にせきん【贋金】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

廃れた噺ですが、けっこうおもしろいですよ。

別題:錦屋の火事(上方)

【あらすじ】

ころは明治。

大酒飲みで名の通った某士族の家に、出入りの道具屋、金兵衛が、先日売った書画の残金三円を掛け取りにやってくる。

この殿さま、酔うと誰彼かまわずからむ癖があるやっかいな代物で、今日も朝からぐでんぐでんになった挙げ句、奥方や女中を悩ませている。

さっそく標的になった金兵衛、おそるおそる催促するが、殿さまは聞かばこそ。

三円ばかりの金をもらうという料簡だからきさまは大商人になれん、俺はきさまをひいきに思えばこそ金はやれんと、酔いに任せて吹き放題。

のまされるうちに金さんにも酔いが回ってきて、殿さまのためならご恩返しに首でも命でも捨てまさァ、と、言ってしまう。

「その一言に相違なければ、その方にちと頼みがある」
「だからさァ、首でも命でもあげますってのに」

その頼みというのが、実にとんでもないことで、友達が今度、おのおのが珍しいものを持ち寄って楽しむ会を催すことになり、そこで自分も珍物を出品したいが、それについて思い出したのがきさまの金玉。

「きさまのがタヌキ並みであることを知っておるによって、ぜひ切り取って譲ってもらいたい。明朝八時までに持ってくれば、代金五十円やる。いやなら即刻お出入り禁止にする」
ときた。

すっかり酔いが醒めた金兵衛、しどろもどろになったがもう遅い。

泣く泣く、チン物提供を約束させられてしまった。

翌日。

飲み明かして二日酔いの殿さま。

これが昨日のことはすっかり忘れてしまっている。

そこへ、青い顔をした金兵衛がやって来て
「お約束通り、金を切ってきました」

さあ、困ったのは、殿さま。

なにしろ、そんな約束はキレイさっぱり忘れているうえ、こんなものを持ちこまれても外聞が悪い。

しかたがないので、治療代五十円に、借金分兼口止め料三円も付けてようやく帰ってもらったが、そこでつくづく自分の酒乱を反省し、酒をのむたびに五十円の金玉を買ったのではたまらないので、すっぱりと酒を止めると、言いだす。

それにしても気の毒なのは金兵衛、と改めて包みの中をのぞいてみると、これが金玉とは真っ赤ないつわりで、蛸の頭を二つ生ゆでにして毛を刺しただけ。

「あいつめ、五十円ごまかしたな」

それから三日とたたないうちに、金兵衛はお召し捕り。「贋金づかい」というので、お仕置きになった。

底本:二代目(禽語楼)小さん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

貨幣贋造は厳罰

江戸時代の「公事方御定書」ではもちろん死罪。それが緩和され、死刑の適用範囲が減った明治3年(1870)の「新律綱領」、明治15年(1882)の刑法でも死刑。ビクトリア朝英国でも、アメリカでも縛り首。かっては世界中、どこでも死罪でなかった国はないくらいの重罪で、現在でも死刑を科している国がけっこうあります。

柳家の噺を三遊宗家が復活か

オチの部分は文化4年(1807)刊の笑話本『按古落当世』中の小咄が原話です。

古くから柳家小さん系の噺で、明治24年6月の『百花園』に二代目(禽語楼)小さんが「酒の癖」と題して速記を載せています。上方では「錦屋の火事」の題で演じられていました。

二代目小さん以後、三代目小さん、三代目蝶花楼馬楽と弟子、孫弟子に継承されましたが、三遊系の三代目三遊亭円馬らも演じ、戦後、二代目小さんの速記をもとに六代目円生が復活しました。

禁演落語の一

戦時中「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語の一つです。モノがモノなので、艶笑落語という理由ではなく、この非常時に不謹慎な、という自粛もあったでしょう。

【語の読みと注】
公事方御定書 くじかたおさだめがき
按古落当世 あごおとせ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

なめる【なめる】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ちょっと色っぽいけど、怪談めいてて。奇妙な噺です。

別題:菊重ね 重ね菊

【あらすじ】

猿若町の芝居が評判なので、久しぶりに見物しようとやって来たある男。

三座とも大入りで、どこも入れない。

ようやく立見で入れてもらい
「音羽屋、音羽屋ッ」
とやっていると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物している。

年増女が男に
「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、よかったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」
と声をかけた。

願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、年増女が
「あなた、おいくつ」
と聞く。

「二十二」
と答えると、
「ちょうど良い年回りだ」
と思わせぶり。

聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。

そこで自然に
「お送りいたしましょう」
「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。

お嬢さんと差し向かいで、酒になる。

改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。

そのうちお嬢さんがもじもじしながら、
「お願いがあるのですが」
と言う。

「ここだ」と思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。かなえてくだされば苦楽をともにいたします」
という、妙な望み。

「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」

お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。

「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまった。

「その見返りに」
と迫ったとたん、表でドンドンと戸をたたく音。

聞くと、
「本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がよろしい」
と言うので、しかたなく、その夜は引き上げる。

翌朝。

友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もない。

隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。そこで探していたが、昨日芝居小屋でばか野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、あわれ、男はウーンと気絶した。

「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「うへへ、なめるのはもうこりごりだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

宝丹

上野の守田治兵衛商店で、今も販売する胃腸薬です。

別荘、下屋敷、隠居所、遊女の療養所などの総称でした。落語では、たいてい大店のお嬢さんが恋わずらいのブラブラ病で、向島の寮に隔離されます。

猿若町

猿若町は台東区花川戸の北側。いわゆる江戸三座の中村座、市村座、守田座があったことで知られます。江戸三座については、「淀五郎」をご参照ください。

業平

墨田区吾妻橋三丁目の内。昔も今も低湿地帯で、五代目古今亭志ん生ゆかりの「なめくじ長屋」で、落語マニアにはおなじみです。

類話「狸娘」

前半が似た噺に「狸娘」があります。

男二人が、芝居で娘と女中に声をかけられるくだりまでは同じですが、後半は、浅草・花屋敷の常磐屋という料亭で飲み食いした後、女中が「先に帰りますが、今度は、両国亀沢町の自分の実家にお嬢さんをお泊めするから、ぜひ後から来てほしい」と言うので、二人は据え膳だと大喜び。約束の印にと懐中時計(いかにも明治!)を持っていかれ、後で見ると紙入れもないので、かたりだと気付いたときにはもう手遅れ。しばらくして女が警察に挙げられ、「あれは狸穴(まみあな、港区麻布)の狸娘のおきんという評判のワル」と聞かされて、「道理で尻尾を出した」と、オチるものです。

エロ場面はなく、官憲をはばかった「なめる」の改作と思われますが、はっきりしません。こちらは明治中期に、初代三遊亭円左が演じましたが、その後はすたれました。

バレ噺としての演出も

演じようによっては、完全なバレ(ポルノ)になってしまう、キケンな噺です。現に、明治期には、乳房ではなく女陰をなめるやり方もあったそうですから。

別題に「重ね菊」「菊重ね」があります。これは、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。

円生十八番

原話は古く、元禄4年(1691)刊の初代露の五郎兵衛著『露がはなし』中の「疱瘡の養生」です。明治の四代目三遊亭円生から、四代目橘家円蔵を経て戦後は六代目円生が得意としました。現在でも、円生一門によって継承されています。

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

とよたけや【豊竹屋】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方噺の音曲噺。「豊竹豆仮名太夫」だった六代目円生がやっていました。

【あらすじ】

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ながさきのこわめし【長崎の赤飯】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方の人情噺。突拍子もないことを「長崎の赤飯」といいます。

別題:上方芝居(上方)

【あらすじ】

日本橋金吹町の質両替商、金田屋金左衛門。

勘当した一人息子の金次郎はどこでどうしていることかともらすと、女房の許には季節の変わり目に手紙が届いている、という。

女房の言うことには、金左衛門が勘当するや、伊勢の弥左衛門の家に預けたとか。

弥左衛門が商用で長崎に赴いた折に同行した金次郎、回船問屋・長者屋の娘お園に見初められ身を固めたとのこと。

それをきいた金左衛門、番頭の久兵衛に「おとっつぁん、一生の大病」と、手紙を書かせる。

開封した金次郎は身重のお園を気にしながらも急ぎ長崎をたった。

わが家に戻った金次郎の姿を見て、金左衛門夫婦は大喜びだが、またも長崎に行かれては寂しいので、久兵衛と画策。

八丁堀岡崎町の町方取締与力、渡辺喜平次の娘おいちと添わせるべく手はずを整えた。婚礼が近づいた日、身重のお園が物乞いの姿に身をやつして現れる。

これは女一人で江戸までの旅路も物乞い姿なら遂げやすかろうということから。

金左衛門も久兵衛もヒキガエルの化け物のようななりのお園に驚き、金次郎は死んだ、と告げる。

落胆するお園。

そこへ金次郎が帰ってきた。

金左衛門らの不実にまたも落胆するお園だが、身繕いをし、支度を整えれば元の美しい姿に。金左衛門もこの娘なら嫁に許そうという気にころりと変わった。

そこへ喜平次が訪ね、お園を連れ去ってしまう。

金左衛門は、
「おいちさまをひとまずもらいなさい。その間に手を回してお園さんを返してもらい、家風が合わないといっておいちさまを出せばいい」

婚礼の晩。

現れた花嫁はおいちではなく、お園だった。

金左衛門は
「こりゃどうも。お料理が粗末でいけないからすぐ取り換えて」

関所破りを改めようとしたが、お園の思いが強いことを知った喜平次のはからいで、このような具合に。

おいちはかねて望みの尼になる。

お園は男子を産み、金太郎と名付けた。

この子に長者屋を継がせ、金次郎は金田屋を相続。

金太郎の初節句に、十軒店から人形を買って長崎に送ると、長崎から赤飯が返礼に届いた。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

二つの系統

原話は井原西鶴の作品といわれますが、未確認です。上方落語として文化年間(1804-18)から口演された古い噺で、明治期に五代目金原亭馬生(1864-1946)が東京に移植したものです。馬生は大阪出身で、副業に玩具屋をやっていたため「おもちゃ屋の馬生」とあだ名されました。

この噺は系統が二つあります。一つの系統はこの「長崎の赤飯」。

五代目馬生直伝で、六代目三遊亭円生が一手専売で演じ、円生在世中は当人も言っていますが、ほかには誰も演じ手はありませんでした。その円生没後、弟子の円窓に継承されたものの、ほとんどすたれていました。その後、鈴々舎馬桜ほかが高座に掛け、若手も手掛けるようになって、ようやく復活をみています。

別の系統は、八代目林家正蔵(彦六)が演じた「上方芝居」です。

これは、前半、女が老けづくりをし、物乞いに変装して若だんなに会いに来るところが「長崎の赤飯」と共通しています。ルーツは同じと思われますが、いつ枝分かれし、誰が脚色して改作したかは不明です。大阪で演じられた形跡はなく、明治期では、四代目橘家円喬、初代三遊亭円右と、円朝門の名人が得意にしました。二人と同門の三遊一朝老人から、八代目正蔵(彦六)が若き日に教わり、晩年、時々高座に掛けました。もっとも、こちらは、発端とオチはまったく違っていて、女は若だんなが上方見物に行ったとき、芝居小屋でけんかした相手との手打ちの座敷に出た、春吉という芸妓という設定です。二人は親に無断で夫婦約束をしますが、若だんなが江戸へ帰ってから音沙汰がないので、春吉はしびれを切らして出てきます。ところが、若だんなは奥州へ行って留守なので、仕方なく死んだことにし、麻布絶口木蓮寺に墓があると偽って、小春を連れて行きます。オチは「お見立て」と同じで、「どれでも好きなの(墓石)を選んでください」となっています。初代円右はこれをさらに怪談仕立てに変え、春吉がニセの墓前で自害、のちに化けて出ることにしたので、「長崎の強飯」とはますます違った噺になりました。

長崎のこわめし

オチは、江戸の古い慣用表現で、突拍子もないことを言うと「長崎から赤飯が来る」などと言いました。同じ意味で「天竺から古ふんどしが来る」とも。ありえない話の意味から転じて、「気長な」「間延びしたこと」のたとえにも使われました。この噺のオチのニュアンスでは、後者の方を効かせているのでしょう。「こわめし」は今の「おこわ」の語源で、もち米で炊いた冠婚葬祭用の飯のことです。

日本橋金吹町

にほんばしかなぶきちょう。中央区本石町三丁目の内。日銀本店の真向かいあたりです。元禄(1688-1704)以前に、この地に金座が置かれていたことから、起こった町名といわれます。当時は文字通り「かねふきちょう」と読んだとか。元禄年間、金座はすぐ南の今の日銀の位置に移り、明治維新に至りました。

