酔っ払い、田舎侍を侮ったら首ちょん切られ。滑稽噺。ざらにない傑作。
【あらすじ】
芝山内に追い剥ぎや辻斬りが毎日のように出没していた幕末の頃。
これから品川遊廓に繰り込もうという町人一人。
すでに相当きこしめしていると見え、千鳥足でここを通りかかった。
かなり金回りがいいようで、
「これからお大尽遊びだ」
と言いかけて口を押さえ
「……おい、ここはどこだい。おっそろしく寂しいところだ。……おや、芝の山内だ。物騒な噂のある場所で、大金を持ってるのはまずかったかな……」
さすがに少し酔いが醒めて、それでも空元気を出し、なんでも逆を言えば反対になるというので
「さあ、辻斬り出やがれ。追い剥ぎ出ろい。出たら塩つけてかじっちまうぞ」
と、でかい声を張り上げる。
増上寺の四ツ(午後十時ごろ)の鐘がゴーン。
あたりは人っ子一人通らない。
「……おい、待て、おい……」
いきなり声をかけられて、
「ぶるっ、もう出たよ。何も頼んだからって、こうすみやかに出なくても……」
こわごわ提灯の灯をかざして顔を見上げると、背の高い侍。
「おじさん、何か用か」
「武士をとらえておじさんとはなにを申すか。……これより麻布の方へはどうめえるか、町人」
なまっていやがる……。
ただの道聞きだという安心で、田舎侍だからたいしたことはねえという侮り、脅かされたむかっ腹、それに半分残っていた酒の勢いも手伝って、
「どこィでも勝手にめえっちまえ、この丸太ん棒め。ぼこすり野郎、かんちょうれえ。なにィ? 教えられねえから、教えねえってんだ。変なツラするねえ。このモクゾー蟹。なんだ? 大小が目に入らぬかって? 二本差しが怖くて焼き豆腐は食えねえ。気のきいた鰻は五本も六本も刺してらあ。うぬァ試し斬りか。さあ斬りゃあがれ。斬って赤え血が出なかったら取りけえてやる。このスイカ野郎」
カッと痰をひっかけたから、侍の紋服にベチャッ。
刀の柄に手が掛かると見る間に
「えいやあっ」
……侍、刀を拭うと、謡をうたって遠ざかる。
男、
「サンピンめ、つらァ見やがれ」
と言いかけたが、声がおかしい。
歩くと首が横にずれてくる。
手をやると血糊がベッタリ。
「あッ、斬りゃあがった。ニカワでつけたら、もつかな。えれえことになっちゃった」
あわてて走っていくと、突き当たりが火事で大混雑。
鳶の者に突き当たられて、男、自分の首をひょいと差し上げ、
「はいごめんよ、はいごめんよ」
【しりたい】
原話と演者
安永3年(1774)刊の『軽口五色帋』中の「盗人の頓智」ですが、これは、忍び込んだ泥棒が首を斬られたのに気づかず、逃げて外へ出ると暗闇で、思わず首を提灯の代わりにかざします。
もともと小ばなしだったのを、明治期に四代目橘家円蔵が一席にまとめたものです。その円蔵直伝の六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が得意としました。
現在でもよく演じられますが、オチで、男が火事見舞いに駆けつけ、店先に、「ヘイ、八五郎でございます」と、自分の首を差し出すやり方もあります。
上方の「上燗屋」
のみ屋で細かいのがなく、近くの古道具屋で仕込み杖を買って金をくずした男が、その夜入った泥棒を仕込み杖でためし斬り。泥棒の首がコロコロ……という筋立てで、オチは同じです。
首なしで口を利くという、やや似たパターンの噺に「館林」「胴取り」があります。
芝の山内
品川遊郭からの帰り道だったため、幕末には辻斬り、追い剥ぎなどがひんぱんに出没しました。
ちなみに、「山内」とは寺の境内をさします。ここでは三縁山広度院増上寺のこと。浄土宗鎮西派の大本山です。徳川将軍家の菩提寺(祖先の墓、位牌を置く寺)でもあります。徳川家康は熱心な浄土宗の門徒でしたが、三代家光の時代に上野に東叡山寛永寺を建て、こちらも将軍家の菩提寺と認定されました。天台宗の寺院です。家康と家光の墓は日光にあります。徳川将軍家は多重信仰者でした。徳川家は多くの宗派のパトロンを兼ねていました。
『武江年表』の文久3年(1863)の項にも、「此頃、浪士徘徊して辻斬り止まず。両国橋畔に其の輩の内、犯律のよしにて、二人の首級をかけて勇威を示せり。所々闘諍ありて穏ならず」とあります。
「蔵前駕籠」の舞台となった蔵前通りあたりはまだ人通りがありましたが、こちらは当時は荒野も同然。こんなぶっそうな場所はなかったでしょう。
江戸っ子の悪態解説
「ぼこすり野郎」の「ぼこすり」は蒲鉾用のすりこぎ。「デクノボー」「大道臼」などと同じく、体の大きい者をののしった言葉です。
「かんちょうれえ(らい)」は弱虫の意味ですが、語源は不明です。この男もわかっていません。
「モクゾー蟹」は、藻屑蟹ともいい、ハサミに藻屑のような毛が生えている川蟹で、ジストマを媒介します。要するに「生きていても役に立たねえ木ッ葉野郎」くらいの意味でしょう。
サンピン
元は渡り中間や若党をののしる言葉でしたが、のちにはもっぱら下級武士に対して使われました。
中間の一年の収入が三両一分だからとも、三両と一人扶持(日割り計算で五合の玄米を支給)だったからともいわれます。
浅黄裏
田舎侍のことを、別に「浅黄裏(着物の浅黄木綿の裏地から)」「武左」「新五左」などとも呼びました。とりわけ、「浅黄裏」は野暮の代名詞です。