ももかわ【百川】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

日本橋の料亭を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記によると、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとか。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。

そのときのメニューがまだ残っているといいますが、中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち二丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在、コレド室町の福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。この噺の頃、魚河岸は日本橋にありました。河岸の若い衆は日本橋で飲み食いするものでした。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝)の「樹蔭」には「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」とあります。

久保田は「百川」を踏まえて使っていますね。

久保田は「春泥」で「だってあのこのごろ来た女中。――まるッきし分らないんだ、話が。――よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」と表現しています。

これだと、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもんの百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好きだったのですね。

そこで結論。慈姑のきんとん=百兵衛、今風に言えば、慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

人形町末広の跡地には現在、読売IS(読売新聞社の系列会社でチラシ制作など)の社屋が建っていますが、この隣には刃物のうぶけやがあります。

道路の向かいから眺める光景は一瞬、江戸に導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことからご褒美に土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したのでここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も時々演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)らが次代に伝えていました。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)は「鴨池道哲先生」と言っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは絶品でした。

三遊亭円窓も伝えています。三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。

混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度も、いろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。

いいもんです。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【RIZAP COOK】

ひっこしのゆめ【引っ越しの夢】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

店の女がいつかずの商家で、性悪女を雇ってみたら、それがもう、すごい効果に。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男を手玉に取るという相当なシロモノ。

そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪企みをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまちデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。

そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。

足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、
「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきました。

いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は、東京では三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が初演。上方から流れてきた人らしく「口入れ屋」の演題を用いました。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題したもので、明治27年(1894)3月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入れ屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

また、女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。詳しくは「化け物つかい」「百川」もお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、五明楼国輔(池田文次郎、1854-1923)から直伝された東京型でねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは、極めつけの熱演です。

円生没後は、弟子の五代目円楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されました。

その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。

吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。

これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。

あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(上方では丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。詳しくは「藪入り」をお読みください。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ばけものつかい【化け物つかい】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

使い方の荒い男の噺。

権助ばかりか、化け物までこき使っちゃったりして、モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎者で意地っ張りの権助。

日本橋葭町の桂庵から紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。

原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされています。

興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。

日本橋葭町には、男子専門の千束屋、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。

慶庵、軽庵、慶安とも。

転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。

その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。

いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。

昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席