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

この噺、珍しく柳家系のものですが、円生や彦六が工夫してやってました。

別題:白井左近

【あらすじ】

旧暦七月の暑い盛り。

麹町五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎が、平河町の易の名人白井左近のところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡でじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天が現れているから、あなたは来年二月十五日九ツに死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門は、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果が子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行を積み、来世の安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛にこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨し続ける。

ある日。

弁慶橋のたもとに来かかると、母娘が今しもぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世のなごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間を残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪の通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸で裏店住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札の辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

原話や類話は山ほど

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井』中の「人相見」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国の説話集『輟耕録』中の「陰徳延寿」。それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記』(青木鷺水、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。さらにその焼き直しが『耳嚢』(根岸鎮衛著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲の渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難を遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が競演

明治27年(1894)1月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残ります。

小さん代々に伝わる噺ですが、五代目は手掛けていません。三代目小さんの預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生が晩年熱演しましたが、円生は上記二代目小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近

白井左近の実録については不詳です。
二代目小さん以来、左近の易断により、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

弁慶橋

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、「……赤坂の田町へまいりました。(中略) 食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……」とあります。

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが千代田区岩本町二丁目にかつてあった橋。設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。藍染川に架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋とは見当が違うわけです。なぜ、円生は弁慶橋と神田のではなくて赤坂のとして語ったのか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町五丁目にあることから、神田よりも赤坂の方にリアリティーを感じたのでしょう。勘違いとも言いきれません。円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

赤坂の「食い違い」は「喰違御門」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。明治10年(1877)、大久保利通が惨殺された紀尾井坂もちょうどこの付近です。

札の辻

港区芝五丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

【語の読みと注】
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがい:くさび
千木 ちぎ:質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

樟脳玉 しょうのうだま 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

これはもう、お笑い版の降霊術ですね。

【あらすじ】

古紙回収をなりわいとする捻兵衛は、正直者で気が弱く愛妻家。

その女房おきんがぽっくりあの世へ。

捻兵衛はショックのあまり、それ以来商売にも出ず、メソメソと泣きながら念仏三昧。

ここに、人の不孝に便乗して、小金の一つも稼ごうという料簡の二人組。

おきんは元武家屋敷に奉公していた関係で、所帯を持った時持参した着物類がどっさりある上、捻兵衛自身も金を相当貯め込んでいるという噂。

二人組の計画はおきんの幽霊をでっち上げた上、動揺した捻兵衛に
「おかみさんが出るのは着物と金に気が残っているせいだから、わっちらが寺へ納めてあげましょう」
とうまく言いくるめて、全部いただいてしまおうというもの。

まず、長太郎玉を用意し、夜そいつに火を着けて青白い火の玉をこしらえ、捻兵衛宅の天井の引き窓から糸を付けて垂らし、仏壇に手を合わせている鼻っ先にユーラユーラと振ってみせる。

案の定、捻兵衛肝をつぶして
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブ、あたしも後からすぐ行くから、どうぞ浮かんどくれ」

まずは、序幕成功とほくそえんだ二人、翌朝、弟分の熊が何食わぬ顔で捻兵衛に会い、
「あんなりっぱな葬式をしたから仏さんもきっと成仏したでしょう」
と、水を向けると、「浮かんでいない」と言う。

ここぞと、
「それはおかみさんが着物に気が残っているからですぜ」
と計画通り持ちかけ、まんまとだまして高価な形見の着物を一枚残らずかすめ取ってしまった。

ところが肝心の金は
「あっ、忘れちまったッ」

しかたがないのでもう一幕やることにし、今度はもっと大きいのを用意して、ユーラリ、ユラリ。

見当があやまって、火の玉が捻兵衛の頭に。

「ナムアミダブツ、アチチチチチ」

また翌朝、熊がようすを探りに行く。

「へい、まだウチの奴は浮かんでません。もっと大きな火の玉が出て、あたしは火傷をこさえました」
「そいつはすみません、もとい、そりゃあ、まだお金に気が残っているんでしょう」
「いえ、葬式で使って、もう一文もありません」

熊は未練たらしく、
「でも、なにかあるでしょう」
と押すと、捻兵衛、押入れからお雛さまを出して、しばらく考え込み、
「熊さん、わかりました。女房はこれに気を残しています」
「へーえ、なぜ」
「昨夜の魂の匂いがします」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

長太郎玉

衣服保存に使う樟脳粉を丸めたもの。

縁日で、子供用のおもちゃとして売っていた、樟脳粉の丸めたものです。掌に乗せても熱くなく、芝居では焼酎火とともに人魂に使われていました。

蛇足ですが、「樟脳玉」の方は、大阪では、主人公の名が源兵衛となっているので、演題も「源兵衛玉」「源兵衛人玉」として演じられます。ストーリーはまったく同じです。

いずれにしても、落語には珍しい愛妻家が登場することから、この噺は民話がルーツだとする説もあります。東京の円遊が強引に結びつけただけで、「源兵衛玉」と「夢八」はもともと別話でしょう。「源兵衛玉」が江戸から大坂に移植されたものなのか、それとも、逆にオリジナルは上方の方なのかは、はっきりしません。

捻兵衛

後日談として、初代三遊亭円遊が創作した「捻兵衛」があります。初代円遊は明治の爆笑王として知られます。上方落語の「夢八」に酷似していて、円遊が「夢八」のストーリーを取って「樟脳玉」の続編としたのではないかといわれます。

あらすじは、以下の通り。

捻兵衛がここ二、三日姿を見せないので、大家に頼まれて八五郎が様子を見に行くと、なんとブランコ往生を遂げている。ところが、魔がさしたのか、死骸がブキミな声でしゃべりだし、八公に、ヨイトコセーを踊れ、さもないと喉笛を食い破ると脅すので、ガタガタ震えながら鉦をたたいて踊ると、振動で帯が切れ、ホトケが八公の上に落下。八五郎、死骸と堅く抱き合ったまま、あえなく気絶。長屋の連中が来て、やっと蘇生させると「おや、いつの間にか首くくりが増えた」

こちらは、東京では現在はやり手がありませんが、大阪の「夢八」の方はまだ演じられていて、二代目桂小南や、露の五郎兵衛のが手掛けていました。

かつては円生だけ

原話は不詳ですが、文化年間(1804-18)から口演されてきた古い江戸落語です。明治末から大正にかけて、二代目古今亭今輔(1859-98)などがよく演じていましたが、その後すたれていたのを戦後六代目三遊亭円生が復活させ、同人以外演じ手のないほど、十八番としていました。

音源も、円生のみで昭和36年(1961)の初録音を手始めに5種類もあります。その没後、しばらくまた後継者がいなかったのを桂歌丸が復活して手掛け、今では、ぼつぼつ中堅も若手も高座に掛けるようになりました。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

犬の目 いぬのめ 演目

ヘボンが登場。ヘボンはアメリカから船で横浜までやってきました。【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

犬の目を入れた男。ふざけた噺です。この味わいは落語ならでは。

別題:目玉違い

【あらすじ】

目が悪くなって、医者に駆け込んだ男。

かかった医者がヘボンの弟子でシャボンという先生。

ところが、その先生が留守で、その弟子というのが診察する。

「これは手術が遅れたので、くり抜かなくては治らない」

さっさと目玉をひっこ抜き、洗ってもとに戻そうとすると、水でふやけてはめ込めない。

困って、縮むまで陰干しにしておくと、犬が目玉を食ってしまった。

「犬の腹に目玉が入ったから、春になったら芽を出すだろう」
「冗談じゃねえ。どうするんです」

しかたがないので、犯人ならぬ「犯犬」の目玉を罰としてくり抜き、男にはめ込む。

今までのより遠目が利いてよかったが、
「先生、ダメです。これじゃ外に出られません」
「なぜ」
「小便する時、自然に足が持ち上がります」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

逃げ噺

軽い「逃げ噺」なので、オチはやり手によってさまざまに工夫され、変えられています。

もっとも艶笑がかったものでは、「夜女房と取り組むとき、自然に後ろから……」と。

「まだ鑑札を受けていません」というのもあります。

原話となっている安永2年(1773)刊の『聞上手』中の「眼玉」では、「紙屑屋を見ると、ほえたくなる」というものです。

明治でのやり方

明治・大正の名人の一人で、六代目三遊亭円生の大師匠にあたる四代目橘家円蔵(品川の円蔵)の速記が残っています。

それによると、円蔵は男を清兵衛、医者を横町の山井直という名にし、前半で、知り合いの源兵衛に医者を紹介してもらうくだりを入れています。ギャグも、「洗うときはソーダを効かさないでくれ」「枕元でヒョイと見回してウーンとうなる」など、気楽に挿入しています。「ソーダ(曹達)」のような化学用語に、いかにも文明開化の新時代のにおいを感じさせるものの、今日では古めかしすぎて、クスリとも笑えないでしょう。

円蔵は、「目が落ちそうだ」と訴えるのに、中で目玉をふやかす薬を与えていて、そのあたりも現行とは異なります。

三平の古典

昭和初期には、五代目三升家小勝が「目玉違い」の題で演じました。

なんといっても、林家三平の「湯屋番」「源平盛衰記」と並んでたった三席だけ残る、貴重な(?)古典落語の音源の一つがこの「犬の目」です。その内容については……言うだけ野暮、というものでしょう。

大らかなナンセンス

「義眼」のシュールで秀逸なオチに比べ、「犬の目」では古めかしさが目立ち、そのためか、最近はあまり演じられないようです。

こうした単純明快なばかばかしいナンセンスは今では逆に貴重品です。ある意味では落語の原点、エッセンスともいえます。

新たなギャグやオチの創作次第ではまだまだ生きる噺。若手のテキストレジーに期待したいものです。

ヘボンと眼病

ヘボン(James Curtis Hepburn、ジェームス・カーティス・ヘボン)は、明治学院やフェリス女学院を作ったアメリカ人の医者で熱心なキリスト教徒でした。名字のHepburnは、今ではオードリー・ヘップバーンと同じヘップバーンをさします。米国長老派教会の医療伝道宣教師でした。お医者さんです。だから、こんな噺に巻き込まれるわけ。ヘボン先生は日本人に発音しやすいようにと自ら「ヘボンです」と言い、「平文」とも記していたそうです。ローマ字の考案者で、われわれが学校で習った表記法はヘボン式ローマ字といわれるものです。長老教会は離合集散の結果、今ではUSA長老教会として、米国の上層部を牛耳る保守派のプロテスタント。もとはカルバン派という改革を好む集団でした。それが月日がたつとゴリゴリの保守派になるのは、奇妙なさがです。

安政6年(1859)に来日するや、ヘボンがまず驚いたのは、日本人があまりにも眼病をわずらっていることでした。これは、淋菌の付いた指で目をこすって「風眼」という淋菌性の眼病にかかる人が多かったからとのこと。

それだけ、日本人の性は、倫理もへったくれもなく、やり放題で、その結果、性病が日常的だったわけでもあるのですがね。衛生的にどうしたとかいう以前に、性があんまりにもおおっぴらだったことの証明なんです。

ですから、この噺が、ヘボン先生の弟子のシャボン先生(そんなのいるわけありません)が登場するのは眼病とヘボンという、当時の人ならすぐに符合するものをくっつけて作っているところが、みそなんですね。

ヘボンは明治25年(1882)に離日しました。日本のきわめて重要な時期を見つめてきた外国人といえるでしょう。円朝との接触もありましたが、それはまたの機会に。

文久3年(1863)、ヘボンは箕作秋萍が連れてきた岸田吟香の眼病を治療しています。岸田は明治の新聞記者です。明治初期のよちよち歩きの文壇にもかかわっています。その子が岸田劉生(洋画家)。岸田國士とは違う系統です。だから、岸田今日子、岸田森とは関係ありません。

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

金明竹 きんめいちく 演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「寿限無」と並ぶ言い立ての心地よい噺。必聴です。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまって、それっきり。

「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置きへ放り込んである、と断るんだ」
としかると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使い物になりませんから焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相があってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

そう教えると、おじさんに目利きを頼んできた客に
「家にもだんなが一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのか、さっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、だんなはんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わてのだんなの檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。

おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに、ずんどう斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか?」
「確か、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

ネタ本は狂言

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作『臍くり金』中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林家(屋)正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)に自作の落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)の喜久亭寿曉の落語ネタ帳『滑稽集』に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後半を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治維新後と思われます。

「骨皮」と「夕立」

骨皮 シテが新発意(しんぼち=出家間もない僧)でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」としかる。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による狂馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り狂い、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

夕立 主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りにきたのにそれを言い、「どこの国に疝気で動けない火鉢がある」と、また隠居がしかると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になって、それがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。

