こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目

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【どんな?】

蒟蒻屋と托鉢僧との問答。
無言の話芸。
仕方噺の極致。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白(あじろ)笠を手にした坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善と名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒でぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買ってでた。

「問答を仕掛けてきたら黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、咳払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

さて翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾も無く頭もなく、中の鰭骨を保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧もと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海のごとし』というお答え。『十方世界は』と申せば『五戒で保つ』と仰せられ、『三尊の弥陀は』との問いには『目の下にあり』。いや恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、千住焼き場の僧侶から落語家になったといわれる二代目林屋正藏(不詳-不詳、沢善正蔵、三代目説も)が、嘉永年間(1848-54)に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽(本名不詳、不詳-1847、中橋の→楽翁)とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝(平林平太夫、1554-1642)からして高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきはきわめて強いのです。

落語はもともと、節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。

関山和夫(1929-2013)の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。

明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。

とはいえ、落語協会会長だった(中澤信夫、1932-2017)が日蓮宗の僧籍(中澤圓法)にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。

このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺」といいます。目で見る落語のことです。

愛宕山」「狸賽」「死神」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのですが、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものはほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨(きこつ=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十万世界」は、東西南北、艮(北東)、巽(東南)、坤(南西)、乾(西北)の八方位に上下を加えた世界で、広大無辺の宇宙を表します。

「五戒」は禅の戒律(タブー)で、殺生戒 殺さない偸盗戒 盗まない邪淫戒 エッチしない妄語戒 うそをつかない飲酒戒 酒を飲まないの五つをさします。

葷酒山門に入るを  【RIZAP COOK】

葷酒くんしゅ山門に入るを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。

「葷」とは、ネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、(加藤専太郎、1894-1964)の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝(渡辺儀助、1844-1916→桂文左衛門)が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」

【語の読みと注】

仕方噺 しかたばなし:動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨 きこつ:中骨
艮 うしとら:北東
巽 たつみ:東南
坤 ひつじさる:南西
乾 いぬい:西北
葷酒 くんしゅ:ネギやニンニなど臭気を放つ野菜

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ごうじょうきゅう【強情灸】落語演目



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【どんな?】

筋よりも表情や仕方(しぐさ)が命。
演技力が問われるなかなかの噺です。

 

別題:やいと丁稚(上方)

【あらすじ】

ある男が友達に、灸をすえに行った時の自慢話をしている。

大勢の先客が、さぞ熱いだろうと尻込みする中で、自分の番がきたので、すーッと入っていくと、
「この人ァ、がまんできますかな」
「まあ、無理でしょう」
と、ひそひそ話。

癪にさわった強情者、
「たかが灸じゃねえか、ベラボウめ、背中で焚き火をするわけじゃああるめえ」
と、先生が止めるも聞かばこそ、一つでも熱くて飛び上がるものを、両側で三十二もいっぺんに火をつけさせて、びくともしなかったと得意顔。

それだけならいいが、順番を譲ってくれたちょっといい女がニッコリ笑って、心で「まあ……この人はなんて男らしい……こんな人をわが夫に」なんて思っているに違いないなどと、自慢話が色気づいてくるものだから、聞いているほうは、さあ面目ない。

「やい、豆粒みてえな灸をすえやがって、熱いの熱くねえのって、笑わせるんじゃねえや。てめえ一人が灸をすえるんじゃねえ。オレの灸のすえ方をよっく見ろっ」

よせばいいのに、左腕にモグサをてんこ盛り。

「なんでえ、こんな灸なんぞ……石川五右衛門てえ人は、油の煮えたぎってる釜ん中へ飛び込んで、辞世を詠んでらあ。八百屋お七ィ見ろい。火あぶりだ。なんだってんだ……これっぽっちの灸……トホホホホ、八百屋お七……火あぶりィ……石川五右衛門……お七……五右衛門……お七……五右衛門……」
「石川五右衛門がどうした」
「ウーン、五右衛門も、熱かったろう」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

「やいと丁稚」と「強情灸」

江戸っ子の熱湯好きと強情のカリカチュアなので純粋な江戸落語という印象がもたれますが、実は、上方落語「やいと丁稚」が東京に移植されたものです。

両者を比べると、かなりのニュアンスの相違、東西の気質の違いが明白です。

「やいと丁稚」は、商家の主人が丁稚にやいと(灸)をすえ、泣き叫ぶので自分ですえてみせますが、あまりに熱いので「辛抱でけんかったら、こうやって払い落としたらええのや」とポンポンとはたく仕種でオチになるもので、子供の手前強がってみせるだけで結局がまんもなにもしませんから、強情噺でもなんでもありません。

古い商家の日常の一コマを笑い飛ばしたに過ぎないはなしでしょう。

その点、東京の「強情灸」のほうは、かなりの落語的誇張があるとはいえやせがまんという、いかにも「武士は食わねど…」の町らしい江戸っ子気質が前面に出ていますから、いわば本歌取りでまったく新しい噺を作ったに等しいといえます。

だいいち、プラグマティストの大阪人から見れば、こんなたわいなく子供じみたガマンくらべなど、ただのアホとしか見えないのではないでしょうか。

志ん生、小さんの強情くらべ

五代目古今亭志ん生、ついで五代目柳家小さんの十八番で、どちらを聴いても四、五十年前までは生き残っていた爺さん連、銭湯で水をうめようとするとどなりつけたという下町気質の人々を思い起こさせます。

いずれにしても「見る」要素の強い噺で、だんだん表情が変わり、顔が真っ赤になっていくところが見せ場です。

短いので、マクラ噺として、熱湯に入った男が強情を張り、「あー、ぬるい、トホホホ、あんまりぬるいんで気が遠くなっちゃった」「うん、ぬるくて、足に湯が食いつくね」「ぬるいってのに、あー、なんだ、こっちを向くな。動くんじゃねえっ」(志ん生)という次第になる小咄を入れます。

有痕灸と無痕灸があり、有痕灸の方は皮膚に直接モグサを乗せるので熱く、わざと火傷を作ってその強烈な刺激で、血液中に免疫物質を作り出して治す、というのが一応の能書きです。

無痕灸はずっと穏やかで、皮膚にショウガ、ニンニク、ニラ、杏の種、味噌、塩などを塗り、その上にモグサを乗せるので、痕も残らず苦痛もありません。

当然、この噺の灸は前者の有痕灸で、これは普通の人間で一回に米粒大のを一つ、それを五回程度といいますから一度に三十二すえたときの熱さがどれほどのものか。

やるほうもやるほう、やらせるほうもやらせるほうで、これは焼身自殺に近い、狂騒曲のさまです。

モグサ

ヨモギを乾燥させて精製したもので、伊吹山の麓が本場です。

モグサ売りの口上は、「江州伊吹山のほとり柏原、本家亀屋左京、薬もぐさよろし」というもので、節を付けて売り歩きました。

初代亀屋左京は江戸に出て、吉原のお女郎さんに頼んでこの宣伝歌を広めてもらった、というのが桂米朝師匠の説。

彦六の強情話

強情で「トンガリ」の異名があった、八代目林家正蔵(彦六)は熱湯好きで、弟子を引き連れて湯に行ってもうめさせず、尻込みしていると「てめえたちゃあ、へえらねえと破門だぞ」と脅したという、弟子の林家木久扇演じる「彦六伝」の一節。

志ん生のSP

昭和18年(1943)6月、「がまん灸」と題してテイチクレコードからリリースされました。

志ん生の戦前のレコードはこれが最後で、金原亭馬生時代の昭和10年(1935)2月に発売された「氏子中」以来、14種出されています。



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