ばけものつかい【化け物つかい】演目

使い方の荒い男の噺。権助ばかりか化け物までこき使っちゃったりして、モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎者で意地っ張りの権助。

日本橋葭町の桂庵から紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされていますが、興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。日本橋葭町には、男子専門の千束屋、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。慶庵、軽庵、慶安とも。転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや

【RIZAP COOK】

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ひっこしのゆめ【引越しの夢】演目

こういう悪女がいたら、一度お目にかかりたいところ。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男は手玉に取るという、相当な代物だが、そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪企みをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまりデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5(1628)年成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。

そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。

足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、
「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきましたが、いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は東京では三代目三遊亭円馬が初演。上方通り「口入れ屋」の演題を用い、四代目柳家小さん、九代目桂文治もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題し、明治27年(1894)3月の二代目(禽語楼)小さんの速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

また、女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。「化物つかい」「百川」参照。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

戦後、六代目三遊亭円生が、六代目五明楼国輔(1854-?)から直伝された東京型で、ねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは特に極めつけの熱演です。

円生没後は門下の五代目円楽や円窓などに継承されました。その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

桂枝雀のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。「藪入り」参照。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所

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おふみ【おふみ】演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 

高座ではあまりかからない、珍しい噺です。

別題:お文さん(上方) 万両(上方)

あらすじ

日本橋あたりの酒屋のだんな。

愛人のいることがおかみさんにばれ、今後、決して女の家には近寄らないと誓わされた。

ある日、赤ん坊を懐に抱いた男が、店に酒を買いにくる。

ついでに祝い物を届けたいから、先方に誰かいっしょについてきてほしいと言うので、店では小僧の定吉をお供につけた。

ある路地裏まで来ると、男は定吉に、
「少し用事ができたから、しばらく赤ん坊を預かってほしい」
と頼み、小遣いに二十銭くれたので、子供好きの定吉は大喜び。

懸命にあやしながら待っていたが、待てど暮らせど男は現れない。

定吉が困ってベソになったところへ、番頭がなぜかおあつらえ向きに路地裏へ現れて、定吉と赤ん坊を店に連れて帰る。

さては捨て子だというので、店では大騒ぎ。

案の定、男が買った樽に、
「どうか育ててほしい」
という置き手紙がはさんであった。

おかみさんは、もう子供はできないだろうとあきらめかけていた折なのですっかり喜び、家の子にすると言って聞かない。

だんなも承知し、
「育てるからには乳母を置かなくてはならない」
と、さっそく、蔵前の桂庵まで出かけていった。

ところが、だんなが足を向けたのは、なんと、切れたはずの例の女の家。

所は柳橋同朋町。

実は、これはだんなの大掛かりな狂言。

愛人のおふみに子供ができてしまったので始末に困り、おふみの伯父さんを使って捨て子に見せ掛け、おかみさんをだまして合法的に(?)赤ん坊を家に入れてしまおう、という魂胆だった。

その上、おふみを乳母に化けさせて住み込ませよう、という図々しさ。

もちろん、番頭もグル。

こうして、うまうまと母子とも家に引き取ってしまう。

奥方はすっかりだまされ、毎日赤ん坊に夢中。

そのせいか、日ごろの焼き餅焼きも忘れて「乳母」のおふみまで気に入ってしまう。

一方、だんなはその間、最後の工作。

問題は定吉で、これも、ふだん、だんなに買収され、愛人工作にかかわっていたため、妾宅にも出入りし、もちろんおふみの顔を知っている。

で、魚心あれば水心。

「口をつぐめば小遣いをやる」
と約束して、こちらも落着。

だが、定吉はふだんからおふみに慣れているから、ついおふみを「さま」付けで呼んでしまうので、あぶなっかしい。

「いいか、乳母に『さま』なんぞつける奴はねえ。うっかり口をすべらして『さま』付けなんぞしてみろ、ハダカで追い出すからそう思え」

数日は無事に過ぎたが、ある日、おかみさんがひょっと気づくと、だんながいない。

「ちょいと、定吉や。だんなはどこにおいでだね」
「ちょいとその、おふみさ、もとい、おふみを土蔵によんでいらっしゃいます」

昼日中から乳母と二人で土蔵とは怪しいと、おかみさん、忘れていた嫉妬が急によみがえり、鬼のような形相で土蔵へ駆け込む。

ガラリと戸を開けると、早くも気配を察しただんな、
「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日とも知らず明日とも知らず、遅れ先立つ人は本の雫」

おかみさんは面食らって、
「ちょいと定吉、どういうことだい。おふみじゃないじゃあないか。だんなさまが読んでいるのは、一向宗の『おふみさま』だよ」
「でも、『さま』をつけると、ハダカで追い出されます」

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しりたい

「権助魚」とのかかわり

原話は不詳で、上方落語で「万両」または「お文さん」と呼ばれる切りねたが東京に移植されたもの。移植者、時期などは不明ですが、明治32年(1899)、40年(1907)の二代目三遊亭小円朝の速記が残っています。この小円朝は、五代目古今亭志ん生の最初の師匠です。「いだてん」にも出ていました。

