おおやままいり【大山詣り】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。
宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。
熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れ  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ねたは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

明治の名人、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は、江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、この噺のマクラでマゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

多くの名人がみがいた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方の「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が本場です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

【語の読みと注】
良弁 ろうべん
雨降山 あぶりさん
大山寺 だいせんじ

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

評価 :2/3。

あたごやま【愛宕山】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

京でだんなが野駆け。
かわらけ代わりに小判投げ。
見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩ほうばい(仲間)の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
早蕨さわらびの 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、早蕨(芽を出したばかりの蕨)ってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓ひいきにしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)からの直伝で「黒門町」こと八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵ひぐちよしえがモデルです。

樋口由恵ひぐちよしえ(1895-1974)は山梨県増穂町(富士川町)出身の経営者。

大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容(1904-58)が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年)。

こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆のがけ(ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。

だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。

京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰。

愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。

中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神ほむすびのかみ(軻遇突智命かぐつちのみこととも)をまつる愛宕神社があります。

若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホト(陰部)をやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。

怒ったイザナギは十拳剣とつかのつるぎでこの神を刺し殺します。

剣からしたたり落ちた血から神々が生まれました。すごい話です。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。

さらには、さえの神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道おんみょうどう、天狗信仰、勝軍地蔵しょうぐんじぞう信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除ひよけの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

火迺要慎ひのようじん」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。

「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。

明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。

一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。

京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。

火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿さらかごをかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、大田南畝おおたなんぽ(1749-1823)の作です。南畝は蜀山人しょくさんじんのこと、江戸天明狂歌のパイオニアです。

東京の愛宕山は港区愛宕1丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請かんじょう(神仏の分霊をお願いして迎えること)しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目円馬が東京風に脚色しました。

円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。

「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。

愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。

修験道の聖地です。山頂には愛宕神社があります。

「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」も、ここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。

そこからの発想なのでしょう。

借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

【語の読みと注】
朋輩 ほうばい
火産霊神 ほむすびのかみ
軻遇突智命 かぐつちのみこと
十拳剣 とつかのつるぎ
皿竹輿 さらかご
万仭 ばんじん



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

だいじんぐう【大神宮】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

大神宮とは伊勢神宮のこと。
神さまと仏さまが吉原へ。
どこかで読んだコミックみたい。

別題:神仏混淆 大神宮の女郎買い お祓い

あらすじ

昔、浅草雷門脇に、磯辺大神宮というほこらがあった。

弁天山の暮れ六ツの鐘がなると雷門が閉ざされるので、吉原通いの客は、みなここの境内を通り抜けた。

待ち合わせの連中が、
「今朝はお女郎が便所に立ってそのまま消えてしまったので、あいつは丑歳うしどぢだろう」
とか、
「つねられた痕を見ると女を思い出すから、消えないように友達にまたつねってもらった」
などと、愚痴やノロケを並べる。

大神宮がほこらからこれを聞き、
「人間どもがあれだけ大騒ぎをするからには、女郎買いというのはよほどおもしろいものに違いない」
と、自分も行ってみたくてたまらなくなった。

一人で行くのはつまらないから、誰か仲間を、と、あれこれ考えているうち、黒い羽織で粋ななりをした門跡さま(阿弥陀如来)がそこを通りかかった。

誘うと乗ってきたので、自分も茶店でいかめしい直垂ひたたれと金の鉢巻きを脱ぎ、唐桟とうざんの対、茶献上ちゃけんじょうの帯という姿になると、連れ立って吉原へ。

お互いに正体がばれるとまずいから、「大さん」「門さん」と呼び合うことにした。

その晩は芸者を揚げて、ワッと騒いでお引けになる。

明くる朝。

若い衆が勘定書きを持っていくのに、一人は唐桟づくめで商家の旦那然とし、もう一方は黒紋付きの羽織で頭が丸く、医者のようなこしらえだから、これは藪医者が旦那を取り巻いて遊んでいるのだろうと、門跡さまの方に回すことにした。

「ええ、おはようございます。恐れ入りますが、昨夜のお勤め(=勘定)を願いたいので」

「お勤め」というから、大神宮、正体がバレたかと思い、
「いたしかたありません。手をこうやって合わせなさい」
「へい」
「では、やりますよ。ナームアミー」
「へへ、これはどうもおからかいで。お払いを願います」
「お祓いなら、大神宮さまへ行きなさい」

