稽古屋 けいこや 演目

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音曲噺。高座だと鳴り物入りでやられます。にぎやかで珍しい噺ですね。

別題:稽古所

【あらすじ】

少し間の抜けた男、隠居のところに、女にもてるうまい方法はないかと聞きにくる。

「おまえさんのは、顔ってえよりガオだね。女ができる顔じゃねえ。鼻の穴が上向いてて、煙草の煙が上ェ出て行く」

顔でダメなら、金。

「金なら、ありますよ」
「いくら持ってんの」
「しゃべったら、おまえさん、あたしを絞め殺す」
「なにを言ってんだよ」
「おばあさんがいるから言いにくい」
というから、わざわざ湯に出させ、猫まで追い出して、
「さあ、言ってごらん」
「三十銭」

どうしようもない。

隠居、こうなれば、人にまねのできない隠し芸で勝負するよりないと、横丁の音曲の師匠に弟子入りするよう勧める。

「だけどもね、そういうとこィ稽古に行くには、無手じゃ行かれない」
「薪ざっぽ持って」
「けんかするんじゃない。膝突きィ持ってくんだ」

膝突き、つまり入門料。

強引に隠居から二円借りて出かけていく。

押しかけられた師匠、芸事の経験はあるかと聞けば、女郎買いと勘違いして「初会」と答えるし、なにをやりたいかと尋ねてもトンチンカンで要領を得ない。

師匠は頭を抱えるが、とりあえず清元の「喜撰」を、ということになった。

「世辞で丸めて浮気でこねて、小町桜のながめに飽かぬ……」
と、最初のところをやらせてみると、まるっきり調子っ外れ。

これは初めてではむりかもしれないと、短い「すりばち」という上方唄の本を貸し、持って帰って、高いところへ上がって三日ばかり、大きな声で練習するように、そうすれば声がふっ切れるからと言い聞かせる。

「えー、海山を、越えてこの世に住みなれて、煙が立つる……ってとこは肝(高調子)になりますから、声をずーっと上げてくださいよ」
と細かい指示。

男はその晩、高いところはないかとキョロキョロ探した挙げ句、大屋根のてっぺんによじ登って、早速声を張り上げた。

大声で
「煙が立つゥ、煙が立つーゥ」
とがなっているので、近所の連中が驚いて
「おい辰っつあん、あんな高え屋根ェ上がって、煙が立つって言ってるぜ」
「しようがねえな。このごろは毎晩だね。おーい、火事はどこだー」
「煙が立つゥー」
「だから、火事はどこなんだよォー」
「海山越えて」
「そんなに遠いんじゃ、オレは(見に)行かねえ」

底本::五代目古今亭志ん生

【しりたい】

音曲噺

おんぎょくばなし。「おんぎょく」と濁ります。この噺は、今は絶滅したといってもいい、音曲噺の名残りをとどめた、貴重な噺です。

音曲噺とは、高座で実際に落語家が、義太夫、常磐津、端唄などを、下座の三味線付きでにぎやかに演じながら進めていく形式の噺です。

したがって、そちらの素養がなければ絶対にできないわけで、今残るのは、この「稽古屋」の一部と、六代目三遊亭円生が得意にした「豊竹屋」くらいのものでしょう。

昔の寄席には「音曲師」という芸人が大勢いて、三味線を片手に、渋い声でありとあらゆる音曲や俗曲をおもしろおかしく弾き語りしていたもので、音曲噺というジャンルも、そうした背景のもとに成立したものです。

明治・大正の頃までは、演じる側はもちろん、聞く客の方も、大多数は稽古事などを通して、長唄や常磐津、清元などが自然の教養として日常生活に溶け込んでいたからこそ、こうした噺を自然に楽しめたのでしょうね。

上方の「稽古屋」

発端の隠居とのやりとりは、上方で最も多く演じられてきた「稽古屋」から。初代桂春団治が得意にしました。

主人公でアホの喜六(東京の与太郎)が稽古所へ出かけるまでの大筋は同じですが、大阪のは隠居(甚兵衛)や師匠とのやりとりにくすぐりが多く、兄弟子の稽古を見ているうちに、子供の焼イモを盗み食いするなどのドタバタのあと、「稽古は踊りだすか、唄だすか」「どっちゃでもよろし。色事のできるやつを」「そんなら、私とこではできまへん」「なんで」「恋は指南(=思案)のほかでおます」と、ダジャレオチになります。

