開帳の雪隠 かいちょうのせっちん 演目

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のんきでばかばかしいけど、うなずける噺ですね。

別題:開帳

【あらすじ】

回向院で開帳があるというので、参拝客を当て込んで、雪隠を一人四文ずつ取って貸し、銭もうけをしてやろうという、二人組。

四方へ青竹を立て、四斗樽を埋めて板を二枚渡してあるだけのお粗末な代物だが、とくに女の参拝者にはあるだけまし、というもの。

当日、うまく目算が当たって、押すな押すなの大盛況。

「さあ、はばかりはこちら。御用のお方は向こうで切符をお早めに。お一人普通席四文、特等八文。へーい、特等さんご案内ッ」

大入り満員、札止め。まるで相撲場のようだ。

五、六日はこうして、ジャラジャラと銭がもうかったが、これはいかに、急にぴったり客足が止まり、しまいには、猫の子一匹小便をしに来なくなった。

「はて、おかしい、当節の人間は小便をしなくなったらしい。そうするてえと、したくなるオレはいったいなんだろう」
と、少しボンヤリした一人が頭をひねっていると、これよりは多少目はしの利く相棒が、顔色を変えて戻ってくる。

「おい、いけねえ。商売敵ができた」

向こうの方が同じ値段で、清潔できれいだというから、客が流れるのは当たり前。

あわてて「元祖雪隠」と看板を出してもダメ。

ボンヤリした男、なにを考えついたのか
「ちょいと行ってくる。おめえ一人で番をしていてくんねえ」

しばらくすると、あら不思議、突然客が続々と押し寄せる。

相棒、うれしい悲鳴をあげて、
「はい、いらっしゃい、こっちが普通、向こうが特等。はい、切符はこちら。押さないで、押さないでェ」
と一人二役で大奮闘。

銭はたまったが、くたびれ果てた。

夕方、出ていってそれっきりだった相棒が、ようやく帰ってくる。

なんだか、こちらも疲れた顔。

「おい、どこィ行ってたんだ。オレ一人で、てんてこ舞いしてたんだぞ。それにしても、どうして、ああ急に客が大勢……」
「そりゃ、来るはずだ」
「どうして」
「向こうの雪隠へ行って、四文で日暮れまでしゃがんでた」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

隠れた円生十八番

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「貸雪隠」。古い形では、舞台は上野の不忍弁天の開帳。

オチは同じですが、筋立ては少し違っていて、開帳を当て込んで、一人五文の女子用有料雪隠を貸して、ボロもうけした男を見て、オレもというのでまぬけ亭主が、二番煎じはダメと言うかみさんの反対を押し切り、やはり貸雪隠を建てるが、さて……というわけ。

オチがちょっと小味の効いた、なかなか優れた小品ですね。短い噺なので、比較的多くの演者が手掛けますが、六代目三遊亭円生はこの噺が気に入っていたらしく、「開帳」の演題で速記・音源を残しています。円生は、主人公二人を回向院近くの駄菓子屋の老夫婦として演ずることもありました。 

珍品「御印文」

円生はマクラに、やはり開帳の寺をを舞台にした「御印文」という小咄を振ることがありました。あらすじを簡単に記すと以下の通りです。

ある開帳で、霊験あらたかな御印文を額に押してくれるというので、ある男が仲間を誘ったが、一人がどうしても嫌だと言う。ついてくるだけでいいからとなだめすかして出かけた帰り道に、茶屋に入って、そこの老婆にその御印文のことを話し、「この中にこんなありがたいものをいただくのを拒んだ変わり者がいるが、どいつかあててごらん」と持ちかけると、婆さんはすんなり当てる。一同驚いて、「もう御印文は消してあるはずなのに、どうしてわかった? もう霊験が現れたのかしらん」と聞くと、婆さん、「この方がいちばん利口そうだから」

皮肉なオチで、これは「お血脈」のマクラに付けることもあり、こちらは円生から、門下の三遊亭生之助に受け継がれています。

出開帳

開扉ともいい、各地の名刹が、厨子を開いて秘仏を公開するイベントです。平安末期から、広く行われました。よそへ出張して行うのを出開帳と呼び、今のデパートの特別展に似ています。

開帳の当日は縁日が立ち、たいへんなにぎわいでした。各宗派、寺によって、多いときは三年に一度、まれなものは六十年に一度というのも。有名なところでは身延山久遠寺、成田不動尊、浅草の観世音など。諸国からの出開帳は、この噺のように、おもに両国の回向院境内を借りて行われました。

雪隠

せっちん。上方では同じ字で「せんち」と読みます。語源は、中国の雪竇禅師が、浙江省の雪隠寺で厠の掃除をしていたという故事により、禅宗で寺名の「雪隠」がトイレを指すようになったことから。

【語の読みと注】
雪隠 せっちん トイレ
御印文 ごいんもん
雪竇禅師 せっとうぜんじ
厠 かわや トイレ
雪隠寺 せついんじ

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穴子でからぬけ あなごでからぬけ 演目

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与太郎にからかわれる短い噺です。円生の逃げ噺としても使われました。

【あらすじ】

与太郎が、源さんとなぞなぞの賭けをする。

まず十円賭けて
「まっ黒で大きくて、角があって足が四本あって、モーッと鳴くもの、なんだ」
「てめえが考えつくのはせいぜいその程度だ。牛に決まってら」

これでまず、十円負け。

今度は、よせばいいのに二十円に値上げして
「じゃ、もっと難しいの。やっぱり黒くて嘴があって空飛んで、カアーッって鳴くもの」
「どこが難しい。カラスだろ」

次は犬を出して簡単に当てられる。

いくら取られても懲りない与太郎、こともあろうに今度は五百円で、
「絶対に当たらない」
という問題。

「長いのがあれば短いのもある。太いのも細いのもあって、つかむとヌルヌルするもの、なあーんだ」
「この野郎、オレがヘビだと言やあウナギ、ウナギと言やあヘビと言うつもりだな。ずるいぞ」
「じゃ、両方言ってもいいや」
「ヘビにウナギだ」
「へへっ、残念。穴子でからぬけ」

与太郎、次にまた同じ問題を出すので、源さん
「ヘビにウナギに穴子だな」
ってえと与太郎、
「へへっ、今度はずいきの腐ったのだ」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

なぞかけ勝負

最後の「長いのもあれば……」のくだりの原話は明和9年(1772)刊の小咄本『楽牽頭』中の「なぞ」で、ここでは、最初にまともに「うなぎ」と言い当てられ、続けて同じ問題で、今度は「蛇」と答えたのを「おっと、うなぎのつら(面)でござい」と落としています。

前の二問も、おそらくそれぞれネタ本があったか、代々の落語家がいろいろに考えたものが、いつしかこの形に固定したのでしょう。

原話では、このなぞなぞ遊びは「四割八分」の賭けになっています。これは、勝つと掛け金が5倍につくという、ハイレートのバクチで、最初は一両のビットですから、「うなぎ」と答えた方は五両のもうけですが、これが恐ろしい罠。イカサマ同然の第二問にまんまとひっかかり、今度は何と二十五両の負けになったしまったわけです。こうなると遊びどころではなく、血の雨が降ったかもしれません。

からぬけ

完全に言い逃れた、または出し抜いたの意味です。題名は、穴子はぬるぬるしていて、つかむとするりと逃げることから、それと掛けたものでしょう。

ずいき

サトイモの茎で、「随喜」と当て字しますが、特に「肥後ずいき」として、江戸時代には淫具として有名でした。艶笑落語や小咄には、たびたび登場します。オチの通り、帯状の細長いもので、これを何回りも男のエテモノに巻きつけて用いたものですが、「効果」のほどは疑問です。

隠れた「円生十八番」

六代目三遊亭円生が、いわゆる「逃げ噺」として客がセコなとき(客種が悪く、気が乗らない高座)で演じた噺の一つです。円生のこの種の噺では、ほかに「四宿の屁」「おかふい」などが有名でした。普通は前座噺、またはマクラ噺で、円生は普通「穴子でからぬけだ」で切っていました。

「からぬけ」からの噺家

四代目柳家小さんは、その『芸談聞書き』(安藤鶴夫・述)で、昔は楽屋内で「『穴子でからぬけ』からやった」というと、天狗連から化けたのではなく、前座からちゃんとした修行を積んだという証しで、大変な権威になっていた、と語っていました。明治大正では、入門して一番最初に教わるのが、この噺であることが多かったのでしょう。相撲で言う「序の口(前相撲)から取った」と同じことですね。

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文七元結 ぶんしちもっとい 演目

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円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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四段目 よだんめ 演目

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『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 足あがり(上方) 蔵丁稚(上方)

【あらすじ】

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?

天明8年(1788)刊の笑話本『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり

明治32年(1899)の六代目桂文治の速記では「碁泥」につなげて演じられています。定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝、二代目三遊亭円歌がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

改作と類話

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。現在演じられるのはこの「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

【語の読みと注】
蔵丁稚 くらでっち
師直 ものなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

一人酒盛 ひとりさかもり 演目

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上方噺。酒好きにはこたえられません。

別題:一人酒

【あらすじ】

これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留公。

無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。

造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らない、いい酒とか。

本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。

「のみ友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだ」
とお世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。

いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。

熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬け物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。

今か今かと、「のめ」と言ってくれるのを待っているのだが、熊は一人でガブガブのみ、勝手なご託ばかり並べ立てるだけ。

ついにがまんしかねて、留が
「うまいかい?」
とせいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから
「のんでるときに、なにか言っちゃいけねえ」
と、熊の耳にも入らない。

「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」

「いっしょにのみてえのは留さんだけだ」
と繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。

そのうち刺し身をムシャムシャ食い出し、これも独り占め。

そろそろ完全にベロベロになってきて、なにかうたえと、からむからぶつくさ言うと、
「なに、もそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持ちになんなきゃいけないよォ」

留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。

熊、
「どじ助のまぬけ、こんなに煮っくりかえしちまって」
と毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。

そこで五合はおつもり。

「無冠の太夫おつもり」
などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」
などと言うに及び、留の怒りが爆発。

「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがればか野郎ッ」

畳をけり立てて、帰ってしまう。

隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

六代目松鶴の酒乱噺

上方の噺で、酒のみの地を生かした六代目松鶴の十八番でした。

東京でこの噺を得意にした六代目三遊亭円生がどちらかといえば、根は好人物という人物造形だったのに対し、松鶴の主人公は酒乱そのものでした。

大阪では、もともと、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年、83歳で没)が得意にし、そのやり方は桂米朝が直伝で継承していました。

南天や米朝のでは、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入ります。

円朝の名人芸

『明治世相百話』には、明治28年(1895)秋、すでに引退していた三遊亭円朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「円朝会」に出席、トリにこの「一人酒盛」を演じたことが記されています。

著者は山本笑月(1873-1936)。明治を代表するジャーナリストの一人。浅草花やしきの創設者、山本金蔵の長男で、長谷川如是閑や大野静方は実弟です。条野採菊が経営するやまと新聞から朝日新聞に移り、文芸部長、社会部長などをつとめました。病を得て退社した後は、療養生活と江戸明治文化の研究に励みました。『明治世相百話』は昭和58年(1983)に中公文庫から復刊されました。今では絶版ですが、古本でまだ入手できます。この本には円朝の意外な面が活写されてあります。

