しょうぐんせんげ【将軍宣下】ことば 江戸覗き


この項では、関ヶ原の戦いで勝った家康が、幕府を開くまでに、なぜ3年近くもの時間がかかったのかについて記します。

開幕まで  【RIZAP COOK】

関ヶ原の戦いから開府までの時系列です。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦いで家康方(東軍)が勝利
慶長6年(1601)8月 上杉景勝が上洛、臣従
慶長7年(1602)8月 島津家久が上洛、臣従
慶長8年(1603)2月12日 家康が征夷大将軍に任官、開府

上杉と島津が上洛して天皇に臣従を誓うまでに時間を要したことが、開府のもたもたとなったということです。

将軍の宣下  【RIZAP COOK】

家康の将軍宣下は伏見城で行われました。

朝廷では大納言広橋兼勝が上卿を務めて陣儀を行い、内大臣徳川家康の将軍任官と右大臣転任を決めました。

すぐに伏見城に勅使が出されました。その数200人以上だったそうです。

伏見城には、前もって武家昵近衆が祗候し、家康は上段中央に南面して座っていました。

勅使がお祝いを述べて着座。上卿らが家康に進み出ると、南庭で副使が二拝し「ご昇進、ご昇進」と大声を出します。

上卿が着座すると、将軍任官の宣旨が官務の壬生高亮から高家大沢基宿に渡され、大沢が家康の前に置きました。家康はこれを一覧し、宣旨の入っていた蓋に長井右近が砂金袋を入れて、壬生に返します。

局務の押小路師生が右大臣の宣旨を渡し、同様の手順で行われました。その後も、同じ手順で、源氏長者、淳和奨学院別当、牛車兵仗の宣旨が渡されました。儀式はこれで終わり。

参列した公家には役割ごとに金が渡され、武家昵近衆には夕餐がふるまわれました。

以上が、慶長8年(1603)2月12日の儀式のあらましです。

御礼の参内  【RIZAP COOK】

3月25日、家康は参内します。任官返礼と新年の挨拶が目的でした。

ときの天皇(後陽成)に銀子1000枚をはじめ、下級女官にまで、なにがしかの銀子を贈っています。

参内行列は九番編制で、譜代家臣、そのとき上洛していた諸国の大名をかき集めて構成したそうです。誰が見ても家康を超える実力者のいないこの時点では、どのようなにわか仕立てでも通用したのでしょう。

その後、二代秀忠の任官・宣下では、伏見城で受けはしましたが、返礼の参内では、八番編制の行列で、上杉景勝、伊達政宗、島津家久、前だ利光などの有力大名を率いて、華美で麗々しい行列だったとのことです。三代家光も伏見城で受けましたが、返礼の参内はさらに仰々しくて、三日間にわたって二条城で猿楽を催しました。

四代家綱以降は江戸城でこれらの儀式は行われ、十四代家茂まで踏襲されました。この場合、勅使はじめ多数の公家や門跡が仰々しく江戸に下向したわけで、そのたびに上方のみやびで風流な文物が江戸に伝わりました。

将軍の上洛は家光からプツンと切れて、家綱以降の江戸での将軍宣下の儀式も多分に形骸化していきました。江戸では返礼参内はなくなるわけで、将軍より上の地位の者がいないことで、将軍の実質的な絶対化現象もここらへんから生まれてきました。逆に言えば、家康の頃には、朝廷の権力も権威もまだ生きていたことになります。

江戸城での将軍宣下  【RIZAP COOK】

江戸城での将軍宣下の際、公家や門跡へのもてなしは、江戸城大広間の南庭に能楽堂を設定して、能楽を催しました。

諸国の大名ばかりか、江戸の町人も、一町に二人まで見物を許可されました。武家の祝いを江戸の町人も共有したことは重要でした。継飛脚で将軍任官を全国に伝達しました。きわめて合理的かつ簡素化したわけです。

これらの式次第は微に入り細をうがちながら、江戸時代の繁栄とともに後世語り伝えられていき、権現神話の一節と醸成されていきました。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、市岡正一『徳川盛世録』(平凡社東洋文化、1989年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、山本博文『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
宣下 せんげ:宣旨を伝える儀式
宣旨 せんじ:天皇が臣下に伝えた文書
上卿 しょうけい:陣儀の主催者
陣儀 じんぎ:公家たちが国政を審議する
武家昵近衆 ぶけじっきんしゅう:武家と交渉する公家
祗候 しこう:つつしんでおそばで奉仕する官務 かんむ
壬生高亮 みぶたかすけ
大沢基宿 おおさわもといえ
局務 きょくむ
押小路師生 おしこうじもろお
門跡 もんぜき:皇族や公家が住持となった特別な寺院

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うそをつきじのごもんぜき【嘘を築地のご門跡】むだぐち ことば

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「ええ、嘘をつきゃあがれ」と軽く相手を突き放すときの軽口。「嘘をつく」と、江戸の地名の築地を掛け、さらに、その地にある本願寺とつなげています。「嘘を築地」と切ることも。

「門跡」は幕府が制定したもので、出家した皇族が住職を務める格式の高い寺院のこと。築地本願寺は西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)の直轄寺院です。門跡に準じる「准門跡」の格ながら、俗にはやはり「ご門跡さま」と呼ばれます。中央区築地の場外市場には「門跡通り」があります。市場一帯ももとは本願寺の境内でした。地名から、このむだぐちは江戸東京限定です。

ほかに「嘘を筑紫(つくし)」などとも言いました。嘘つきのむだぐちはけっこう多く、「嘘の皮のだんぶくろ」「嘘ばっかり筑波山」、落語の演題でもある「嘘つき弥次郎」などが代表例です。

