あくびしなん【あくび指南】落語演目

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【どんな?】

あくびの稽古譚。じつにまあ、くだらないお噺で。

別題:あくびの稽古(上方)

あらすじ

町内の、もと医者が住んでいた空家に、最近変わった看板がかけられた。

墨黒々と「あくび指南所」。

「常盤津や長唄、茶の湯の稽古所は聞いたことがあるが、あくびの稽古てのは聞いたことがねえ、金を取って教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいないから、ちょいと入ってみようじゃねえか」
と、好奇心旺盛な男、渋る友達を無理やり引っ張って、
「へい、ごめんなさいまし」

応対に出てきたのが品のよさそうな老人。

夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。

お茶を出され
「こりゃまた、けっこうな粗茶で……。すると、こちらが愚妻さんで」
とまぬけなことを口走ったりした後、相棒が、
「ばかばかしいから俺は嫌だ」
というので、熊一人で稽古ということになる。

師匠の言うことには、
「ふだんあなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣がある」
との講釈。

すっかり関心していると
「それではまず季節柄、夏のあくびを。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、八つ下がり大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。体をこうゆすって。……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手へやってくんな。……日が暮れたら、堀からあがって吉原でも行って、粋な遊びのひとつもしよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、……あーあ、ならねえ』とな」
「へえ。……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」
「そんなことはどうでもよろしい」
「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークショイッ」

これをえんえんと聞かされている相棒、あまりの阿呆らしさに、
「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、あーあ……ならねえ」
「ほら、お連れさんの方がお上手だ」

底本:三代目三遊亭小円朝

しりたい

たくさんあった指南噺   【RIZAP COOK】

かつては「地口指南」「泥棒指南」など、多くの指南ものの噺がありました。

今ではこの「あくび指南」と「磯の鮑」(別題「女郎買いの教授」)を除けばすたれました。

この噺を含めて指南ものは、安永年間(1772-81)以後、町人の間に習い事が盛んになった時期にまとめられたものです。

「あくび指南」も文化年間(1804-17)にはすでに口演されていました。

「喧嘩指南」というのもあり、弟子入り早々、先制攻撃で師匠に「マゴマゴしてやがると張り倒すぞ」とやると、師匠が「うん、てめえはものになる」というもの。これは、「あくび指南」のマクラ小ばなしとして生き残っています。

同じくマクラとして、師匠が釣り糸に糸を垂らした弟子を下からひっぱり落としたので、「先生ひどい。今のはなんの魚がかかったんです?」「今のは河童だ」とオチる「釣り指南」を付けることもあります。

「下手くそにやれ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)などがよく演じました。

金馬によれば、この噺は昔から、待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝だといいます。

まずくやって客を退屈させるのが口伝とは。

ジョークなのか、奥深い演出なのかわかりません。

昔、ある落語家がこの噺でオチ近くになったとき、客が大あくびをしたので、「あのお客さまはご器用な方だ」と即興でオチをつけて、そのまま高座を下りたとか。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「後でオチのあくびが引き立つように師匠のあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残しています。

原話は「あくび売り」   【RIZAP COOK】

安永5年(1776)、大坂板『立春噺大集』坤巻一の二「あくびの寄合」が原話です。

あくび売りが「薩摩のあくび」「仙台のあくび」「今橋筋のあくび」などをかごに入れて売り歩く趣向です。

これが上方落語「あくびの稽古」となり、かなり早く江戸にも移されたと思われます。

上方では、入れ事として「風呂に入って月をながめるときのあくび」「将棋で相手の長考を待つときのあくび」など、演者によってさまざまに工夫されていました。

現在でも東西問わずよく口演され、音源も数多い噺ですが、上方のものでは、二代目桂枝雀(前田達、1939-99)が漫画的で報復絶倒、あくびをしている余裕など与えないおかしさでした。