山本笑月によると、円朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、円朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えた、ということです。名人芸のきわみでしょうか。

東京では円朝の高弟、二代目三遊亭円橘が最も得意にしました。六代目円生は、子供のころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとに構成したそうです。

七十五日どころか

七十五日は「ほんのわずかな期間」という意味。「人のうわさも七十五日」「初物を食えば七十五日生き延びる」などと、江戸ではよく「七十五日」を使いますが、この数字の根拠は不明です。六代目円生も「よくわかりません」と言っています。

この噺に関しては、酒はすぐ醒めるから、命が延びてもほんのわずか、と逆説的な意味を含むのかもしれません。

おつもり

正確には「積もりっこ」で、杯を納めることです。酒席で、その酌を最後に終わりにするときに「おつもりで」と使います。ここではさらに、『平家物語』の登場人物、無官太夫の平敦盛を掛けたダジャレでもあります。

【語の読みと注】
留公 とめこう
ご託 ごたく:ご託宣の略。くどくど。「ごた」とも
平敦盛 たいらのあつもり

夏の医者 なつのいしゃ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方噺。機転がきくようで、その実、おまぬけな。愛すべき人物です。

【あらすじ】

夏の真っ盛り。

鹿島村の勘太が患って食欲がなく、飯を茶碗七、八杯しか食えない。

年だし、もういけないかもしれないと、せがれが思っていると、見舞いに来たおじさんが、
「隣の一本松村の玄伯先生に往診してもらえばよかんべえ」
と言う。

せがれ、さっそく留守を頼んで、ばっちょう笠に襦袢一枚、山すそを回って六里の道を呼びに行く。

尋ね当てると、玄伯先生が褌一つで草取りをしていたので、さっそく頼み込み、せがれが薬籠を持って、二人で隣村を出た。

山越えの方が近道だと先生が言うので、あえぎあえぎ登ったが、頂上まで来ると二人とも滝を浴びたような汗。

休憩して汗が引っ込んだところで、さあ出かけべえと立ったとたん、
「先生、先生」
「はいはい、ここだよ」
「あんか、いっぺんに暗くなったでねえか」

急に日が暮れたわけでもなし、はておかしい、と思ううち、周囲がなにやら温かくなってきた。

両手で手探りして先生はたと思い当たり
「あっ、こりゃいかねえ。この山に年古く住むうわばみがいるてえことは聞いちゃいたが、こりゃ、のまれたか」
「どうするだ、先生」
「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべえ」

脇差を忘れてきて、腹を裂いて出ることもできないので、先生しばらく思案して、せがれに預けた薬籠の中から下剤を出させ、それをまいてみると、効果はてきめん。

うわばみは七転八倒。

苦しいからあっちへばたり、こっとへばたりと左右に揺れる。

「薬効いてきたなこりゃ。向こうに灯が見えべえ。尻の穴に違えねえから、もちっとだ」

ようやく二人は下されて、草の中に放り出された。

転がるように山を下り、先生、さっそく診察すると、ただの食あたりとわかった。

「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」
「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」
「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障ることあるだで」

薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきて、ない。

困った先生、もう一度のまれて取ってこようと、再び山の上へ。

うわばみ、土用のさ中に下剤をかけられたので、すっかり弱って頬の肉がこけ、松の大木に首をだらんと掛けてあえいでいる。

「あんたにのまれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺんのんでもれえてえがな」
「いやあ、もういやだ。夏の医者は腹へ障る」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方起源の医者ばなし

明和2年(1765)、京都で出版された『軽口独狂言』中の「うわばみの毒あたり」、ついで安永5年(1776)、大坂刊の『立春噺大集』中の「医者の才覚」が主な原話です。

前者はオチが「夏坊主は腹の毒じゃ」となっていて、当時の医者の多くが僧形だったことに掛けています。

内容から想像されるように、さらに遡れば、全国に広く流布した民話がもとになっているようです。

上方では古くは、フカが婆さんをのみ込む「兵庫船」と混同されて医者がウワバミならぬフカにのまれ、「こんな臭え医者のんだことねえ」とオチることもあったそうですが、現在は用いられません。

巧妙円生、爆笑枝雀

東京でもかなり古くから演じられ、四代目橘家円蔵から六代目三遊亭円生に直伝で継承されました。

円蔵はちしゃには触れず、単に「夏の医者にはこりた」とオチていましたが、その伏線の不備を円生が上方の演出を加味して現行に改め、巧妙な田舎ことばで十八番にしました。

大阪では、桂枝雀のものが、はでなオーバーアクションで、これまた当り芸でした。

チシャの胡麻よごし

チシャは「萵苣」と書き、萵苣筍と葉萵苣があります。この噺ではたぶん葉萵苣で、西洋ではレタス、日本では小松菜が同族の品種です。上方落語に「ちしゃ医者」という噺がありますが、まったく別話です。

ばっちょう笠

「番匠笠」のなまったことばです。竹の皮を張った、浅く大きな笠で、延宝年間(1673-81)から作られました。江戸では駕籠屋がよくかぶりました。

下剤

江戸時代には、普通、大黄の粉末を用いました。桂米朝の十八番「地獄八景亡者の戯れ」では「大王(=大黄、閻魔大王と掛けた)のんで下してしまう」と、ダジャレオチに用いられています。

薬籠

やくろう。医者の携帯用の薬箱です。桐の小箱で、引き出しがあり、その中は細かく仕切られていました。普通、往診の際は供に持たせます。

「自家薬籠中のもの」という慣用句は、医者は自分の薬籠中のどこにどんな薬がしまってあるかわからないと商売にならないことから、物事を完全に知り尽くしていること、狭義ではある分野の知識や技術を完璧に自分のものとして使いこなせていることをいいます。

六代目円生の芸談

「ここに出てくる玄伯老は、医者といっても、山頂で休むときも作物の話をしているようなお医者様で、本職は百姓なのですから、そういう気分を出すことが大切でしょう」

【語の注】
薬籠 やくろう
番匠笠 ばんじょうがさ→ばっちょうがさ
萵苣筍 ちしゃとう
葉萵苣 はちしゃ
大黄 だいおう

松山鏡 まつやまかがみ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

【あらすじ】

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男、十代目馬生も演じました。

累伝説のパロディー

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

『北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山まいり」「坊主の遊び(剃刀)」がお女郎さんを丸刈りにする噺です。

インチキなまり

八代目文楽が自伝『あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

語の注】
あおざし 青緡、青繦:銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの。
かんもん 貫文:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫。
ほうきょうのかがみのたとえ 宝篋の鏡の喩
ひがしくびきぐん 東頸城郡
やたのかがみ 八咫鏡
つづら 葛籠
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之著
累伝説 かさねでんせつ

酢豆腐 すどうふ 演目

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【RIZAP COOK】

江戸から上方へ行って「ちりとてちん」に。キザ者を茶化す悪ふざけが過ぎます。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若だんな、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてえものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の「大通法語」に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の「文藝倶楽部」に掲載された初代柳家小せんの速記から、若だんなの洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げえせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊「聞上手」中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生、古今亭志ん朝が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別演出で、石けんを食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵から、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬に伝わっていました。「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石けんで……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目小さん門下だった初代柳家小はんが豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。大阪に移植され、古くは三代目林家菊丸が得意にしたほか、初代桂春団治も得意にしました。

東京では五代目柳家小さん、桂文朝などがこちらで演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

【語の読み】
乙 おつ
簪 かんざし
江戸生艶気樺焼 えどうまれうわきのかばやき
拙 せつ

【RIZAP COOK】

江島屋騒動 えじまやそうどう 演目

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円朝の怪談噺。舞台は江戸、下総、さらに江戸。イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

【あらすじ】

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

円朝の怪談噺

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

戦後、五代目古今亭志ん生がよくやりました。並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔と六代目三遊亭円生。円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵

円朝の最初の妻をお里といいました。その父親は倉岡元庵といいました。御徒町に住むお同朋だったそうです。お同朋、同朋衆はいろいろの職種がありましたが、倉岡は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。権力をかさに着た人々の一人だったようです。円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は後年、朝太郎のために苦しめられていました。

五代目志ん生が復活

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町

しばひかげちょう。港区新橋二-六丁目にあたります。日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

江島屋の「その後」

大正末期ごろまで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座2-8丁目)で質屋をしていたとのこと。歌舞伎座近くのため、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

【語の読み】
深川佐賀町 ふかがわさがちょう
倉岡元庵 くらおかげんあん
下総 しもふさ
大貫村 おおぬきむら
檀那寺 だんなでら
幸福寺 こうふくじ
芝日陰町 しばひかげちょう
神崎川 こうさきがわ
袷 あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田 ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影 かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

二階の間男 にかいのまおとこ 演目

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バレ噺。女房が亭主を尻目に自宅であいびき。二階付き長屋での噺です。

別題:お茶漬け 二階借り 茶漬け間男(上方)

【あらすじ】

ある夫婦、茶飲み話に亭主の友達の噂話をしている。

「畳屋の芳さんは粋でいい男だなァ」
「あらまァ、私もそう思っているんですよ。男っぷりもよし、読み書きもできるし、子供好きでつきあいもいいし」
「おらァ、男ながら惚れたョ」
「あたしも惚れましたよ」

ところが、間違いはどこに転がっているかわからないもので、この女房、本当に芳さんに惚れてしまった。

こうなると、もう深みにはまって、はらはらどきどき密会を重なるうち、男の方はもうただでは刺激がないとばかり、一計を案じて、亭主のいる所で堂々と間男してやろうと、ある日、ずうずうしくも乗り込んでくる。

「実はさる亭主持ちの女と密通しているので、お宅の二階を密会の場所にお借り申したい」
というのである。

まぬけな亭主、わがことともつゆ知らず、
「そいつはおもしろい」
というわけで、言われるままに当の女房を湯に入ってこいと追い出し、ごていねいにも
「いろ(相手の女)は明るい所は体裁が悪いと言っているから、外でエヘンとせき払いをしたらフッと明かりを消してください」
という頼みも二つ返事。

こうもうまくいくと、かえって女房の方が心配になり、表で姦夫姦婦の立ち話。

「あたしゃいやだよ。そんなばかなことができるもんかね」
「まかしとけ。しあげをごろうじろだ」
「明かりをつけやしないかしら」

亭主は能天気にパクパクと煙草をふかした後、かねての合図でパッと灯火を消すと、あやめも分かたぬ真っ暗闇。

「どこの女房だかしらないが、ズンズンおはいんなさいよ」

うまくいったとほくそ笑んだ二人。

女房は勝手を知ったる家の中。

寝取られ亭主になったとも知らず
「この闇の中で、よくまァぶつからねえで、さっさと上がれるもんだ」
と、妙に感心しているだんなを尻目に、二階でさっさとコトを始めてしまった。

亭主、思わず上を眺めて
「町内で知らぬは亭主ばかりなり。ああ、そのまぬけ野郎のつらが見てえもんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【うんちく】

二階付き長屋

「三軒長屋」にも登場しました。二階付き長屋は数が少なく、おもに鳶頭のように、大勢が出入りする稼業の者が借りました。八代目林家正蔵(彦六)が、終生、稲荷町の二階付き長屋に住んでいたことはよく知られています。

