ひっこしのゆめ【引越しの夢】演目

こういう悪女がいたら、一度お目にかかりたいところ。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男は手玉に取るという、相当な代物だが、そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪企みをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまりデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5(1628)年成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。

そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。

足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、
「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきましたが、いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は東京では三代目三遊亭円馬が初演。上方通り「口入れ屋」の演題を用い、四代目柳家小さん、九代目桂文治もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題し、明治27年(1894)3月の二代目(禽語楼)小さんの速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

また、女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。「化物つかい」「百川」参照。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

戦後、六代目三遊亭円生が、六代目五明楼国輔(1854-?)から直伝された東京型で、ねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは特に極めつけの熱演です。

円生没後は門下の五代目円楽や円窓などに継承されました。その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

桂枝雀のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。「藪入り」参照。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所

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あんまのこたつ【按摩の炬燵】演目

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生炬燵とは驚き。按摩さんが炬燵代わりに。実に奇妙な炬燵のおはなしです。

【あらすじ】

冬の寒い晩、出入りの按摩に腰を揉ませている、ある大店の番頭。

「年を取ると寒さが身にこたえる」
とこぼすので、按摩が
「近ごろは電気炬燵という、けっこうな物が出てきたのに、おたくではお使いではないんですかい」
と聞くと
「若い者はとかく火の用心が悪いから、店を預かる者として、万一を考えて使わない」
という。

番頭は下戸なので、酒で体を暖めることもできない。

按摩は同情して
「昔から生炬燵といって、金持ちのご隠居が、十代の女の子を二人寝かしておいて、その間に入って寝たという話があるが、自分は酒は底なしの方で、酔っていい心持ちになると、からだが火のようにほてって、十分その生炬燵になるから、ひとつ私で温まってください」
と申し出た。

「いくらなんでも、それは」
と遠慮しても
「ぜひに」
と言うので、番頭も好意に甘えることにし、按摩にしこたま飲ませて、背中に足を乗せて行火代わり。

おかげで、番頭は気持ちよさそうに寝入ってしまう。

ところが、ようすを聞いた店の若い連中が、我も我もと押し寄せたから、さあ大変。

ぎゅうぎゅう詰めで、我先にむしゃぶりついたから、そのうるさいこと。

歯ぎしりする奴やら寝言を言う奴やらで、さすがの「生炬燵」もすっかり閉口。

そのうち、十一になる丁稚の定吉が、活版屋の小僧とけんかしている夢でも見たか、大声で寝言を言ったので
「ああ、かわいいもんだ」
と、思わず
「しっかりやれ」
とハッパをかけたのが間違いのもと。

定吉、夢の中で
「なにを言ってやがる。まごまごしやがると小便をひっかけるぞ」
と叫ぶが早いか、本当にやってしまった。

おかげで「炬燵」の周りは大洪水。

番頭も目を覚まし、布団を替えたり寝巻きを着替えたりで大騒ぎ。

「せっかく温まったところを、定吉のためにまた冷えてしまった。気の毒だが、もういっぺん炬燵になっとくれ」
「もういけません。今の小便で火が消えました」

底本:三代目柳家小さん

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【しりたい】

なんでもコタツに

原話は古く、寛文12年(1672)刊の笑話本『つれづれ御伽草』中の「船中の火焼」です。これは、大坂の豪商、鴻池が仕立てた、江戸へ伊丹の酒を運ぶ、二百石積の大型廻船の船中でのできごととなっています。乗船している鴻池の手代が、冬の海上であまり寒いので、大酒のみの水夫を頼んでぐでんぐでんに酔わせ、、その男に抱きついて寝ることになります。

その後、元禄11年(1698)刊の『露新軽口ばなし』中の「上戸の火焼」、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「旅の火焼」、安永8年(1779)刊の『鯛味噌津』中の「乞食」と、改作されながら現行の落語に近づきました。「乞食」では、なんと犬を炬燵代わりにしますが、このやり方は落語には伝わらず、やはり酔っ払いの「人間ストーブ」に落ち着きました。