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だいじんぐう【大神宮】演目

【RIZAP COOK】

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神さまと仏さまが吉原へ。人気のコミックみたいですね。

あらすじ

昔、浅草雷門脇に、磯辺大神宮という祠があった。

弁天山の暮れ六ツの鐘がなると雷門が閉ざされるので、吉原通いの客は、みなここの境内を通り抜けた。

待ち合わせの連中が、
「今朝はお女郎が便所に立ってそのまま消えてしまったので、あいつは丑歳だろう」
とか、
「つねられた痕を見ると女を思い出すから、消えないように友達にまたつねってもらった」
などと、愚痴やノロケを並べる。

大神宮が祠からこれを聞き、
「人間どもがあれだけ大騒ぎをするからには、女郎買いというのはよほどおもしろいものに違いない」
と、自分も行ってみたくてたまらなくなった。

一人で行くのはつまらないから、誰か仲間を、と、あれこれ考えているうち、黒い羽織で粋ななりをした門跡さま(阿弥陀如来)がそこを通りかかった。

誘うと乗ってきたので、自分も茶店でいかめしい直垂と金の鉢巻きを脱ぎ、唐桟の対、茶献上の帯という姿になると、連れ立って吉原へ。

お互いに正体がばれるとまずいから、「大さん」「門さん」と呼び合うことにした。

その晩は芸者を揚げて、ワッと騒いでお引けになる。

明る朝。

若い衆が勘定書きを持っていくのに、一人は唐桟づくめで商家のだんな然とし、もう一方は黒紋付きの羽織で頭が丸く、医者のようなこしらえだから、これは藪医者がだんなを取り巻いて遊んでいるのだろうと、門跡さまの方に回すことにした。

「ええ、おはようございます。恐れ入りますが、昨夜のお勤め(=勘定)を願いたいので」

「お勤め」というから、大神宮、正体がバレたかと思い、
「いたしかたありません。手をこうやって合わせなさい」
「へい」
「では、やりますよ。ナームアミー」
「へへ、これはどうもおからかいで。お払いを願います」
「お祓いなら、大神宮さまへ行きなさい」

【RIZAP COOK】

うんちく

円遊の創作か 【RIZAP COOK】

直接の原話は不詳ですが、神仏が女郎買いに行くという趣向は、宝暦7年(1757)刊の洒落本『聖遊廓』にすでにあり、これは孔子と老子と釈迦の三人が、大坂道頓堀で茶屋遊びするという、罰当たりなお話。

ついで、天明3年(1783)刊の洒落本『三教色』では、天照大神と釈迦と孔子と老子が吉原でお女郎買いという、天をも地をも怖れぬものすごさ。

この噺の現存最古の速記は、「神仏混淆」と題して明治24年(1891)10月、『百花園』に掲載された初代三遊亭円遊のものです。噺の中に「神仏共に力を戮(あわ)せて日本人民を助けましょう」などのセリフがあるので、この噺は、明治20年代、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈の政策が見直され、宗教の融和が進んだことを当て込んだ、たぶん円遊の新作ではないか、というのが、暉峻康隆の説です。

大正期は小せん 【RIZAP COOK】

初代円遊は、品川鮫洲の荒神さまが幇間役で大神宮と阿弥陀さまを吉原へ誘うという設定で、神仏が三人(?)となっています。

荒神さま(竈の神)も大神宮の末社なので、当時、円遊以外でも、これを主役にする演者がいたようです。

明治末から大正にかけては、廓噺を集大成した盲小せんこと初代柳家小せんの独壇場でした。演題を「大神宮」として、磯辺大神宮にしたのも小せんで、その遺稿集「廓噺小せん十八番集」に晩年の速記が収録されています。別題はほかに「大神宮の女郎買い」「お祓い」などです。

パーツを取られ、本体消滅 【RIZAP COOK】

現在は継承者がなく、すたれた噺ですが、小せんのマクラ部分は、多くの後輩が「いただい」ています。

女郎の便所が長いので、あいつは丑年だろうというくすぐりは、八代目桂文楽が「明烏」に、五代目古今亭志ん生が「義眼」に、それぞれ使っていました。

二人とも小せんに直伝で廓噺を伝授された「門下生」。志ん生はこのほか、あらすじでは略しましたが、小せんの振ったもう一つのマクラ小咄「蛙の女郎買い」を、「首ったけ」その他、自らの廓噺にそっくり頂戴していました。

なお、前半の遊客のノロケ部分をふくらませたものがかつて「別れの鐘」として一席噺になっていました。

これは、あまり女郎に振られるので意趣がえしに帰り際、女郎屋の金たらいをくすね、背中に隠したはいいが、女に「また来てくださいよ」と背中をたたかれ、「ボーン」と鐘のようにたらいが鳴ってバレるというもの。

これも、現在では演じ手がありません。「大神宮」自体、1941年10月、「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語にすらないため、当時、もうすでに後継者はなかったのかもしれません。

磯辺大神宮 【RIZAP COOK】

落語「富久」でおなじみの大神宮さま。大神宮は、伊勢の内宮(皇太神宮)と外宮(豊受大神宮)を併せた尊称です。

磯辺大神宮は、伊雑とも書き、伊勢内宮の別宮です。江戸では、北八丁堀の塗師町にも勧請してありましたが、浅草のは、浅草寺の日音院が別当をしていました。

現在の雷門付近にありましたが、明治元年(1868)3月28日の新政府の神仏分離令で廃され、今はありません。

門跡さま 【RIZAP COOK】

元々は本願寺のことで、「築地の門跡さま」とも。そこから、阿弥陀仏の異称に転化しました。

【語の読みと注】
祠 ほこら
直垂 ひたたれ
唐桟 とうざん

【RIZAP COOK】