円生の逸品

原話は、天保13(1842)年刊の『奇談新編』中の漢文体笑話です。明治23年(1890)5月、「百花園」に掲載された初代(鼻の)三遊亭円遊の速記が残っています。

「紙入れ」「風呂敷」と同じく、間男噺ですが、その過激度では群を抜いていて、現在、継承者がいないのが惜しまれます。

この噺は演者によって題が異なります。桂米朝は「茶漬け間男」で、六代目三遊亭円生は「二階の間男」で、五代目春風亭柳昇は「お茶漬け」で、それぞれやっていました。ここでの「茶漬け」は亭主が茶漬けを食っている間にコトを済ます、というすじだからです。ここでは六代目三遊亭円生の速記を使いました。あの謹厳実直を絵に描いたようなイメージの、昭和の名人の、です。

寝取られ男

この言葉に対応するフランス語は「コキュ(cocue)」が有名です。cocuはカッコウから来ている言葉のようで、「かっこうの雌は他の鳥の巣で卵を産むことから」のようです。そういえば、大学時代にこんなことをしていた女性がいましたっけ。ちゃっかりしてました。フランスでは伝統的にコキュを描いた文学や演劇などが多くあります。他人のセックスを覗いて笑うネタにするのは世界共通ですが、フランスはもう少し高度な文化のようでして、他人の持ち物で楽しむ人を覗いて笑う趣味がある、ということでしょうか。古木優。

お血脈 おけちみゃく 演目

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会話がほとんどなく、噺家が語り進めていく地噺です。 

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

【あらすじ】

信濃の善光寺で、お血脈の御印というのを売り出した。

これは、百文出して額(ひたい)に印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物。

なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅というのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。

おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃(じょうはり)の鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。

赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。

虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。

元締めの閻魔大王も、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。

部下の見目嗅鼻(みるめかぐはな)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。

問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。

さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸を三十六曲歌ってのぼせているところ。

大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘の大小、素網を着て、重ね草鞋(わらじ)、月代(さかやき)を森のごとくに生やし、六方を踏みながらノソリノソリと御前へ。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」
「ハハー、いとやすきことにござりまする」

というわけで、久しぶりにシャバに舞戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。

そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。

見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、
「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾よく善光寺の、奥殿へ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」
と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃・善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。

四代目橘家円蔵の明治44年(1911)の速記が残ります。その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生が得意にしました。

円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。

上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題で演じます。

お血脈

おけちみゃく。六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていましたが、それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨(あじゃり)の名が書きつらねてあるよし。

もともと「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。

のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。ただしタダではなく、浄財百疋(一疋=二十五文)が必要で、ローマ法王庁の免罪符と同様の代物です。たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されています。

本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。天竺(=インド)から閻浮檀金(えんぶだごん)という身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋(もののべのもりや)が難波ヶ池に簀巻きにして放り込み、「処刑」。

それを見つけた本多善光が、仏像を信州に勧請して寺ができた、というのが沿革です。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。

当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴(かまがふちふたつどもえ)」、小説では古くは司馬遼太郎の「梟の城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進めます。その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。「あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルです。

短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要で、生半可な噺家には到底こなせません。そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。

八代目林家正蔵(彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。

唐茄子屋政談 とうなすやせいだん 演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

小言幸兵衛 こごとこうべえ 演目

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ブンブンうるさいおじさん。こういうの、どこかに必ずいそうですね。

別題:搗屋幸兵衛 道行幸兵衛 借家借り(上方)

【あらすじ】

麻布古川町、大家の幸兵衛。

のべつまくなしに長屋を回って小言を言い歩いているので、あだ名が「小言幸兵衛」。

しまいには猫にまで、寝てばかりいないで鼠でもとれと説教しだす始末。

そこへ店を借りにきた男。商売は豆腐屋。

子供はいるかと聞いてみると、餓鬼なんてものは汚いから、おかげさまでそんなのは一匹もいないと、胸を張って言うので、さあ幸兵衛は納まらない。

「とんでもねえ野郎だ、子は子宝というぐらいで、そんなことをじまんする奴に店は貸せない。子供ができないのはかみさんの畑が悪いんだろうから、そんな女とはすっぱり別れて、独り身になって引っ越してこい。オレがもっといいのを世話してやる」
と、余計なことを言ったものだから、豆腐屋はカンカンに怒り、毒づいて帰ってしまう。

次に来たのは仕立て屋。

物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えたが、二十歳になるせがれがいると聞いて、にわかに雲行きが怪しくなる。

町内の人に鳶が鷹を生んだと言われるほどのいい男だと聞いて、幸兵衛、
「店は貸せねえ」

「なぜといいねえ、この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘がお花。今年十九で、麻布小町と評判の器量良し。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がり込んで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身、たちまち腹がポンポコリンのボテレンになる。隠してはおけないから涙ながらに白状するが、一人息子に一人娘。婿にもやれなければ嫁にもやれない。親の板挟みで、極楽の蓮の台で添いましょうと、雨蛙のようなことを言って心中になる」

(ここで芝居がかりになり)「本舞台七三でにやけた白塗りのおまえのせがれが『……七つの金を六つ聞いて、残る一つは未来に土産。覚悟はよいか』『うれしゅうござんす』『南無阿弥陀仏』……おい、おまえの宗旨は? 法華だ? 古着屋は真言だから、『ナムミョウホウレンゲッキョ』『オンガボキャベエロシャノ』。これじゃ、心中にならない。てえそうな騒動を巻き起こしゃあがって、店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛び込んできたのは、えらく威勢のいい男。

「やい、家主の幸兵衛ってのはてめえか。あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思え。店賃なんぞ高えことォ抜かしゃがるとただおかねえぞ」
「いや、乱暴な人だ。おまえさんの商売は?」
「鉄砲鍛冶よ」
「なるほど、それでポンポンいい通しだ」

底本:二代目古今亭今輔、六代目三遊亭円生

【しりたい】

切り離された前半

これももともと上方落語ですが、本来は、豆腐屋の前に搗米(つきごめ)屋が長屋を借りにきて、「仏壇の先妻の位牌が毎日後ろ向きになっているので、後妻が、亡霊に祟られているのではないかと気にしてやがて病気になり、死んでしまった。跡でその原因が、搗米屋が夜明けにドンドンと米をつくためだとわかった。してみりゃあ同業のてめえも仇の片割れだ。覚悟しゃあがれ」と、幸兵衛に因果話で脅かされて、ほうほうの体で逃げ出すくだりがあり、そこから「搗屋幸兵衛」の別題があります。

ただし、現在では、この前半は別話として切り離して演じられるのが普通です。

搗米屋または搗屋は、今で言う精米業者のこと。精白されていない米を力を込めて杵で搗きつぶすので、その振動で位牌が裏向きになったというわけです。

原話に近い上方演出

正徳2年(1712)に江戸で刊行された『新話笑眉』中の「こまったあいさつ」が原話ですが、上方落語「借家借り」の古いやり方はこれに近く、最初に搗米屋、次に井戸掘りが借りに来て、それぞれ騒音と振動の原因になりやすいので断られることになります。

ここでは因果話がなく、「出来合いの井戸を(長屋の庭に)掘るのかと思った」というオチも今ではわかりにくく、おもしろさにも欠けるためか、現在では東西とも仕立て屋、鉄砲鍛冶を出すことが多くなっています。

麻布古川町

あざぶふるかわちょう。芝あたり。新堀川(古川、金杉川)北岸低地の年貢町屋。江戸時代の当初は麻布本村(ほんむら)の中に属していたのですが、元禄11年(1698)に白金(しろかね)御殿御用地になり、代地として三田村(古川右岸)の古川あたりを与えられました。これがその名の由来です。港区南麻布1丁目。

正徳3年(1698)に町方支配となりましたが、町奉行と代官の両者の支配を受けていました。江戸の内とはいえなかったようです。鷹場があったため、年貢やその他の諸役を勤める町でした。

家数2
地主9
店借7

これだけ。小さかった。この噺の設定にはもってこいだったようです。

古川右岸は三田古川町といいました。だから、古川町は麻布と三田にあったことになります。

古川(新堀川、金杉川)という、芝の将監橋から引かれた掘割の左岸(のち河川改修のため右岸)に広がった町なのでこの名があります。将監橋については、項目を立てさらに記しました。お読みください。

麻布十番もこの付近で、十番の由来は、前記の将監橋から麻布一の橋まで古川沿岸の工事区を十区に分けた終点、十番目にあたるところから、という説もあるのですが、こちらも諸説ごろごろ。

総じて、江戸時代を通して、麻布あたりはほとんどが武家屋敷と寺社地で、町屋はその合間を縫って細々と点在していたに過ぎません。現在の繁栄ぶりが信じられないような、狸やむじなが出没する寂しい土地だったようです。

家主

いえぬし。大坂では「家主」、江戸では「大家」または「差配」。普通は地主に雇われた家作(長屋を含む借家)の管理人ですが、町役を兼ねていたので、絶大な権限を持っていました。

万一の場合、店子の連帯責任を負わされますから、その選択に神経質になるのは当たり前で、幸兵衛の猜疑心は、異常でもなんでもなかったわけです。

幸兵衛が、最初の賃貸希望者の豆腐屋に「近所にはないからちょうどいい」と言うくだりもあり、町内の職業分布にも気を配って「合格者」を決定していたことがよくわかります。

江戸では実際、トラブルを避ける意味もあって、小売商は一町内に一職種しか認められませんでした。ラーメン屋の隣がラーメン屋、またその向かいがラーメン屋などという、商道徳が地に堕ちた現代とはえらい違いです。

将監橋

江戸には、「将監橋」という名の橋が二つありました。

芝の将監橋   金杉川に架かっていました。
日本橋の将監橋 紅葉川に架かっていました。

芝の将監橋は、川さらいを受け持つ、幕府の川浚奉行だった岡田将監の功労を後世に伝える主旨で名づけられたのだそうです (続江戸砂子) 。

岡田将監という人は、治水、土木工事の達人だったのですね。

日本橋の将監橋は、海賊衆といわれ、水主同心を担当し幕府御用船の保管と運航を担当していた、船手頭の向井将監の屋敷が隣接していたことにちなんでいます。向井正綱が仇敵徳川家康の家臣となり、幕府の水軍と水運の親玉となって、十一代にわたり「将監」を世襲しました。

そこらへんのところは隆慶一郎の『見知らぬ海へ』に描かれています。この当時の「海賊」ということばは、海の専門家、くらいの意味です。

将監というのは、近衛府(天皇の警護にあたる役所)の三番目の役職名です。かみ、すけ、じょう、さかん。これが四等官ですから、「じょう」にあたる職名が将監ということです。

あんまり偉くないですが、江戸時代にはもう、そんなことはどうでもよくなっていました。そのあらましは以下の通りです。

官職について

官職とは、公的な役所で働く人が与えられる役職名です。平安時代まではまともで、朝廷がそれなりの人に与えていました。ところが、鎌倉時代になると、儀式や法会の資金欲しさに、朝廷は官職名を売り出すようになりました。

天皇に直結する朝廷は日本の最高ブランド。これを利用して人々の名誉欲を金で釣ったわけです。欲しがって釣られた人々は武士です。御家人を任官させたり、名国司(実体のない国司の名称)に補任させたり。武士の間では官名を称するのが普通になってきました。

