【王子の狐】おうじのきつね 落語演目 あらすじ
狐が人に化かされた!
成城石井 演目 噺家 ことば 志ん生 円朝迷宮 むだぐち 故事成語 千字寄席
【どんな?】
狐が人に化かされてひどい目にあった、という珍談。もとは江戸前の噺なのです。
別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)
【あらすじ】
神田あたりに住む経師屋の由さん。
王子稲荷に参詣の途中、道灌山の原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。
「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこいつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、姐さん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」
起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。
正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母を連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋しております。あなたはどなた?」
由さん、笑いをかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげよう。ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしよう」
と持ちかけた。
狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。
連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋という料理屋の二階に上がる。
盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。
ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。
由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定はあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。
さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾を出すという、まさに化け物。
仲居(店の従業員)の悲鳴で、駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、ふてえやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げ出した。
一方、由さん。
帰ってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
と、さとされた。
そこで由さん、道灌山へ行ってみると、子狐が遊んでいる。
聞けば、おっかさんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷なんだとか。
由さん、「さては」と合点した。
平あやまり、餠を子狐に渡すと、由さんはたたられたくない一心、ほうほうの体で逃げ帰った。
子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。食べようよ」
「お待ち。食べちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」
【しりたい】
原話は江戸由来
正徳2年(1712)刊江戸板『新話笑眉』巻1の11の「初心な狐」が原話といわれます。
これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。
男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。
別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。
狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」
高倉狐
この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。
こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の2階となっています。
東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が逆移入したものです。
古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものが残っています。
先の大戦後では、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も得意でした。
三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)や五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)を経て、現在も多くの演者に継承されています。
類話「乙女狐」
上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。
「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれています。
狐の悪行
狐が登場する噺は、意外に多いものです。
「稲荷車」 「稲荷の土産」 「今戸の狐」 「王子の狐」 「王子の白狐」 「お盆」 「蛙の子」 「狐つき」 「狐と馬」 「木の葉狐」 「九尾の狐」 「けつね」 「七度狐」 「初音の鼓」 「紋三郎稲荷」 「安兵衛狐」 「吉野狐」
思いついただけでも、ざっとこんなに。
狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきました。
ずるい動物というイメージは東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は広く流布伝承されています。
王子稲荷
王子稲荷神社(北区岸町1-12-26)と王子神社(北区王子本町1–1-12)は別物です。
王子神社については下に記しました。
稲荷の本体は宇迦之御魂神(日本書紀では倉稲魂命)で、食物の神。五穀豊穣をつかさどります。
王子稲荷社は、東国(東日本)の稲荷の総社です。
大晦日には関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。
王子稲荷神社の拝殿
歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。下の浮世絵をご参照ください。
王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。
狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。
広重の浮世絵は、狐たちが衣装榎と呼ばれる樹木の下に集まって、身づくろいするシーンです。
