』、これは薬屋の広告で」と返します。

大家が蜀山人先生の逸話を、長々と披露する場面もあります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題です。

ここでの「三百」は餅代の三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

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【どんな?】

店賃を溜めたことから、かたに道具箱を取られてしまった与太郎……。

江戸っ子が言い立てる悪態。江戸落語の小気味よさが楽しめます!

あらすじ

神田小柳町かんだこやなぎちょうに住む大工の与太郎よたろう

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが長屋までやって来ると、店賃たなちんのかたに道具箱を家主いえぬし源六げんろくに持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが、源六は強硬だ。

「なに言ってやがんでえ。丸太ん棒と言ったがどうした。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。呆助ほうすけ藤十郎とうじゅうろう、ちんけいとう、芋っぽり、株かじりめ。てめえたちに頭を下げるようなおあにいさんとおあにいさんのできが、すこうしばかり違うんだ。ええ、なにを言いやがんだ。下から出りゃつけ上がり、こっちで言う台詞せりふだ、そりゃ。だれのおかげで大家おおやだの町役ちょうやくだの言われるようになったでえ。大家さん大家さんと、下から出りゃその気になりゃあがって、俺がてめえの氏素性うじすじょうをすっかり明かしてやるから、びっくりして赤くなったり青くなったりすんな。おう、おめえなんざな、元はどこの馬の骨だか牛の骨だかわかんねえまんま、この町内に流れ込んで来やがった。そん時のざまあ、なんでえ。寒空に向かいやがって、洗いざらしの浴衣ゆかた一枚でガタガタガタガタ震えやがって、どうかみなさんよろしくお願いしまうってんで、ペコペコ頭を下げてたのを忘れやしめえ。さいわいと、この町内の人はお慈悲じひ深いや。かわいそうだからなんとかしてやりましょうてんで、この常番じょうばんになったんだ。一文の銭、二文の銭をもらいやがって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、この町内の使いやっこじゃねえか。なあ、そのてめえの運の向いたのはなんだ。六兵衛番太ろくべえばんたが死んだからじゃねえか。六兵衛のことを忘れるとバチが当たるぞ。おう、源六さん、おなかがすいたら、うちのいもを持っていきなよ、寒かったらこの半纏はんてんを着たらだらどうだいってんで、なにくれとなくてめえのめんどうを見てた。この六兵衛が死んだあと、六兵衛のかかあにつけ込みやがって、おかみさん芋洗いましょう、まき割りましょうってんで、ずるずるべったりに、このうち入り込みやがったんだ。二人でもって爪に火ぃともすように金をためやがってな、高い利息で貧乏人に金貸し付けやがって、てめえのためには何人泣かされてるのかわかんねえんだ。人の恨みのかかった金で株を買いやがって、大家でござい、町役でござい、なに言いやがんだ、てめえなんざ大悪おおわるだ。六兵衛と違って、場違いな芋を買ってきやがって、き付けをしむから生焼なまやけのガリガリの芋だ。その芋を食って、何人死んだかわからねえんだ。この人殺しぃ」

怒った政五郎は 啖呵たんかを切った。

「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株しちかぶはあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百もんめ払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所そうだいかいしょへ登録が義務付けられ、享保きょうほうの改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町かんだこやなぎちょうは火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の千代田区神田須田町かんだすだちょう一、二丁目、および神田鍛冶町かんだかじちょう三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷したや一丁目が焼けた際、代地だいちとして与えられました。

田島誓願寺たじませいがんじ(浄土宗)を経て寛永寺の寺地となっていたため、延享えんきょう2年(1745)以来、寺社奉行の直轄支配地となっています。柳原土手やなぎはらどての下にあったことから、土手の柳から小柳町という町名がついたそうです。

明治時代には「小柳亭」という寄席もありました。

町名は昭和8年(1933)に廃名となりました。

「町」は「まち」か「ちょう」か

ところで、落語で町名が出ると、いつも気になります。

田原町たわらまち稲荷町いなりちょう神田小川町かんだおがわまち神田小柳町かんだこやなぎちょう

「〇〇町」の「町」が「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか、いつも釈然としません。すべてに通用するわけではありませんが、江戸でも地方でも、武家の居住区は「まち」、町人の居住区は「ちょう」と呼びならわしていることが基本形です。