三代目小さんが上方から

上方落語を、三代目柳家小さんが東京に移植したものです。今回のあらすじは、小さんの円熟期・大正11年(1922)の速記をもとにしました。

大阪では、初代桂春団治の十八番の一つで、音源も残されていますが、東京では、戦後は五代目古今亭今輔から移された八代目桂文楽が得意にしていました。現在では、あまり演じられなくなっています。文楽演出は小さんのものと少し変わっていて、番頭の方から按摩に頼む形を取っていました。

「炬燵」事始め

櫓式の電気炬燵が発売されたのは戦後です。速記(大正11年)にある電気炬燵は「電気行火」を言っているのでしょう。炬燵は昭和の初期に至るまで、やぐらの底に板を張って、移動可能の土製の火いれを置いたもので、行火と同じく炭火を用いたものでした。

電気炬燵が普及する前は掘り炬燵が一般的でした。毎年旧暦10月の初の亥の日を玄猪と呼び、「お厳重」とも表記します。この日から火の用心を厳重にするということです。各戸ではこの日を「炬燵開き」とし、火鉢も出しました。これを「亥の子の祝い」といい、客に亥の子餅(ぼた餅)を配る習慣がありました。節約を旨とする商家では、炬燵開きを遅らせて、中亥の日(二度目の亥の日)としていました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
大店 おおだな
電気炬燵 でんきごたつ
生炬燵 いきごたつ
行火 あんか
玄猪 げんちょ

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やぶいり【藪入り】演目

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たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品。エロネタなんですが。

別題:お釜さま 鼠の懸賞

【あらすじ】

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、亀は、朝も寝床で芋を食べなければ起きないほど、わがままに育った。

「これではいけない、かわい子には旅をさせろだ」
と、近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろと言ったり、帰ったら品川の海を見せて、それから川崎の大師さま、横浜から江ノ島鎌倉、足を伸ばして静岡、久能山、果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお変わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、ぴたりと両手をついてあいさつしたので、熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労さまで」

涙で顔も見られない。

「こないだ、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たらとたんに治ってしまった」
と、打ち明け
「こないだ、店の前を通ったら、おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。子供のお供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と大喜び。

ところが、亀を横町の桜湯にやった後、かみさんが亀の紙入れの中に、五円札が三枚も入っているのを見つけたことから、一騒動。

心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……と言いだしたので、気短で単純な熊、さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえがよけいなことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

底本:三代目三遊亭金馬

【しりたい】

お釜さま

原話は詳細は不明ながら、天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、日本橋小伝馬町の呉服屋島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、なんらかのお上のお裁きがあったものと思われますが、当時、商家のこうした事件は珍しいことではなく、黙阿弥の歌舞伎世話狂言『加賀鳶』の「伊勢屋の場」にもこんなやりとりがあります。

太助「これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも」
左七「そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない」
三太「番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ」
太・左「なに、廿八日とは」
三太「お尻の用心御用心」

金馬の十八番へ

明治末期に初代柳家小せんが男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しました。それまでは演題は「お釜さま」で、オチも「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」となっていました。

亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、もらった小遣いという設定で、小せんがこれを当時の時事的話題とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、オチも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごくふつうだった明治大正期によく高座に掛けられましたが、昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、自らの奉公の経験が土台になっているとか。五代目三遊亭円楽も得意でした。

鼠の懸賞

明治38年(1905)、ペストの大流行に伴い、その予防のため東京市が鼠を一匹(死骸も含む)3-5銭で買い上げたことは「意地くらべ」をもご参照ください。補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年(1899)11月、広島で、東京市が早くも翌33年(1900)1月に、鼠を買い取る旨の最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、交番に捕獲した鼠を届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年(1902)12月で、38年(1905)にピークとなりました。噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。鼠の買い上げは、大正12年(1923)9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや 曇れる母の 鏡かな」という、あわれを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりです。あるいは、「かくばかり いつわり多き 世の中に 子のかわいさは まことなりけり」なんという歌も。「寿限無」「子褒め」「初天神」「子別れ」なんかでも使いまわされています。

藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。江戸から明治大正にかけ、町家の男の子は十歳前後(明治の学制以後は、尋常または高等小学校卒業後)で商家や職人の親方に奉公に出るのがふつうでした。

一度奉公すると、三年もしくは五年は、親許に帰さないならわしでした。それが過ぎると年二回、盆と旧正月に一日(女中などは三日)、藪入りを許されました。商家の手代や小僧は奉公して十年は無給で、五年ほどは小遣いももらえないのが建前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。

「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された昭和初期まで残っていて、横綱双葉山の「70連勝ならざるの日」がちょうど藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、今でも昭和回顧談でよく引き合いに出されます。

【藪入り 三代目三遊亭金馬】

ひゃくねんめ【百年目】演目

 上方の噺。大店の堅い番頭の裏の顔。人間こうでなくちゃおもしろくないです。

あらすじ

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

二番番頭が茶屋遊びで午前さまになったのをとがめて、
「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか教えてほしい」
と皮肉を言うほど。

ある朝、治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した後、
「番町のお屋敷をまわってくる」
と外出した。

ところが、外で待っていたのは幇間の一八。

今日は、こっそり入り浸っている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子屋の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

小心な冶兵衛、すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせたほどだが、向島に着くと、酒が入って大胆になり、扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚で、桜が満開の向島土手で陽気に騒ぐ。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めて、
「あれはお宅の番頭さんでは」
と言っても、だんなは
「悪堅い番頭にあんなはでなまねはできない」
と取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られ、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛、逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だと頭を抱えた冶兵衛、いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

そらおいでなすったと、びくびくして母屋の敷居をまたぐと、意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺の栴檀の大木と南縁草という雑草の話を始める。

栴檀は南縁草を肥やしにして生き、南縁草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が南縁草。

南縁草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」
と、いよいよきたから、冶兵衛、取引先のお供でしどろもどろで言いわけ。

だんなは少しも怒らず、
「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」
ときっぱり言う。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」
と、だんなは冶兵衛を褒め
「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」
と言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」
「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美の阿呆丁稚に悩まされる、曾我廼家五郎八の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(大阪では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけですが、普通、中規模の商家で二人、大店になると三人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって十年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。この噺の治兵衛は、四十を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治以後は「支配人」と呼び、明治41年(1908)の、三代目柳家小さんの速記でもそうなっています。

のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは二、三人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。

志ん生は、主人の南縁草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、桂米朝が絶品でしたし、桂文枝も得意としていました。東京では、古今亭志ん朝が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。この意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。番頭の絶望観を表す言葉として、このオチは見事に効いています。

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せんりょうみかん【千両みかん】演目

 

病床の若だんな、真夏にみかんを食べたいと。番頭は四苦八苦。

【あらすじ】

ある呉服屋の若だんなが急に患いつき、食事も受け付けなくなった。

大切な跡取り息子なので両親も心配して、あらゆる名医に診てもらうが、決まって
「これは気の病で、なにか心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」
と言うばかり。

そこで、だんなは番頭の佐兵衛を呼んで、
「おまえはせがれを小さい時分からめんどうを見ているんだから、気心は知れている。なにを思い詰めているか聞き出してほしい。なんだろうとせがれの命には換えられないから、きっとかなえてやる」
という命令。

若だんなに会って聞きただすと、
「どうせかなわないことだから、かえって不孝になるので、言わずにこのまま死んでいく」
と、なかなか口を割らない。

どうせどこかの女の子に恋患いでもしたんだろうと察して、
「必ずどうにかしますから」
とようやく白状させてみると、
「それじゃ、おまえだけに言うがね、実は、……みかんが食べたい」