現在は衣装榎はありませんが、その場所には装束稲荷神社(北区王子2-30-13)が立っています。
装束稲荷神社
そもそも、なんで稲荷神社と狐が関係あるのでしょうか。
狐は田の神の使い、ということになっているのです。
農村には必ずと言ってよいほど、稲荷神社があります。
これらの稲荷は、江戸時代に入ると、伏見稲荷大社の傘下に入っていきました。
それまではてきとうに建てられた稲荷の祠にも、伏見稲荷大社から分祀されたという縁起(由来)がもっともらしく語られるようになっていきました。
その証拠に、祠の裏には狐塚があったりします。もっともらしさの演出です。
京都でさかんな稲荷祭は、新暦3月(午の日)の神幸祭と4月(卯の日)の還幸祭で、神さまが社を出て旅所(みこしを留めおく場所)に渡り、その後、また社に帰ってくるのを祝い見守る儀式です。
その影響で、江戸でも春の初午(旧暦2月)には稲荷祭がさかんとなりました。
王子稲荷神社でも、初午の日には、絵馬を見せたりしています。
境内には「狐の穴跡」というのがあって、「王子の狐」の舞台にもなったところとされています。もちろん付会にすぎませんが、こういうのがあるのはおもしろいところ。
稲荷信仰
稲荷神社の祭神は、前述のように、宇迦之御魂神(日本書紀では倉稲魂命)です。
「ウカ」や「ウケ」は食物をさします。だから、この神さまは人間の根本を守る神としてあがめられてきました。
伊勢神宮の豊受大神と同一神とされることもあります。
この神も「ウケ」と称して、天照大神に食物をささげる神さまということになっています。
稲荷神=宇迦之御魂神(日本書紀では倉稲魂命)となります。
この神さまは秦氏が大陸から連れてきた神さまという説もあります。ということは、外来神です。
空海が稲荷明神を東寺の鎮守としたところから、稲荷信仰は真言宗が広めました。
稲荷神を仏教にからんだ神さまと同一視する傾向がありました。
稲荷神=宇迦之御魂神(日本書紀では倉稲魂命)=荼枳尼天。
荼枳尼天はインドの神さまです。
ただ、このような結びつけは、近世以降の付会(こじつけ)といわれています。
その実態はあてにはなりませんが、人の心がそのように向いていったところは看過できません。
さて。
天慶5年(942)には、正一位に叙せられ、官幣をいただけるようになりました。
官幣とは、神祇官から神社にささげられる品物すべて(これを幣帛といいます)をさします。
こういう神社は全国にそんなにありませんから、格の高い神社ということになります。
稲荷を称する神社は、全国に2,970社あるとされています。末社や摂社を含めると、32,000社ほども。
個人宅の屋敷神や淫祠も含めれば、もっと多くなります。当たり前ですが。
稲荷神社の「総本山」は、京都の伏見稲荷大社です。
「いなり」とは「稲生」だそうです。
食物全般と蚕糸をつかさどる神とされます。
蚕糸を大陸から持ってきたとされる、秦氏とのかかわりからなのでしょう。
稲荷の神さまが外来神だというイメージがつきまとっていたことから、荼枳尼天のように、仏教、あるいはヒンズー教などとからめる傾向がありました。
中世には、神仏習合が生じやすい条件がありました。
岡山の最上稲荷は日蓮宗の妙教寺であったり、愛知の豊川稲荷は曹洞宗の妙厳寺であったり。
伏見稲荷大社は空海の東寺の故事ともかかわりがあります。
空海の稲荷神とのかかわりは、こんなぐあいです。
熊野で修行していた空海は田辺で老人に出会った。身長は八尺(2m超)で奥ゆかしい顔立ち。老人は喜んで「私はかつてあなたに会ったことのある神である。あなたには威徳がある。私といっしょに修行して私の弟子となるがよい」と。空海も「かつて霊山であなたに会った時の約束はまだ忘れていません。私は密教を広めたいのです。仏法で私の大願をお守りください。京の東寺でお待ちしております」。その後、紀州で会った神が東寺の南門にやってきた。神は椙の葉を持ち稲を担ぎ、婦人二人と子供二人を伴っていた。空海はうやうやしく五人をもてなした後、十七日間祈祷して神に鎮まっていただいた。
これも、中世につくられた故事なのでしょう。
京都・伏見稲荷大社の千本鳥居
志ん生は捧腹絶倒
料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。
そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。
五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。
前半の2人(1匹と1人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。
「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に2階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。
筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。
同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。
海老屋と扇屋
男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋(北区岸町1-1-7 新扇屋ビル1階)で演じます。
海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。
町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業しています。
昭和以後では、扇屋に設定することが多くなったのでしょう。
扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。
現在の扇屋は名物の「玉子焼」を売るだけです。「厚焼玉子」と「親子焼玉子」の二種類。そりゃあ、美味です。
海老屋(一蕙齋芳幾)画文は山々亭有人
王子という地
古代、北区の王子の一帯は豊島氏の本拠地でした。江戸氏の同系です。
武蔵四駅のひとつ、豊島駅が置かれた地だったので、この地域の中心地でした。いまも、北区に「豊島」という地名が残っています。
鎌倉末期の14世紀、この地の領主豊島氏が、紀州(和歌山県)から若一王子宮(熊野権現)を勧請(分霊)して王子権現(王子神社)を建立しました。
この一帯が「王子」と称されるようになったゆえんです。
王子が江戸で評判の行楽地になったのは、八代吉宗によるところが大きいようです。
吉宗は紀州(和歌山県)の出身。紀州藩というのは大藩で、いまの和歌山県ばかりか、奈良県南部、三重県南部をも領地としていました。
熊野や伊勢ともかかわりのある藩だったのです。
ここがわからないと、吉宗と山田奉行(伊勢神宮の警備など)の大岡忠相とのなれそめも不可解としか映りません。それはともかく。
吉宗は、若一王子(熊野権現)とかかわり深い王子の地を知って故郷を懐かしみ、この地に飛鳥山を造成しました。
当時の江戸は寛永寺くらいしか桜の名所がなかったために、この地を花見の行楽地としました。これも享保の改革の一環でした。
飛鳥山(25.4m)の江戸最低山。1270本の桜を植えて、日本で有数の名所としたのです。
江戸に観光で来る人々は、飛鳥山をめざしたものです。飛鳥山を関取とした漱石枕流譚もありはしましたが。
「飛鳥山北の眺望」(歌川広重)『名所名所百景』より
成城石井 演目 噺家 ことば 志ん生 円朝迷宮 むだぐち 故事成語 千字寄席