花筏 はないかだ 演目

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相撲を描いた珍しい落語です。しかも、舞台が上総の銚子とは。

別題:提灯屋相撲(上方)

【あらすじ】

提灯屋の七兵衛の家を、知り合いの相撲の親方が訪ねてきた。

聞けば、患っている部屋の看板力士・大関花筏が、明日をも知れない容体だという。

実は親方、銚子で相撲の興行を請け負ったが、向こうは花筏一人が目当てで、顔を見せるだけでも連れていかないわけにいかず、かといって延期もできないしと、頭を抱えていた時思い出したのが提灯屋で、太っていてかっぷくがよく、顔は花筏に瓜二つ。

この際、こいつを替え玉にと、頼みにやって来た次第。

相撲は取らなくてもいいし、手間賃は一日二分出すという。

提灯張りの手間賃の倍だから、七兵衛もその気になった。

その上、のみ放題食い放題、どっかとあぐらをかき、相撲を見ていればいいというのだからおいしい話。

早速、承知して、銚子へ乗り込むことになった。

相撲の盛んな土地で、飛び入りで土地の者も大勢とっかかる中、際立って強いのが、千鳥ケ浜大五郎と名乗る網元のせがれ。

プロを相手に六日間負けなしで、いよいよ明日が千秋楽。

こうなると勧進元が、どうしても大関花筏と取らせろと、きかない。

病人だと断っても「宿で聞いてみたら、酒は一日二升、大飯は食らうし、色艶はいい、あんな病人はない」と言われれば、親方も返す言葉がなく、しぶしぶ承知してしまった。

驚いたのは提灯屋。

あんなものすごいのとやったら、投げ殺される。

約束が違うから帰ると怒るのを、親方がなだめすかす。

当人もよくないので、大酒大飯だけならともかく、宿の女中に夜這いに行ったのを見られてはどうにもならない。

「立ち会いに前へ手をパッと出し、相手の体に触れたと思ったら後ろへひっくり返れ。そうすれば、客も病気のせいだと納得して大関の名に傷もつかず、五体満足で江戸へ帰れる」と親方に言い含められ、七兵衛も泣く泣く承知。

一方、千鳥ケ浜のおやじは、せがれが明日大関と取り組むと知って、愕然。

向こうは今までわざと負けて花を持たせてくれたのがわからないかと、しかる。

明日は千秋楽だから、後は野となれで、腕の一本どころか、投げ殺されかねない。

どうしても取るなら勘当だと、言い渡す。

翌朝、千鳥ケ浜は辞退しようとしたがもう遅く、名前を呼び上げられ、いつの間にか土俵に押し上げられてしまった。

提灯屋、相手を見ると恐いから、目をつぶって仕切っていたが、これでは呼吸が合わず、行司がいつまでたっても「まだまだッ」

しびれを切らして目を開けると、千鳥ケ浜の両目がギラリと光ったから、驚いた。

これは間違いなく命はないと悲しくなり、思わず涙がポロポロ。

脇の下から、冷や汗がたらたらと流れる。

土俵に吸い込まれるように錯覚して、思わず「南無阿弥陀仏」

これを見て驚いたのが千鳥ケ浜で、土俵で念仏とは、さてはオレを投げ殺す気だと、こちらも涙がポロリ、

冷や汗タラリで「南無阿弥陀仏」

両方で泣きながらナムアミダブツ、ナムアミダブツとやっているから、まるでお通夜。

行司、しかたなくいい加減に「ハッケヨイ」と立ち上がらせると、提灯屋は目をつぶって両手を突き出し、「わァッ」と後ろへひっくり返ったが、片方は恐怖のあまり立ち遅れて、目と鼻の間に提灯屋の指が入り、先に尻餠。

客が「どうだい。さすがは花筏。あの人の張り手は大したもんだ」

張り(=貼り)手がいいわけで、提灯屋だから。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方落語を東京に移植

もともと講釈(講談)ダネで、古くからある上方落語「提灯屋相撲」を、三代目三遊亭円馬が東京に移植したものです。

東京では、昭和20-30年代に八代目三笑亭可楽、八代目春風亭柳枝、五代目三遊亭円楽が得意としたほか、現在でも結構高座にかかっています。

桂米朝は「花筏」で演じ、場所を播州高砂(現・兵庫県高砂市)のできごとととしていますが、大阪では古くは、近江・長浜に設定することが多かったようです。

上方版では、花筏は大阪相撲の大関という設定です。昭和2年1月、大日本大角力(相撲)協会が発足するまで、東京のほか大阪、京都にも協会があり、独自に興行して、横綱免許もそれぞれ勝手に出していました。

強さは大阪は東京の敵でなく、京都はさらに落ちました。大阪横綱で、レベルは東京の小結・関脇クラスだったようです。

提灯屋

江戸時代は、傘屋を兼業している場合がほとんどでした。番傘と提灯は、製造技術、材料などに共通点が多かったためでしょう。

提灯づくりは、菊座という型に丸く輪にした竹ひごをはめ、その上から和紙を貼っていきます。

提灯の起源は室町時代といわれますが、江戸時代に入ると、ほおずき提灯、馬上提灯、弓張り提灯、ぶら提灯など、用途に応じてさまざまな種類が考案されました。

なお、提灯屋が登場する落語としては、新装開店した提灯屋に、皆であの手この手でタダで紋を描かせるという、そのものずばり「提灯屋」があります。

実在した花筏

江戸のころ、本当に「花筏」という関取が実在したかどうかはかなり怪しいものですが、明治以後、記録に残っているかぎりでは、ただ一人だけ「花筏」も名乗った力士がいます。

昭和41年春場所に、一場所かぎり西十両十七枚目に顔を出した「花筏健」がその人。

このしこ名は、幕下時分落語好きだった彼が、寄席で聞いたこの「花筏」にあやかって、三度目の改名をしたものです。

落語家に知友が多く、贔屓もされたようですが、不幸にしてケガのため、花を咲かせぬまま廃業しました。

「総理大臣になりたきゃ落語をお聞きなさい」というのは、九代目桂文治の決まり文句でしたが、残念ながら相撲界では「横綱になりたきゃ……」とはいかないようです。

千早ふる ちはやふる 演目

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無学者もの。知ったかぶりの噺。苦し紛れのつじつまあわせ。あっぱれです。

【あらすじ】

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
「龍田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫の花魁道中に出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫に口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

【しりたい】

「ちはやふる……」

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、  龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、おもしろくもおかしくもないもの。隠居の解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さんの十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院」がつけられていました。

オチの異同

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町(ふきやちょう)にあった「元吉原」といわれる時代(寛永年間、1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

「陽成院」

陽成院の歌、「つくばねのみねより落つる男女(みな)の川恋ぞつもりてふちとなりぬる」の珍解釈。

京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。

男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」

見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持(ふち)をたまわったので、「声(=こい)ぞつもりてふち(扶持=淵)となりぬる」

しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

というわけです。