円喬は、特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛け、現在に至っています。

中でも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。

CDは三巨匠それぞれ残っていて、柳家小三治のもありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗

ゆうじょう。後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。

光乗

こうじょう。後藤祐乗の曾孫(1529-1620)です。やはり名工として織田信長に仕えました。

長船

おさふね。鎌倉時代の備前国の刀工長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉

そうみん。横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹

福建省原産の黄金色の名竹です。黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管のらおなどの細工に用います。

隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントか

「吾輩は猫である」の中で、二絃琴の師匠の飼い猫、三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという、半藤一利氏の説があります。落語にはこの手のギャグはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
小柄 こづか
隠元 いんげん
黄檗山 おうばくさん

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

むしがかぶる【虫が齧る】ことば

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

急に産気づくこと。広義では、腹痛、時には歯痛全般を指します。

かつては、腹痛はすべて、腹中に入り込んだ悪い虫が暴れるからだと考えられたためで、志ん生の「疝気の虫」などもその同類です。

いくらなんでも、陣痛は「虫」の仕業ではないのですが、妊婦の苦悶の症状から、そう言われたのでしょう。「かぶる」は「齧る」で「かじる」の意味。

「ばかだね、こいつァ。お産婆さんが女郎買いに行くかい」
「女郎買いには行かないよ。虫がかぶったてえことを聞くとすぐきます」

          羽織(六代目三遊亭円生)

★auひかり★

あいずり【相摺、相棒】ことば

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

一蓮托生で悪事をする共犯者のこと。

芝居では特に、二人でゆすりに押しかける片割れをこう呼びます。

現代でも使われる「あいぼう(相棒)」の漢字を当て字に使う場合もありますが、同義の「尻押し」とともに、こちらは単に協力者の意味で、必ずしも悪事の共犯とは限りません。

もっとも有名な用例としては、河竹黙阿弥の有名な世話狂言「弁天小僧」の「浜松屋店先の場」です。

正体が露見した弁天小僧の「知らざあ言って…」の名乗りに続く相棒の南郷の「その相摺の尻押しゃあ…」という七五調のツラネ(続きゼリフ)があります。語源としては「あいづり(相吊)」または「あいづれ(相連)」が転じたものとされます。

押さえるとたんに、両方の頭からすっと引っこ抜いた。あいずりの長五郎ィ渡して、こいつがばらばらばらばらばらばらっと逃げ出したんで……。               

                        双蝶々(六代目三遊亭円生)

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

死ぬなら今 しぬならいま 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

死は人生最大の難問。でも、落語にかかれば、どうってことない。

【あらすじ】

しわいやのケチ兵衛という男。

爪に灯をともすようにして金を貯め込んできたが、いよいよ年貢の納め時が来た。

せがれを枕元に呼び、寿命というものはどうにもならない。

「わたしも、突き飛ばしておいて転がった人の上にずかずか乗るような醜いことまでして、これだけの財産をこしらえたが、もう長くないので、おまえに一つ頼みがある」
と言う。

「どうだろう、早桶ン中に三百両、小判で入れてもらえないか」

地獄の沙汰も金次第。

「わたしのような者は必ず地獄におちるだろうが、金をばらまけばひょっとして極楽へ行けるかもしれない」
というわけ。

せがれが承知すると安心したか、ごろっと痰がからまったと思うと、キュウとそのままになってしまった。

いわゆる、ゴロキュウ往生。

湯灌も済み、白い着物を着せた。

せがれが遺言通りに頭陀袋の中に三百両の小判を入れているところを親類の者が見て
「いくら遺言だからといって、そんなばかなことをしてはいけない」
と、知り合いの芝居の道具方に頼み、譲ってもらった大道具の小判とそっくり入れ替えてしまった。

こちらはケチ兵衛。

いつの間にか買収資金がニセ金に替わっているともつゆ知らず、閻魔の庁まで来ると、さっそく呼び出される。

浄玻璃の鏡にかけられると、今までの悪事がこれでもかこれでもかと映るわ映るわ。

「うーん、不届きなやつ」

閻魔大王が閻魔のような顔になったので、さあ、この時と、袖口に百両をそっと忍ばせると、その重みで大王の体がグラリ。

「あー、しかしながらあ、一代においてこれほどの財産をなすというのも、そちの働き、あっぱれである」

がらっと変わったから、鬼どもがぶつくさ不満タラタラ。

それではと、そいつらの袖の下にも等分に小判を忍ばせたので、ケチ兵衛、無事に天上し、極楽へスーッ。

ケチ兵衛のまいたワイロで、地獄は時ならぬ好景気。

赤鬼も青鬼も仕事などやめて、のめや歌えの大騒ぎ。

その金が回り回って、極楽へ来た。

ニセ小判であることはすぐに知れたから、極楽から貨幣偽造及び収賄容疑で逮捕状が出た。

武装警官がトラックに便乗して閻魔の庁を襲う。

閻魔大王以下、馬頭牛頭、見る目嗅ぐ鼻、冥界十王、赤鬼青鬼、ショウヅカの婆さんまで、残らずひっくくられて、刑務所へ。

地獄は空っぽ。

だから、「死ぬなら今」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

彦六の残した珍品

民話、民間伝承を基にしたと思われますが、原話は不明です。もともとは上方落語です。八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助から直伝されましたが、円生は手掛けず、彦六が事実上の東京移植者になりました。彦六の後は孫弟子の春風亭小朝が継承。

本家の大阪では、三代目桂文我から桂春之輔に伝わっています。音源は、残念ながら正蔵のものはなく、上方の桂文我のCDが出ています。いずれにせよ、東西とも継承者の少ない、珍品中の珍品といえるでしょう。

「倒叙型」演出も

推理小説では、犯人が当初から明らかにされる倒叙型という手法がありますが、八代目林家正蔵(彦六)は、たまにこの噺でオチを最初に言う演出をとることがありました。

今回のあらすじで参考にした『林家正蔵集』上巻(青蛙房、1974年)の速記では言っていないため、実際に高座で演ずる場合に客の反応や客ダネを見て判断していたものと思われます。オチが考えオチなので、客に対する配慮でもあったのでしょう。

こうした演出を採る噺は数少なく、東京落語ではほかには、やはり正蔵が手掛けた「蛸坊主」があるくらい。上方落語では「苫ケ島」「後家馬子」があります。

牛頭馬頭

ごずめず。地獄の常連です。劇画「子連れ狼」の道中陣ですっかりおなじみになりましたが、牛頭人身と馬頭人身の地獄の獄卒を合わせてこう呼んだものです。

見る目嗅ぐ鼻

みるめかぐはな。こちらも地獄の常連。閻魔の庁の裁判官で、先に小旗を付けた矛の上に、人の生首が突き刺さっているグロテスクな姿として描かれます。亡者の善悪をすべて見通すと伝えられています。

冥界十王

めいかいじゅうおう。閻魔大王を最高位とする、地獄の十人の幹部です。以下の通り。

閻魔大王
泰広王
初江王
宗帝王
五官王
変成王
太山王
平等王
都市王
五道転輪王

中央に閻魔が座り、左右にこのお歴々が着席することになっています。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

紫檀楼古木 したんろうふるき 演目 

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

渋い噺。古木の爺さんが妙にカッコいいですね。

【あらすじ】

ある冬の夕暮れ、薬研堀のさる家。

なかなかおつな年増で、芸事ならばなんでもいけるというご新造が、お女中一人と住んでいる。

「らおやーァ、きせるー」
と売り声がしたので出てみると、ボロボロの半纏の袖口が水っぱなでピカピカ光っている、汚いじいさん。

ちょうどご新造の煙管が詰まっていたので、女中が羅宇の交換を頼む。

いやに高慢ちきな態度で、専門家の目で見ると趣味の悪い代物なのに、金がかかっていることを自慢たらたら。

じいさんは嫌な気がしたが、仕事なのでしかたがない。

じいさん、玄関先で煙管をすげ替えていると、ご新造がそれを窓から見て、
「あんな汚らしいじじいを煙管に触れさせるのはイヤだ」
と文句を言う。

二人の、汚い汚いという言葉が聞こえてきたので、爺さんはむっとして、代金を受け取る時、
「これをご新造に取り次いでほしい」
と、なにか書いてある紙切れを渡した。

ご新造がそれを読んでみると
「牛若の ご子孫なるか ご新造の 吾れを汚穢(むさ)し(=武蔵坊)と 思いたまひて」
という皮肉な狂歌。

だんなが狂歌をやるので、自分も少しはたしなみがあるご新造。

「ふーん」
と感心して、矢立てでさらさらと
「弁慶と 見たはひが目か すげ替えの 鋸もあり 才槌もあり」
と返歌をしたためて届けさせる。

それをじいさんが見て、またも、
「弁慶の 腕にあらねど 万力は 煙管の首を 抜くばかりなり 古木」
と、今度は署名入りの返歌をよこした。

その署名を見て、ご新造は仰天。

紫檀楼古木といえば、だんなの狂歌の先生の、そのまた先生という、狂歌界の大名人。

元蔵前の大きな羅宇問屋の主人だったが、番頭にだまされて店をつぶされ、今は裏店に住んで、市中を羅宇のすげ替えに歩く身。

ご新造は、さっそく無礼を詫びて家に招き入れた。

とりあえず、お風邪でも召しては、と綿入れの羽織を差し出す。

古木、断って
「ご親切はありがたいが、私はこのこの荷物をこう担げば、はおりゃー、着てるゥー(らおやー、きせるー)」

★auひかり★

【うんちく】

現行は短縮版

原話は不詳で、文化年間(1804-17)に作られた、古い狂歌噺です。

最古の速記は、明治28年(1895)6月、雑誌『百花園』に掲載の二代目柳家小さんのものですが、小さんは当時既に引退していて隠居名「禽語楼」を名乗っています。

その小さんのバージョンは、現行よりかなり長く、この前に、零落した古木が女房に別れてくれと迫られ、「いかのぼり 長きいとまに さるやらば 切れて子供の 泣きやあかさん」と詠んで、女房が思いとどまるくだり、子供が、自身番の前でいたずらをし、町役になぐられて泣いて帰ってきたので、「折檻を 頂戴いたす お蔭には せがれ面目 なく(無く=泣く)ばかりなり」と詠んで、町役を謝らせる逸話を付けています。

円生、彦六の演出

戦後は八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生という、同世代で犬猿の仲といわれた両巨匠が、競うように演じました。二人は共に、円朝直門の最後の一人、三遊一朝(1847-1930)に習ったもの。

やり方では、円生の方が、ご新造と女中のやりとりなど、細かくなっています。

正蔵は、ご新造の返歌の「すげ替えの」を、「背に負いし」としていますが、こうした演者による細かい異同は、昔からあったようです。

オチ近くでご女中がご新造にたしなめられ、ペコペコしながらもつい「今は落ちぶれて」だの、「これは私がいただいて、私のボロ半纏をこのじじいに」などと口にしてしまうくだりが、円生演出にありましたが、これは二代目小さんからの踏襲でした。

正蔵は、取り次ぎの女中が最後までなにがなにやらわからず、つっけんどんのまま終わるやり方でした。

狂歌

滑稽味を骨子とする、和歌のジャンルとしては平安時代からありましたが、歌壇をはばかり「言いすて」として、記録されることはほとんどありませんでした。

近世に入って江戸初期、松永貞徳(1571-1653)の指導で、大坂で盛んになりました。

初期には石田未得の『吾吟我集』のような古歌のパロディーが主流でした。

江戸では、海の向こうでナポレオンが生まれた明和6年(1769)、唐衣橘洲が自宅で狂歌会を催したのがきっかけで、同好の大田南畝らと盛んに会を開くうち、これが江戸中の評判に。

天明年間(1781-89)になると、狂歌の大ブーム、黄金時代を迎えました。その時期の狂歌は、自由な機知と笑いが溢れ、「天明ぶり」とうたわれています。その後、文化年間(1804-18)になると低俗化し、次第に活力を失います。

狂歌師の中でも蜀山人は偶像的存在で、落語にも、その逸話や狂歌を紹介するだけの多くの「狂歌噺」が生まれましたが、今ではこの「紫壇楼古木」を除いてすたれています。それすら、円生、正蔵没後は、ほとんど後継者がいません。

噺家兼業の狂歌名人

紫壇楼古木は、この噺で語られる通り元は大きな羅宇屋の主人でした。

朱楽管江に師事した寛政から文化年間にかけての狂歌後期の名匠です。

同時に落語家でもあって、狂歌噺を専門にしていたため、その創始者ともいわれます。本名は藤島古吉。辞世は、「六道の 辻駕籠に 身はのり(乗り=法)の 道ねぶつ(念仏)申して 極楽へ行く」

