はまののりゆき【浜野矩随】落語演目

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【どんな?】

彫金職人の一途な噺。元は講釈噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。

若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。

ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。

いうまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。

久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

みずごり。神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。

東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

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ねずみ【鼠】落語演目

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【どんな?】

主人公は左甚五郎。胸のすく匠の噺です。

【あらすじ】

名工・左甚五郎は、十年も江戸・日本橋橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年。

まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、
「ぜひ家に泊まってほしい」
と頼むので承知すると、
「うちの旅籠はたご鼠屋ねずみやといって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料そんりょうを払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
と、言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前に虎屋という大きな旅籠があり、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいめせんので、申し訳ありませんが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでください」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞いた。

このおやじ、卯兵衛うへえといい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取った。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋いこまやの世話になっていたが、子供の卯之吉が健気けなげにも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って、卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊まりを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人、飯田丹下いいだたんげに大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

三木助人情噺  【RIZAP COOK】

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、浪曲師の二代目広沢菊春(佐々木勇、1914-1964)に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらったのが「左甚五郎」で、これを脚色して落語化したものが「鼠」です。

「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工・甚五郎の逸話ものですが、録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。

お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところが、この人のよさでしょう。

左甚五郎(1594-1651)については「三井の大黒」をお読みください。

日本橋橘町  【RIZAP COOK】

東京都中央区東日本橋三丁目にあたります。

甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。

「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われています。

飯田丹下  【RIZAP COOK】

実在の彫工で、仙台藩・伊達家のお抱え。

ということになっていますが、生没年など、詳しい伝記は不詳です。怪しい。

三代将軍家光(1604-51)の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話もあります。これも怪しい。

内需旺盛(高度経済成長期と同じ現象)だった17世紀の日本で、勝ち組名工たちの象徴的存在「左甚五郎」と競って、対立、挫折、敗北の果てに第一線から消えていった負け組職人たちの象徴的存在が、「飯田丹下」というキャラクターに造形されたのだと思います。

安倍晴明と蘆屋道満との関係に似ていますね。

飯田丹下、現在のところは、実在も詳細も不明です。

こぼれ噺  【RIZAP COOK】

三代目三木助(小林七郎、1902-61)による、この噺のマクラです。

「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァ、いろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたら、お向かいの猫が飛びついてきたってえン」

そのねずみ男のモデルは、安藤鶴夫(1908-69)だったということです。

安藤当人が「巷談本牧亭」((1962年読売新聞連載,1963年刊行、直木賞受賞作)に書いています。

安藤鶴夫は演劇評論家や作家で当時のマスコミで活躍していました。

三木助の熱烈な支持者でも有名でした。

好みの偏りが過ぎる人で、落語界に残した功罪はなかなかです。

現在も  【RIZAP COOK】

三木助没後は、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)が得意にしました。

三木助門下だった九代目入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)などを経て、若手にも伝わっています。演じ手の多い噺ですね。

志ん朝

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きんのだいこく【黄金の大黒】落語演目

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【どんな?】

この噺、長屋の喧騒な雰囲気がよく出てますね。 

【あらすじ】

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告か、と戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんな普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【しりたい】

金語楼が東京に紹介 

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番だった上方噺を、初代柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)が東京に持ってきて、脚色しました。

金語楼は、戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した人、三大喜劇人(エノケン、ロッパ、キンゴロー)の一人に数えられる人です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、現在CDで聴けるのは立川談志(松岡克由、1935-2011)と大阪の三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)のものだけです。

初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードです。

大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神 

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進。

えらい変わりようであります。

日本に渡来してから、イナバのシロウサギ伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないように見えますが、これは現代人の狭い見方でしかありません。

戦争はたしかに破壊の象徴のように見えます。

でも、その後に復興して富をもたらすことはこれまた人類の変わらないいとなみ。

冬のあとに春が来るという、あれです。

怖い形相は魔を退けるおしるしです。

不思議なことではないのです。

これこそが、古代人のとらえ方の特徴なのです。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。

福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然、袋をかついで登場します。

江戸の風物詩、大黒舞い 

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午はつうまにかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから 

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと、一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

左甚五郎 

江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。講談、浪曲、落語、芝居などで有名で、「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にあります。