川船   【RIZAP COOK】

隅田川を遊びで行き来するのは「川遊山かわゆさん」です。

「屋形船」という名称をよく聞きますが、これは、元禄年間(1688-1703)の前までは大いに流行した船で、主に武士連中が乗るものでした。

その後はすたれてしまいました。

落語で語られる時代は、寄席が始まった寛政10年(1798)以降です。

となると、屋形船はもう存在しません。

あるのは「屋根」と「猪牙」。

川遊山に使われたのは、600艘ほどあった屋根船と、屋根のなくて揺れがひどくて高速の猪牙船で、こちらは700艘あったそうです。

屋根船は船頭が1人か2人でこぐ「日よけ船」とも呼ばれるもので、4人ほどの客が乗れました。

屋根があっても、武士でなければ障子はご法度で、代わりに竹のすだれを下げたそうです。

ドラマや映画の雰囲気とはだいぶ違いますね。

ただ、船頭に酒手さかて(チップ)をはずめば、船頭は隠してあった障子を出しててききっちり閉めて、首尾の松あたりにもやい、適当な頃合いまでどこかに消えてしまうという味なこともしてくれたそうです。

首尾の松は、浅草御蔵にあった川遊山の目印となった松をいいます。

こんな客が多くて、ここはひっきりなしに船がもやう場所だったようです。

この噺での船はどちらでしょうか。まあ、どちらでもよいのでしょうが、屋根船のほうが無聊を慰めるにはお手頃かもしれませんね。

浅草御蔵、四番堀と五番堀の間には首尾の松

指南所   【RIZAP COOK】

今でも荒川区界隈ではそんなものですが、街場の人々は子供たちに習い事をさせるものでした。

子供たちばかりか、大人もいろいろな指南を受けたがるのが下町の美風でした。

指南所は、稽古所、稽古屋などともいいます。

芸は身を助けるという街場の知恵だったわけでしょう。

色っぽい独り身の女師匠が出てくるのは「汲み立て」「猫忠」ですね。

どの町内にも一人はいたといわれるほど、ごく普通のなりわいでした。

これをお目当てに通う野郎連中は、張って張りぬく経師屋連きょうじやれん、あわよくばと心願うはあわよか連、機会を見つけて野獣の本性をむき出しにする狼連おおかみれんなどが横行するのだそうです。ホントかどうかはわかりませんが。志ん生なんかはそんなことをよく言っていました。

「張る」とは見張って付け狙うことで、経師屋は書画、屏風、ふすまなどを表装する職人のことですが、ここでは紙を張るのと、女を張るのを掛けているのです。落語ではよく出てくる表現ですね。



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けいこや【稽古屋】落語演目

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【どんな?】

音曲噺。高座だと鳴り物入りでやられます。にぎやかで珍しい噺ですね。

別題:稽古所 歌火事(上方) 

あらすじ

少し間の抜けた男、隠居のところに、女にもてるうまい方法はないかと聞きにくる。

「おまえさんのは、顔ってえよりガオだね。女ができる顔じゃねえ。鼻の穴が上向いてて、煙草の煙が上ェ出て行く」

顔でダメなら、金。

「金なら、ありますよ」
「いくら持ってんの」
「しゃべったら、おまえさん、あたしを絞め殺す」
「なにを言ってんだよ」
「おばあさんがいるから言いにくい」
というから、わざわざ湯に出させ、猫まで追い出して、
「さあ、言ってごらん」
「三十銭」

どうしようもない。

隠居、こうなれば、人にまねのできない隠し芸で勝負するよりないと、横丁の音曲の師匠に弟子入りするよう勧める。

「だけどもね、そういうとこィ稽古に行くには、無手じゃ行かれない」
「薪ざっぽ持って」
「けんかするんじゃない。膝突きィ持ってくんだ」

膝突き、つまり入門料。

強引に隠居から二円借りて出かけていく。

押しかけられた師匠、芸事の経験はあるかと聞けば、女郎買いと勘違いして「初会」と答えるし、なにをやりたいかと尋ねてもトンチンカンで要領を得ない。

師匠は頭を抱えるが、とりあえず清元の「喜撰」を、ということになった。

「世辞で丸めて浮気でこねて、小町桜のながめに飽かぬ……」
と、最初のところをやらせてみると、まるっきり調子っ外れ。

これは初めてではむりかもしれないと、短い「すりばち」という上方唄の本を貸し、持って帰って、高いところへ上がって三日ばかり、大きな声で練習するように、そうすれば声がふっ切れるからと言い聞かせる。