ひとつの目安にはなりますね。

代地

江戸での話です。何かの理由で、幕府が強制的に収用した土地の代替地として、与えた別の土地のことです。

町を丸ごと扱う場合もあります。代地だいちに移転したり成立したりした町を、代地町だいちまちといいました。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがあります。

一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ、べらぼうめェッ」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。

現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の〇〇(本名)と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

頭と親方

かしらは職人の上に立つ人をさします。

大工、鳶、火消しなど。勇み肌、威勢のよい職業の棟梁とうりゅうを「かしら」と呼びます。火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたの長谷川平蔵も「かしら」です。勇み肌なんですね。

文字では「長官」と書いたりしますが、あれは便宜上のことで、現代的な呼び名です。自宅で仕事をする職人、これを居職いじょくと言いますが、居職の上に立つ人を親方おやかたといいます。親方は居職ばかりでもなく、役者や相撲の世界でも「親方」と呼ばれます。

こうなると、厳密な言い分けがあるようでないかんじですね。ややこしいことばです。

もっとしりたい

大岡政談のひとつ。

裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。

政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。

棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。

明治24年(1891)に禽語楼きんごろう小さんがやった「大工の訴訟しらべ」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。

これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。

「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。

「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。

池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。

「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」と書き散らしたまま、逝ってしまった。はっきり書いておいてほしかったものである。

この噺では、貨幣が話題となっている。

江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。

ややこしいが、一般的なところを記しておく。

1両=4分=16朱。金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。

いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。

ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。

いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

1両2分800文とは、6800文相当となる。

幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。

ということは、13か月余相当の額。

五代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。

月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

質株とは質屋の営業権。

江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。

享保8年(1723)、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。

もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。

勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。

「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。

地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。

マンションの管理人のような存在である。オーナーではない。

この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。

こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

古木優     

町奉行



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ごかんさばき【五貫裁き】落語演目

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【どんな?】

生業めざす熊を応援する大家と質屋との泥仕合。ケチ噺の典型です。

別題:一文惜しみ

【あらすじ】

四文使しもんづかいという、博打場の下働きをしている熊。

神田三河町かんだみかわちょうの貧乏長屋に住むが、方々に迷惑をかけたので、一念発起して堅気の八百屋になりたいと、大家の太郎兵衛に元手を借りに来た。

ケチな大家は奉賀帳ほうがちょうを作り、
「まず誰か金持ちの知り合いに、多めに金をもらってこい」
と突き放す。

ところが、戻ってきた熊は額が割れて血だらけ。

昔、祖父さんが恩を売ったことのある質屋、徳力屋万右衛門とくりきやまんえもん方へ行ったが、なんとたった一文しか出さないので
「子供が飴買いにきたんじゃねえッ」
と銭を投げつけると、逆に煙管きせるでしたたかぶたれ、たたき出されたというお粗末。

野郎を殺すと息まくのを、大家は
「待て。ことによったらおもしれえことになる」

なにを言い出すのかと思ったら
「事の次第を町奉行、大岡さまに駆け込み直訴じきそしろ」
と知恵をつけた。さすがは因業いんごうな大家、お得意だ。

ところが奉行、最初に銭を投げつけ、天下の通用金を粗略にした罪軽からずと、熊に科料かりょう五貫文、徳力屋はおとがめなし。

まだ後があり、
「貧しいその方ゆえ、日に一文ずつの日掛けを許す」

科料を毎日一文ずつ徳力屋に持参し、徳力屋には中継ぎで奉行所に届けるよう申し渡す。

夜が明けると大家は、
「一文は俺が出すから銭を届けてこい、ただし、必ず半紙に受け取りを書かせ、印鑑ももらえ」
と、念を押す。

徳力屋はせせら笑って、店の者を奉行所にやったが、
「代人は、天下の裁きをなんと心得おる。主人自ら町役人ちょうやくにん、五人組付き添いの上、持ってまいれッ」
と、しかりつけられたから大変。