「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地にゆうに100か所近くあるそうです。

その製作年間は安土桃山期、江戸後期まで300年にもわたり、出身地もさまざまのため、左甚五郎とは伝説上の人物と考えるのが妥当だろう、というのが現在の定説です。

各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたと考えてもよいでしょう。

江戸中期になると、寺社建築に彫り物を多用することになりますが、その頃に名工を称賛する風潮が醸成されていったようです。

ポイントは「江戸初期」。

破壊と略奪の戦国時代が終わって、復興と繁栄が始まる息吹の時代です。

江戸幕府は、応仁の乱以来焼亡した寺社の再建に積極的に乗り出しました。

多くの腕自慢の職人が活躍した時期が「江戸初期」だったのです。

甚五郎が登場する落語や講談の作品は、以下のとおりです。

「三井の大黒」
「竹の水仙」
「鼠」
「甚五郎作(四ツ目屋)」
「掛川の宿」
「木彫りの鯉」
「陽明門の間違い」
「水呑みの龍」
「天王寺の眠り猫」
「千人坊主」
「猫餅の由来」
「あやめ人形」
「知恩院の再建」
「叩き蟹」

ついでに、左甚五郎の伝承を持つ主な作品を掲げておきます。時期も場所も多岐にわたっています。

眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市)眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市)本殿「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市)子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市)正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区)唐門「昇り龍」「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市)山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)本堂欄間
長国寺(長野県長野市)霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市)山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市)閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区)鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区)御影堂天井「忘れ傘」、鶯張りの長廊下
祇園祭 (京都府)鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市)力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市)八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市) 稲喰神馬(黒駒)

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ぬけすずめ【抜け雀】落語演目

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【どんな?】

小田原宿おだわらしゅく旅籠はたごに泊まった男、実は無一文。

宿代代わりに衝立に雀の絵を描き、「売るな」と言って去っていく。

その雀が衝立から飛び出すので、評判となり旅籠は大繁盛。

ある日、宿泊の老人が、この絵には止まり木がないから雀は死ぬ、と……。

名工をたたえた、小気味いい名人噺。

別題:雀旅籠(上方)

あらすじ

小田原宿おだわらしゅくに現れた若い男。

色白で肥えているが、風体ふうていはというと、黒羽二重くろはぶたえは日に焼けて赤羽二重。紋付きも紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠はたごの主人。

男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と大きなことを言う。

案内すると、男は、
「おれは朝昼晩一升ずつのむ」
と宣言。

その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。

こうなると、そろそろ、かみさんが文句を言い出した。

「危ないから、ここらで内金を入れてほしいと催促してきな」
と気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男は
「金はない」
「だってあなた、百両預けようと言った」
と亭主が泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろう、と」

男の商売は絵師。

「抵当に絵を描いてやろうか」
と言い出し、新しい衝立ついたてに目を止めて、
「あれに描いてやろう」

それは、江戸の経師きょうじ屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。

「どうだ」
「へえ、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、二階で雀の鳴き声がする。

はて変だ、とヒョイと見ると、例の衝立が真っ白。

どこからか雀が現れ、何と絵の中に飛び込んだ。

これが宿場中の評判を呼び、見物人がひっきりなし。

ある日、六十すぎの品のいい老人が泊まり、絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちるという。

「書き足してやろう」
すずりを持ってこさせ、さっと描いた。

「あれは、なんです」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥籠とりかごだ」

なるほど、雀が飛んでくると、鳥籠に入り、止まり木にとまった。

老人、
「世話になったな」
と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、とうとう藩主、大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を二千両で買うとの仰せ。

亭主は腰を抜かしたが、律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ、と売らない。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重というりっぱな身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」

見ると、あの時の絵師だから、亭主はあわてて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥籠を描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不幸の段、お許しください」

聞いてみると、あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、雀を描いたのも名人だが、鳥籠を描いたのも名人だと言ってました。親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「なにが、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親を籠書かごかき(=駕籠舁かごかき)にした」

しりたい

知恩院抜け雀伝説  【RIZAP COOK】

この噺、どうも出自がはっきりしません。

講釈ダネだという説もあり、はたまた中国の黄鶴楼伝説が元だと主張なさる先生もあり、誰それの有名な絵師の逸話じゃとの説もありで、百家争鳴、どの解説文を見てもまちまちです。