【語の読みと注】
新造 しんぞう:下級武士や上級町人の妻女
煙管 きせる
羅宇 らお
裏店 うらだな
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう:1743-1802
大田南畝 おおたなんぽ:蜀山人、1749-1823
紫壇楼古木 したんろうふるき:1777-1832
朱楽管江 あけらかんこう:1740-1800

★auひかり★

鍬潟 くわがた 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

珍しい相撲ネタの噺です。巨人と赤ん坊のような極端な対比の大一番。

【あらすじ】

身長が二尺二寸(68cm)という小さな男。

何か背が伸びる方法はないかと、隣の長屋の甚兵衛に相談した。

甚兵衛、
「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、大男にも負けないだけの働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をする。

鍬潟も、なんと三尺二寸(97cm)の、超ミニサイズ力士。

ところが、ある時、江戸で無敵の大関雷電為右衛門を破って、満天下をあっと言わせた。

雷電は、六尺五寸(197cm)、四五貫(170kg)はあろうという、雲つく大男。

身長は、ゆうに倍以上、巨人と赤ん坊。

まともならぶつかっただけで、バラバラにされてしまう。

ところが、鍬潟、一計を案じて体中に油を塗り、立ち上がると土俵の中をチョロチョロと逃げ回る。

雷電、あせって捕まえようとするが、油でツルツル滑る上、なにせ小さいからどこにいるのかわからない。

さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番。

満場は爆笑の渦へ。

のちに、この雷電と義兄弟の縁を結び、名力士として名をなしたという話。

これを聞いて、小男は一念発起した。

「ワシも第二の鍬潟になれるかも」
と、相撲部屋に入って修行を積むが、ある日、稽古疲れで家に帰ると高イビキ。

起こされると、布団から手足が出ていたから、稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。

女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

大酒の甲斐もなく

原話は安永6年(1777)に大坂で刊行された笑話本『新撰噺番組』巻五の「一升入る壺は一升」です。

これは、子供並みに小さな男が、なんとか背を伸ばしたいと、日夜神に祈ると、ある晩、不思議な童子が夢枕に。童子は男に、「飯、餅、酒を一斗(10升=18L)ずつ飲食し、目覚めたあと背伸びをすれば、なんじの背は布団から足が出るくらいにはなるぞよ」と、妙なご託宣。男は下戸だったのに、大きくなりたい一心。命がけで酒をのみ干し、馬のように食らって目覚めると、アーラ不思議、本当に足がにゅっと布団の外へ。やれありがたいと狂喜して立ち上がると、背は元のまま。後ろを振り返ると、寝ていたのは座布団の上。

オチの部分がそっくりですが、この小咄の題は、しょせん、人には生得の定められた器しか与えられないという教訓でしょう。

円生の逃げ噺

上方落語で、東京にいつ移植されたかは不詳です。上方の演出では、発端が少し違っています。

道頓堀の芝居小屋に、関取が顔パスの無料で入場。見ていた二尺二寸の小男が、巨体の陰に隠れていっしょに入ろうとし、つまみ出されます。そこで、男がくやしがって一念発起。相撲取りになってやろうと決心するわけです。

東京では、大正から昭和初期に五代目三遊亭円生(1940年没)が得意にしました。五代目は「デブの円生」とあだ名されたほど、相撲取りなみに恰幅のいい落語家でした。

戦後は、養子の六代目円生が継承。客種が悪いときに演じる「逃げ噺」の一つにしていました。円生自身、相撲に造詣が深く、相撲ネタの「阿武松」「花筏」なども十八番でした。

類話「小粒」

類話「小粒」では、こうなります。

ある小男が大きくなりたい一心で芝山の仁王尊に願掛けします。すると、仁王さまが夢枕に立ち、「なんじの信心の威徳により、背丈を三寸伸ばしてとらす」とありがたいお告げ。目覚めて、半信半疑で足を伸ばすと、蒲団から足がニュッ。やれありがたやとはね起きると、布団を横にして寝ていた、というものです。

原話の形には、こちらの方が近いですが、オチのダメ押しが効いています。

上方噺「野崎まいり」

小男がからかわれる噺では、上方の「野崎まいり」があります。

野崎まいりの慣習、船上と土手の上の悪口合戦。船の小男がさんざん悪態をつかれ、くやしまぎれに「山椒は小粒で、ひりりと辛いわい」と言い返そうとして、「さんしょは、ええと、ひりりと辛いわい」。土手の男が、「やい、教えてもろたんならちゃんと言え。小粒が抜けとるわい」と言うと、小男、川の中をキョロキョロ探して「えっ? ど、どこに」

雷電について

雷電為右衛門(1767-1825)は信濃(長野県)出身。最高位は大関。松江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回。生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。文化8年(1811)2月、43歳で引退。全盛時は197cm、170kg。43、44、38連勝、各1回。

横綱や大関には一度も負けず、生涯10敗は、小結に1敗した以外はすべて平幕や十両相手のポカ負けというところから、この噺のようなヨタ噺が考えられたのでしょう。

相撲至上最強といわれる、伝説の強豪ですが、横綱とならなかったのは、免許を出す吉田司家が外様の肥後細川家の家臣だったので、松平家が申請しなかったためと伝えられます。

鍬潟について

もちろん架空の力士です。江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にすることはあっても、実際に割りを組んで、相撲は取らせませんでした。

【語の読みと注】
雷電為右衛門 らいでんためえもん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

しきいがかもい【敷居が鴨居】ことば

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「敷居が高い」の洒落。

「敷居が高い」とは、相手に不義理のある場合に使うことで、格式ある家や老舗に入りにくいことの意に使われることが多く、これは誤用です。

このことば、六代目円生がよく使いました。

うかがわなくてはならんのですが、どうもオタクには敷居が鴨居になっちまって。なにしろ借金がそのままですし。

六代目三遊亭円生

スヴェンソンの増毛ネット

汲み立て くみたて 演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

八笑人からの構成。町内の連中のすったもんだ噺。少々匂い立ちますが。

【あらすじ】

町内の連中が、美人の常磐津のおっ師匠さん目当てに、張り合って稽古に通っている。

なぁに、常磐津などはどうでもいいので、気に入られていいことがしたい、ただそれだけ。

それだけに嫉妬が渦巻き、ライバルに対する警戒は相当なもの。

「野郎が四度稽古してもらったのになんでオレはまだ二度なんだ」
とか、
「膝と膝を突き合わせて、間違えたらツネツネしてもらえるから、唄より三味線を習おう」
とかいうような、不心得者も出る。

ところが、留さんが、
「師匠はどうやら建具屋の半公とできてるらしい」
という噂を持ってきたので、一同、顔色が変わる。

なんでも、師匠の部屋へ通ってみると、半公が主人然として、師匠と火鉢越しのさし向かい。

火鉢が真ん中。

半公向こうの師匠こっち、師匠こっち半公向こう。

やがて半公がすっと立つと、師匠もスッ。

ぴたっと障子を閉めて、中でコチョコチョと二人じゃれついていたというから、穏やかではない。

そこで、今、師匠の家に手伝いに行っている与太郎を捕まえて聞きただすと、案の定、このごろ、半公がちょくちょく泊まりに来る、という。

ある日、二人が大げんかして、半公が師匠の髪をつかんでポカポカなぐったが、その後、師匠が
「いやな奴に優しくされるより、好きな人にぶたれた方がいい」
と抜かしたそうな。

そういえば、与太郎、今日はいつになくいい身なりをしているので、聞いてみると、
「師匠と半公のお供で柳橋から船で夕涼みだ」
という。

「おっ師匠さんが『あの有象無象どもが来ると、せっかくの気分が台なしだから、ないしょにしておおき』って言ってた」
「なんだ、その有象無象ってえなあ」
「うん、おまえが有象で、こっち全部無象」
「こんちくしょうめっ」

「あんまり人をばかにしてやがるから、これから皆で押しかけて、逢瀬をぶちこわしてやろうじゃねえか」
と、すぐ相談がまとまった。

「半公の野郎が船の上で、師匠の三味線で自慢のノドをきかすに違いないから、こっちも隣に船を寄せて、鳴り物をそろえてドンチャカドンチャカ、ばか囃子でじゃましてやろう」
というわけ。

「逃げたらどこまでも追いかけていって、半公がなにかぬかしたら、かまわないから袋だたきにしちまおう」
という算段。

さて数刻後、船の中。

半公がいよいよ端唄をうなり出すと、待ってましたとばかり隣からピーヒャラドンドン。

そのうるさいこと。

「やあ、お師匠さん、見てごらん。有象無象が真っ赤になって太鼓をたたいてら」
「うるせえ、てめえじゃ分からねえ。半公を出せ」
「なんだ、なんだ。師匠とどういう仲になろうと、てめえたちの指図は受けねえ。糞でもくらやあがれ」
「おもしれえ。くってやるから持ってこい」

やりあっていると、間に肥船がスーッ。

「汲み立てだが、一杯あがるけえ?」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

「八笑人」の懲りない面々

オチの部分の原話は、滝亭鯉丈(1777-1841)作の滑稽本『花暦八笑人』三編下(文政6年刊=1823)です。

「八笑人」は落語「花見の仇討ち」のネタ本でもあり、いわばこれは、その続編の一部。

あの能天気な連中が、また懲りずに、妙ちくりんな趣向を思いつきます。

これはその一人卒八が考えた納涼の趣向で、両国橋ぎわに小船と屋根舟を出し、仲間が両方に分かれてののしりあう、というもの。

卒八「サア両方でくそをくらえ、イヤうぬ(=おまえ)くらえ、われくらえと、いいつのっている中へ、おれが、こえ船をたのんで、うわのりをして、グツと中へのり込で、サア汲たてあがらんかあがらんかというが、おちだがどうだろう」

というわけで、オチがついた馴れ合い狂言を仕組むのですが、あまりに下品というのでこれは中止。改めて、両国橋から身投げのふりで飛び込むという人騒がせをやらかすことになります。

『花暦八笑人』と滝亭鯉丈については「花見の仇討ち」をお読みください。

六代目円生の極めつけ

明治から大正にかけ、俗に品川の円蔵と呼ばれた四代目橘家円蔵が高座にかけました。記録は明治30年(1897)の円蔵の速記が最古で、その没後は、門下の五代目三遊亭円生、孫弟子の六代目円生へと継承されました。

もっとも、円蔵もあまり演じなかったので、円生は、初代三遊亭円右の速記などで覚えたと語っています。戦後は、円生の独壇場で、極めつけの十八番でした。

常磐津の素養がないとできない噺なので、円生没後は弟子の五代目円楽がたまにやるくらいでしたが、近年では三遊亭小遊三や五街道雲助などが手掛けています。

蚊弟子

常磐津のお師匠さんは、「百川」始め、落語にはちょくちょく登場します。

「オシサン」または「オッショサン」と発音しますが、落語で師匠というと、美人でおつな年増ときまっています。そこで、我こそは師匠としっぽりと……と、よからぬ下心で経師屋連がわいわい押しかけ、騒動を起こすわけです。

なかには「蚊弟子」といって、暑いので、涼みがてら夏のうちだけ稽古にくる手合いもあったとか。

江戸末期には、各町内に一人は遊芸の師匠がいたもので、清元、常磐津、長唄、歌沢などさまざまでした。なんでもござれ教える師匠も中にはいて、それを俗に五目(寿司の五目から)の師匠と呼んだものです。

肥船

葛飾や市川など江戸湾の在から肥を仲買いし、取り仕切る渡世人の組織は、香具師、博打などと並んで一種の治外法権を持ち、なかでも葛西の肥汲みは、江戸の裏社会に隠然たる勢力を持っていました。

彼らが立往生(ストライキ)をすれば、大名から長屋の町人に至るまで、肥の引き取り手がなく、たちまちに往生することになるわけです。

集めた肥を船で運ぶようになったのは、永代橋が落下する大惨事(文化4=1807年)のあと、橋を荷車が通れなくなったからだといいます。

船は出ませんが、肥汲みが登場する落語には、ほかに「法華長屋」があります。

【語の読みと注】
常磐津 ときわづ
有象無象 うぞうむぞう
逢瀬 おうせ
端唄 はうた
経師屋連 きょうじやれん:師匠を張り合う意味

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

雁風呂 がんぶろ 演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

これは珍しい、水戸黄門も落語に。ご一行漫遊の一席です。

別題:天人の松(上方噺)