たった一文のために毎日、膨大な費用を払って奉行所へ日参しなければならない。

奉行の腹がようやく読めて、万右衛門は真っ青。

その上、逆に自分が科料五貫文を申しつけれられてしまった。

それから大家の徳力屋いじめはいやまし、明日の分だといって、夜中に届けさせる。

店の者が怒って、
「奉行もへちまもあるか」
と口走ったのを、熊が町方定回じょうまわり同心に言いつけたので、さんざん油を絞られる羽目に。

大家は
「また行ってこい。明後日の分だと言え。徳力屋を寝かすな」

こうなると熊もカラクリがわかり、欲が出て毎晩毎晩ドンドンドン。

徳力屋、一日一文で五貫文では十三年もかかる上、町役人の費用、半紙五千枚……、これでは店がつぶれる、と降参。

十両で示談に来るが、大家が
「この大ばか野郎め。昔生きるか死ぬかを助けてもらった恩を忘れて、十両ぱかりのはした金を持ってきやがって。くそォ食らって西へ飛べッ」
啖呵たんかを切ったから、ぐうの音も出ない。

改めて熊に五十両払い、八百屋の店を持たせることで話がついた。

これが近所の評判になり、かえって徳力屋の株が上がった。

万右衛門、人助けに目覚め、無利子で貧乏人に金を貸すなど、善を施したから店は繁盛……と思ったら、施しすぎて店はつぶれた。

熊も持ちつけない金に浮かれ、もと木阿弥もくあみで、やがては行方知れず。

【しりたい】

これも講釈ダネ

大岡政談ものの、同題の講談を脚色したもの。講談としては、四代目小金井芦州(松村伝次郎、1888-1949)の速記があります。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「一文惜しみ」の題で演じました。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)のは、五代目一龍斎貞丈(柳下政雄、1906-68)直伝で、設定、演題とも講談通りの「五貫裁き」です。

円生のやり方、談志のやり方

長講で登場人物も多く、筋も入り組んでいるので、並みの力量の演者ではこなせません。そのためか、現役では談志のほかはあまり手掛ける人はいません。

「一文惜しみ」としては、六代目円生以前の速記が見当たらず、落語への改作者や古い演者は不明です。

円生はマクラにケチ噺の「しわいや」を入れ、「強欲は無欲に似たり。一文惜しみの百両損というお噺でございます」と終わりを地の語りで結ぶなど、吝嗇りんしょく(けち)噺の要素を強くし、結末もハッピーエンドです。

談志は、講談の骨格をそのまま踏襲しながら、人間の業を率直にとらえる視点から逆に大家と熊の強欲ぶりを強調し、結末もドンデン返しを創作しています。

四文使い

博打場で客に金がなくなったとき、着物などを預かって換金してくる使い走りで、駄賃に四文銭一枚もらうところから、この名があります。

銭五貫の価値

時代によってレートは変わりますが、銭一貫文=千文で、一朱(一両の1/16)が三百文余りですから、五貫はおよそ五両一両あまりに相当します。

こごとこうべえ【小言幸兵衛】落語演目

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【どんな?】

麻布の長屋。小言を吐きまくってる大家がうるさくて。

ブンブンうるさいおじさん。こういうの、必ずいますよね。

別題:搗屋幸兵衛 道行き幸兵衛 借家借り(上方)

【あらすじ】

麻布古川町、大家の幸兵衛。

のべつまくなしに長屋を回って小言を言い歩いているので、あだ名が「小言幸兵衛」。

しまいには猫にまで、寝てばかりいないで鼠でもとれと説教しだす始末。

そこへ店を借りにきた男。商売は豆腐屋。

子供はいるかと聞いてみると、餓鬼なんてものは汚いから、おかげさまでそんなのは一匹もいないと、胸を張って言うので、さあ幸兵衛は納まらない。

「とんでもねえ野郎だ、子は子宝というぐらいで、そんなことをじまんする奴に店は貸せない。子供ができないのはかみさんの畑が悪いんだろうから、そんな女とはすっぱり別れて、独り身になって引っ越してこい。オレがもっといいのを世話してやる」
と、余計なことを言ったものだから、豆腐屋はカンカンに怒り、毒づいて帰ってしまう。

次に来たのは仕立て屋。

物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えたが、二十歳になるせがれがいると聞いて、にわかに雲行きが怪しくなる。