【RIZAP COOK】

うんちく

円遊の創作かも 【RIZAP COOK】

直接の原話は不詳です。

神仏がお女郎買いに行くという趣向は、宝暦7年(1757)刊の洒落本しゃれぼん聖遊廓ひじりゆうかく』(作者不詳)にすでにあり、これは孔子と老子と釈迦の三人が、大坂道頓堀で茶屋遊びするという、罰当たりなお話。

ついで、天明3年(1783)刊の洒落本『三教色さんきょうしき』では、天照大神と釈迦と孔子と老子が吉原でお女郎買いという、天をも地をも怖れぬものすごさ。

『三教色』は唐来参和とうらいさんな(1744-1810)作、喜多川歌麿(1753-1806)画による作品です。

ちなみに、洒落本とは18世紀後半にさかんにつくられた遊里を舞台にした物語集です。

この本から人々は「通」なる感覚を身に着けていきました。

この噺の現存最古の速記は「神仏混淆しんぶつこんこう」と題して明治24年(1891)10月、『百花園』に掲載された初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものです。

噺の中に「神仏ともに力をあわせて日本人民を助けましょう」などのセリフがあるので、この噺は、明治20年代、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの政策が見直され、宗教の融和が進んだことを当て込んだ、初代円遊の新作ではないか、というのが、暉峻康隆てるおかやすたか(1908-2001、江戸文学)の見立てです。

大正期は小せん 【RIZAP COOK】

初代円遊は、品川鮫洲さめずの荒神さまが幇間役で大神宮と阿弥陀さまを吉原へ誘う、という設定で、神仏が三人(?)となっています。

荒神さま(かまどの神)も大神宮の末社なので、当時、円遊以外でも、これを主役にする演者がいたようです。

明治末から大正にかけては、廓噺を集大成した初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の独壇場でした。

演題を「大神宮」として磯辺大神宮に設定したのも小せんでした。

遺稿集『廓噺小せん十八番集』に、晩年の速記が収録されています。

別題は「大神宮の女郎買い」「お祓い」などです。

パーツを取られ、本体消滅 【RIZAP COOK】

現在は継承者がなく、すたれた噺ですが、小せんのマクラ部分は、多くの後輩が「いただい」ています。

お女郎の便所が長いので、あいつは丑年だろうというくすぐりは、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が「明烏」に、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が「義眼」に、それぞれ使っていました。

二人とも小せんに廓噺を直伝された「門下生」です。

志ん生はこのほか、あらすじでは略しましたが、小せんの振ったもう一つのマクラ小咄「蛙の女郎買い」を、「首ったけ」その他、自らの廓噺にそっくり頂戴していました。

なお、前半の遊客のノロケ部分をふくらませたものがかつて「別れの鐘」として一席噺になっていました。

これは、あまりにもお女郎に振られるので、意趣返しに帰り際、お女郎屋の金たらいをくすね、背中に隠したはいいが、女に「また来てくださいよ」と背中をたたかれ、「ボーン」と鐘のようにたらいが鳴ってバレる、というもの。

現在では演じ手がありません。

「大神宮」自体、昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)境内の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語にすら入らないため、当時でもすでに後継者はなかったのかもしれません。

磯辺大神宮 【RIZAP COOK】

富久」でおなじみの大神宮さま。

大神宮は、伊勢の内宮ないぐう(皇大神宮こうたいじんぐう)と外宮げぐう(豊受大神宮とようけだいじんぐう)を併せた尊称です。

磯辺大神宮は、伊雑とも書き、伊勢内宮の別宮です。

江戸では、北八丁堀の塗師町ぬしちょうにも勧請してありましたが、浅草のは、浅草寺内の日音院にちおんいんが別当(管理者の親玉)をしていました。

別当とは、本来の職務のある人が別の職務を兼任することです。たいていはその組織の親玉です。

明治以前の神仏習合(神道と仏教を調和融合する信仰)の時代には、神社と寺がセットになっている形態がよくありましたが、その場合、宮司か住職のどちらかが両方を管理しているのが一般的でした。

現在の雷門付近にありましたが、明治元年(1868)3月28日の新政府の神仏分離令で廃され、今はありません。

門跡さま 【RIZAP COOK】

もとは本願寺のこと。「築地の門跡もんぜきさま」とも。

そこから、阿弥陀仏の異称に転化しました。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ゆめのさけ【夢の酒】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