上方の「万両」の演題は、舞台である大坂船場の酒屋の名からとったものです。上方版では、下女がだんなとおふみの濡れ場を目撃、ご寮人さんに告げ口して、ことがバレる演出になっています。

この噺にはもともと、現在は「権助魚」「熊野の牛王」として独立して演じられる「発端」がついていて、明治23年(1890)、二代目古今亭今輔が「おふみ」の題でこの発端部分を演じた速記が残っています。後半との筋のつながりはなく、いかにもとって付けたようで、本当にもともと一つの噺だったかどうかさえ怪しいものです。

おふみさま

浄土真宗東本願寺派(大谷派)で、本願寺八世蓮如上人が真宗(一向宗)の教義を民衆向きにやさしく述べた書簡文154編を総称していうものです。門徒は経典のように暗記し唱えます。

ここでは、だんなの女の名が同じ「おふみ」であることがミソです。これが当然伏線になっていますが、ストーリーに起伏があって、なかなかおもしろい噺なのに、現在演じ手がいないのは、特定の宗派の教義に基づくオチが、一般にはわかりにくくなっているせいでしょう。場所の設定が 柳橋同朋町 であることも念仏系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)とのかかわりをにおわせていますね。

かんぐれば、この噺は、本願寺の熱烈な門徒により教派の布教宣伝用に作られたのではと、思えないではありません。げんにその手のはなしはいくらでもあります。それもはなしの成り立ちのひとつととらえられます。

落語世界の登場人物で、浄土真宗の熱烈な信者といえば「後生鰻」の隠居、「宗論」のオヤジが双璧です。

桂庵

けいあん。慶庵、口入れ屋とも。就職斡旋所です。

男女の奉公人の斡旋、雇われる側の職業紹介を兼ね、縁談の斡旋までしたとか。人の出入りが激しいためか、花街、遊廓の近くに集まっていました。

江戸で最も有名なのは「百川」に登場する葭町の千束屋ですが、岡本綺堂(劇作家)は、この店の所在地を麻布霞町といっています(『風俗江戸物語』による)。おそらく支店なのでしょう。

「おふみ」では、蔵前第六天社の「雀屋」に設定することが多くなっています。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん:就職斡旋所。慶庵、口入れ屋とも
形相 ぎょうそう
切りねた きりねた:真打しか演じられない大ネタ
ご寮人さん ごりょんさん:若奥さん。上方中流以上の商家で

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ももかわ【百川】演目

日本橋の料亭を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。実話だそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路にあった名代の料亭「百川」。

葭町の桂庵、千束屋から、百兵衛という新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪結いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困っただんな、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣を質入れして遊んでしまい、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「シジンケンの掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですからどうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんどもはァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、慈姑のきんとんを差し出し
「ここんところは一つ、ぐっとのみ込んでいただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きなクワイの塊を脂汗流して丸のみし、目を白黒させて下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

喉をひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいや引き返す。

二階の連中驚いたが、やっと百兵衛がただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道の常磐津歌女文字という三味線の師匠を呼んでこい」
と言いつける。

名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝から河岸の若い者が四、五人来ていると伝えろと言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに尋ねると、鴨池という医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生、「袈裟がけに斬られた」と誤解。

「自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵二十個を用意するように」
と、百兵衛に言いつける。

この伝言を聞いた若い衆、
「師匠は大酒のみだから、景気付けに焼酎をのみ、白布は晒にして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。
「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だけだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。もともとは卓袱(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。創業時期は詳しくはわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔の速記によると、芳町にあった料亭「百尺」の分店だったとか。天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。この店の最後の花は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。そのときのメニューがまだ残っているといいますが、中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町二丁目の東側を入った横丁で、明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗です。四神は四方の神の意味で、青龍(東)白虎(西)朱雀(南)玄武(北、玄=亀)の図が描かれ、旗竿に鉾がついていたため、この名があります。神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留二丁目の大通り東側にある路地です。入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道と呼びました。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目円生は、義父の五代目円生から継承していました。昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったもの。

五代目古今亭志ん生も時々演じました。志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまり感心しません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽、三遊亭円窓、柳家小三治らが次代に伝えています。なかでも、古今亭志ん朝のは絶品でした。

カモジ先生はえらい人  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。実在も実在、本名が清水左近源(みなもとの)元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳(がんりん)。鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍・家斉の御殿医を勤めたほどの、江戸後期の漢方外料(=外科)の名医中の名医。『瘍科撮要』という全三巻の医書を口述しています。したがって、本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したという、まさに「赤ひげ」そのものだったとか。

【語の読みと注】
百川 ももかわ
葭町 よしちょう
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや
四神剣 しじんけん
下戸 げこ
慈姑 くわい
歌女文字 かめもじ
鴨池 かもじ
卓袱 しっぽく
新道 じんみち
太兵衛 たへえ
武兵衛 ぶへえ

【RIZAP COOK】

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【百川 六代目三遊亭円生】

【RIZAP COOK】