町内の人に鳶が鷹を生んだと言われるほどのいい男だと聞いて、幸兵衛、
「店は貸せねえ」

「なぜといいねえ、この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘がお花。今年十九で、麻布小町と評判の器量良し。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がり込んで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身、たちまち腹がポンポコリンのボテレンになる。隠してはおけないから涙ながらに白状するが、一人息子に一人娘。婿にもやれなければ嫁にもやれない。親の板挟みで、極楽の蓮の台で添いましょうと、雨蛙のようなことを言って心中になる」

(ここで芝居がかりになり)「本舞台七三でにやけた白塗りのおまえのせがれが『……七つの金を六つ聞いて、残る一つは未来に土産。覚悟はよいか』『うれしゅうござんす』『南無阿弥陀仏』……おい、おまえの宗旨は? 法華だ? 古着屋は真言だから、『ナムミョウホウレンゲッキョ』『オンガボキャベエロシャノ』。これじゃ、心中にならない。てえそうな騒動を巻き起こしゃあがって、店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛び込んできたのは、えらく威勢のいい男。

「やい、家主の幸兵衛ってのはてめえか。あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思え。店賃なんぞ高えことォ抜かしゃがるとただおかねえぞ」
「いや、乱暴な人だ。おまえさんの商売は?」
「鉄砲鍛冶よ」
「なるほど、それでポンポンいい通しだ」

底本:二代目古今亭今輔、六代目三遊亭円生

【しりたい】

切り離された前半

これももともと上方落語です。

本来は、豆腐屋の前に搗米つきごめ屋が長屋を借りにきて、「仏壇の先妻の位牌が毎日後ろ向きになっているので、後妻が、亡霊に祟られているのではないかと気にしてやがて病気になり、死んでしまった。跡でその原因が、搗米屋が夜明けにドンドンと米をつくためだとわかった。してみりゃあ同業のてめえも仇の片割れだ。覚悟しゃあがれ」と、幸兵衛に因果話で脅かされて、ほうほうの体で逃げ出すくだりがあり、そこから「搗屋幸兵衛」の別題があります。

現在では、この前半は別話として切り離して演じられるのが普通です。

搗米屋または搗屋は、今で言う精米業者のこと。

精白されていない米を力を込めて杵で搗きつぶすので、その振動で位牌が裏向きになったというわけです。

原話に近い上方演出

正徳2年(1712)に江戸で刊行された『新話笑眉』中の「こまったあいさつ」が原話です。

上方落語「借家借り」の古いやり方はこれに近く、最初に搗米屋、次に井戸掘りが借りに来て、それぞれ騒音と振動の原因になりやすいので断られることになります。

ここでは因果話がなく、「出来合いの井戸を(長屋の庭に)掘るのかと思った」というオチも今ではわかりにくく、おもしろさにも欠けるためか、現在では東西とも仕立て屋、鉄砲鍛冶を出すことが多くなっています。

麻布古川町

あざぶふるかわちょう。芝あたり。新堀川(古川、金杉川)北岸低地の年貢町屋。

江戸時代の当初は麻布本村あざぶほんむらの中に属していたのですが、元禄11年(1698)に白金しろかね御殿御用地になり、代地として三田村(古川右岸)の古川あたりを与えられました。

これがその名の由来です。港区南麻布1丁目。

正徳3年(1698)に町方支配となりましたが、町奉行と代官の両者の支配を受けていました。

江戸の内とはいえなかったようです。

鷹場があったため、年貢やその他の諸役を務める町でした。

家数2
地主9
店借7

これだけ。小さかった。この噺の設定にはもってこいだったようです。

古川右岸は三田古川町といいました。だから、古川町は麻布と三田にあったことになります。

古川(新堀川、金杉川)という、芝の将監橋から引かれた掘割ほりわりの左岸(のち河川改修のため右岸)に広がった町なのでこの名があります。

将監橋については、項目を立てさらに記しました。お読みください。

麻布十番もこの付近で、十番の由来は、前記の将監橋から麻布一の橋まで古川沿岸の工事区を十区に分けた終点、十番目にあたるところから、という説もあるのですが、こちらも諸説ごろごろ。