酒を燗して飲もうとするけれど、夢がさめて。
桂文楽が昭和初期に磨き上げた珠玉の噺。

別題:一升徳利 夢の後家

【あらすじ】

大黒屋の若だんなが夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若だんなが向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若だんながいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。

聞きつけたおやじが
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

おやじがあきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場でおやじは寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋のだんながお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若だんなが『おやじは三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」

【しりたい】

改作の改作の改作  【RIZAP COOK】

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が現行のオチに直し、「隅田すみだ夕立ゆうだち」「ゆめ後家ごけ」の二通りに改作。

後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代えて、より笑いを多くしたものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」  【RIZAP COOK】

もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。

つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。

オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔おとしばなしわらいのたねまき』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。

どちらもオチは現行通りのものです。

夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子しかたばなしくちびょうし』中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」  【RIZAP COOK】

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりません。

夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

「橋場の雪」のあらすじ  【RIZAP COOK】

少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若だんなが雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若だんなはまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。

三代目小さんは、主人公をだんなで演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」  【RIZAP COOK】

原話、作者は不明です。

「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若だんなの善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。ところが薬が効きすぎ、若だんなはたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若だんなのもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に。

といった、ハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。

別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、ノーカットでしっとりと演じました。

淡島さまと淡島信仰  【RIZAP COOK】

淡島さまの総本社は和歌山市加太かだの淡嶋神社。ご神体は、少彦名命すくなひこなのみこと大己貴命おほなむじのみこと息長足姫命おきながたらしひめのみことです。

大己貴命は、通説では大国主命と同じとされています。

少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。

大陸から渡来した、先進技術を持った人の象徴です。秦氏とか。

息長足姫命は神功皇后のことです。

仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説があります。

明治期から昭和戦前期までは、日本人の誰もが知っている人でした。

後の応神天皇をおなかに抱えたまま、船で韓半島に向かった勇ましい人です。

このように見ると、淡嶋神社は出雲系なのでしょう。

しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。

江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺しんげんじ(世田谷区代沢3丁目)が有名でした。

ともに、境内に淡島堂が建っています。

江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。

浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。

昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。

これを淡島堂と呼んでいます。

森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。

弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。

それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。

浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。

明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。

北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。

噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。

淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。

淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。

たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。

艶福家の渋沢栄一(1840-1931)もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。

この町内にも淡島さまがありました。

今はありませんが、明治期には清正公寺せいしょうこうじ(日蓮宗)の境内にしっかりあったということです。

水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。

淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。

和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。

淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。

おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。

淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。

願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。

街で襤褸ぼろをまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。

決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸ぼろのなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。

『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。

ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。

「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。

なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。

これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。

ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命。

でも、ものすごいポテンシャルをもっていたこの神さまのイメージを重ねたのでしょう。

見た目では侮れない存在として。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しんぶつろん【神仏論】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

これは珍しい。
日本にもまれにあったらしいのです。
宗教戦争のお話。

別題:神道の茶碗

【あらすじ】

石町新道で、骨董屋を営む夫婦。

かみさんが一向宗、亭主が神道の熱心な信者。

朝起きると亭主が
「天照皇大神宮、春日大明神、住吉大明神」
と唱えれば、かみさんは
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ」

そんなことだから、家の中はのべつ宗教戦争。

夏に亭主がノミを捕まえ、
「こいつは人の血を盗む憎い奴だから死罪に処するが、ひねりつぶしても生き返るし、火にくべれば神棚を穢すからハリツケにする」
と言うのを、女房がだまして逃がしてしまったから、また一騒動。

「生き物の命を取るのは、殺生戒を破るからいけない」
とかみさんはいう。

「盗みなら、あなたの方がよっぽど」
「オレがなにを盗んだ」
「あなた、二、三日前に女中のお初のところに夜這いに行ったじゃありませんか。ああいうのを豆泥棒といいます」

釈迦が自分の股の肉を削いで鷹に与え鳩を助けたという故事を長々と並べ立て
「このハゲ頭。ちっとはお慎みなさい」
と、やっつけるものだから、亭主は頭にきて、
「日本は神国、このありがたい国に生まれながら天竺の仏を祟めるのはけしからん」
と、反撃開始。