これに拍車をかけたのが、朝廷を丸ごとのみこむ争乱、南北朝時代(1338-1392)の争いです。日本全国の武士が北朝か南朝かに別れて争った時代。彼らは戦うための支柱となる朝廷の後ろ盾を必要としました。

そこで、北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らが、配下となった主なる武士に「官途書出」といって叙位任官を朝廷に取り次いで与えるという慣習を乱発しました。朝廷が二つあったわけですから、官位官職の数も二倍以上。大安売りです。

南北朝の争乱は、六十余年に及びましたから、その後も由々しき慣習は消えず、武家政権が続く間、つまり明治にいたるまで横行していったわけです。

とりわけ、戦国時代という無政府状態にあっては、守護大名が家臣などに官途状を出して国司名(受領名)を与えていました。

それどころか、その官名のを勝手に名乗ること(私称)を許すケースが多く登場してきました。これは朝廷のあずかり知らない僭称です。公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりしていたようです。

太郎、次郎などの輩行名と左衛門、兵衛などの官職名を組み合わせた名を与える、「仮名書出」という慣習も登場して、とどまるところを知りませんでした。

先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れました。向井将監は代々「将監」を名乗っていました。だからこそ、向井といえば将監、将監橋が命名される由縁となるのです。

こうなると、朝廷はまったく関知せず、武士が官名を勝手につける「自官」という慣習が定着していきました。ブランド壟断。むちゃくちゃです。

百官名

ひゃっかんな。家系や親の持つ官職を名乗ることをいいます。

百官名が受領名と違うのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点です。てきとうなんですね。

戦国時代からは、武士の間で官名を略して、「大膳」「修理」など役所の名だけを名乗る人や、「将監」「将曹」など官職の等級だけを名乗る人などの風習が広がりました。

そうなると、百官名というのはもう、官位官職ではなく、ただの名前でしかありませんね。

百官名を名乗る場合は、官職と同じく、
名字+百官名+諱(名前)
という方式が、一般的です。

向井将監忠勝、吉良上野介義央、といったかんじです。ただ、われわれは、「吉良上野介」と呼んでいて、「義央(よしなか)」という本当の名前はすでに忘れていますね。まあ、向井将監も同じです。正綱だろうが、忠勝だろうが、向井の家は将監。向井将監は海賊衆だ、という認識です。

ちなみに、上野介。

これは、「親王任国」といって、上野国、常陸国、上総国だけは、国司の長官(かみ、守)は親王が任命されるので、臣下の最高位は次官(すけ、介)となる慣習でした。だって、親王自身は京都にいるわけで、実際に任地に赴くのは「介」以下、ということになるのです。9世紀、平安時代の初めの頃からの慣習です。奈良時代には臣下の上野守が代々出ています。

そんなわけで、実質的には、他国の「守」と同じ位置にあるのが「上野介」「常陸介」「上総介」となります。ややこしいですが。

話はここから。

吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られました。その前には、本多正純。この人も、上野介を名乗っていましたが、宇都宮釣り天井事件であえない最期。

江戸時代には、百官名で「上野介」をいただくのを、みなさん避けていました。不幸な死に方したくないから。

もう一人。小栗上野介忠順(ただまさ)。

幕末の能吏は、最初は豊後守だったのですが、阿部正外(まさとう)が豊後守だったため、はばかって百官名を変えようとしたようでして、とうぜん、空きのあった上野介を名乗ったとのこと。阿部は後に老中となり人で、小栗とは格が違っていました。小栗はそういうことには無頓着の人だったようです。その結果が斬首に。悲劇です。ま、そんなことが、佐藤雅美の『覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―』(岩波書店、2007年)にたしか載っていましたっけ。

三つの先例があるのなら、上野介は忌み名と呼ばれてもおかしくはありませんね。

東百官

あずまひゃっかん。これはなにか。関東地方、東国で行われていた慣習です。京都から遠く離れていたため、お侍のみなさんはけっこう好き勝手にやっていたわけなんですね。百官名もどきです。

「頼母(たのも)」「平馬(へいま)」「一学」「左膳」「久米(くめ)」「求馬(もとめ)」「靱負(ゆきえ)」「右門(うもん)」といった、官職に似せた名、つまり、擬似官名とでもいうものが東国では広く流布していました。

もう、ここまでくれば、お武家の勝手し放題、なんでもあり、ですね。

東百官は「相馬百官」とも呼んでいたそうですから、これは、平将門が新皇に就いたときに始まったものなのでしょう、きっと。それを思うと、関東独自のお家芸のようで、後世も大切にはぐくんでいきたいものです。

小間物屋政談 こまものやせいだん 演目

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もとは世話講談。志ん生もまねていました。

別題:小間物屋小四郎 万両婿(講談)

【あらすじ】

京橋五郎兵衛町の長屋に住む、背負い(行商)の小間物屋、相生屋小四郎。

今度上方へ行って一もうけしてきたいというので、その間、留守に残る女房のお時のことを家主の源兵衛にくれぐれも頼んで旅立つ。

東海道を一路西に向かって、ちょうど箱根の山中に差しかかった時、小便がしたくなり、雑木林の中に分け入ると、不意に
「もし……お願いでございます」
と、弱々しい男の声。

見回すと、裸同然で松の根方に縛りつけられている者がある。

急いで縄を切って助けると、男は礼を言って、自分は芝露月町の小間物屋、若狭屋の主人で甚兵衛という者だが、病身で箱根に湯治に行く途中、賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、松の木に縛られて身動きもならなかった、と語る。

若狭屋といえば、同業ながら行商の小四郎とは大違いで、江戸で一、二と聞こえた大店。

その主人が裸道中も気の毒だと同情した小四郎、金一両と自分の藍弁慶縞の着物に帯まで与えた。

甚兵衛は江戸へ帰り次第、小四郎の留守宅に借りたものを返しに行くというので、住所名前を紙に書いて渡し、二人は互いに道中の無事を祈って別れる。

さて、甚兵衛はその晩、小田原宿の布袋屋という旅籠に宿をとる。

ところが夜中、病身に山中で冷えたのがこたえてか、にわかに苦しみだし、敢えなく最期をとげてしまった。

宿役人が身元調べに来て、身の回り品を調べた。

着物から江戸京橋五郎兵衛町という住所の書きつけが出てきたので、てっきりこの男は小四郎という小間物屋に違いない、と。

すぐに家主の源兵衛と女房お時のところに、死骸を引き取りに来るよう、知らせが届いた。

泣きじゃくるお時をなだめて、源兵衛が小田原まで死骸の面通しに行ってみると、小四郎が江戸を出る時着ていた藍弁慶の袷を身につけているし、甚兵衛そのものの面差しが小四郎に似ていたこともあり、本人に間違いないと早合点、そのまま骨にして江戸へ持ち帰る。

三十五日も過ぎ、源兵衛はお時に、このまま女一人ではどんな間違いがあるかもしれないから、身を固めた方がいいと、せめて一周忌まではと渋るのをむりやり説き伏せ、小四郎の従兄弟にあたる、やはり同業の三五郎という男と再婚させた。

三五郎にとって、お時はもとより惚れていた女。

甲斐甲斐しくお時のめんどうを見るので、いつしかお時の心もほぐれ、小四郎のことをようよう思い切るようになった。

そんなある夜。

「おい、お時、……お時」

表の戸をせわしなくたたく者がある。

不審に思ってお時が出てみると、なんと死んだはずのもとの亭主、小四郎の姿。

てっきり幽霊と思い、
「ぎゃっ」
と叫んで大家の家に駆け込む。

事情を聞いた源兵衛が、半信半疑でそっとのぞいてみると、まさしく本物。

本人は上方の用事が長引いて、やっと江戸へ帰り着いてみると自分がすでに死人にされているのでびっくり仰天。

小田原の死体が実は若狭屋甚兵衛で、着物は小四郎が貸した物とわかっても、葬式まで済んでしまっているから、もう手遅れ。

お時も、いまさら生き返られてももとには戻れない、とつれない返事。

完全に宙に浮き、半狂乱の小四郎がおそれながらと奉行所へ訴え、名奉行大岡越前守さまのお裁きとあいなる。

結局、奉行のはからいで、小四郎は若狭屋甚兵衛の後家でお時とは比較にならないいい女のおよしと夫婦となり、若狭屋の入り婿として資産三万両をせしめ、めでたくこの世に「復活」。

「このご恩はわたくし、生涯背負いきれません」
「これこれ。その方は今日から若狭屋甚兵衛。もう背負うには及ばん」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

講談からの翻案

講談「万両婿」を人情噺に翻案したものか、またはその逆ともいわれます。

六代目三遊亭円生は、幕末から明治初期の五代目翁家さん馬の速記に、この噺が人情噺として載っていると語っていますが、現行の演出は、円生が、酔いどれ名人といわれた四代目小金井蘆洲の世話講談「万両婿」を新たに仕立て直し、オチもつけたものです。

ほかに、講釈師時代に蘆洲の弟子だった五代目古今亭志ん生も、聞き覚えで演じていました。

背負い小間物屋

白粉、紅、櫛、笄(こうがい)その他、婦人用品を小箪笥の引き出しに分けて入れ、得意先を回ります。

その中には性具の「張り形」もあり、「小間物屋 にょきにょきにょきと 出してみせ」という怪しげな雑俳もあります。もちろん、出したのは商売物だけでは……なかったでしょうが。

箱根の湯治場

江戸から片道三日ないし四日の行程で、箱根七湯といい、それぞれ本陣がありました。

湯治は七日間を単位に、一回り、二周りといい、最低三回りしなければ湯の効き目は出ないものとされました。

料金は、文政(1818-30)初年で三回りして三両といいますから、湯治も下層町人には行けて一生一度、多くは縁がないものでした。

五郎兵衛町

ごろべえちょう。京橋辺。鍜治橋の東。狩野屋敷の南にあり、東西に続く両側町。南は紺屋町、東は畳町、西は外堀端の通りで、鍜治橋御門外にあたります。中央区八重洲二丁目。

草創名主の中野五郎兵衛の住居があったことに由来するとのこと(東京府志料)。子孫は代々名主を世襲していました。

南裏を古着新道(ふるぎじんみち)と俗称したとか(御府内備考)。大正元年(1911)頃にはまだ十二軒の古着商店があったそうです(京橋繁昌記)。小四郎の住所とするには説得力があります。

明治二年(1869)に南隣の狩野探原屋敷を合併しています。

露月町

ろうげつちょう。芝辺。源助町の南、東海道沿いに位置する両側町の町屋です。「ろげつ」とも。港区東新橋二丁目、新橋四-五丁目。

東は陸奥会津藩松平中屋敷、南は柴井町、西は日蔭町通を境に御目付遠山家屋敷と旗本植村家屋敷。遠山家とは名奉行で知られる遠山景元の屋敷です。この町名を出すことで、名奉行や政談を想起させる仕掛けだったのかもしれません。

「ろ月町」と記したのが、宝永(1704-11)年間から「露月町」と改めたとのこと(文政町方書上)。寛永九年(1633)の寛永江戸図には「ろう月丁」と。

もとは日比谷御門内にあり、「老月村」と称していながら、徳川家康の関東入部で江戸城洲地区にともない、芝辺に移して「露月町」と改めたとも(新撰東京名所図会)。

このように、古町ながら、町起立、町名由来、草創人などは不明。

文政町方書上によれば、文政十年(1827)の統計は以下の通りです。

総家数は160あって、その内訳は
家持1
家主23
地借36
店借100
町内の家主、忠七の地内に出世稲荷
とのこと。

文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、鰻蒲焼き屋で尾張町(銀座辺)に出店した大和田兼吉がいるとのこと。

慶応三年(1867)には、中川喜兵衛が町内に江戸で最初の牛鍋屋を始めたそうです(芝区誌)。

一見平凡のようでありながら、少々進取の気性があって出世者も輩出しており、この噺にふさわしい町のように見えます。

【小間物屋政談 六代目三遊亭円生】

紀州 きしゅう 演目

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据え膳はいただくにかぎる、というご教訓なんでしょうかね? 