総じて、江戸時代を通して、麻布あたりはほとんどが武家屋敷と寺社地で、町屋はその合間を縫って細々と点在していたに過ぎません。

現在の繁栄ぶりが信じられないような、狸やむじなが出没する寂しい土地だったようです。

家主

いえぬし。上方では「家守やもり」、江戸では「大家おおや」「差配さはい」とも。

普通は地主に雇われた家作かさく(借家)の管理人です。

町役人ちょうやくにんを兼ねていたので、店子に対しては絶大な権限を持っていました。

ちなみに、上方では土地や家屋の所有者を「家主いえぬし」呼びます。江戸では「地主」。

家主 江戸☞貸家の管理人   
   上方☞貸家の所有者

ややこしいです。

万一の場合、店子の連帯責任を負わされます。

その選択に神経質になるのは当たり前で、幸兵衛の猜疑心は、異常でもなんでもなかったわけです。

幸兵衛が、最初の賃貸希望者の豆腐屋に「近所にはないからちょうどいい」と言うくだりもあります。

町内の職業分布にも気を配って、「合格者」を決定していたことがよくわかります。

江戸では実際、トラブルを避ける意味もあって、小売商は一町内に一職種しか認められませんでした。

ラーメン屋の隣がラーメン屋、またその向かいがラーメン屋などという、商道徳がズレた現代とはだいぶ違います。

将監橋

江戸には、「将監橋しょうげんばし」という名の橋が二つありました。

芝の将監橋   金杉川に架かっていました。
日本橋の将監橋 紅葉川に架かっていました。

芝の将監橋は、川さらいを受け持つ、幕府の川浚奉行だった岡田善同よしあつ善政よしまさ親子(ともに将監を名乗る)の功労を後世に伝える主旨で名づけられたのだそうです (続江戸砂子) 。

岡田将監は、治水、土木工事の達人だったのですね。

日本橋の将監橋は、海賊衆といわれ、水主同心かこどうしんを担当し幕府御用船の保管と運航を担当していた、船手頭ふなてがしらの向井将監の屋敷が隣接していたことにちなんでいます。

向井正綱が仇敵徳川家康の家臣となり、幕府の水軍と水運の親玉となって、十一代にわたり「将監」を世襲しました。

そこらへんのところは隆慶一郎の『見知らぬ海へ』に描かれています。この当時の「海賊」ということばは、海の専門家、くらいの意味です。

将監というのは、近衛府このえふ(天皇の警護にあたる役所)の三番目の役職名です。

かみ、すけ、じょう、さかん。これが四等官ですから、「じょう」にあたる職名が将監ということです。

あんまり偉くないですが、江戸時代にはもう、そんなことはどうでもよくなっていました。そのあらましは以下の通りです。

官職について

官職とは、公的な役所で働く人が与えられる役職名です。平安時代まではまともで、朝廷がそれなりの人に与えていました。

ところが、鎌倉時代になると、儀式や法会の資金欲しさに、朝廷は官職名を売り出すようになりました。

天皇に直結する朝廷は日本の最高ブランド。

これを利用して人々の名誉欲を金で釣ったわけです。欲しがって釣られた人々は武士です。

御家人を任官させたり、名国司みょうこくし(実体のない国司の名称)に補任させたり。

武士の間では官名を称するのが普通になってきました。

これに拍車をかけたのが、朝廷を丸ごとのみこむ争乱、南北朝時代(1338-92)の争いです。日本全国の武士が北朝か南朝かに別れて争った時代。

彼らは戦うための支柱となる朝廷の後ろ盾を必要としました。

そこで、北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らが、配下となった主なる武士に「官途書出かんどかきだし」といって叙位任官を朝廷に取り次いで与えるという慣習を乱発しました。

朝廷が二つあったわけですから、官位官職の数も二倍以上。大安売りです。

南北朝の争乱は、六十余年に及びましたから、その後も由々しき慣習は消えず、武家政権が続く間、つまり明治にいたるまで横行していったわけです。

とりわけ、戦国時代という無政府状態にあっては、守護大名が家臣などに官途状を出して国司名(受領名ずりょうめい)を与えていました。

それどころか、その官名のを勝手に名乗ること(私称)を許すケースが多く登場してきました。

これは朝廷のあずかり知らない僭称せんしょう(勝手に自称する)です。

公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりしていたようです。

太郎、次郎などの輩行名はいこうめい左衛門さえもん兵衛ひょうえなどの官職名を組み合わせた名を与える、「仮名書出けみょうかきだし」という慣習も登場して、とどまるところを知りませんでした。