あっけに取られた番頭、そんなことなら座敷中みかんで埋めてあげますと請け合って、喜んで主人に報告。

ところがだんな、難しい顔で、
「とんでもないことを言ったもんだ。じゃ、きっと買ってくるな」
「もちろんです」
「どこにみかんがある」

それもそのはず、時は真夏、土用の八月。

はっと気づいたが、もう遅い。

「おまえが今さら、ないと言えば、せがれは気落ちして死んでしまう。そうなれば主殺し。磔だ。きっと召し連れ訴えてやるからそう思え。それがイヤなら……」

それがイヤなら、江戸中探してもみかんを手に入れてこいと脅され、佐兵衛、かたっぱしから果物屋を当たるが、今と違って、どこにもあるわけがない。

ハリツケ柱が目にちらつく。

しまいに金物屋に飛び込む始末。

同情した主人から、神田多町の問屋街へ行けばひょっとすると、と教えられ、ワラにもすがる思いで問い合わせると
「あります」
「え、ある? ね、値段は?」
「千両」

蔵にたった一つ残った、腐っていないみかんが、なんと千両。

とても出すまいと思ってだんなに報告すると
「安い。せがれの命が千両で買えれば安いもんだ」

これに佐兵衛はびっくり。

「あのケチなだんなが、みかん一つに惜しげもなく千両。皮だって五両ぐらい。スジも二両、一袋百両。あー、もったいない」
と思いつつもみかんを買ってきた。

喜んで食べた若だんな、三袋残して、
「これを両親とお祖母さんに」
と言う。

「オレが来年別家してもらう金がせいぜい三十両……。この三袋で……えーい、長い浮世に短い命、どうなるものかいっ」

番頭、みかん三袋持ってずらかった。

【しりたい】

古い上方落語   【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「蜜柑」を、大阪の松(笑)福亭系の祖で、文政、天保期(1818-44)に活躍した初代松富久亭松竹が落語に仕立てたものです。

オチにすぐれ、かつての大坂船場の商家の人間模様も織り込んだ、古い上方落語の名作ですが、東京に移されたのは比較的新しく、戦後と思われます。

東西の演者   【RIZAP COOK】

東京では八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭志ん生が演じました。

正蔵は、みかん問屋を万屋惣兵衛としました。「万惣」は、神田多町の老舗問屋で、のちに千疋屋と並ぶ有名なフルーツパーラーになりました(現在は閉店)。

志ん生のくすぐりでは、金物屋で番頭が、引き回しやハリツケの場面を聞かされて腰を抜かすくだりが抱腹ですが、この部分は上方の演出を踏襲しています。

上方の桂米朝のは、事情を説明すると問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店の見栄で、金に糸目はつけないとしつこいので、問屋も意地になって千両とふっかける、という段取りでした。

青物市場   【RIZAP COOK】

みかんを始め、青果を扱う市場は、江戸では神田多町、大坂では天満で、多数の問屋が並び、それぞれこの噺の東西の舞台です。

多町の方は、開設は元禄元年(1688)ですが、それ以前の慶長年間(1596-1615)に、名主の河津五郎太夫という者が、すでに野菜市を開いていたとのことです。

大坂・天満は、京橋片原町(大阪市都島区片町)にあった市を承応2年(1653)に現在の天満橋北詰に移したものです。天満には当時からみかん専門店がありました。

「夏は、穴ぐらか、それとも夏でもひんやりする土蔵の中で、何重にも特殊な梱包をして、残そうとしたのでしょうか。囲うということをやった」(桂米朝)

みかん   【RIZAP COOK】

栽培は古く、垂仁天皇のころ、田道間守を常世の国につかわし、非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を求めさせたというくだりが『日本書紀』にありますが、事実かどうか。

ただし、飛鳥時代にはすでに栽培されていて、「万葉集」にも数歌に詠みこまれています。当時はユズ、ダイダイなどかんきつ類一般を「橘(たちばな)」と呼びました。

時代は飛んで、江戸に有田みかんが初入荷したのは寛永11年(1634)11月。その時にもう、京橋に初のみかん問屋が開業しています。

とめれ、この噺は人情噺のようでいて人情噺でない、不思議な感覚を覚える噺ですね。現代人の感性からすると、番頭の最後の独白が、しごくもっともと感じられるせいでしょうか。どんな忠義者といえども、この若だんなや親ばかだんなのような連中には、いくらなんでもつき合っていられないでしょうからねえ。

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