別題:槌の音

【あらすじ】

七代将軍家継が幼くして急死し、急遽、次代の将軍を決めなければならなくなった。

候補は尾州侯と紀州侯。

どちらを推す勢力も譲らず、幕閣の評定は紛糾。

ある朝、尾州侯が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が
「トンテンカン、トンテンカン」
と槌を打つ音。

それが尾州侯の耳には
「テンカトル、テンカトル」
と聞こえた。

これは瑞兆であるとすっかりうれしくなったが、最後の大評定の席では、大人物であることをアピールしようと、
「余は徳薄く、将軍の任ではない」
と辞退してみせる。

むろん、二度目に乞われれば、
「しかしながらァ、かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万民のため……」
ともったいぶって受ける算段。

ところがライバルの紀州侯、やはり同じように
「余は徳薄くして……」
と断ったまではよかったが、その後すぐに
「しかしながらァ」
ときたので、尾州侯は仰天。

「かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万人のため」
と、自分が言うつもりのセリフを最初から言われてしまい、あえなくその場で次期将軍は紀州侯に決まってしまった。

野望がついえてがっかりした尾州侯、帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋が
「テンカトル、テンカトル」

ところが親方が焼けた鉄に水をさして、
「キシュー」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

『甲子夜話』の逸話

『甲子夜話』(文政4=1821年刊)・第十七巻にある逸話です。作者は、平戸藩主で、文人大名として名高かった松浦静山(まつら・せいざん、壱岐守。1760-1841)。

六代目円生が受け継ぐ

明治から大正にかけて、五明楼国輔が得意にしていたのを、六代目三遊亭円生が直伝で受け継いだ噺です。

七代将軍家継

没は享保元年(1716)旧暦4月30日。数え八歳。法号は有章院。その「治世」は側用人・間部詮房と新井白石の補佐によったもので、「正徳の治」と呼ばれます。

尾州侯

尾張藩第六代・徳川継友。名前からして「ツギテエ」で、権力欲の権化のような感じですが、八代将軍吉宗となった紀州侯への怨念はせがれの代まで尾を引きます。

継友が享保15年(1730)に憤死した後、嗣子の宗春は吉宗の享保改革による倹約令を無視して、藩内に遊郭の設置、芝居小屋の常時上演許可など、やりたい放題やったため、ついに逆鱗に触れて、元文4年(1739)、隠居謹慎を命じられました。

御三家でなければ、とうにお家は断絶、その身は切腹だったでしょう。

英国では成功例

権力を奪取する際、すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りの者に無理やり薦められる形で「いやいやながら」という姑息な「手続き」を踏むのは洋の東西を問わないようです。

シェイクスピアの「リチャード三世」でも、主人公が王位を簒奪するとき、腰巾着のバッキンガム公と「余は予定通り、女の子のようにいやだいやだと言うから、あとはそちたちが無理やり頼み込んでくれ」と、陰謀をめぐらします。

尾州侯と違って、こちらは対抗馬をみんな片付けた後ですから、この作戦は大成功でした。

看板のピン かんばんのぴん 演目

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鉄火場が舞台の、珍しい噺。基本の形は鸚鵡返しですね。

【あらすじ】

鉄火場で、若い衆が今日もガラッポン、丁だ半だとやっている。

ところが今日は、もうけた奴は先に帰り、残ったのはピイピイになった連中ばかりで、さっぱり場が盛り上がらない。

そこへ現れたのが、この道では年季の入った親分。

景気付けに一つ胴を取ってもらいたいと頼まれたので、オレは四十二の時からバクチはやめているが、てめえたちがそういうならと、壺皿の前に座る。

一っ粒の勝負で、賽粒を一つ無造作に笊に投げ入れると、上手の手から水が漏れたか、粒が壺皿の外にポロリとこぼれ、一が出ている。

いっこうにそれに気づかないようで、

いっこうにそれに気づかないようで、
「さあ、張んな」

……このじじい、相当に耄碌してタガがゆるんだんだろう、こいつはタダでいただき、とばかり、みんな一に張る。

「親分、本当にいいんですかい」
「なにを言いやがる。そう目がそろったら、看板のこのピン(一の目のこと)は、こうして片づけて……オレがみるところ、中は五だな」
「あれっ、これ看板だとよ」

壺の中は、ちゃんと別の粒。

五が出ていたので、一同唖然。

ばか野郎、オレだからいいが、他の野郎なら銭は全部持ってかれちまう、銭は返してやるから、これにこりたらバクチはするなと、小言を言って帰ってしまう。

ばかな奴もいるもので、これに感心して、自分もまねしたくてたまらなくなった。

別の賭場へ行って、
「オレは、バクチは四十二の時に止めた」
「てめえ、まだ二十六じゃねえか」

むりやり胴を取ると、わざとピンをこぼして、
「さあ、張んな。みんな一か。そう目がそろったら、看板のピンは、こうして片づけて」
「あれ、おい、ピンは看板かい」
「オレが見るところ、中は五だな。みんな、これに懲りたらバクチは……あっ、中もピンだ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

小さん代々のマクラ噺

もともと独立して演じられることは少なく、三代目柳家小さんは「三で賽」、四代目小さんは「へっつい幽霊」、若いころセミプロの博打打ちだった三代目桂三木助は「狸賽」と、それぞれ博打噺のマクラにつけていました。

五代目小さんは、師匠・四代目直伝の噺を初めて独立させ、「看板のピン」として磨きをかけました。ほかには六代目三遊亭円生、大阪では、東京からの移植で桂米朝が演じていました。

なお、現行は、中のサイの目は「三」で演じられます。

一っ粒

「チョボイチ」ともいいます。一個のサイコロを用い、出た目が当たると賭金の4倍から5倍返しになるので、ギャンブル性がより強いものです。

ほかにサイコロを三つ使う「狐チョボ」もあります。

鉄火

鉄火はプロの博徒、鉄火場は賭博場です。

もともと鉄火場の勝負には素人を入れなかったといいます。むろん血の雨が降りやすいからで、「鉄火」の語源も、場が白熱して焼けた鉄のように熱くなることからとされています。

素人のバクチ好きは「白無垢鉄火(しろむくでっか)といい、三代目桂三木助は「へっつい幽霊」のレコードで説明抜きに使っていますが、今ではもちろん通用しないでしょう。

ピン

サイコロの目の「一」のことで、賭博用のサイコロでは、ピンの部分もすべて黒塗りです。

帯久 おびきゅう 演目

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お話は1720年から始まります。おなじみ、大岡裁きの一編です。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

【あらすじ】

享保五年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛という呉服店があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七の性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日の決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互い」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しに来た。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心が兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いでおかみさんが五月にぽっくり。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵二戸前もろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人の請け判(連帯保証人)をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の業悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春永にでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所(取りつぶし)、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫なやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
「還暦か。いやさ、本卦(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候でございます」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

大岡政談がネタ本

講談の大岡政談ものと、随筆『明和雑記』中の名奉行、曲淵甲斐守の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

「名奉行」と題して、明治末に「文藝倶楽部」に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活して演じています。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同じパターンのネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかの表われでしょう。

本卦

ほんけ。本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。

分家

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。

奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

阿武松 おうのまつ 演目

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これは珍しい、相撲取りが主人公の噺です。いやあ、これがまたよく食う。

別題:出世力士

【あらすじ】

京橋観世新道に住む武隈文右衛門という幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至(ふげし)郡鵜川村字七海の在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車というしこ名を与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分やって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠に泊まり、一期の思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみるとこれこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山(しころやま)喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている、相撲取りが飯を食わないではどうにもならない、一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑というしこ名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助と出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

阿武松緑之助

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

しこ名の由来は、お抱え先の長州・萩の阿武の松原から。 

板橋宿

中仙道の親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。上宿、中宿、平尾宿(下宿)に分かれていました。

戸田川は荒川のこと。隅田川の上流で、板橋宿の外れ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

観世新道

かんぜじんみち。中央区銀座一丁目。

講談から脚色

講釈をもとにできた噺。講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(おもちゃ屋の馬生)に教わって、六代目三遊亭円生が得意にしていた人情噺。先代三遊亭円楽に継承されました。

「阿武松じゃあるめえし」

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙を買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

浮世床 うきよどこ 演目

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日がな一日、床屋でごろごろ。こんな人生も悪くない。

【あらすじ】

髪結い床。

若い衆が集まってワイワイばか話の最中に、留さん一人、講談本に読みふけっている。

すぐ目を付けられて、退屈しているから読んで聞かせてくれと頼まれ、
「オレは読み出すと立て板に水で、止まらなくなるから、同じところは二度と読まねえ」
と豪語して始めたのはいいが、本当はカナもろくに読めないから、
「えー、ひとつ、ひ、ひとつ、ひとつ、あねがわかっ、せんのことなり……真柄、まからからから、しふろふざへもん」
「真柄十郎左衛門か?」
「そう、その十郎左衛門が、敵にむかむかむか……」
「金たらいを持ってきてやれ。むかつくとさ」
「敵にむ、向かって一尺八寸の大太刀を……まつこう」
「呼んだか?」
「なんだよ」
「今、松公って呼んだだろ」
「違う。真っ向だ」

一尺八寸は長くないから、大太刀は変だと言われ、これは横幅だとこじつけているうちに、向こうでは将棋が始まる。

一人が、王さまがないないと騒ぐので
「ああ、それならオレがさっきいただいた。王手飛車取りの時、『そうはいかねえ』って、てめえの飛車が逃げたから」
「おめえの王さまは、取られてないのにねえな」
「うん、さっき隠しておいた」
というインチキ将棋。

かと思うと、半公がグウグウいびきをかいている。

起こすと、
「女に惚れられるのは疲れてしょうがねえ」
と、オツなことを抜かしたと思うと、
「芝居で知り合ったあだな年増と、さしつさされつイチャついた挙げ句、口説の末にしっぽり濡れて、一つ床に女の赤い襦袢がチラチラ……」
と、えんえんとノロケ始める。

「女が帯を解き、いよいよ布団の中へ……」
「こんちくしょう、入ってきたのか」
「という時に、起こしゃあがったのは誰だ」

床屋の親方が、あんまり騒がしいので、
「少しは静かにしてくれ。気を取られているすきに、銭を置かずに帰っちまった奴がいる。印半纏のやせた……」
「それなら、畳屋の職人だ」
「道理で、床を踏み(=踏み倒し)に来やがったか」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