古事記の国生み神話の講釈を並べるうちに、だんだん脱線。

「八百屋お七を見ろ。宗旨が法華だから、七字の題目の頭を取って親がお七と名付けたが、あの通り火あぶりになった。法華の餓鬼は火あぶりになるんだ。梅川忠兵衛の浄瑠璃を聞いたか。忠兵衛は一向宗の門徒で、あの通り引回しの上、獄門だ」

しだいにエスカレートし、ついに亭主が女房の胸ぐらを取って、実力行使。

「アーレー、喉の仏さまが痛い」
「人の体に仏があってたまるか」

ポカポカと殴る。

あわてて女中が止めに入っていったんは収まったが、女房、お茶を一杯飲んで
「あつつつ、これお竹、熱いじゃないか。喉の仏様を火傷したよ」
と言うと、亭主、
「ざまあ見やがれ。喉仏を火傷するはずだ。茶碗が新渡(しんとう=神道)だもの」

底本:四代目春風亭柳枝

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

うんちく

豆泥棒、梅川忠兵衛など 【RIZAP COOK】

夫婦げんかの言い合いに登場する言葉のうち、昔はごく普通の日常語として使われていた言い回しや故事も、現在では外国語のスラング並みに、ほとんど注釈がいるハメになりました。

●「豆泥棒」は、間男または夜這いのこと。

●「釈迦が、自分の股の肉を削いで……」は、「ジャータカ」(釈迦転生説話)が原典。

●「梅川忠兵衛」は、近松門左衛門作の「冥途の飛脚」、菅専助作「けいせい大和飛脚」の主人公。現在でもよく歌舞伎・文楽で上演される、悲劇のカップルです。

骨董屋と道具屋 【RIZAP COOK】

ともに古物商ですが、一般に骨董屋は高級品で古美術品に近いものまで扱いました。

道具屋になると、「火焔太鼓」「道具屋」に登場するようにかなりインチキくさいものまで売っていて、「キリ」の方になると、店舗を持たない露天商も多かったわけです。

新渡 【RIZAP COOK】

この噺の別題でもありますが、オチのダジャレのタネだけに、あらかじめ説明しておかないと、現在ではどうにもなりません。

新渡は古物商の用語で、外国(古くはおもに中国)から江戸時代以後に渡来した品物のこと。

ちなみに、室町時代以前の渡来物を「古渡(ことう、こわたり)」、その中間の室町、戦国、安土桃山時代のものを「中渡」と呼びました。

師弟の因縁 【RIZAP COOK】

この四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)は、のち隠居名・華柳を名乗りましたが、昭和2年(1927)4月20日、NHKのラジオ出演中に脳卒中で倒れ、そのままなくなりました。享年58歳。

ところが、32年後の昭和34年(1959)9月23日、この人の弟子でだった八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、やはり同じようにラジオ放送中に、師匠とまったく同じ脳出血で人事不省に陥り、同年10月8日に死去。

オカルトめいたことを連想させる、因縁話です。

原話は不詳 【RIZAP COOK】

原話はまったく不祥で、明治以後は口演記録もなく、まったくすたれた噺です。別題を「神道の茶碗」「新渡の茶碗」とも。

四代目春風亭柳枝が小柳枝時代の明治31年(1898)3月、雑誌『百花園』に載せた速記が、現存する唯一の記録です。

柳枝は明治中期から昭和の初めにかけて、品格のある芸風で一家をなした人です。

演者がマクラで、「腹の中へ大事に仕舞って置きましたのを、お勧めに委(まか)して申し上げます」と断っているので、あるいはこの人の若いころの創作かもしれません。

明治の初めはいわゆる「廃仏毀釈」の嵐が吹きすさび、神道が「ハバをきかせていた」時代なので、それを揶揄するような噺も多く生まれたと思われ、この噺も、何らかの実話をもとにしているのかも知れませんが、推測の域を出ません。

古色蒼然とはしていますが、宗教上のいがみあいというのは現在でもいたるところにあり、アレンジ次第では復活してもおもしろそうです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