東京では春風亭小朝がこのやり方で演じます。

「稽古所」

次の「喜撰」を習うくだりは、東京でも演じられてきた音曲噺で、別題「稽古所」。オチはありません。

最後の屋根に上がってがなるくだりからオチまでは、明治末に四代目笑福亭松鶴が上京した際、「歌火事」と題して演じたものです。これは、戦後初代桂小南、ついで二代目桂小文治が「稽古屋」として、松鶴のやり方で東京で演じました。

以上三種類の「稽古屋」を、最後の「歌火事」を中心に五代目古今亭志ん生が一つにまとめ、音曲噺というより滑稽噺として演じました。今回のあらすじは、その志ん生のものをテキストにしました。これが、子息の古今亭志ん朝に継承されていたものです。

バレ噺の「稽古屋」

もう一つ、正体不明の「稽古屋」と題した速記が残っています。こんな噺です。

常磐津の師匠をめぐって二人の男が張り合い、振られた方が、雨を口実に強引に泊まり込んだ上、暗闇にまぎれて情夫になりすまし、師匠の床に忍び込んでまんまと思いを遂げます。最後はバレますが、とっさに二階から落ちて頭を打ったことにしてゴマかし、女の母親が「痛いのなら唾をおつけなさい」と言うと、「はい、入れるときつけました」と卑猥なオチになります。

むろん演者は不明で、音曲の場面もなく、たぶん大正初年にできたバレ噺の一つと思われます。

音曲の師匠

ここに登場するのは、義太夫、長唄、清元、常磐津と、なんでもござれの「五目の師匠」。

今はもう演じ手のない「五目講釈」という噺もありますが、「五目」は上方ことばで「ゴミ」のことで、転じて、いろいろなものがごちゃごちゃ、ショウウインドウのように並んでいるさまをいいます。

こういう師匠は、邦楽のデパートのようなもので、よくある、鰻屋なのに天丼もカツ丼も出すという類の店と同じく、素人向きに広く浅く、なんでも教えるので重宝がられました。

悋気の独楽 りんきのこま 演目

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「悋気」は嫉妬のこと。浮気のだんな、小僧相手に行くか行かぬか独楽で占い。

【あらすじ】

だんなが田中さんのところへ行くと言って、夜出かけていった。

やきもち焼きのおかみさん、これは女のところだと当たりを付け、小僧の長吉に提灯の火を頼りに後をつけさせるが、これに気づいただんなが、長吉を買収しようとおめかけさん宅へ連れていく。

長吉は抜け目がなく、口八丁手八丁。

小僧は口も身上も軽いと脅し、酒をたらふくのんだ挙げ句、二十銭で寝返ることにする。

「えー、まさに賄賂受納つかまつりました」

だんなは
「帰ったら、山田さん宅をのぞいてオレに声をかけられたことにし、ただいま碁が始まるようすですから、今夜のお帰りはないでしょう、と言え」
と言い含める。

証拠物件にと、
「これはだんなさまが店の者に食わせろとおっしゃったと、こう言うんだ」
と餡ころ餠まで渡す周到さ。

そうしているうち、長吉がきれいな箱を見つけた。

中には三つの独楽。

それぞれ違った紋がついている。

だんなが言うには、花菱の紋はおめかけさんの独楽。

「はあ、副細君で」
「変な言い方をするな。こっちの三柏が家のやつのだ」
「ご本妻の」
「これが抱き茗荷でおれのだ。これを三つ一度にまわす。そこで、おれの独楽が花菱の方へ着けばここに泊まるという、辻占の独楽だ」