【あらすじ】

かの有名な黄門、水戸光圀公。

ご隠居の身の気軽さで、供そろいわずか八人を引き連れて諸国を漫遊中、東海道は掛川の宿に来かかった。

ある質素な、老夫婦二人だけでやっている立場で休憩し、昼食をとっていると、田舎のことで庭に肥桶が置いてあると見え、プーンと臭い匂いが漂ってくる。

さりとて、障子を閉めてしまうと陰気臭くなるので、屏風か衝立を持ってくるようにおやじに言いつける。

恐縮したおやじが運んできた屏風の絵を見て、驚いた。

こんな粗末な立場にあるとは思えないような、土佐光信の屏風絵。

ただ、図柄が変わっていて、松の枝に雁。

屏風は一対だから、別のには松の大木が描かれてあろうと思われる。

松には鶴、雁には月を描くのが普通。

「ははあ、光信の奴、名声におごって、なにを描いてもよいと増長したか」
と光圀公、不快になって、帰館のあかつきには光信の絵はすべて取り捨てると言い出す。

そこへ相客。

上方者らしい、人品卑しからぬ町人の、主従二人連れ。

主人の方は屏風絵を見て感嘆し、
「さすがに光信さんや、松に雁とは、風流の奥義を極めた絵やなァ。これは秋の雁やのうて、春の帰雁や。なにも知らん奴が見たら、雁頼まれたら月を描き、鶴なら松を描くと思い込むやろが、そんな奴は眼あって節穴同然や。もう、他に二人とない名人やなァ」

聞いた光圀公、自分の不明を思い知らされ、町人ながら風流なる者と感心して、近習に命じて男を呼ばせ、松と雁の取り合わせの由来を尋ねた。

初めは、えらいことがお武家さまのお耳に入ったと恐縮していた町人、たってと乞われて語り出したところによると、
「雁は海の向こうの常盤の国という暖国から渡ってきて、冬を函館の海岸で過ごし、春にまた帰っていくが、大きく体が重い鳥だから、海を渡る途中に墜落して命を落とすこともたびたびある。海上で体がくたびれると、常盤の国を出る時くわえてきた枝を海に落として、それを止まり木にして羽を休め、またくわえて、ようやく函館の松までたどり着く。松に止まると、枝をその下に落として、春まで日本全国を飛び回るが、その間に函館の猟師たちが、枝の数を数えて束にし、雁が南に帰る季節になると、また松の下に、その数だけ置いてやる。雁は自分の枝がわかるので、帰る時に各々それをくわえていく。猟師は残った枝を数え、ああ、またこれだけの雁が日本で命を落としたか、あわれなことだと、その枝を薪にして風呂を炊き、追善のため、金のない旅人や巡礼を入れて一晩泊め、なにがしかの金を渡して立たせてやる。これはその時の、帰雁が枝をくわえようとしている光景だ」
という。

すっかり感心した光圀公、身分を明かし、
「そちの姓名はなんと申す」
とご下問になる。

町人、びっくり仰天して、額を畳にこすりつけながら、おそるおそる
「私は大坂淀屋橋の町人で、分に過ぎたぜいたくとのおとがめを受け、家財没収の上、大坂三郷お構いに相なりましたる、淀屋辰五郎と申す者にござります」
と言上。

昔、柳沢美濃守さまに三千両お貸ししたが、ずっとお返しがなく、今日破産し浪々の身となったので、なんとかお返しを願おうと、供を連れてはるばる江戸までくだる途中、と聞いて、光圀公、雁風呂の話の礼にと、柳沢に、この者に三千両返しつかわすようにという手紙を書いてやり、その金でめでたく家業の再興がなったという、一席三千両のめでたい噺。

底本:初代談洲楼燕枝

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

上方版はオチ付き

「水戸黄門漫遊記」を題材にした講談をもとに作られた噺のようですが、はっきりしたネタ元は不明です。

もともとは上方噺で、別題を「天人の松」ともいいますが、上方版ではオチがついていて、「雁風呂の話一つで三千両とは、高い雁(かりがね=借り金)ですな」「そのはずじゃ。貸し金を取りにいく」とオチます。

現在、この噺を得意にしていた桂米朝は「雁風呂の講釈をしたおかげで、借金(しゃっきん)が取れますがな」「そらそうや、かりがね(雁=借り金)の話をしたんじゃ」としています。

このオチの部分の原話は、最古の噺本として知られる『醒睡笑』(安楽庵策伝著、寛永5年=1628年成立)巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」とみられ、「借り金」=「雁がね」の、まったく同じダジャレオチがみられます。

東京では円生

明治の落語界で三遊亭円朝と並び称された初代談洲楼燕枝の速記では、このあらすじの通り講談に近い形をとり、オチはついていません。

戦後は、六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助直伝で、オチのある上方系のやり方で演じました。

速記、音源とも、残されているのは上方の米朝版を除けば、円生のもののみです。

円生の芸談

「この噺でむずかしいところというと、副将軍である光圀公の描写、また辰五郎というのは大阪では有名な金持ちの息子ですから、言葉つきから何から品が悪くてはいけません。これを第一に心がけるということが大事だと思います」

雁風呂

噺に出てくる伝説の正確な出自は不明ですが、雁風呂もしくは雁供養の習慣は、本来、青森県・津軽の外ケ浜のものです。

したがって、函館としているこの噺とは食い違いますが、函館にもそんな習俗があっても不思議はありません。

このエピソード、昭和の終わりごろに、某洋酒メーカーのコマーシャルにも使われていました。

「雁風呂」は春の季語にもなり、「雁風呂の 燃ゆるままなる 淋しさよ」(一樹)ほか、多くの句があります。

函館の松

歌枕として著名で、六代目円生は淀屋の説明の中で、
「秋は来て 春かえり行く かりがねの はがい休めむ 函館の松」
という紀貫之の歌を出していました。

淀屋辰五郎

生没年は不詳です。鴻池と並ぶ大坂の豪商でしたが、この噺のとおり、あまりに金の使いっぷりがよすぎて公儀ににらまれ、資産没収のうえ大坂追放処分になったのが宝永2年(1705)。したがって、野暮をいえば、その五年前の元禄13年(1700)に没した水戸光圀と、ここで出会うことはないはずです。

上方では辰五郎の息子で演じるのが普通で、円生もこれにならっていました。

【語の読みと注】
肥桶 こえおけ
屏風 びょうぶ
衝立 ついたて

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

お祭り佐七 おまつりさしち 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

古くから江戸に伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺。

【あらすじ】

元久留米藩士の飯島佐七郎という浪人。

生まれついての美男子で、武芸は天神真揚流柔術の免許皆伝。

その上、頭がよく如才ないときているから、家中の女たちがほおっておかず、あまりのもて方に嫉妬を買って讒言を受け、藩は追放、親父には勘当されて、今は、芝神明、め組の鳶頭、清五郎の家に転がり込んで、居候の身。

もともと火事が飯より好きで、どうせ侍として二君に仕える気はないから、火消しになろうと清五郎にたびたびせがむが、そこは元侍。

「あっしが手づるをこしらえてあげるから、ちゃんと仕官なさい」
と言うばかりで、いっこうに色よい返事がもらえない。

ある日、鳶の若い衆と品川遊廓に乗り込んだ佐七郎。

もとより金がないので仲間を帰し、居残りをし、退屈まぎれに見よう見まねで雑巾掛けをしながら、身についた早業で、そのままツーッと裸足で脱走、雑巾一本手土産に芝まで帰ってきたと得意気に話すので、清五郎は、め組の顔にかかわると渋い顔。

め組の連中は、この間、二十五人力と自慢するならず者の四紋龍という男を、この若さまが牛若丸のような軽業で翻弄し、手もなくやっつけたのを見て、そのきっぷと力にぞっこん。

「ぜひとも鳶にしてやっておくんなせえ」
と、頭にせっつく始末。

あれやこれやで、今はもう一日も早くめ組の纏を持ってみたい一心の佐七郎だが、相変わらず清五郎は煮え切らない。

火事でもあって一手柄立てれば、頭もその気になってくれるだろうと、一日千秋の思いで江戸中が火の海になるのを待ちわびているが、あいにくその年は火の用心が行き届き過ぎているのか、九月十月になっても、半鐘はジャンともドンとも鳴らない。

そんなある日、退屈まぎれに仲間とガラッポンと博打をしている最中、ジャンジャンジャン、鳴った鳴った鳴った。

神田の三河町あたりで大火事だという。

久しぶりの働き場なので、め組の連中は殺気だち、佐七郎ももみくちゃにされて、いつしか褌一つの素っ裸。

それでも、チャンス到来とばかり飛び出そうとするが、清五郎はガンとして許さない。

「そんなに火事が好きなら、今度、昼間の一軒焼けかなにかの、煙が真っ直ぐ立って座敷から見物できるようなのがあったら見せるが、今夜のはお成り火事といって、玄人でも用意に近づけるような代物でないのに、素人が裸で行こうなどとはとんでもない」
という。

そう意見されてもガマンしきれず、たった一人取り残されて二階でウロウロしながら外をのぞいていた佐七郎、なんとか脱出して、とあせるうち、いい具合に窓格子が緩んでいたのかそっくり外れたので、これを幸い、屋根に出た。

ところが下は芋を洗うような騒ぎで飛び下りられない。

しかたなく、猫のような早業でするすると屋根から屋根へと飛び移り、一番激しく燃え盛っている龍閑町の鰌屋まで来た。

ここはちょうど、め組の持ち場。

奉行以下総出役で、まるで戦場だ。

さすがに煙と火の粉にあおられ、真っ黒になった佐七郎だが、屋根にしがみついて頑張り通すうちにようやく火が消え、め組の消し口を取ることになった。

事情を聞いて、清五郎は渋い顔。

奉行は
「武士の帯刀を捨て、鳶になっての感心な働き。感服いたした」
「へえ、今度は火をのんでみせます」

めでたく奉行の取り持ちで清五郎の子分となり、後に「お祭り佐七」として名をとどろかせた、という一席。

底本:二代目柳家小さん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

長編のダイジェスト版か

江戸に古くから伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺です。原話や作者は不明ですが、講釈種とも推測されます。

佐七は果たして実在したか、実録などはまったくわかりませんが、江戸前のいなせでいい男の典型として語り継がれました。

本編のあらすじは、明治23年(1890)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記を基にしました。

小さんの噺は、おそらく、講談や伝説を踏まえた長編人情噺の切り取りと考えられます。

そのためか、佐七ものに付き物の芸者小糸との恋のくだりはなく、この前後に小糸との色模様があったのでしょうが、伝わっていません。

速記のマクラで、小さんは、佐七の異名「お祭り」は、彼が火事師(=鳶)で木遣りをよくしたことから、方々の祭りに招かれるうち、ついたものではないかと述べています。

劇化された佐七伝説

人形浄瑠璃では安永6年(1777)初演「絲桜本町育」が初めての本格的な佐七もので、ここでは、実は侍の佐七が、主家の重宝・小倉の色紙詮議のため幇間に身をやつしているという設定。

ついで、四世鶴屋南北が文化7年(1810)正月、市村座に書き下ろした「心謎解色糸」、時代は飛んで明治31年(1898)5月、歌舞伎座初演の三世河竹新七作「江戸育於祭佐七」が、佐七ものの劇化しては双璧で、現在でもときどき上演されます。

前者は無頼漢の鳶の者佐七と深川芸者小糸の破滅的な恋が中心。

後者は、小糸と佐七の悲恋を、江戸前の意気といなせで洗い上げた歌舞伎生世話物の傑作ですが、落語の筋とは直接かかわりはありません。

六代目円生が復活

戦後、六代目三遊亭円生が復活して演じました。

円生は、四紋龍との喧嘩のくだりまでで切り、四紋龍が投げられて砂糖まみれになったのを、「相手が乱暴者だから、砂糖漬けにしたのは精糖(=正当)防衛だ」と地口でオチていました。

二代目小さんのは、人情噺だけに、オチはついていません。

「雪とん」は別の噺

同題で別名「雪とん」と呼ばれる噺があります。

これは佐野の大尽、兵右衛門と小糸と佐七の三角関係を中心にした情話です。小糸と佐七の名を借りただけで、これは全くの別話です。

【語の読みと注】
鳶 とび
木遣り きやり
心謎解色糸 こころのなぞとけたいろいと

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

おせつ徳三郎 おせつとくさぶろう 演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

法華の信者ならすぐわかる、オチは「鰍沢」と同じフレーズです。

別題:刀屋(下のみ) 隅田の馴染め(改作) 花見小僧(上のみ)

【あらすじ】

日本橋横山町の大店の娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつの供をして向島まで花見に行った丁稚の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという情報が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のお大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにしたという。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに、かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えは止めてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思い止まったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の石から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎のごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追手が追っていて、せっぱつまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下は筏が一面にもやってある。