ふじまいり【富士詣り】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

山岳信仰の噺。
今では聴きません。
現代性と国際性を神仏習合に加味すれば新味。

別題:五合目 六根清浄

【あらすじ】

長屋の連中。

日ごろの煩悩を清めようというわけで、大家を先達にして、ぞろぞろと富士登山に出かけた。

五合目まで来ると、全員くたくた。

そのうちにあたりが暗くなってきた。

「これは、一行の中に五戒を犯した者がいるから、山の神さまのお怒りに触れたんだ。一人一人懺悔をしなくちゃいけねえ」
ということになって、一同、天狗に股裂きにされるのがこわくて、次々と今までの悪事を白状する。

出るわ出るわ。

留さんは湯へ行った時、自分の下駄が一番汚いので、上等なのをかっさらい、ついでに番台から釣り銭をありったけ懐に入れて逃げた、偸盗戒。

八五郎は、屋台で天ぷらを二十一食ったが、親父に「いくつ食った」と聞くと、親父は間違えて「十五だ」と答えたので、差し引き天ぷら六つ偸盗戒。

先達さんがひょいと見ると、貞坊が青くなり震えている。

聞いてみると「粋ごと戒でェ」。要は邪淫戒だとか。それも人のかみさんと。おもしろくなってきた。

貞坊の告白が始まる。

去年の六月ごろから最近までのことだ。

女湯の前を通ったら湯上がりの年増にぞっこん。跡をつけたら二丁目の新道の路地へ。その裏でまごまごしていたら、女が手桶さげてやってきた。

「井戸端の青苔に足をすべらすといけやせんから」
と、代わりに水をくんであげ、その後はお釜を焚きつけ、米を洗って、まるで権助。

そんなこんなで、お茶を飲んだり堅餠をかじったりの仲に。

このおかみさんを口説こうとしたがなかなか「うん」と言わない。

結局、今日まで「うん」と言わない。

先達「なんだ、つまらねえ。いったいどこの女だい」
貞坊「いいのかい」
先達「いいよ、言っちまいな」
貞坊「先達さん、おまえさんのだ」
先達「とんでもねえッ」

元さんも青ざめている。

大便をがまんしているという。

「半紙を五、六枚敷いてその上に用を足して、四隅を持って谷へほうるんだ」
と、先達が勧めるので、念仏を唱えながら用を足し
「もったいない、もったいない」
と、この半紙を袂に入れてしまった。

先達「自分の大便を袂に入れる奴があるか。おめえ、山に酔ったな」
元「へえ、ここが五合目でございッ」

【しりたい】

なつかしの柳朝節  【RIZAP COOK】

原話は不詳。明治34年(1901)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

昭和初期には七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、先の大戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)と、どちらかといば地味な、腕っこきの噺家が好んで演じました。

印象深いのは五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)で、独特のぶっきらぼうな口調が、間男(近年では熊五郎)の、神をも恐れぬふてぶてしさを表現して逸品でした。

オチは、現行では「先達つぁん、おまえのだ」で切ることが多く、こちらの方がシャープでしょう。

前半の懺悔の内容は、演者によってまちまちです。

富士講  【RIZAP COOK】

意外な話ですが、享保17年(1732)という年は大飢饉で、翌年には、江戸で初めての打ちこわしが起こったほど。

このさなか、江戸の油商、伊藤伊兵衛は、富士登山45回の実績にかんがみて、無為無策の武家政治を批判しました。

自らを「食行身禄」と名乗り、世直し実現を祈って富士山七合目で35日間の断食を敢行、入滅しました。

目的完遂です。

人々はこの偉業をたたえて余光にあずかろうと、19世紀前後になると、富士講がさかんになっていきました。

富士講は、先達、講元、世話人の三役で運営されます。

富士は古くから修験道の聖地で、一般人の入山は固く禁じられていました。

室町後期から民間でも富士信仰が盛んになり、男子に限り、一定の解禁期間のみ登山を許されるようになりました。

富士講の開祖といわれるのは角行という行者です。室町後期から江戸初期の人。

江戸時代には「富士講」と呼ばれる信者の講中が組織され、山開きの旧暦六月一日から七月二十六日まで約二か月間、頂上の富士浅間神社参拝の名目で登山が許可されました。

富士講は、地域などを中心に組織され、有力な富士講は富士山自体を近所に勧請して富士塚を築きました。

あらかじめ三日か七日の精進潔斎を済ませることが前提です。

隅田川などで水垢離をするのです。白衣に、首に大数珠をかけて金剛杖を突いて、先達にくっついて「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら登っていきます。