「えー、海山を、越えてこの世に住みなれて、煙が立つる……ってとこは肝(高調子)になりますから、声をずーっと上げてくださいよ」
と細かい指示。

男はその晩、高いところはないかとキョロキョロ探した挙げ句、大屋根のてっぺんによじ登って、早速声を張り上げた。

大声で
「煙が立つゥ、煙が立つーゥ」
とがなっているので、近所の連中が驚いて
「おい辰っつあん、あんな高え屋根ェ上がって、煙が立つって言ってるぜ」
「しようがねえな。このごろは毎晩だね。おーい、火事はどこだー」
「煙が立つゥー」
「だから、火事はどこなんだよォー」
「海山越えて」
「そんなに遠いんじゃ、オレは(見に)行かねえ」

底本::五代目古今亭志ん生

しりたい

音曲噺  【RIZAP COOK】

おんぎょくばなし。「おんぎょく」と濁ります。この噺は、今は絶滅したといってもいい、音曲噺の名残りをとどめた、貴重な噺です。

音曲噺とは、高座で実際に落語家が、義太夫、常磐津、端唄などを、下座の三味線付きでにぎやかに演じながら進めていく形式の噺です。

したがって、そちらの素養がなければ絶対にできないわけです。

今残るのは、この「稽古屋」の一部と、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が得意にした「豊竹屋」くらいのものでしょう。

昔の寄席には「音曲師」という芸人が大勢いて、三味線を片手に、渋い声でありとあらゆる音曲や俗曲をおもしろおかしく弾き語りしていたものです。

音曲噺というジャンルも、そうした背景のもとに成立しました。

明治・大正の頃までは、演じる側はもちろん、聞く客の方も、大多数は稽古事などを通して、長唄や常磐津、清元などが自然の教養として日常生活に溶け込んでいたからこそ、こうした噺を自然に楽しめたのでしょうね。

上方の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

発端の隠居とのやりとりは、上方で最も多く演じられてきた「稽古屋」から。初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)が得意にしました。

主人公でアホの喜六(東京の与太郎)が稽古所へ出かけるまでの大筋は同じです。

大阪のは隠居(甚兵衛)や師匠とのやりとりにくすぐりが多く、兄弟子の稽古を見ているうちに、子供の焼イモを盗み食いするなどのドタバタのあと、「稽古は踊りだすか、唄だすか」「どっちゃでもよろし。色事のできるやつを」「そんなら、私とこではできまへん」「なんで」「恋は指南(=思案)のほかでおます」と、ダジャレオチになります。

東京では、春風亭小朝がこのやり方で演じます。

「稽古所」  【RIZAP COOK】

次の「喜撰」を習うくだりは、東京でも演じられてきた音曲噺で、別題「稽古所」。オチはありません。

最後の屋根に上がってがなるくだりからオチまでは、明治末に四代目笑福亭松鶴(森村米吉、1869-1942、→笑福亭松翁)が上京した際、「歌火事」と題して演じたものです。

先の大戦後、初代桂小南(岩田秀吉、1880-1947)、ついで二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が「稽古屋」として、松鶴のやり方で東京で演じました。

以上三種類の「稽古屋」を、最後の「歌火事」を中心に五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が一つにまとめ、音曲噺というより滑稽噺として演じました。

今回のあらすじは、その志ん生のものをテキストにしました。

これが、次男の古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に継承されていたものです。

バレ噺の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

もう一つ、正体不明の「稽古屋」と題した速記が残っています。

こんな噺です。

常磐津の師匠をめぐって二人の男が張り合い、振られた方が、雨を口実に強引に泊まり込んだ上、暗闇にまぎれて情夫になりすまし、師匠の床に忍び込んでまんまと思いを遂げます。最後はバレますが、とっさに二階から落ちて頭を打ったことにしてゴマかし、女の母親が「痛いのなら唾をおつけなさい」と言うと、「はい、入れるときつけました」と卑猥なオチになります。

むろん演者は不明です。

音曲の場面もなく、たぶん大正初年にできたバレ噺の一つと思われます。

音曲の師匠  【RIZAP COOK】

ここに登場するのは、義太夫、長唄、清元、常磐津と、なんでもござれの「五目の師匠」。

今はもう演じ手のない「五目講釈」という噺もあります。

「五目」は上方ことばで「ゴミ」のことで、転じて、いろいろなものがごちゃごちゃ、ショウウインドウのように並んでいるさまをいいます。

こういう師匠は、邦楽のデパートのようなものです。

街場によくある、鰻屋なのに天丼もカツ丼も出すという類の店と同じく、素人向きに広く浅く、なんでも教えるので重宝がられました。

次は、音曲ついでに「豊竹屋」でもいかがでしょうか。

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