意外にも上方ダネ

一尺八寸の大太刀の部分の原話は安永2年(1773)刊『聞上手』中の「大太刀」、夢のくだりは同4年(1775)刊『春遊機嫌袋』中の「うたゝね」、オチの畳屋の部分は同2年刊『芳野山』中の「髪結床」と、いくつかの小ばなしが合体して、できた噺です。

これらの原話はいずれも江戸で出版されているのに、意外なことに落語そのものは上方で発達し、明治末期に初代柳家小せんが東京に「逆輸入」しました。

演題の「浮世床」は、式亭三馬(1776-1822)と滝亭鯉丈の合作の同名の滑稽本(初編、文化10年=1813年刊)から採られているとみられます。

無筆(=文盲)に近い者が見栄を張ってでたらめ読みし、からかわれるくだりの原型は『浮世床』にあり、これも原典の一つといえるでしょう。

先代三平の音源も

戦後は六代目三遊亭円生と三代目三遊亭金馬が得意としました。その他数多くの落語家によって手掛けられています。先代林家三平のレコードも昭和56年(1981)にビクターから発売されましたが、CD化はされず、レコードは現在は廃盤です。

円生の芸談

六代目三遊亭円生はこの噺について、「テンポと呼吸をくずさないこと」という貴重な芸談を残しています。

片側町

床屋の親方が客の片鬢(びん)を剃り落とし、「これじゃ表を歩かれねえ」と文句を言われると、「なーに、片側をお歩きなさい」とオチる、「片側町」という小ばなしを含むこともあります。これは、現在は同じ床屋ばなしの「無精床」に入れることが多くなっています。

オチの「床を踏む」というのは、畳屋が新畳のへりを踏んでならして落ち着かせること。そのことばと、髪結い賃の「踏み倒し」を掛けたものですが、これも、今ではかなりわかりにくくなっているでしょう。

髪結い床の歴史

起源は古く、応仁の乱(1467-77)後、男がかぶりものを常時着けない習慣ができたので、月代(さかやき)を剃って髪を整える必要が生じ、職業的な髪結いが生まれました。

天正年間(1573-92)にはもう記録があり、一人一文で結髪したため、別名「一銭職」と呼ばれました。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「髪結新三(かみいしんざ)」の「一銭職と昔から、下がった稼業の世渡りに……」というよく知られたセリフは、ここからきています。

万治元年(1658)から、髪結い床は江戸で一町内に一軒と定められましたが、享保年間(1716-36)には千軒あまり、幕末の嘉永年間(1848-54)になると二千四百軒に増えたといわれています。

この噺の中でも詳しく説明されるのですが、江戸の髪結い床は、通常は親方一人に中床(下剃り=助手)、小僧の計三人です。中床を置かず、小僧一人の床屋もありました。

二階は噺に出てくるように社交場になっていて、順番を待つ間、碁将棋、ばか話などで息抜きをする場でもありました。

髪結い賃は、大人三十二文、子供二十四文が幕末の相場です。

明治になっても「かみどこ」という呼び名と、江戸以来の古い床屋の面影や性格は、下町ではまだ色濃く残っていて、町内のゴシップの発信地でもありました。

床屋が登場する噺は「無精床」「十徳」「お釣りの間男」「崇徳院」など、多数あります。

寄合酒 よりあいざけ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

金がないのにワイワイガヤガヤ体育会系。がさつでけたたましいにぎやかな噺。

別題:ん廻し 田楽食い(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆が、金がないので肴をめいめい持ち寄りでのむことにしたが、これが大混乱。

数の子を煮てしまう奴がいたり、山芋を糠味噌に漬けたり、せっかく乾物屋の餓鬼をチョロまかしてせしめた鰹節を、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。

うどん屋をやるんじゃないと、ぼやいていると、そのダシで行水してしまい、後は全部捨ててバケツ一杯だけ残した奴が現れ、世話人は頭を抱える。

しかたがないのでそのバケツを持ってこいと言うと、いま褌を洗濯しているのがいると、いう。

「すまねえ。知らないから。絞って持っていこうか?」
「冗談じゃねえ」

とっておきの鯛は、料理しているところにどこかの犬がきて、ちょんと座って動かないので、
「そんなのは頭を一発食らわして追っ払え」
と言われて頭を食べさせ、
「胴体を食らわせろ」
と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬の腹へ。

大騒ぎしているところへ豆腐屋から田楽が焼き上がってくる。

運がつくように、「ん」がつく言葉を一つ言うごとに田楽を一枚食わせると取り決めた。

各自ない頭を絞り、しまいには
「オレ、せんねんしんぜんえんのもんぜんにげんえんにんげんはんみょうはんしんはんきんかっぱんきんかんばんぎんかんばん、きんかんばんこんぼんまんきんたんきんかんばんこんじんはんごんたんひょうたん、かんばんきほうてん」
とお経のような文句を一息に並べ立て、五十六本せしめる奴も出る始末。

負けずに、算盤を用意しろと大きく出た男
「半鐘でジャンジャン、ボンボンボン、あっちでジャンジャンジャンジャン、こっちでジャンジャンジャンジャンジャン、消防自動車が鐘をカンカンカンカンと五百」
「おい、こいつに生の田楽を食わせろ」
「なぜ」
「消防のまねだから、焼かずに食わせるんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

ルーツは元和年間

原話になる小ばなしは数多くあります。ルーツは古く、大坂夏の陣の終わった直後の元和年間(1615-24)に刊行された『戯言養気集』中の「うたの事」が最古の形です。

ここではすでに「ん」の音の入った単語を並べ、田楽を取り合うパターンが確立していますが、その後、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝『醒睡笑』中の「児の噂」でも、僧たちの「ん」の字遊びの中に、田楽欲しさに稚児が割り込むという筋になっています。

小ばなしによっては「ん」の言い合いではなく、ゲームが謎掛けやダジャレ(たとえば医者の本尊で薬師如来=八串もらえるなど)になる場合もありますが、田楽食いのパターンは終始変わっていません。

初代春団治の十八番

上方落語では、「田楽食い」として長く親しまれ、後半の「ん」の字の言い合いから、「ん廻し」の別題もあります。

初代春団治の爆笑編で知られ、レコードも残されていますが、そのやり方が二代目春団治、さらに三代目春団治に継承されたほか、父・五代目笑福亭松鶴譲りで、六代目松鶴も得意にしていました。

東京には明治期に移され、戦後は六代目三遊亭円生のものでした。

古くは後半の「ん廻し」に重点が置かれましたが、どちらかといえば近年、東京で盛んに演じられるようになって、前半の、材料をメチャクチャにするくだりがより派手に演じられるようになり、その分、笑いも多くなっているようです。

ますます短くなる噺

オチは、本来、この先があって、「矢を射て、当たるとタイコがドン、ドンドンドン……」と際限なく繰り返す男がいるので、「そんなにたくさんっじゃ、焼くのが間に合わねえ」「いいよ、焼かず(=矢数)で食う」というものでしたが、長くなるので春団治が現行のところで切り、円生もこれにならっていました。

田楽のくだりまでいかず、時間の関係でさらに短く切る場合も最近は多く、ますます本来の「ん廻し」の要素が薄れてきています。

田楽

起源については、「味噌蔵」で紹介した通りです。

なお、田楽は店構えの豆腐屋のほか、上燗屋(じょうかんや)とも呼ばれた屋台のおでん屋、田楽茶屋という専門店でも売っていました。

田楽茶屋は、出合茶屋(であいぢゃや、現代のラブホテル)を兼業していることが多かったといいます。

田楽と男女の濡れ事、何か縁がなさそうでしっくりきませんが、なに、どちらも焼けることに変わりはないようで。

弥次郎 やじろう 演目

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日本にもいた、ほら吹き男の抱腹絶倒、痛快無比、冒険譚!

別題:うそつき弥次郎 革袋 日高川

【あらすじ】

うそつき弥次郎と異名をとるホラ吹き男。

久しぶりに隠居の家にやってくると、さっそく吹き始めた。

一年ばかり北海道に行っていたが、あまり寒いので、あちらでは凍ったお茶をかじっている。

雨も凍って降るので、一本二本と数え、雨払いの棒を持って外出する。

「おはよう」の挨拶まで凍って、それを一本いくらで買い、溶かして旅館の目覚まし用に使う……。

次から次に言いたい放題。

火事が凍ったのを見て、見世物にしようと買い取り、牛方と牛五、六頭を雇って運ばせ、奥州南部へ。

山中で火事が溶け、牛が丸焼け。

水をかけても消えないから、これが本当の焼け牛に水。

牛方が怒って追いかけてくるので、あわてて逃げ出し、気がつくととっぷり日が暮れ、灯が見えたので近づくと山賊の隠れ家。

山賊と大立ち回りになり、三間四方の大岩を小脇に抱え……。

「おい、三間四方の岩が、小脇に抱えられるかい」
「まん中がくびれたひょうたん岩」
「ふざけちゃいけない」

岩をちぎっては投げ。

「岩がちぎれるかい」
「できたてで柔らかい」

山賊を追っ払って、安心して眠りこけると山鳴りのような音。

目を覚ましてみると大猪。

逃げ出して杉の木にかけ登ると、先客がいて、これが天狗。

上に天狗、下に猪で、進退極まった。

猪が鼻面で木の根を掘りはじめ、グラグラ揺れる。

そこで、ヒラリと猪の背中に飛び下りた。

振り落とそうと跳ね回るので、股ぐらをさぐると、大きな金玉。

押しいただいてギュッと握りつぶすと引っくり返ったので、止めを刺そうと腹を裂くと、中から子猪が十六匹。

シシの十六。

「ばかばかしいや。おまえ、どこを握って殺した」
「金玉で」
「金玉ならオスだろう。オスの腹から子供が出るかい」
「そこが畜生の浅ましさ」
「冗談言っちゃいけねえ」

すると、松明をかざした四、五十人の男に取り巻かれ、連れていかれたのが庄屋の家。

よくぞ悪猪を退治してくださったと、下にも置かぬ大歓迎。

いい気持ちで寝ていると、庄屋の娘が言い寄ってくる。

めんどうくさいので逃げ出して、いつしか南部から紀州の白浜へ一足飛び。

船頭に祝儀をやって渡してもらい、若い娘が来ても渡さないように頼むと、道成寺という荒れ寺に飛び込み、台所の水瓶の中でブルブル震えていた。

娘は、さては別に女がいるかと、嫉妬で後を追いかけ、たちまち日高川の渡し場。

船頭は買収されているからいくら頼んでも渡さない。

娘はザンブと水に飛び込み、二十尋(ひろ)の大蛇といいたいが、不景気だから一尺五寸の蛇に変身。

道成寺にたどり着き、この水瓶が怪しいと、周りをグルグルと七巻き半。

「一尺五寸の蛇が、大きな水がめを七巻き半巻けるかい」
「それが伸びた」
「飴細工だね」
「ところが、しばらくたつと、その蛇が溶けちまった」
「どういうわけで?」
「寺男が無精で掃除をしないから、ナメクジが水瓶の底に張りついていた」
「虫拳だね」
「その時、中啓を持ってスッと立ったなりは、実にいい男」
「弥次さん、おまえさん、武士だったのかい」
「いえ、安珍という山伏で」
「道理で、ホラを吹きっぱなしだ」