遊びに独楽売りから買ったものだからと、だんなが独楽をくれたので、長吉は喜んで、そろそろ引き揚げることにした。

「決してご心配ありません。お楽しみ」
「お楽しみだけ余計だ。こっちへ来たら時々寄れ」
「へい、日に三、四度」
「そんなに来られてたまるか」

どうせおかみさんからも、にせ情報を流した上二十銭ふんだくるつもり。

店はもう戸締まりしていたので、
「だんなのお帰り」
と大声で叫んで堂々と通ると、さっそく
「おかみさんがお呼びだ」
という。

だんなの筋書きが功を奏して、執拗な尋問をなんとかかわしたと思ったら、
「奉公人が用をするのは当たり前だよ」
と、なにもくれない。

逆に、肩をたたいてくれと言いつけられる。

しぶしぶ肩につかまっているうち、眠くなるので、長吉、本店のお嬢さんがこの間、踊りのおさらいにお出になったときの「喜撰」はよかったと、
「チャチャチャンチン、世辞で丸めて浮気でこねてェ、ツチドンドン」
と拍子に乗って背中を突いた。

その拍子に、独楽がポロリ。

紋がついているのでごまかしきれず、ついにすべて白状させられる。

おかみさんが
「やってお見せ」
と言うので実演すると、だんなの独楽はツツツーと花菱の方へ。

「えー、あちらにお泊まりです」
「おまえのやり方が悪いんだ。もう一度おやり」
「へい。……あっ、おかみさんの独楽が近づいた。だんなの独楽が逃げる逃げる逃げる……あちらへお泊まりです」

おかみさん、カンカンで、
「こっちィおよこし」
と自分でまわすが、なぜかだんなの独楽がまわらない。

「これはまわらないわけです。心棒(=辛抱)が狂いました」

【しりたい】

やり手など

幕末には純粋な上方落語でした。明治になって三代目柳家小さんが東京に移しましたが、あまり根付かなかったらしく、速記は小さんのほかは、八代目春風亭柳枝のものくらいです。

戦後では、やはり上方の三代目林家染丸、東京で上方落語を演じた桂小南が得意にし、小南門下だった桂文朝もレパートリーにしていました。

だんなと本妻の虚虚実実の腹の探りあいがニヤリとさせ、「権助提灯」などよりずっとおもしろいのに、あまりやり手がいないのは惜しいことです。

四代目志ん生の改作

四代目古今亭志ん生(1877-1926)は、美濃部孝蔵の五代目志ん生の二度目の師匠で、俗に「鶴本の志ん生」。

「転宅」「あくび指南」などを得意とした、江戸前の粋な芸風でしたが、その志ん生が音曲の素養を生かし、この噺を「喜撰」と題して改作しています。

後半の独楽回しの部分を切り、小僧が清元の「喜撰」に熱中するあまりおかみさんを小突くので、「おまえ、人を茶に(=馬鹿に)するね」「へい、今のが喜撰(宇治茶の銘柄と掛けた)です」というサゲにしました。これは一代限りで継承者はなく、五代目志ん生にも伝わっていません。

独楽

こま。日本渡来は平安時代以前で、コマは高麗から渡ったことから付いた名称です。

江戸時代になり、八方独楽、銭独楽、博多独楽など、さまざまな種類が作られ、賭博や曲独楽も盛んに行われました。

「喜撰」

歌舞伎舞踊「六歌仙容彩(ろっかせんすがたいろどり)」の四段目で、『古今和歌集』で有名な六歌仙のそれぞれを、それぞれの性格に応じて踊り分けるものです。

第一段が僧正遍昭(義太夫)、以下、文屋康秀(清元)、在原業平(長唄)、喜撰法師(清元・長唄の掛け合い)、大伴黒主(長唄)となり、それぞれに紅一点の小野小町と、その分身である茶汲み女・祇園のお梶がからみます。天保2年(1831)3月中村座初演で、代々の坂東三津五郎のお家芸となっています。

「世辞で丸めて浮気でこねて」は、喜撰が花道に登場するときの冒頭の歌詞で、浮き立つような洒落た節回しで有名です。

それにつけても、一介の商家の小僧にまで踊りや音曲の素養が根付いていた、かつての江戸・東京の文化水準の高さには驚かされます。

抱き茗荷

だきみょうが。ミョウガの花を図案化した紋。日本十大家紋の一つといわれています。

バリエーションは70種類以上ありますが、実際に使われている紋のほとんどは「抱き茗荷」と、それに丸で囲んだ「丸に抱き茗荷」です。

普及したのは戦国時代以後で、しかも摩多羅神の神紋として用いられるのが大きな特徴です。

さらには、音が「冥加」に通じることから、神仏の加護が得られる縁起のよい紋と考えられています。神社や寺などでよく目にします。