あくまで信仰が目的。命がけの神聖な行事なので、大山参りのような物見遊山半分とはわけが違い、五戒(妄語戒、殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、飲酒戒)を保つのは当然。

したがって、この噺のようなお茶らけた連中は論外で、必ずや神罰がくだったことでしょう。

江戸の富士信仰  【RIZAP COOK】

富士登山は大変な行事で、それこそ一生に何度もないというほど。

江戸からは往復十日の日程がかかり、費用もばかになりません。

山伏でもない一般市民が、近代的登山装備もなく、富士山頂上に登ろうというのですから、それこそ生還すら保障されません。

そこで、江戸にいながらお手軽に、危険もなく金もヒマも要らず、富士登山の疑似体験をしたいという熱望に応え、こしらえたのがミニ富士山。

富士塚、お富士さんと呼ばれたこの小ピラミッド、高いものでも標高わずか十メートル程度ながら、どうして、形は本格的な「ミニチュア」でした。

頂上には当然、富士浅間神社を勧請(分霊を迎える)。

はるばる本物の富士から溶岩を運んで築き、一合目から始まって、つづら折りの「登山道」までこしらえる凝りようでした。

富士開きの旧暦6月1日(7月10日頃)に同時に解禁。

富士講の連中が金欠で本物に登れないとき、富士塚に「代参」で済ませることも多く、登山のしきたりは「女人禁制」を含め、本物とほとんど同じタテマエ。

富士塚  【RIZAP COOK】

最初のニセ富士=富士塚は、安永8年(1779)に築かれた高田富士。現在の早稲田大学構内あたりにあったといいます。水稲荷内です。

次は、千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷)の鎮守、鳩森八幡の境内に造られた富士塚で、寛政元年(1789)です。

都の有形民俗文化財に指定されています。

国指定重要民俗文化財として、以下の三基が現存しています。

坂本富士 文政11年(1829)、台東区下谷二丁目
高松富士 文久2年(1862)、豊島区高松二丁目
江古田富士 天保10年(1839)、練馬区小竹町

次の二基は広重の「江戸名所百景」にも描かれています。

目黒の元富士 文化9年(1812)
新富士 文政2年(1819)

駒込富士権現分社、浅草富士権現分社、深川八幡、神田明神、茅場町薬師、高田水稲荷などの境内に築かれたものが、いまも親しまれています。

高田富士  【RIZAP COOK】

高田稲荷社は、戸塚村の鎮守でした。

元禄15年(1702)に境内榎の中から水が湧き出し、これを霊泉として、眼病が治るという評判でした。それで、水稲荷ともいいます。

ここにある高田富士が最古の富士塚とされています。

富士の五合目以上を模した高台の全体を富士山の溶岩で覆い、富士山らしく見せ、奥宮、登山道標石、胎内、経ヶ岳題目碑、石尊碑などを設けるという、設置様式がありました。

高田富士は高さ五メートルながら、延べ数千人の講者が無償協力(ボランティア)で築造したものです。

朱楽管江が『大抵御覧』で紹介したことで、有名になり、さまざまな理由で実際の富士まいりができない人々が疑似体験するようになりました。

これを口火に、江戸府内に多くの富士塚がつくられていきます。

朱楽菅江  【RIZAP COOK】

元文3年(1837)生まれ。狂歌師、戯作者。幕臣。山崎景基(のちに景貫)。

市谷二十騎町に住みました。

内山椿軒に和歌を学びました。

同門には太田南畝がいます。

ともに、安永年間あたりから狂歌を始めました。

妻女は狂歌作者の節松嫁々です。寛政10年(1798)没。富士塚を取り上げた『大抵御覧』は安永8年(1879)の刊行です。

もちろん、「太平御覧」ももじった命名ですね。

これは北宋の類書(百科事典)で、983年に成りました。「御覧」と略されます。

そもそもの富士信仰

富士山への信仰は、縄文中期から見いだせます。

静岡県富士宮市上条の千居遺跡には、富士山を遥拝したまつりの場所があったといわれています。

日本の神社で、石や岩がご神体というところは、もとは縄文時代からの信仰を引き継ぐ古い形態の信仰やまつりをうかかがれるものといわれています。

富士信仰はその典型です。

富士神は浅間神と呼ばれます。富士信仰は浅間神社が取り仕切っています。

富士山頂に奥宮を持つ富士山本宮浅間神社は、全国の浅間神社の総本宮で、富士信仰の中心です。

富士宮市にある「人穴ひとあな」は、浅間大菩薩御在所であるとされ、その後、人穴信仰もさかんになっていきました。

浅間の「あさま」は火山の古語といわれます。

古代では、富士山も浅間山も火を噴く山として同じものとみていたようです。

食行身禄  【RIZAP COOK】

寛文11年1月17日(1671年2月26日)-享保18年7月13日(1733年8月22日)。本名は伊藤伊兵衛。食行身禄じきぎょうみろくは富士講修行者としての名前です。