底本:六代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

【しりたい】

道成寺伝説のパロディー

弥次郎が逃げ込む道成寺は、和歌山県日高郡にある古刹で、天音山道成寺といいます。

大宝元年(701)、文武天皇の勅願で紀道成が創建したことから、この名があります。

名高い道成寺伝説は、延長6年(928)、奥州の僧安珍が、熊野参詣の途中、紀伊国の真砂庄司清次の家に泊まり、その娘清姫に言い寄られます。

夫婦約束までしながら逃げ出したので、嫉妬が高じ、清姫が大蛇となって後を追います。安珍は道成寺に逃げ込んで鐘の中に隠れますが、大蛇が鐘を七巻半巻くと火が出て、安珍は鐘の中で白骨になったというものです。

これが能の「道成寺」や歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」に脚色されました。

噺の後半は、完全にその伝説のパロディーです。

小ばなしの寄せ集め

どの箇所でも切れるので、前座噺としても重宝で、現在でもよく演じられています。

安永2年(1773)刊の笑話本『口拍子』中の「角力取」ほか、多数の小ばなしを継ぎはぎしてできたものです。

歴代巨匠がくすぐり工夫

古くは、明治期の三代目柳家小さんが、前半の北海道のくだりなどを創作したといわれます。当時、北海道は開拓の緒についたばかりで、新開地として、たいへんなブームだったのです。

四代目橘家円喬のものは、天狗につかまって空中旅行するくだりがあり、その後、改めて十九のときに武者修行の旅に出たという設定で、山賊の部分につなげています。

いずれにしても、武士だったということをどこかで言っておかないと、最後の隠居の問いがわかりにくくなりますね。

戦後では六代目円生が意外なほど多く演じました。三代目金馬、五代目志ん生、五代目三升家小勝などもそれぞれくすぐりを加えて演じました。ふつう、長くなるので猪のくだりの「そこが畜生の浅ましさ」で切ることが多いようです。

類話「うそつき村」

同趣向のホラ噺に、千のうち三つしか本当のことを言わないので神田の千三ツと異名を取った男が、子供とホラ合戦をして負ける「うそつき村」があります。三代目三遊亭小円朝は「弥次郎」とつなげて演じました。

うそつき弥次郎

古い江戸ことばで、そのまま、嘘つきやホラ吹きへの囃し文句です。「うそつき弥次郎、藪の中で屁をひった」と続けます。人前でうそをつく者は、隠れて陰でも(「藪の中で」)悪事をするという意味で、子供たちがうそをついた仲間をからかい、囃したてて唱和しました。

盃の殿さま さかずきのとのさま 演目

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殿さま噺。お大名の権力。ばかばかしくも叙情的に描かれた珍作です。

別題:月の盃 殿さまの廓通い

【あらすじ】

お大名は、上げ膳据え膳で子供の時から育つから、運動不足になりがち。それがもとで、発散できないモヤモヤがたまり、鬱病にかかりやすい。

この噺の殿さまもそれ。口を利くのもイヤ。

むりやり薬をのませると、効かないばかりか、苦いので口直しに羊羹、カステラを山のように食い、胃病を起こして、のたうち回る始末。

どうしたらよいものかと、重役一同頭を悩ましている時、茶坊主が、これならお気晴らしにもなろうかと、献上したのが歌川豊国描く、いま、吉原で全盛の花魁の絵姿の錦絵六枚続き。

お女郎買いのジの字も知らない殿さま、この世にかような美しい女がいるのかと、たちまちボーッとなり、吉原のことを根掘り葉掘り聞いた挙げ句、さっそく乗り込むことにした。

ところが、薬が少々効き過ぎたか、それ以来たちまち魔窟の虜となった殿さま、連日連夜通いづめで乱痴気騒ぎ。

鬱気など蹴飛ばして、中でも花扇という花魁に入れあげる。

家来が止めると、
「あー、気分が悪いぞ。もはや薬はのまん。ウーン」
とすねるので、始末に悪い。

花扇の方でも、こんな上客をしくじってなるものかと、あらん限りご奉仕にこれ努めるから、殿さま、もはやデレデレの骨抜き。

そのうち大名の宿命、参勤交代でお国入りするために江戸を離れなければならなくなった。

こればかりはしかたがないので、最後の晩は花扇と泣きの涙で別れの盃。

領国は九州だから、もう当分会えない。

そこで殿さま、思い出のしるしにと、花魁の豪華な襠(しかけ)を所望し、代わりにいろいろの贈り物を賜わり、家宝の七五三の蒔絵(まきえ)の盃、百亀百鶴を描いた七合入りの豪奢な器で一献酌み交わすと、後ろ髪を引かれるように東海道を西に下る。

殿さま、国に着いても花扇のことが忘れられず、形見の襠を家来に着てみろと言って、困らせる。

じかに逢いたくてたまらなくなり、早見東作という、三百里を十日で走る、家中で一番足の速い足軽に命じ、江戸の花扇に七五三の盃を届け、「返盃」をもらってくるよう言いつけた。

花扇は殿さまの心を知り、感激して一気にのみ干した上、改めて殿さまにご返盃をと頼む。

気の毒なのは東作。

たったそれだけの酔狂のため、青息吐息で三百里を往復。

ところが途中の箱根山で、大名行列の供先を横切って捕らえられ、あわや首が落ちるところを、これこれと事情を説明すると、その殿さまがまた粋なもので、
「大名の遊びはさもありたし。そちの主人にあやかりたい」
と、盃を借りて一気に干した。

国許に着いてこの事を報告すると殿さま、
「お手元が見事じゃ。もう一献と申してこい」

東作、どこの大名だったか聞き忘れたので、どこを尋ねてもわからない。

マゴマゴしてると、明治維新になっちまった……。

底本:二代目柳家小さん 六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉原花魁盛衰記

遊女の最高位である太夫は、松の位、大名道具などと呼ばれ、一目顔を拝むだけでも十両はかかりました。

太夫は、享保年間(1716-36)、吉原の遊女が三千人と言われた時代でも六,七人に過ぎません。

太夫に次ぐのが格子女郎で、この二つを併せた尊称が「花魁」。由来は、禿(かむろ=遊女見習いの少女)が付いている姉女郎を「おいらの姉さま」の意味で「おいらん」と呼んだことからだとか。

ところが、宝暦7年(1757)ごろ、太夫も格子も絶えてしまい、繰り上がって第三位だった散茶女郎がトップに出、昼三といって昼夜各三分、計一両二分の揚げ代で花魁と呼ばれるようになりました。

その後、散茶にもランクができ、揚げ代によって、昼三、付け回し、呼び出しと分かれました。その下が梅茶で、これは揚げ代一分。

大名の太夫狂いは、天和年間(1681-84)に五代将軍綱吉が厳しい禁令を出して以来、下火になりました。

それ以後も隠れ遊びをする大名は絶えず、たとえば姫路十万石の殿さま・榊原正岑は、三浦屋抱えの高尾太夫(俗に榊原高尾)を身請けしたとがで転封・隠居謹慎処分になっています。

『江戸の二十四時間』(林美一、河出書房新社、1989年)によると、「遊女」という言葉は、もともと公娼を、また「遊郭」は幕府公許の遊里のみを指すので、江戸では吉原以外にこの名称は許されず、それ以外の私娼はすべて「売女(ばいじょ)」だったよし。いやあ、この本、説明が明快で、ホント、勉強になりますわ。

風格ただよう、円生十八番

生粋の江戸落語ですが、原話その他、出自ははっきりしません。

もと延岡藩士、れっきとした士族出身で大名噺を得意にしていた二代目柳家(禽語楼)小さんの明治23年(1890)の速記(「殿様の廓通ひ」)を参考に、六代目三遊亭円生が、戦後ほとんど一手専売の十八番に仕上げた噺です。

小さんでは、殿さまが通ぶって職人の格好をし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)で煙草をのむ場面がありましたが、現代では理解されにくいというので、円生はこうした部分を省きました。

オチは「もう一献と申してまいれ」で切る場合もありますが、円生は「いまだに探して歩いているそうで」としていました。

小さんの速記では、文明開化の時代を反映し、「そのうちに明治23年(つまり、今年)と相なって、上野の勧業博覧会の美術館でようやく殿様にその盃をお渡し申しました」となっていました。

蝦蟇の油 がまのあぶら 演目

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ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

【あらすじ】

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

【しりたい】

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ジャズのディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はジャマイカをイメージして彼が作ったものですが、このマンテカは「蝦蟇の油」のマンテエカと同語源です。英軍が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来です。世界は狭いもので。なんともいやはや。

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

木乃伊取り みいらとり 演目

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その名のとおり、みいら取りがみいらになってしまった噺です。

【あらすじ】

道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。

心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。

番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。

五日たっても音沙汰なし。

大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。

鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。

若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」

あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。

「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。

「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。

「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。

「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。

「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。

吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。

「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。

あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。

腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。

一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。

もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。

ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。

「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」

花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。

「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」

三人でけしかける。

「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

【しりたい】

「みいらとりがみいらに……」

呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。

「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。木乃伊、蜜人とも書きます。それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。

円生から談志へ

古くからの江戸前噺です。

戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生と八代目林家正蔵で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。

円生没後は立川談志の得意ネタで、談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。

角海老のこと

落語にしばしば登場する「角海老(かどえび)」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。「角海老」と称するようになったのは維新後です。

「角海老」の創業者は、信州出身の宮沢平吉なる者で、幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。

その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。

日本堤

元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町から箕輪(三ノ輪)まで築いた堤防です。そのうち吉原衣紋坂までを土手八丁、または馬道八丁と呼びました。

日本堤(にっぽんづつみ)の名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。

【木乃伊取り 立川談志】

文違い ふみちがい 演目

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淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」という病です。

【あらすじ】

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

【しりたい】

六代目三遊亭円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・三遊亭円生

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。

それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。

「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。

芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。

だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭メモ

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。

飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

落語演目の索引

【文違い 三遊亭円生】

質屋蔵 しちやぐら 演目


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質屋が生活と密接だった時代なら、こんな想像力も沸こうというもの。

【あらすじ】

ある大きな質屋の三番蔵に、夜な夜な化け物がでるという町内の噂を、当のだんなが朝湯で聞いてきた。

「これは信用にかかわるから捨ててはおけない」

早速番頭に寝ずの番で見届けるよう言いつける。

だんなの考えでは、「これはきっと大切な品物を心ならずも質物にした人の、その物に対する執着が蔵に残り、妖怪と化したものだろう」という。

番頭は臆病なので、「とても一人では怖くていけない」と、普段から腕に龍の刺青をして強そうなことばかり言っている出入りの熊五郎に応援を頼みたいと申し出る。

突然だんなが呼んでいると聞いた熊、さてはしくじったかとびくびくして、だんなの前に出ると、言われもしないうちから、台所から酒とタクアン樽、それに下駄を三足盗んだことをぺらぺら白状してしまう。

だんなが渋い顔をしながらも、「今日呼んだのはそんなことじゃない。おまえは強いと聞いているが本当か」と尋ねると、熊五郎、途端に威勢がよくなり、木曽で虎退治をしたとホラを吹くが、化け物のことを聞かされると、急にぶるぶる震えだす。