その上に落っこちて、
「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(題目)で助かった」

【しりたい】

なりたちと演者など

もともとは、幕末に活躍した初代春風亭柳枝(?-1868)作の人情噺です。

長い噺なので、古くから上下または上中下に分けて演じられることが多く、小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊が「隅田の馴染め」として、くすぐりを付け加えて改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が伯父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされますが、普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題してしばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、原作にもっとも忠実な三代目柳枝のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)ほか、「上」のみでは二代目(禽語楼)柳家小さん(「恋の仮名文」、明治23年)、初代三遊亭円遊(「隅田の馴染め」、明治22年)、「下」のみでは三遊亭新朝(明治23年)、初代三遊亭円右(不明)のものが残されています。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木」は父親のセリフになっていますが、六代目三遊亭円生も「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが、自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型ですが、現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

戦後は六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生、六代目春風亭柳橋、五代目柳家小さんも得意にし、円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝、三遊亭円楽のものなどが傑出していました。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多く、「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外では、最近はあまり単独口演されません。

村松町の刀屋

この噺のとおり、日本橋村松町と、向かいの久松町(中央区東日本橋一丁目)には刀剣商が軒を並べていました。江戸末期の商人喜多川守貞(1810-?)の『守貞漫稿』に「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」とあります。徳三郎が買おうとしたのは、二分と二百文の脇差です。

深川・木場の川並

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べたました。掘割に貯材所として常時木材を貯え、それを「川並」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて筏に組んで運んだものです。

法華の信者

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず「法華」という呼び名の方が一般的でした。日蓮宗は法華経のみを唯一最高の経典と尊重したからです。浄土宗とは因縁の対立が続いていました。

お七 おしち 演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あの与太郎も結婚して子供ができたのですが、ここでは八五郎と一騎打ちを。

別題:火の用心 お産見舞い

【あらすじ】

縁起かつぎの与太郎。

今度子供が生まれてめでたいので、どうかして縁起のいいことを聞きたいと考えている。

そこへ現れた兄弟分の八五郎。

来るなり、
「おめえの家は陰気で湯灌場にいるようだ、オレも伯父貴の葬式帰りだから、死人が出たのならいっしょに骨揚げしてやろう」
だのと、縁起の悪いことばかり並べる。

子供が生まれたと聞くと、赤ん坊の顔を見て
「小せえ餓鬼だ。これは今にも息を引き取るな」

「戒名はなんとつけた」
と聞くから、
「お初だ」
と言うと、
「こいつは今に、徳兵衛という仕立屋と心中する」
というご託宣。

「あちらからお初を嫁にもらいたいと言っても、てめえは一人娘だからやりゃしめえ。向こうも一人息子だから婿にはやれない。お互い夫婦になれないならと、『覚悟はよいか』『南無阿弥陀仏』土左衛門が浮き上がる」

言いたい放題言って、帰ってしまう。

シャクでならないのが、おかみさん。

「あいつのおかみさんも来月臨月だから、生まれたら、行って敵討ちをしておやり」
と亭主をけしかける。

さて。

いよいよ八公のところも生まれたと聞いて、与太郎、勇んで乗り込む。

「よく来た。おまえは伯父さんの葬式帰りで、家が陰気で、流しが湯灌場で、末期の水をピシャピシャのんでると言いてえんだろ」

言いたいことを片っ端から言われてしまう。

それでも子供を見て
「これは今に息を」
「引き取った方がいいや。踏みつぶしちまおうかと思ったんだ」
「名前はお初だな」
「うんにゃ、お七だ」

「お初徳兵衛」なら心中とすんなりいくが、「お七徳兵衛」ではなんだか変。

空振りして帰ると、かみさんが、
「お七ならほかにやっつけようがあるから、もう一度行っといで」
と知恵を授ける。

「昔、本郷二丁目の八百屋の娘お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶりになった。おまえの娘も火刑になる、と言っておやり」

「今度こそ」
と引き返した与太郎、八公に
「昔、本郷で八百屋で火事で、娘がお七だ。お七がアワくって、こしょうをなめて、武兵衛の釜ァ破って逃げ出して、お茶の水へ落っこってオマワリにとっ捕まった」
とやると
「そうじゃあるめえ。昔、本郷二丁目の八百屋お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶり。おまえの娘に火刑になるてえんだろう」
「うーん、もう女房に聞きやがったな」

底本:初代三遊亭円遊

★auひかり★

【しりたい】

円生の持ちネタ

原話は、寛延4年(1751=宝暦元)刊の笑話本『軽口浮瓢箪』中の「名の仕返し」。

これは、男達の親分の息子の元服式に別のなわばりの親分が祝いに訪れ、息子が庄兵衛と改名すると知ると、「それはいい名だ。昔、獄門になった大泥棒、日本左衛門(本名、浜嶋庄兵衛)にあやかろうというのだな」と、嫌味を言って帰ります。

おやじは腹を立て、「いつか仕返しをしてやろう」と思ううち、その親分に女の子が生まれと聞いて、さっそく出かけていき、名を聞くとお七。「なるほどいい名だが、火の用心をなさいよ」と、嫌味を言い返して引き上げたというお話。

天和3年(1683)、自宅放火のとがで、数え十七(一説に十六)で火刑になった本郷の八百屋の娘お七の伝説を踏まえ、パロディー化したものの一つで、現存する最古の速記は、明治23年(1890)「百花園」に連載された初代三遊亭円遊のものです。

その後、初代柳家小せん、五代目三升家小勝らが大正から昭和初期まで高座に掛け、その後途絶えていたのを、戦後六代目三遊亭円生が復活させました。円生没後は後継者はありません。

円生のオチは、「火をつけたらどうしたというんだ」「だから火の用心に気をつけねえ」というもので、ここから「火の用心」の別題があります。

ほかに「お産見舞い」とも呼ばれますが、別話「お七の十」の別題も「お七」というので、それと区別するためでもあったでしょう。

落語、歌舞伎、お七伝説

お七伝説は、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に取り入れられるなど、歌舞伎ではポピュラーな題材です。落語でも「強情灸」のオチに使われるほか、マクラ噺で「もぐら泥」「七段目」などにも使われます。「本堂建立」では、托鉢坊主が髪結いで、自分は実はお七の恋人吉三の後身だとヨタ話をします。

釜屋武兵衛

噺の中に出る「釜屋武兵衛」は、芝居や浄瑠璃でお七に横恋慕する人物で、やはりお七伝説をパロディー化した河竹黙阿弥の歌舞伎世話狂言「三人吉三」でも悪役として登場します。

湯灌場

八五郎が嫌がらせを並べ立てる場面に登場する「湯灌場」。現在でも「湯灌」といって、納棺や葬式の前に、遺体を湯で洗い清める風習が広く残っています。江戸時代は、地主や家持ちは自宅で、借家人は納棺して寺に運び、墓地の一隅の湯灌場で行いました。1坪程度の空間でした。地主や家持ちでない者は民家で湯灌することがご法度でした。

湯灌場買い

江戸時代には「湯灌場買い」と呼ばれる業者がいました。湯灌場で死者から脱がせた衣服を買い取る商売です。古着屋です。死者には経帷子を着せる風習でした。

歌舞伎では、黙阿弥作「湯灌場吉三」の主人公がこの湯灌場買いをなりわいにしています。「真景累ケ淵」の「聖天山」に湯灌場が描写され、「ちきり伊勢屋」では若だんなが、生き弔い(生前葬)で湯灌の代わりに風呂に入ります。「こんにゃく問答」でも「湯灌場踊り」の話が出ますが、実態は不明です。

経帷子

経帷子とは、死者に着せる着物をいいます。白麻などでつくり、その白地に真言、名号、題目などを書いて死者を冥土に送るものです。ですから、仏教での葬式で行われるものです。きょうえ、寿衣とも。

縁起かつぎ

この噺では、ゲンかつぎの人間にわざと縁起の悪いことを並べて嫌がらせするくだりが中心ですが、こうしたモチーフは、ほかに「かつぎや」「しの字ぎらい」「けんげしゃ茶屋」(上方)などがあります。

よくある都会のデカダン趣味、偽悪趣味のの一種でしょう。やられる人間もけっこう楽しんでいるわけで、こうしたことにムキになって怒ると、シャレのわからないヤボ天としてよけいばかにされ、いじめられるわけです。

土左衛門

ドゼエムともいいます。水死体のことで、享保年間の関取、成瀬川土左衛門の顔色が悪く、水死人にそっくりだったことからとも、肥った人間を称した「どぶつ」の変化ともいわれます。

お初徳兵衛

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」(元禄16=1703年5月、大坂竹本座初演)のカップル。大坂内本町の醤油屋の手代と、北新地「天満屋」抱えの芸妓(芝居では遊女)で、同年4月7日に梅田堤(同・曾根崎の森)で心中したものです。落語でも「船徳」のもととなった同題の人情噺があり、五代目古今亭志ん生が好んで演じました。

【語の読みと注】
湯灌場 ゆかんば
伯父貴 おじき
骨揚げ こつあげ:火葬にした死者の遺骨を拾い上げること。灰よせ、骨拾い
餓鬼 がき
戒名 かいみょう
ご託宣 ごたくせん
土左衛門 どざえもん
小姓 こしょう
釜屋武兵衛 かやまぶへえ
市中引き廻し しじゅうひきまわし
軽口浮瓢箪 かるくちうかれひょうたん
男達 おとこだて:江戸初期の侠客
元服 げんぷく:成人式
獄門 ごくもん
京鹿子娘道成寺 きょうかのこむすめどうじょうじ
河竹黙阿弥 かわたけもくあみ
三人吉三 さんにんきちさ
経帷子 きょうかたびら:死者に着せる着物
湯灌場買い ゆかんばがい:死者の着物を買い取る古着屋
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
生き弔い いきとむらい:生前葬
聖天山 しょうてんやま
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
お初徳兵衛 おはつとくべえ
曾根崎心中 そねざきしんじゅう

近江八景 おうみはっけい 演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

うんちく垂れ流しのはなし。ちょいとオチが苦しいですが、けっこう笑えます。

【あらすじ】

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

★auひかり★

【しりたい】

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。上方落語研究家の故・宇井無愁は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」を挙げています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝が手掛け、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西の正蔵、1929年没)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以後では、六代目三遊亭円生が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。三代目三遊亭金馬、五代目三升家小勝もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところですが、じつは古今亭志ん朝がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘
石山の秋月
堅田の落雁
粟津の晴嵐
矢橋の帰帆
比良の暮雪
唐崎の夜雨
瀬田の夕照

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。

「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。

「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。

「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する人情噺「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目円生は『円生全集別巻』の補説で、あるいはこの噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。江戸時代、当時の領主中山信敬が儒者亀里亀章に選ばせたものだそうですが、元ネタがあるのでそれに見合った場所を選定するだけの労力で済みます。

竜子の晴嵐
二本松の秋月
関根の夕照
永田の落雁
能仁寺の晩鐘
天南堂の暮雪
荒崎の夜雨
高戸の帰帆

元祖「瀟湘八景」のパクリです。こんなが日本中いたるところにあり、今では饅頭や最中なんかが販売されています。経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。湖南省長沙市のあたりです。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

【語の読みと注】
算木 さんぎ:易で使う四角の棒。約9cm、6本でセット
筮竹 ぜいちく:易で使う竹ひご状の棒。35cm~55cm、50本でセット
沢火革 たくかかく:易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済 すいかきせい:易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸 くつのかけ
浮御堂 うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景 しょうしょうはっけい

【古今亭志ん朝 近江八景】

★auひかり★

梅若礼三郎 うめわかれいざぶろう 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

珍しいはなし。お能の世界を描いています。

【あらすじ】

梅若礼三郎という能役者。

ある時、老女の役がついたが、どうしても歩き方の工夫が付かない。

神田明神に願掛けをして十二日目、ふと見かけた老婆の足取りからコツがつかめたので、喜んで礼を言うと
「手本を当てにしているようでは、いい役者になれない」
とさとされ、
「ああ、しょせん、オレは素質がない」
と悟る。

それならいっそ太く短くと、心を入替えて大泥棒として再出発。

金持ちから奪い、貧乏人に恵むという義賊として名を上げた。

神田鍋町の背負い小間物屋の利兵衛。

三年以前から腰が抜けて商売にも出られず、女房のおかのは、内職をしながら看病を続けていた。

女の細腕で暮らしは支えきれず、亭主には願掛けと偽って、心ならずも鎌倉河岸で物乞いを。

北風の吹く寒い晩。

もらいが少なく、これでは亭主に粥をすすらせることもできないと、途方に暮れていると、黒羅紗の頭巾、黒羽二重の対服に、四分一ごしらえの大小という立派な身なりの侍が現れ、ずっしりと重い金包みを手渡すと、そのまま行ってしまった。

数えてみると、小粒で九両二分。

貧乏人には夢のような大金。

おかのは観音さまの思し召しと大喜びしたが、みだらなことをして得た金と疑われてはならないと、亭主には言わず、一両だけ小出しにし、残りは亭主の病気が治って商売を始める時の元手にと、大切に仏壇の引き出しに隠す。