伊藤食行身禄、伊藤食行などとも呼ばれます。

伊勢国一志郡美杉村川上(三重県津市)出身です。

生家には身禄の産湯が残り、子孫によって石碑が建てられているそうです。

元禄元年(1688)、江戸に入って、角行の四世(五世とも)弟子である富士行者月行に弟子入りし、油商を営みながら修行を積みました。

「身禄」とは、弥勒菩薩から取ったといわれます。

弥勒菩薩は、釈迦が入滅して56億7千万年たってから出現して世直しをするという神です。

もう一方の富士講の指導者、村上光清が私財をなげうって、荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させて「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれました。

対照的ですね。

享保18年(1733)6月10日、駒込の自宅を出て富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。

63歳でした。

ここまでの逸話は『食行身禄御由緒伝記』に記されています。

板橋の宿で、身禄との別れを惜しむ妻子や弟子との、涙なしでは読めない逸話、縁切り榎の由来の逸話も、この本に載っています。

江戸時代には感動ものの一書として読まれました。

身禄が死んだ後、身禄の娘や門人が枝講(派生した講集団)を次々と増やし、「江戸八百八講」と呼ばれるまでになりました。

身禄は開祖角行といっしょに富士講の信者の崇敬を集めました。

身禄は救世主、教祖的な存在として、現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、新宗教団体としての「富士講」が誕生することになりました。

身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、身禄の三女・伊藤一行(お花)の系統を受け継いだ、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(埼玉県川口市)の小谷三志の「不二道」があります。

教派神道の「実行教」となって今日に至っています。

教派神道十三派中、「扶桑教」「丸山教」には身禄の教えが受け継がれています。

墓所は東京都文京区の海蔵寺。区の指定文化財に指定されています。

身禄は呪術による加持祈祷を否定しました。

正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点としたのです。

米を菩薩と称し、最も大切にすべきものと説きました。

陰陽思想から来る男女の和合、身分差別の現実を認めたうえでの武士、百姓、町人の協調と和合、「世のおふりかわり」という世直しにつながる考え方など、江戸時代を生き抜くための独自の倫理観を説いています。

身禄の教えは、その後の富士講の流行を生みました。

庶民が徒党を組むことを嫌った江戸幕府から再三の禁止令を受けましたが、その教えは江戸の人々に静かに広がっていきました。

六根清浄  【RIZAP COOK】

ろっこんしょうじょう。聖なる場所を汚さないよう心身を清浄にして見えないものに接する、という意味が込められています。

「六根」とは、仏教で説く、認識作用を起こす六つの器官をさします。

眼、耳、鼻、舌、身、意。これを「げん、にー、びー、ぜつ、しん、い」と一気に繰り返し唱えます。

富士信仰のような山岳信仰では、山の精霊に告げることばとされています。

富士登山では、「懺悔懺悔、六根清浄、お山は晴天」と唱えます。

「懺悔」は「さんげ」と読み、気合の入った掛け声のようなもの。

山の霊地で過去の罪障を懺悔する意味であり、実際にそのような行為もあったそうです。

自分の罪障をことばに発しなければ、富士山に棲息するという、富士太郎(陀羅尼坊)や小御嶽正真坊といった天狗に身体を八つ裂きにされないよう、「懺悔懺悔、六根罪障、大峰八大おしめにはったい、金剛童子、大山大正不動明王、石尊大権現せきそんだいごんげん、大天狗、小天狗」と唱えます。

懺悔の内容は、たいていは、間男したとか、借金踏み倒したとかのようですが。

【語の読みと注】
先達 せんだつ:引率者
懺悔 さんげ
勧請 かんじょう:神仏の分霊を請じ迎えまつること。 
食行身禄 じきぎょうみろく
人穴 ひとあな

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

%d