しかたがないので、逃がさないように店に禁足し、夜になると番頭ともども、真っ暗な土蔵の中にほっぽり込まれる。

二人がガタガタ震えていると、やがて草木も眠る丑三ツ時。

蔵の奥で何かがピカリと光り、ガラガラガラと大きな音。

生きた心地もない番頭と熊、それでも怖いもの見たさでそっとのぞいてみると、何と誰かが相撲を取っている。

行司の声で「片やァ、竜紋、竜紋、こなたァ、小柳、小柳ィ、ハッケヨイ、ノコッタノコッタ……」

「番頭さん、ありゃなんです」
「だんなの言う通り、質物の気が残ったんだ。羽織の竜紋と小柳の帯が相撲を取ったんだ」
「あっ、また出た」

棚の掛け軸がすーっと開く。

よく見ると、横町の藤原さんの質物の、天神さま、つまりは菅原道真公の画像の掛け軸。

仰天していると、衣冠束帯、梅の花を持った天神が現れて、「こちふかばあー、においおこせようめのはなー」と、朗々と詠み上げた。

「こりゃ番頭。藤原方に利上げせよと申し伝えよ。あァあ、また流されそうだ」

【しりたい】

伊勢屋稲荷に……

落語には、質屋は「伊勢屋」という屋号でたびたび登場します。

これは、質商は伊勢出身の者がほとんどだったからです。

「伊勢屋稲荷に犬の糞」と江戸名物の一つに挙げられるくらい、江戸にはやたらに質屋が多かったのです。

落語の「大工調べ」で、因業大家の源六が奉行に、「その方、質屋の株を持っておるのか?」と脅かされたように、旧幕時代は質屋は株売買による許可制でした。

大きく分けて本質・脇質があり、本質は規模の大きな、正規の質屋。

入質には本人のほかに請け人(連帯保証人)の判が必要でした。

脇質の方は今でいう消費者金融で、請け人がいらない代わりに質流れの期限は一か月。

この噺のオチ(サゲ)にある「利下げ」とは、期限が来たとき、利子を今までより多く払って、質流れを食い止めることです。

天保年間(1830-44)以後は、期限は八か月に延ばされました。

演者と演出

大阪落語の「ひちやぐら」が古くから江戸に移されて演じられていました。

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。

桂歌丸のほか、円生一門に継承され、三遊亭円弥、三遊亭生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものでした。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。

【質屋蔵 三遊亭円生】

死神 しにがみ 演目

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古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「恐がらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより儲かる商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、儲かり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」と、教えられた通りにするとアーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、麹町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」と因果を含めようとしたが、先方は諦めず、「助けていただければ一万両差し上げる」という。

最近愛人狂いで金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」、と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、「それじゃ、一度だけチャンスをやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

【しりたい】

異色の問題作登場!

何しろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう、かなり厚い一冊の本になってしまった(「落語『死神』の世界」西本晃二著)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子をまとった、やせた老人で、亡者の悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死を司る神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀鳶」で演じた死神は、「頭に薄鼠色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子に葱の枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間(たいこ)」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方です。

【死神 柳家喬太郎】

茶の湯 ちゃのゆ 演目

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お金儲けは簡単に熟せても、文化は熟しがたいもんです。

【あらすじ】

家督を息子に譲った大店(おおだな)のご隠居、小僧を一人付けて、根岸の隠居所でのんびり暮らしているが、毎日することがなく、退屈で仕方がない。

若だんなは少し茶の湯のたしなみがあるので、いくらかは気が紛れるだろうと気を利かせて、茶室を作ってくれたが、隠居の方はまるで風流気がなく、道具なども放ったまま。

しかし、さすがに退屈に耐えかねて、まあちょっとやってみようかと小僧と相談するが、何をそろえていいのだか、二人ともとんとわからない。

青い粉ならとにかくよかろうと、買ってきたのが青黄粉。

茶筅(ちゃせん)でガラガラかき回してみたものの、黄粉だから沸騰もしなければ泡も立たない。

これではしかたがないと、何か泡立つものをというので、小僧が椋(むく)の皮を買ってきた。

もともとシャボン代わりに使うものだから、これはブクブクと派手に泡ばかり。

とてものめる代物ではないが、そうしているうちに二人ともだんだん面白くなり、お客を呼びたくなった。

呼ばれる奴こそいい面の皮だが、みんなお店に義理があるから、渋々ながらゾロゾロやってくる。

のんでみると青黄粉に椋の皮のお茶。

一同、のどに通らず、脂汗をダラリダラリ。

「あのォ、口直しを」
「茶の湯に口直しはありません」

しかたなく、お茶受けの羊羹(ようかん)を毒消しにと、来る人来る人が羊羹ばかり食らうので、もともとケチで通った隠居のこと、こう菓子代ばかり高くついたのではたまらないと、茶菓子も自前で作ることにした。

といって、作り方など知るわけがなく、サツマ芋を漉して、砂糖は高いから蜜で練って、とやっているうちに、粘って型から抜けなくなる。

「ええいッ、ままよ」と灯油を塗ってスポッと抜いたからさあ、ものすごいものができあがった。

これを「利休饅頭(まんじゅう)」と勝手に名づけ、羊羹の代わりにふるまったから、もう救いがない。

こんなヘドロのようなものを食わされた上、青黄粉と椋の皮では、命がいくつあっても足りないと、とうとうだれも寄りつかなくなった。

ある日、そんなこととは知らない金兵衛さんが訪ねてきたので、しばらく茶の湯をやれなかった隠居は大はりきり。

出されたものが例の利休饅頭。

さあ、てえへんなものォ食わしゃあがったと、思わず吐き出して、残りはこっそり袂へ。

せめてお茶で口をゆすごうと、のんだが運の尽きで青黄粉と椋(むく)の皮。

慌てて便所に逃げ込み、捨てる場所はないかと見渡すと、窓の外には建仁寺垣の向こうの田んぼ。

田舎道ならかまわないだろうと、垣根越しにエイッとほうると百姓の顔にベチャッ。

「あ、痛ァ、また茶の湯か」

【しりたい】

不運な人々

殺人的ティーパーティーに招かれる面々は、六代目三遊亭円生の演出では、手習いの師匠豆腐屋鳶頭の三人でした。

この隠居が、長屋の居付き地主、つまり地主と大家を兼ねているため、行かないと店立(たなだ)てを食らって追い出されるので、しぶしぶながら出かけます。

「寝床」と同じ悲喜劇です。泣く子と隠居には勝たれません。

青黄粉は、ウグイス餅などにまぶす青みの粉、椋の皮は石けんの代用品で、煮ると泡立ちます。

さぞ、ものすごい代物だったでしょう。

円生、先代金馬の十八番

この犠牲者三人がそろって茶の作法を知らないので、恥をかくのがいやさに夜逃げしようとしたりするドタバタは、円生ならではのおかしさでした。

茶をのむ場面は、仕草で表現する仕方(しかた)ばなしのように三人三様を演じわけます。

茶道の心得のある人間が見るとなおおかしいでしょうと円生はのべていますが、演ずる側も素養は必要でしょう。

若い頃、年下の円生に移してもらった先代(三代目)金馬の当たり芸でもありました。柳家小三治のも、抱腹絶倒です。

【茶の湯 柳家小三治】

てれすこ 演目

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てんしき、つるつるなど、落語には奇妙なことばが登場します。今回も珍妙な。

【あらすじ】

ある漁村で、珍しい魚が捕れたが、専門家の漁師たちにも名前がわからない。

そこで奉行所に聞きに行ったが、もとより役人が知るはずがない。

困って、これこれの魚の名を存じる者は申し出れば百両の賞金をつかわすという高札が立った。

これが評判になり、近在から人が押し寄せる。

それに目をつけたのが、多度屋茂兵衛という商人。

金に目がくらみ、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」とでたらめを申し立てたが、役人の方も本当か嘘か証明できないので、茂兵衛はまんまと賞金をせしめる。

これは臭いと眉に唾をした奉行、一計を案じて、魚を干物にし、「この度もかような珍魚が捕れた。この名を知っている者は役宅へ申し出よ。百両つかわす」と、前と同じような高札を出した。

計略とは知らない茂兵衛、欲にかられてまた奉行所に出向き、「これはステレンキョウと申します」と言い立てたから運の尽き。

「上をいつわる不届き者。吟味中入牢申しつけるッ」と、たちまち縛られてしまう。

吟味の末「多度屋茂兵衛。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、上をいつわり、金子をかたり取ったる罪軽からず。重き咎にも行うべきところなれど、お慈悲をもって打首申しつくる」と判決が下った。

世にいう「てれすこ裁判」。最後に何か望みがあれば、一つはかなえてつかわすというので、茂兵衛うなだれて「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」

かみさんがやせ衰えた姿で、乳飲み子を抱いて出頭した。

茂兵衛が驚いてようすを聞くと、亭主が身の証が立つようにと、断食をしていたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをすすっていたという。

「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。もう死んでいく身、思い残すことはないが、子供が大きくなっても、決してイカの干したのをスルメと言わせてくれるな」と茂兵衛が遺言。

それを伝え聞いた奉行、膝を打って「多度屋茂兵衛、言い訳相立った。無罪を申し渡す」

首のなくなるのを、スルメ一枚で助かった。

助かるはずで、かみさんが火物(=干物)断ちをしたから。

【しりたい】

民話がルーツのとんち噺

土壇場で口をついて出た苦し紛れの頓知で、危うく命が助かる噺ですが、類話は各地の民話にあります。

地方によって、最初のでたらめな魚名(てれすこ)は「きんぷくりん」「ばばくろう」、二度目(ステレンキョウ)が「かんぷくりん」などと変るようです。

「てれすこ」は実は何のことはなく、「テレスコピョ」つまりテレスコープ、望遠鏡のこと。「ステレンキョウ」はよく分りませんが、立体メガネのことだという説もあります。

直接の原話は、安楽庵策伝著で寛永5年(1628)成立の笑話本「醒睡笑」巻六「うそつき」第二話です。

ここでは、舞台が津の国(摂津)兵庫浦。

男がとがめられ、「無塩(鮮魚)のときはほほらほ、今はさがり(干からび)なのでばくくらく」と言い訳するのがオチになっています。

円生十八番は上方ダネ

元々は上方落語で、大阪の五代目金原亭馬生(「長崎の赤飯」参照)が得意にしていました。

大阪では、桂米朝の持ちネタでした。

東京では戦後、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌がよく演じました。

その後は六代目円生の一手専売になりました。

円生は場所を明確にしていませんが、漁業の盛んな地方で奉行がいるから、長崎だろうというので、そのものずばり「長崎の代官」の別題で演じられることもあります。

サゲはダジャレで、本来「干物絶ちをしたから助かったのはあたりめ(スルメの別称=当たり前を掛けたもの)と説明しますが、円生は、それは蛇足だというので、本あらすじのように切っていました。

火物絶ちって?

一定期間、満願まで、火を通して料理した食物を断ち、願掛けをすることです。

【てれすこ 三遊亭円生】

初音の鼓 はつねのつづみ 演目 

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歌舞伎『義経千本桜』中、有名な「狐忠信」のパロディー です。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

じいさんが
「今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」
と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの男、この間も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけたという「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの、三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、一向にわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い「義経千本桜」の「狐忠信」のくだりのパロディーです。

「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

親狐の皮でつくったその鼓を慕う子狐が、家来の佐藤忠信に化けて静に同行し、鼓を奪おうとするが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。

噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。

殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。

別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

【初音の鼓 三遊亭円生】