それをのぞき見していたのが、隣長屋に住む遊び人の魚屋栄吉という男。

「こいつはしまっておくのはもったいねえ、オレが使わせてもらう」
と、夜中に忍び込み、八両二分の金をまんまと盗み出して、そのまま吉原は羅生門河岸の池田屋というなじみの女郎屋で大散財。

ところが、ふだんに似合わず太吉の金遣いがあらいので、不審に思った見世の若い衆の喜助が主人に報告。

調べてみると、一分金に山型に三の刻印。

これは、芝伊皿子台町の金持ち三右衛門方から盗まれた六百七十両の一部で、お上から布礼が回っていた金と知れた。

翌朝。

いい気分で見世を出たとたん、たちまち太吉はお召し捕り。

すぐに利兵衛方から盗んだと白状に及んだので、利兵衛の家に獲り方が踏み込む。

しかし、病人なのですぐにはしょっぴかず、たまたま湯に行って留守だったおかのを急いで呼びにやり、大家立ち会いの上でおかのから事情聴取すると、侍から恵まれたとは言うものの、恩を受けた義理から、頑として人相風体を隠し通したので、おかのはお召し捕り。

長屋の衆は、おかのの苦労を知っているだけに、早くお解き放ちになるよう水垢離 ごり)を取って祈るが、おかげで体が冷えきって、一杯やって温まろうと居酒屋に入って、お上は血も涙もねえと憤っている話を、たまたま衝立一つ隔てて聞いていたのが、三右衛門方に押し入り、おかのに金を恵んだ張本人の礼三郎。

善意でしたことが、かえって迷惑を及ぼしたことを悔やみ、これより南町奉行・島田出雲守に名乗り出て、貞女おかのの疑いを晴らす。

底本:六代目三遊亭円生

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

円生十八番はタンカが売り物

「しじみ売り」と同じく、盗賊ものの人情噺で、講釈ダネと思われますが、原話は不明です。

梅若礼三は、実在の記録はないので、あくまで架空の人物ですが、梅若が自首した町奉行島田出雲守守政は実在しました。

ただし、記録では北町奉行で、寛文7年(1667)-延宝9年(=天和元、1681)までの在任。その時代の話という設定なのでしょう。

「磯の白波」と題した、明治23年(1890)4月の七代目土橋亭里う馬(1848-1920)の速記が残り、同時代の四代目橘家円喬、三代目三遊亭円馬も演じました。

里う馬、円喬の速記を基に、戦後、六代目三遊亭円生が磨き上げたもので、昭和32年(1957)初演。

上中下三部に分かれ、発端から、魚屋太吉逮捕までが上、おかの逮捕までが中。以下、幕切れで礼三が自首するため、切れ目はいずれもお召し捕りの場面となっています。円生の工夫でしょう。

円生は芸談で、取り調べの八丁堀の切れのいい「べらんめえ」を、安藤鶴夫(評論家、作家)にほめられたと自慢しています。

ライバルだった八代目林家正蔵(彦六)も演じましたが、円生在世中はほとんど同人の専売で、没後は門下の三遊亭円窓が継承しています。

博徒が魚屋とは

「猫定」にも登場しますが、遊び人はバクチ打ちで、初めから博徒と知れればどこの大家も店を貸してくれないので、表向きは魚屋と名乗っているわけです。

梅若

梅若家は能楽・観世流の流れをくむ名家です。本家は梅若六郎を代々名乗り、昭和54年(1979)に没した五十五代目は芸術院会員でした。その祖父、梅若万三郎(1868-1946)が大正9年(1920)に独立して「梅若流」を起こしましたが、それまではずっと観世流の一支流でした。

昭和32年(1957)、梅若宗家の若だんなが大映の映画俳優「梅若正二」を名乗り、「赤胴鈴之助」シリーズで人気を博したことがあります。

刻印

こっくい。大判・小判、一分金などには偽造防止と、出所がわかるように、各家の紋所の焼印が押されていました。これが刻印で、江戸ことばで「こっくい」と発音されます。盗賊は刻印のため足がつくので、強奪した金をすぐには使えず、何年も隠して「寝かせて」おかなければなりませんでした。

鍋町、鎌倉河岸、伊皿子台町

利兵衛・おかのが住む鍋町は千代田区神田鍛冶町一、二丁目。鋳物師が多く住んでいました。

おかのが袖乞いをしていた鎌倉河岸は、千代田区内神田二丁目、旧鎌倉町の外堀沿いの河岸で、幕府草創期に、江戸城改装のための石材を、鎌倉から船で運び、ここから荷揚げしたことからついた地名です。

梅若が六百七十両盗んだ芝伊皿子台町は、港区高輪一、二丁目です。

四分一ごしらえ

刀の装飾の金具に、朧銀、つまり銀一・銅三の合金が使われているものです。

実在した、梅若礼三郎

といっても、こちらは昭和の時代劇俳優。昭和初期には阪妻プロの主役級で、昭和2年(1927)から32年(1957)ごろまで、50本以上の映画に出演しました。前身が梅若流の能役者の出なのか、この噺から芸名を付けたのかはわかりません。「梅若礼三郎」が「梅若礼三郎」を演じていればおもしろかったのですが、残念ながらそうした映画の記録はありません。

【語の読みと注】
黒羅紗 くろらしゃ
黒羽二重 くろはぶたえ
刻印 こっくい
水垢離 みずごり

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

開帳の雪隠 かいちょうのせっちん 演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

のんきでばかばかしいけど、うなずける噺ですね。

別題:開帳

【あらすじ】

回向院で開帳があるというので、参拝客を当て込んで、雪隠を一人四文ずつ取って貸し、銭もうけをしてやろうという、二人組。

四方へ青竹を立て、四斗樽を埋めて板を二枚渡してあるだけのお粗末な代物だが、とくに女の参拝者にはあるだけまし、というもの。

当日、うまく目算が当たって、押すな押すなの大盛況。

「さあ、はばかりはこちら。御用のお方は向こうで切符をお早めに。お一人普通席四文、特等八文。へーい、特等さんご案内ッ」

大入り満員、札止め。まるで相撲場のようだ。

五、六日はこうして、ジャラジャラと銭がもうかったが、これはいかに、急にぴったり客足が止まり、しまいには、猫の子一匹小便をしに来なくなった。

「はて、おかしい、当節の人間は小便をしなくなったらしい。そうするてえと、したくなるオレはいったいなんだろう」
と、少しボンヤリした一人が頭をひねっていると、これよりは多少目はしの利く相棒が、顔色を変えて戻ってくる。

「おい、いけねえ。商売敵ができた」

向こうの方が同じ値段で、清潔できれいだというから、客が流れるのは当たり前。

あわてて「元祖雪隠」と看板を出してもダメ。

ボンヤリした男、なにを考えついたのか
「ちょいと行ってくる。おめえ一人で番をしていてくんねえ」

しばらくすると、あら不思議、突然客が続々と押し寄せる。

相棒、うれしい悲鳴をあげて、
「はい、いらっしゃい、こっちが普通、向こうが特等。はい、切符はこちら。押さないで、押さないでェ」
と一人二役で大奮闘。

銭はたまったが、くたびれ果てた。

夕方、出ていってそれっきりだった相棒が、ようやく帰ってくる。

なんだか、こちらも疲れた顔。

「おい、どこィ行ってたんだ。オレ一人で、てんてこ舞いしてたんだぞ。それにしても、どうして、ああ急に客が大勢……」
「そりゃ、来るはずだ」
「どうして」
「向こうの雪隠へ行って、四文で日暮れまでしゃがんでた」

底本:六代目三遊亭円生

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

隠れた円生十八番

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「貸雪隠」。古い形では、舞台は上野の不忍弁天の開帳。

オチは同じですが、筋立ては少し違っていて、開帳を当て込んで、一人五文の女子用有料雪隠を貸して、ボロもうけした男を見て、オレもというのでまぬけ亭主が、二番煎じはダメと言うかみさんの反対を押し切り、やはり貸雪隠を建てるが、さて……というわけ。

オチがちょっと小味の効いた、なかなか優れた小品ですね。短い噺なので、比較的多くの演者が手掛けますが、六代目三遊亭円生はこの噺が気に入っていたらしく、「開帳」の演題で速記・音源を残しています。円生は、主人公二人を回向院近くの駄菓子屋の老夫婦として演ずることもありました。 

珍品「御印文」

円生はマクラに、やはり開帳の寺をを舞台にした「御印文」という小咄を振ることがありました。あらすじを簡単に記すと以下の通りです。

ある開帳で、霊験あらたかな御印文を額に押してくれるというので、ある男が仲間を誘ったが、一人がどうしても嫌だと言う。ついてくるだけでいいからとなだめすかして出かけた帰り道に、茶屋に入って、そこの老婆にその御印文のことを話し、「この中にこんなありがたいものをいただくのを拒んだ変わり者がいるが、どいつかあててごらん」と持ちかけると、婆さんはすんなり当てる。一同驚いて、「もう御印文は消してあるはずなのに、どうしてわかった? もう霊験が現れたのかしらん」と聞くと、婆さん、「この方がいちばん利口そうだから」

皮肉なオチで、これは「お血脈」のマクラに付けることもあり、こちらは円生から、門下の三遊亭生之助に受け継がれています。

出開帳

開扉ともいい、各地の名刹が、厨子を開いて秘仏を公開するイベントです。平安末期から、広く行われました。よそへ出張して行うのを出開帳と呼び、今のデパートの特別展に似ています。

開帳の当日は縁日が立ち、たいへんなにぎわいでした。各宗派、寺によって、多いときは三年に一度、まれなものは六十年に一度というのも。有名なところでは身延山久遠寺、成田不動尊、浅草の観世音など。諸国からの出開帳は、この噺のように、おもに両国の回向院境内を借りて行われました。

雪隠

せっちん。上方では同じ字で「せんち」と読みます。語源は、中国の雪竇禅師が、浙江省の雪隠寺で厠の掃除をしていたという故事により、禅宗で寺名の「雪隠」がトイレを指すようになったことから。

【語の読みと注】
雪隠 せっちん トイレ
御印文 ごいんもん
雪竇禅師 せっとうぜんじ
厠 かわや トイレ
雪隠寺 せついんじ

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

穴子でからぬけ あなごでからぬけ 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

与太郎にからかわれる短い噺です。円生の逃げ噺としても使われました。

【あらすじ】

与太郎が、源さんとなぞなぞの賭けをする。

まず十円賭けて
「まっ黒で大きくて、角があって足が四本あって、モーッと鳴くもの、なんだ」
「てめえが考えつくのはせいぜいその程度だ。牛に決まってら」

これでまず、十円負け。

今度は、よせばいいのに二十円に値上げして
「じゃ、もっと難しいの。やっぱり黒くて嘴があって空飛んで、カアーッって鳴くもの」
「どこが難しい。カラスだろ」

次は犬を出して簡単に当てられる。

いくら取られても懲りない与太郎、こともあろうに今度は五百円で、
「絶対に当たらない」
という問題。

「長いのがあれば短いのもある。太いのも細いのもあって、つかむとヌルヌルするもの、なあーんだ」
「この野郎、オレがヘビだと言やあウナギ、ウナギと言やあヘビと言うつもりだな。ずるいぞ」
「じゃ、両方言ってもいいや」
「ヘビにウナギだ」
「へへっ、残念。穴子でからぬけ」

与太郎、次にまた同じ問題を出すので、源さん
「ヘビにウナギに穴子だな」
ってえと与太郎、
「へへっ、今度はずいきの腐ったのだ」

底本:六代目三遊亭円生

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

なぞかけ勝負

最後の「長いのもあれば……」のくだりの原話は明和9年(1772)刊の小咄本『楽牽頭』中の「なぞ」で、ここでは、最初にまともに「うなぎ」と言い当てられ、続けて同じ問題で、今度は「蛇」と答えたのを「おっと、うなぎのつら(面)でござい」と落としています。

前の二問も、おそらくそれぞれネタ本があったか、代々の落語家がいろいろに考えたものが、いつしかこの形に固定したのでしょう。

原話では、このなぞなぞ遊びは「四割八分」の賭けになっています。これは、勝つと掛け金が5倍につくという、ハイレートのバクチで、最初は一両のビットですから、「うなぎ」と答えた方は五両のもうけですが、これが恐ろしい罠。イカサマ同然の第二問にまんまとひっかかり、今度は何と二十五両の負けになったしまったわけです。こうなると遊びどころではなく、血の雨が降ったかもしれません。

からぬけ

完全に言い逃れた、または出し抜いたの意味です。題名は、穴子はぬるぬるしていて、つかむとするりと逃げることから、それと掛けたものでしょう。

ずいき

サトイモの茎で、「随喜」と当て字しますが、特に「肥後ずいき」として、江戸時代には淫具として有名でした。艶笑落語や小咄には、たびたび登場します。オチの通り、帯状の細長いもので、これを何回りも男のエテモノに巻きつけて用いたものですが、「効果」のほどは疑問です。

隠れた「円生十八番」

六代目三遊亭円生が、いわゆる「逃げ噺」として客がセコなとき(客種が悪く、気が乗らない高座)で演じた噺の一つです。円生のこの種の噺では、ほかに「四宿の屁」「おかふい」などが有名でした。普通は前座噺、またはマクラ噺で、円生は普通「穴子でからぬけだ」で切っていました。

「からぬけ」からの噺家

四代目柳家小さんは、その『芸談聞書き』(安藤鶴夫・述)で、昔は楽屋内で「『穴子でからぬけ』からやった」というと、天狗連から化けたのではなく、前座からちゃんとした修行を積んだという証しで、大変な権威になっていた、と語っていました。明治大正では、入門して一番最初に教わるのが、この噺であることが多かったのでしょう。相撲で言う「序の口(前相撲)から取った」と同じことですね。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

文七元結 ぶんしちもっとい 演目

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

スヴェンソンの増毛ネット

四段目 よだんめ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 足あがり(上方) 蔵丁稚(上方)

【あらすじ】

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?