先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れました。

向井将監は代々「将監」を名乗っていました。

だからこそ、向井といえば将監、将監橋が命名される由縁となるのです。

こうなると、朝廷はまったく関知せず、武士が官名を勝手につける「自官じかん」という慣習が定着していきました。ブランド壟断ろうだん。むちゃくちゃです。

百官名

ひゃっかんな。家系や親の持つ官職を名乗ることをいいます。

百官名が受領名と違うのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点です。

てきとうなんですね。

戦国時代からは、武士の間で官名を略して、「大膳だいぜん」「修理しゅり」など役所の名だけを名乗る人や、「将監しょうげん」「将曹しょうそう」など官職の等級だけを名乗る人などの風習が広がりました。

そうなると、百官名というのはもう、官位官職ではなく、ただの名前でしかありませんね。

百官名を名乗る場合は、官職と同じく。


名字+百官名+いみな(名前)


こういう方式が一般的です。

向井将監忠勝、吉良上野介義央、といったかんじです。

ただ、われわれは、「吉良上野介こうずけのすけ」と呼んでいて、「義央よしなか」という本当の名前はすでに忘れていますね。

まあ、向井将監も同じです。正綱だろうが、忠勝だろうが、向井の家は将監。向井将監は海賊衆だ、という認識です。

ちなみに、上野介。

これは、「親王任国しんのうにんこく」といって、上野国こうずけのくに(群馬県)、常陸国ひたちのくに(茨城県)、上総国かずさのくに(千葉県)だけは、国司の長官(かみ、守)は親王が任命されるので、臣下の最高位は次官(すけ、介)となる慣習でした。

だって、親王自身は京都にいるわけで、実際に任地に赴くのは「介」以下、ということになるのです。

9世紀、平安時代の初めの頃からの慣習です。奈良時代には臣下の上野守こうずけのかみが代々出ています。

そんなわけで、実質的には、他国の「守」と同じ位置にあるのが「上野介こうずけのすけ」「常陸介ひたちのすけ」「上総介かずさのすけ」となります。ややこしいですが。

話はここから。

吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られました。

その前には、本多正純ほんだまさずみ。この人も、上野介を名乗っていましたが、宇都宮釣り天井事件(1622年)であえない最期でした。

江戸時代には、百官名で「上野介」をいただくのを、みなさん避けていました。不幸な死に方したくないから。

もう一人。小栗上野介忠順ただまさ

この幕末の能吏は、最初は豊後守だったのですが、阿部正外まさとうが豊後守だったため、はばかって百官名を変えようとしたようでして、とうぜん、空きのあった上野介を名乗ったとのこと。

阿部は後に老中となる人で、小栗とは格が違っていました。

小栗はそういうことには無頓着の人だったようです。

その結果が斬首に。悲劇です。

ま、そんなことが、佐藤雅美の『覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―』(岩波書店、2007年)にたしか載っていましたっけ。

三つの先例があるのなら、上野介は忌み名と呼ばれてもおかしくはありませんね。

東百官

あずまひゃっかん。

これはなにか。

関東地方、東国で行われていた慣習です。京都から遠く離れていたため、お侍のみなさんはけっこう好き勝手にやっていたわけなんですね。百官名もどきです。

頼母たのも」「平馬へいま」「一学」「左膳」「久米くめ」「求馬もとめ」「靱負ゆきえ」「右門うもん」といった、官職に似せた名、つまり、擬似官名とでもいうものが東国では広く流布していました。

もう、ここまでくれば、お武家の勝手し放題、なんでもあり、ですね。

東百官は「相馬百官」とも呼んでいたそうですから、これは、平将門が新皇しんのうに就いたときに始まったものなのでしょう。

それを思うと、関東独自のお家芸のようで、後世も大切にはぐくんでいきたいものです。

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