その中で、ネタ元として多分確かだろうと思われるのが、京都・知恩院七不思議の一で、襖絵から朝、雀が抜け出して餌をついばむという伝説です。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の「子別れ・上」の中で熊五郎が、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、俗謡めいて言っていますから、有名だったのでしょう。

襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18年(1641)の創建ですから、描いたのはおそらく京都狩野派の中興の祖・狩野山雪かのうさんせつ(1590-1651)でしょうが、不詳です。

志ん生は父子相伝  【RIZAP COOK】

落語として発達したのは上方で、したがって、上方では後述のように昔から多くの師匠が手掛けています。

東京では五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、文字通りワンマンショーです。

なにしろ、明治以後、志ん生以前の速記は事実上ありません。

わずかに「明治末期から大正初期の『文芸倶楽部』に速記がある」といったいいかげんな記述を複数の落語評論家がしていますが、明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは、誰も知らないようです。

つまり、上方からいつごろ伝わり、志ん生がいつ、誰から教わったのか、ご当人も忘れたのか、言い残していない以上、永遠の謎なのです。

要は志ん生が発掘し、育て、得意の芸道ものの一つとして一手専売にした、「志ん生作」といっていいほどの噺といえます。

東京の噺家では十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の兄弟が「家の芸」として手掛けたくらいです。まさに父子相伝。

志ん生の「抜け雀」の特色は、芸道ものや名人噺によくある説教臭がなく、「顔の真ん中にぴかっと」というセリフが、絵師、かみさん、老人と三度繰り返される「反復ギャグ」を始め、笑いの多い、明るく楽しい噺に仕上げていることでしょう。

特に「火焔太鼓」を思わせる、ガラガラのかみさんと恐妻家の亭主の人物造形が絶妙です。

志ん朝は『志ん朝の落語・6』(ちくま文庫)の解説で京須偕充きょうすともみつ氏も述べている通り、父親(志ん生)のやり方(演出)を踏まえながら、より人物描写の彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の「抜け雀」をつくっています。

上方の「雀旅籠」  【RIZAP COOK】

上方の「雀旅籠すずめはたご」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど違いはありません。

特に桂文枝代々の持ちネタで、三代目桂文枝(橋本亀吉、1864-1910)のほか、二代目立花家花橘(菱川一太郎、1884-1951)、二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)も、得意にしていたといいます。

五代目文枝(長谷川多持、1930-2005)、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)ももちろん手掛けましたが、特に米朝のは、四代目桂文枝(瀬崎米三郎、1891-1958)譲りでした。

私が教わったのでは、雀は室内を飛びまわるだけで、障子を開けるとバタバタと絵へ納ってしまうのですが、私は東京式に一ぺん戸外へ飛び出すことにしました。

このように、米朝は芸談を残しています。ギャグも含めて、東京、つまり志ん生の影響が多分にあるようです。題も「抜け雀」で演じます。

「親にかごかかせ……」  【RIZAP COOK】

「親をかごかきにした」というオチの部分の原話は、上方落語の祖・初代米沢彦八よねざわひこはち(?-1714)が元禄16年(1703)に刊行した『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』巻二中の「山水の掛物」といわれます。

これは、ある屋敷で客の接待に出た腰元が、床の間の雪舟の絵の掛け軸を見て涙を流し、「私の父もかきましたが、山道をかいている最中に亡くなりました」と言うので、客が「そなたの父も絵かきか」と尋ねると、「いえ、駕籠かきです」と地口(=ダジャレ)オチになるものです。

それから時代がくだり、寛延2年(1749)7月、大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記ふたつちょうちょうくるわにっき』六段目の「橋本・治部右衛門住家」に、傾城吾妻のくどき「現在親にかごかかせ」というセリフがあることから、これが直接のオチの原型であると同時に、この噺の発想そのものになったという説があります。

ほんま、ややっこしいことで。お退屈さま。

駕籠舁き  【RIZAP COOK】

普通、街道筋にたむろする雲助、つまり宿場や立て場で客待ちをする駕籠かごのことです。

「親に駕籠を担がせた」と相当に悪く言われ、職業的差別を受けていることで、この連中がどれだけ剣呑けんのんで、評判のよくない輩だったかがうかがえます。

【RIZAP COOK】

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