なりたこぞう【成田小僧】演目

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今は廃れてしまった明治の噺。その頃はマセガキを「成田小僧」といったそうです。

【あらすじ】

本郷春木町の塗り物屋、十一屋の丁稚長松は、口から先に生まれたようなおしゃべり小僧。

父の代参で深川不動に参詣する若だんな江崎清三郎のお供。途中、深川の茶屋松本楼で昼食に。

それも、清三郎が長松の口車に乗ったためだ。

座敷で食事をしていると、芸者が厠に来たのを長松が見つけ大騒ぎ。店の女に聞けば、山谷堀大和屋の小千代。幇間の正孝と花洲といっしょに来ているとのこと。

長松は、幇間ともども呼んでしまう。しめて五十両。

清三郎は
「茶屋へ来たことさえおとっつぁんに知れたらどうしようかと思っているところだのに。私は勘当だ」
とビビるのを、長松は
「長男除きはできやしません。親子の縁の切れなくなったのは、王政ご一新のお上のありがたいところでゲス」
と平気のへいざ。

これが縁で、小千代と清三郎はいい仲に。

後日、吉原の幇間花洲の家に大和屋の女将が訪れた。

小千代が清三郎にばか惚れなのに、近頃、清三郎の姿を見なくなった。

これが続いて、小千代がブラブラ病(恋わずらい)を患う始末。

ついては、花洲に見舞いに来てほしい。

そんな話を、女将は花洲に語って聞かせた。

花洲は、幇間仲間の船八と連れ立ち、山谷堀の大和屋へ。

清三郎との思い出話に花が咲き、小千代の気も紛れる。

ところが、船八は
「若だんなは芸者を連れて逃げたそうです」
と無神経にしゃべくった。

これを聞いた小千代は顔色を変えて、いきなり外の人力車に乗ってどこかへ走り去った。

花洲、船八、下働きのお梅、大和屋の女将が、次々と車に乗って小千代を追いかける。

話変わって、午後十時過ぎの吾妻橋辺。

清三郎が失踪した日を命日に定め、大だんなが菩提寺の深川浄心寺に長松を連れてお参りに行った帰り道。

清三郎には双子の妹がいた話などを大だんなが長松に語って聞かせているところに、女の身投げを長松が見つけて思い止まらせる。

女は、なんと小千代だった。

話しているうち、小千代こそが大だんなの娘、つまりは清三郎の双子の妹だということが明らかに。

小千代は
「それを聞きましては、なおさら生きてはいられません」
と、ふたたび飛び込みにかかるところ、店の番頭善兵衛が駆けつけた。

若だんなが外務省の役人とサンフランシスコにいる、という手紙が届いたとの知らせ。

一同はほっと安堵、胸をなでおろした。

大だんなが小千代に
「なぜにおまえは貞女の鑑を立てる」
と言えば、小千代が
「元が塗り物屋の鏡台(=兄弟)」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

深川不動

深川不動は江東区富岡一丁目。成田山新勝寺の東京出張所です。江戸時代には、日本橋坂本町や蔵前八幡境内に置かれていましたが、明治3年(1870)、現在地の永代寺境内の吉祥院内に移されました。独立の不動堂が建ったのは明治14年(1881)です。演題の由来はここからです。

成田小僧

当時、ませた子供を「成田小僧」と呼んでいましたが、それがこの噺からきたものかどうかは、よくわかりません。長松のませぶりを成田小僧に見立てて物語の狂言回しにしようとしたのでしょう。本郷の人を深川不動に参詣させて「成田」を取り込んでいるわけです。物語の重要な転換点では長松が活躍するわけで、狂言回しどころかやはり主人公なのかもしれません。

円遊の改作

幕末から明治初期にかけて二代目春風亭柳枝(1822-74)が得意にしていたそうです。初代三遊亭円遊(鼻の円遊)が、明治22年(1889)5月、23年(1890)11月と、二回に分けて速記を『百花園』に残しています。陰気な因果噺だったのを、円遊が陽気なこっけい噺に改作したようです。今ではすたれた噺です。

『落語大会』(松陽堂書店、明治33年12月刊)という落語集に「成田小僧」が「円朝口演」として載っているそうです(筆者未見)。これを受けてか、角川書店版『三遊亭円朝全集』には「成田小僧」が円朝口演として載っているのですが、『落語大会』の本文は『百花園』1号(明治22年5月10日)のそれと一致するため、円遊の口演速記を円朝名義で収録したものではないか、というのが佐藤至子氏の見解です。この見解のいきさつは岩波書店版『円朝全集』第13巻に載っています。円遊は円朝の弟子です。

浄心寺

江東区深川平野町二丁目。旧霊厳寺表門前町。日蓮宗身延山派の名刹で、山号は法苑山。万治元年(1658)開山で、四代将軍家綱の乳母三沢局(浄心院)の菩提を弔うため創建されたものです。浄心寺門前は『南総里見八犬伝』の作者滝沢(曲亭)馬琴の出生の地でもあります。

山谷堀

隅田川から今戸橋を経て、山谷にいたる掘割。江戸情緒の象徴のような名勝でした。一般には、吉原の入り口付近を指します。

松本楼

富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに、二軒茶屋と称された名店でした。深川で江戸以来の老舗は、ほかに平清、小池がありました。

本郷春木町

文京区本郷三丁目の内。元禄9年(1696)から町地となりました。町名のは、元和年間(1615-24)にこの地に滞在した、伊勢の御師春木太夫に由来します。明治6年(1873)、同町内に「奥田座」が開場。明治9年(1776)に春木座、35年(1902)に本郷座と改称。小芝居ながら、明治の名優団菊も出演した由緒ある劇場でしたが、昭和5年(1930)に廃場となりました。

【語の読みと注】
御師 おんし 伊勢神宮では「おんし」。一般には「おし」

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文七元結 ぶんしちもっとい 演目

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円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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唐茄子屋政談 とうなすやせいだん 演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。