天明8年(1788)刊の笑話本『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり

明治32年(1899)の六代目桂文治の速記では「碁泥」につなげて演じられています。定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝、二代目三遊亭円歌がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

改作と類話

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。現在演じられるのはこの「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

【語の読みと注】
蔵丁稚 くらでっち
師直 ものなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

一人酒盛 ひとりさかもり 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方噺。酒好きにはこたえられません。

別題:一人酒

【あらすじ】

これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留公。

無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。

造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らない、いい酒とか。

本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。

「のみ友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだ」
とお世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。

いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。

熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬け物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。

今か今かと、「のめ」と言ってくれるのを待っているのだが、熊は一人でガブガブのみ、勝手なご託ばかり並べ立てるだけ。

ついにがまんしかねて、留が
「うまいかい?」
とせいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから
「のんでるときに、なにか言っちゃいけねえ」
と、熊の耳にも入らない。

「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」

「いっしょにのみてえのは留さんだけだ」
と繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。

そのうち刺し身をムシャムシャ食い出し、これも独り占め。

そろそろ完全にベロベロになってきて、なにかうたえと、からむからぶつくさ言うと、
「なに、もそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持ちになんなきゃいけないよォ」

留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。

熊、
「どじ助のまぬけ、こんなに煮っくりかえしちまって」
と毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。

そこで五合はおつもり。

「無冠の太夫おつもり」
などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」
などと言うに及び、留の怒りが爆発。

「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがればか野郎ッ」

畳をけり立てて、帰ってしまう。

隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

六代目松鶴の酒乱噺

上方の噺で、酒のみの地を生かした六代目松鶴の十八番でした。

東京でこの噺を得意にした六代目三遊亭円生がどちらかといえば、根は好人物という人物造形だったのに対し、松鶴の主人公は酒乱そのものでした。

大阪では、もともと、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年、83歳で没)が得意にし、そのやり方は桂米朝が直伝で継承していました。

南天や米朝のでは、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入ります。

円朝の名人芸

『明治世相百話』には、明治28年(1895)秋、すでに引退していた三遊亭円朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「円朝会」に出席、トリにこの「一人酒盛」を演じたことが記されています。

著者は山本笑月(1873-1936)。明治を代表するジャーナリストの一人。浅草花やしきの創設者、山本金蔵の長男で、長谷川如是閑や大野静方は実弟です。条野採菊が経営するやまと新聞から朝日新聞に移り、文芸部長、社会部長などをつとめました。病を得て退社した後は、療養生活と江戸明治文化の研究に励みました。『明治世相百話』は昭和58年(1983)に中公文庫から復刊されました。今では絶版ですが、古本でまだ入手できます。この本には円朝の意外な面が活写されてあります。

山本笑月によると、円朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、円朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えた、ということです。名人芸のきわみでしょうか。

東京では円朝の高弟、二代目三遊亭円橘が最も得意にしました。六代目円生は、子供のころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとに構成したそうです。

七十五日どころか

七十五日は「ほんのわずかな期間」という意味。「人のうわさも七十五日」「初物を食えば七十五日生き延びる」などと、江戸ではよく「七十五日」を使いますが、この数字の根拠は不明です。六代目円生も「よくわかりません」と言っています。

この噺に関しては、酒はすぐ醒めるから、命が延びてもほんのわずか、と逆説的な意味を含むのかもしれません。

おつもり

正確には「積もりっこ」で、杯を納めることです。酒席で、その酌を最後に終わりにするときに「おつもりで」と使います。ここではさらに、『平家物語』の登場人物、無官太夫の平敦盛を掛けたダジャレでもあります。

【語の読みと注】
留公 とめこう
ご託 ごたく:ご託宣の略。くどくど。「ごた」とも
平敦盛 たいらのあつもり

夏の医者 なつのいしゃ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方噺。機転がきくようで、その実、おまぬけな。愛すべき人物です。

【あらすじ】

夏の真っ盛り。

鹿島村の勘太が患って食欲がなく、飯を茶碗七、八杯しか食えない。

年だし、もういけないかもしれないと、せがれが思っていると、見舞いに来たおじさんが、
「隣の一本松村の玄伯先生に往診してもらえばよかんべえ」
と言う。

せがれ、さっそく留守を頼んで、ばっちょう笠に襦袢一枚、山すそを回って六里の道を呼びに行く。

尋ね当てると、玄伯先生が褌一つで草取りをしていたので、さっそく頼み込み、せがれが薬籠を持って、二人で隣村を出た。

山越えの方が近道だと先生が言うので、あえぎあえぎ登ったが、頂上まで来ると二人とも滝を浴びたような汗。

休憩して汗が引っ込んだところで、さあ出かけべえと立ったとたん、
「先生、先生」
「はいはい、ここだよ」
「あんか、いっぺんに暗くなったでねえか」

急に日が暮れたわけでもなし、はておかしい、と思ううち、周囲がなにやら温かくなってきた。

両手で手探りして先生はたと思い当たり
「あっ、こりゃいかねえ。この山に年古く住むうわばみがいるてえことは聞いちゃいたが、こりゃ、のまれたか」
「どうするだ、先生」
「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべえ」

脇差を忘れてきて、腹を裂いて出ることもできないので、先生しばらく思案して、せがれに預けた薬籠の中から下剤を出させ、それをまいてみると、効果はてきめん。

うわばみは七転八倒。

苦しいからあっちへばたり、こっとへばたりと左右に揺れる。

「薬効いてきたなこりゃ。向こうに灯が見えべえ。尻の穴に違えねえから、もちっとだ」

ようやく二人は下されて、草の中に放り出された。

転がるように山を下り、先生、さっそく診察すると、ただの食あたりとわかった。

「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」
「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」
「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障ることあるだで」

薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきて、ない。

困った先生、もう一度のまれて取ってこようと、再び山の上へ。

うわばみ、土用のさ中に下剤をかけられたので、すっかり弱って頬の肉がこけ、松の大木に首をだらんと掛けてあえいでいる。

「あんたにのまれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺんのんでもれえてえがな」
「いやあ、もういやだ。夏の医者は腹へ障る」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方起源の医者ばなし

明和2年(1765)、京都で出版された『軽口独狂言』中の「うわばみの毒あたり」、ついで安永5年(1776)、大坂刊の『立春噺大集』中の「医者の才覚」が主な原話です。

前者はオチが「夏坊主は腹の毒じゃ」となっていて、当時の医者の多くが僧形だったことに掛けています。

内容から想像されるように、さらに遡れば、全国に広く流布した民話がもとになっているようです。

上方では古くは、フカが婆さんをのみ込む「兵庫船」と混同されて医者がウワバミならぬフカにのまれ、「こんな臭え医者のんだことねえ」とオチることもあったそうですが、現在は用いられません。

巧妙円生、爆笑枝雀

東京でもかなり古くから演じられ、四代目橘家円蔵から六代目三遊亭円生に直伝で継承されました。

円蔵はちしゃには触れず、単に「夏の医者にはこりた」とオチていましたが、その伏線の不備を円生が上方の演出を加味して現行に改め、巧妙な田舎ことばで十八番にしました。

大阪では、桂枝雀のものが、はでなオーバーアクションで、これまた当り芸でした。

チシャの胡麻よごし

チシャは「萵苣」と書き、萵苣筍と葉萵苣があります。この噺ではたぶん葉萵苣で、西洋ではレタス、日本では小松菜が同族の品種です。上方落語に「ちしゃ医者」という噺がありますが、まったく別話です。

ばっちょう笠

「番匠笠」のなまったことばです。竹の皮を張った、浅く大きな笠で、延宝年間(1673-81)から作られました。江戸では駕籠屋がよくかぶりました。

下剤

江戸時代には、普通、大黄の粉末を用いました。桂米朝の十八番「地獄八景亡者の戯れ」では「大王(=大黄、閻魔大王と掛けた)のんで下してしまう」と、ダジャレオチに用いられています。

薬籠

やくろう。医者の携帯用の薬箱です。桐の小箱で、引き出しがあり、その中は細かく仕切られていました。普通、往診の際は供に持たせます。

「自家薬籠中のもの」という慣用句は、医者は自分の薬籠中のどこにどんな薬がしまってあるかわからないと商売にならないことから、物事を完全に知り尽くしていること、狭義ではある分野の知識や技術を完璧に自分のものとして使いこなせていることをいいます。

六代目円生の芸談

「ここに出てくる玄伯老は、医者といっても、山頂で休むときも作物の話をしているようなお医者様で、本職は百姓なのですから、そういう気分を出すことが大切でしょう」

【語の注】
薬籠 やくろう
番匠笠 ばんじょうがさ→ばっちょうがさ
萵苣筍 ちしゃとう
葉萵苣 はちしゃ
大黄 だいおう

松山鏡 まつやまかがみ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

【あらすじ】

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男、十代目馬生も演じました。

累伝説のパロディー

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

『北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山まいり」「坊主の遊び(剃刀)」がお女郎さんを丸刈りにする噺です。

インチキなまり

八代目文楽が自伝『あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

語の注】
あおざし 青緡、青繦:銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの。
かんもん 貫文:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫。
ほうきょうのかがみのたとえ 宝篋の鏡の喩
ひがしくびきぐん 東頸城郡
やたのかがみ 八咫鏡
つづら 葛籠
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之著
累伝説 かさねでんせつ

酢豆腐 すどうふ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【RIZAP COOK】

江戸から上方へ行って「ちりとてちん」に。キザ者を茶化す悪ふざけが過ぎます。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若だんな、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてえものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の「大通法語」に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の「文藝倶楽部」に掲載された初代柳家小せんの速記から、若だんなの洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げえせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊「聞上手」中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生、古今亭志ん朝が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別演出で、石けんを食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵から、二代目三遊亭円歌、三代目三遊亭金馬に伝わっていました。「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石けんで……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目小さん門下だった初代柳家小はんが豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。大阪に移植され、古くは三代目林家菊丸が得意にしたほか、初代桂春団治も得意にしました。

東京では五代目柳家小さん、桂文朝などがこちらで演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

【語の読み】
乙 おつ
簪 かんざし
江戸生艶気樺焼 えどうまれうわきのかばやき
拙 せつ

【RIZAP COOK】

江島屋騒動 えじまやそうどう 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

円朝の怪談噺。舞台は江戸、下総、さらに江戸。イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

【あらすじ】

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

円朝の怪談噺

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

戦後、五代目古今亭志ん生がよくやりました。並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔と六代目三遊亭円生。円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵

円朝の最初の妻をお里といいました。その父親は倉岡元庵といいました。御徒町に住むお同朋だったそうです。お同朋、同朋衆はいろいろの職種がありましたが、倉岡は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。権力をかさに着た人々の一人だったようです。円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は後年、朝太郎のために苦しめられていました。

五代目志ん生が復活

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町

しばひかげちょう。港区新橋二-六丁目にあたります。日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

江島屋の「その後」

大正末期ごろまで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座2-8丁目)で質屋をしていたとのこと。歌舞伎座近くのため、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

【語の読み】
深川佐賀町 ふかがわさがちょう
倉岡元庵 くらおかげんあん
下総 しもふさ
大貫村 おおぬきむら
檀那寺 だんなでら
幸福寺 こうふくじ
芝日陰町 しばひかげちょう
神崎川 こうさきがわ
袷 あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田 ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影 かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし